牛場友彦

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牛場 友彦(うしば ともひこ、1901年明治34年)12月16日 - 1993年平成5年)1月12日)は、日本官僚実業家近衛文麿の側近として内閣総理大臣秘書官を務め、朝飯会を発足させた。戦後、日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ[1]副社長、日本不動産銀行顧問を務める。

概要[編集]

京都府出身。旧制神戸二中旧制一高を経て、1925年東京帝国大学法学部卒業、1929年オックスフォード大学卒業。

1936年カリフォルニア州のヨセミテで開催された太平洋問題調査会に、西園寺公一の通訳として参加。近衛文麿の側近時代、尾崎秀実を近衛文麿に紹介し、彼が内閣嘱託となるきっかけをつくった。また、岸道三とともに近衛内閣の「朝食会(朝飯会)」を組織した。

戦後は、松方三郎松本重治とともに日本経済復興協会の理事となり、日本輸出入銀行幹事、日本不動産銀行顧問を務めた。

親族[編集]

実弟は外務事務次官対外経済担当大臣福田赳夫改造内閣)を務めた牛場信彦、および慶應義塾大学医学部教授をつとめた牛場大蔵

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  1. ^ アラスカパルプ(株)(千代田区丸の内3−4−1、設立昭和28年8月、資本金131億9000万円、早川進代表)は、東京地裁に特別清算手続開始を申し立て2004年(平成16年)7月13日開始決定を受けた。
    同社は昭和28年8月に戦後の化学繊維向けのパルプ需要にこたえるために、大手合繊メーカーと総合商社などが共同出資して設立した投資窓口会社。戦後日本初の対外大型投資であり、発足当初より日米政府から(ディロン・リードなど)事業資金の融資を受けるなど国家的事業として扱われてきた。米国アラスカ州の国有林から原木を買い取る50年間(1961-2011)の長期契約を結び、アラスカ州で化学繊維用パルプや製紙用チップ(木片)、木材製品などを日本向けに生産していた。
    しかし、米国で環境保護の声が高まるなかで国有林保護法が改正され、原木の伐採地域を限定するなどの規制策が打ち出されたため、平成5年10月には契約期限を10年以上残してアラスカ州シトカのパルプ工場、6年12月には製材工場の操業を停止した。同社は米国林野庁に対して損害賠償訴訟を起こしていたが、これが平成16年1月判決を受け、決着したことで6月29日開催された株主総会で解散を決議していた。会社によると米国での判決は「債務の不履行は認めるが、損害賠償金の発生に裏付けは無いとして、金額面は棄却された」としている。
    同社の関係者には、牛場の他、持株会社整理委員会の長を務めた日本興業銀行笹山忠夫がいる。

関連項目[編集]