連合国軍占領下の日本

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連合国軍占領下の日本
大日本帝国 1945年 - 1952年 日本
アメリカ合衆国による沖縄統治
日本の国旗 日本の国章
国旗[† 1] 国章に準じる紋章)
国歌: 君が代
日本の位置
公用語 日本語(事実上)
首都 東京
天皇
1926年 - 1989年 昭和天皇
内閣総理大臣
1945年 - 1945年 東久邇宮稔彦王
1948年 - 1954年 吉田茂
変遷
太平洋戦争大東亜戦争)終戦 1945年8月15日
降伏文書調印 1945年9月2日
サンフランシスコ講和条約調印 1951年9月8日
日本が主権を回復(サンフランシスコ講和条約発効) 1952年4月28日
通貨

連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本である。ただし政治的(主権・行政権)については日本政府が統治権を有す。

なお、ポツダム宣言の文面ではチャーチルの提案によって、「日本領土」ではなく「日本領土内の諸地点」への「保障占領」となっていた。

概要[編集]

日本政府は、1945年昭和20年)8月14日ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。翌8月15日昭和天皇はラジオで終戦詔書を日本国民に発表した(玉音放送)。1945年(昭和20年)9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、連合国の占領下に入った。

降伏文書の調印に先立ち、アメリカ主導で組織された連合国軍は、同年8月28日からイギリスオーストラリアニュージーランドなどによるイギリス連邦による協力を受け、日本への進駐を開始した。連合国は日本本土に対して軍政を実施するとの情報があり、重光外務大臣は9月3日にマッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた[1][† 2]。一方南西諸島及び小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩む。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はイギリス軍中華民国軍ソビエト連邦軍などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は剥奪された(日本本土除く)。占領軍は日本の外交権を停止し、日本人の海外渡航を制限し貿易を管理した。漁業活動のための航海は、マッカーサーラインを暫定的に引き、講和後に廃止されるまで制限下に置いた。 1951年(昭和26年)9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。

統治[編集]

日本では連合国軍最高司令官総司令部GHQ(General Headquarters)と呼称する。日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容はアメリカ軍で、その次にイギリスをはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。ソ連軍や中華民国軍、オランダ軍は部隊を置かず駐在武官のみを送るに止めた。

最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。連合国はアメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官に任命し、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領もこれを承認した。


分割案[編集]

アメリカ国立公文書館の計画書による日本の分割統治計画

第二次世界大戦中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京都区部は米中蘇英、近畿地方の大部分はアメリカと中華民国による共同統治になるなど)を計画していた。しかし、国民からの崇拝の対象であった天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。占領下において日本は主権の一部を制限された状態であった。実際のところ、この計画が廃案となった理由ははっきりしていない。



政策[編集]

憲法[編集]

1945年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、1946年11月3日に新憲法が公布。1947年5月3日に施行された。

象徴天皇制
連合国軍は皇室改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、日本国および日本国民統合の象徴となった。また皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるにともない[† 3][2]、多くの皇族皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、大半の皇族は戦犯には問われず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
戦後直後の1946年毎日新聞が実施した世論調査では、象徴天皇制への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており戦後直後でも国民の多くが皇室の存続を支持している[3]
平和主義戦争放棄

設立過程、解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。

1945年10月5日付でスイス公使カミーユ・ゴルジェがスイス外務省に送った電報によると、10月2日の会談でマッカーサーは第二次大戦中の「日本軍の残虐性」を強調し、敗戦後の日本が「軍事的には重要でなくなることを保証する」と断言し、「国際社会で悲惨な地位を占めることになろう」と公使に語った[4]。ただしこの頃の連合国は、条約による日本の武装制限あるいは完全非武装を計画してはいたが、方針は明確ではなく、憲法の条項に入れる案は持っていなかった。
1946年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)を伝達。この文書にも9条に相当する条項を加えるような内容は含まれていない。また「日本が再び米国の脅威とならぬ」よう「軍部を永久に文官政府に従属させるための正式の措置をとることが、望ましいであろう」、「天皇の軍事に関する権能はすべて剥奪される」とSWNCC228指令は指摘しているが、文民条項と天皇と軍の関係に触れたのみであり、明らかに軍を廃止することは念頭にない。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。米国政府では終戦前から東西の対立を予測しており、日本の限定的再軍備の必要を論じていた。
1月24日、幣原首相がマッカーサーを訪問し、密談。この時、幣原首相が「かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争を放棄するという事以外にはないと考える。憲法にそういう条項を入れたい」と語ったとされる。幣原の親友の大平駒槌枢密顧問官が娘の羽室ミチ子に語った内容を、羽室がメモ(羽室メモ)を残している。
「戦争放棄」は幣原からの発案だったと後にマッカーサーが回顧録に書き、幣原は自身の回想録『外交五十年』の中で戦争放棄のアイデアは自発的だったと書き記している。しかし松本烝治は試案を作るまで幣原から指示はなかったと否定し、この条文に関わったケーディスらも「マッカーサーの発案」と否定している。また、委員会もマッカーサーが権力を逸脱し、日本に憲法を押し付けたのではないかと疑い、懸念を表していた。
1946年2月3日にコートニー・ホイットニー民政局長に提示されたマッカーサー三原則には、自衛のための戦争まで禁じられており、「今や世界を動かしつつある崇高な理念(発足したばかりの国際連合を指すと思われる)」に防衛と保護をゆだねる旨記されてあった。
自衛権の禁止はチャールズ・L・ケーディスによって作られたマッカーサー草案8条では削除され、後者は日本国憲法前文に反映された。
最終草案がまとまったころ極東委員会の中国代表が芦田修正を見とがめたが、結局ソ連代表の提案で文民条項を要請する事で収まった。日本国憲法第66条に第2項が書き加えられた。
1948年1月6日、ロイヤル長官が日本の過度の弱体化を進めるGHQの占領政策を批判する。同年2月、米国のフォレスタル国防長官がロイヤル陸軍長官に「日本と西ドイツの再軍備」を検討するよう指示。その三ヶ月後にロイヤル長官は「アメリカの人的資源の節約のためにも日本の再武装が望ましい。そのためには日本人が改憲することが必要だ」と答弁する。この年から、米政府から日本に改憲と再武装を要求する圧力が強まり、警察予備隊(のちの自衛隊)設立の準備が進む。
サンフランシスコ講和会議に先立っては、ダレス国務長官から「主権回復後は日本も軍事面においても国際社会に貢献するように」と再武装を強く迫られるが、吉田首相はそれを回避し、激しいやり取りが起こった。このときマッカーサーは吉田を弁護したが、離任帰国直後に吉田に対して「日本は再武装すべきである」と書簡を送っている。
1951年9月、サンフランシスコ講和条約に「日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される。
晩年のマッカーサーは「憲法9条を加えたのは失策だった」「旧軍を部分的に存続させるべきだった」と後悔していたと伝えられている。

政治[編集]

民主的傾向の復活
占領を早く終わらせるために、満州事変以降政界から引退していた幣原喜重郎を総理大臣に擁立し、幣原内閣(1945年10月9日~1946年5月22日)を発足させる。ポツダム宣言の「民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。」の条項に従い、占領軍の指示を待たずに大正デモクラシー時代の幣原の盟友達を集めた。新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相に、マッカーサーの会談記録及び会談の中でマッカーサーが口頭で五大改革指令を伝えた。(1)女性の解放(2)労働者の団結権の保障(3)教育の民主化(4)秘密警察の廃止(5)経済の民主化である。婦人参政権労働組合法農地改革などの改革はデモクラシー時代の政界の懸案でもあり、いくつかは法案化が済み、またすでに閣議決定していた事柄でもあったため、憲法改正案が成立するより早い時期に明治憲法下で法制化され、実行に移された。
結党の自由と政治犯の釈放
治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ逆コース)。これら左翼政党は右翼政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
財閥解体
「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻る。
産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。 初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。マッカーサーも1945年9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能」と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業や漁業や衣類を主力産業とする政策をとった。
1945年に来日した連合国倍賞委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約 30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省によると、1950年5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。
ポーレーの最終案は極東委員会内でも議論が湧いて意見の一致を見ず、米国内のメディアからさえ非現実的と批判を浴びた。そのため1947年1月、米陸軍省派遣のストライク調査団が来日した。調査団は、日本非武装化を目的とした中間賠償はすでに役割を終えているとし、日本がすでに500億ドル以上の在外資産を放棄していることや、日本の自立による東アジアの安定への寄与効果などを重視し「1935年の国民生活水準を考慮し自給自足に足る経済を残す」として、工業再建の許容水準を引き上げるとともに、賠償計画の見直しを勧告する内容の報告書を GHQ に提出し、ポーレー案の緩和を促した。が、これはドイツに対して行われた過酷な産業解体よりさらに低い水準、つまり大恐慌時代の日本のレベルを上限として残りを賠償とする弱体化政策の一環であった。例をあげると、日本の製油所は全部解体・分割して、製品輸入に依存することが初期案には示されていた。1946年の日本経済は1930年~34年の18%のレベルで、47年でもまだ40%にしか回復しなかった。
1947年3月、マッカーサーが「占領目的はすでに達成している。今後の日本は復興に向かうべき時期」と主張し、早期講和条約を提唱した。さらに同年5月、アチソン国務次官が「アジアおよびヨーロッパにおける2大工場として、この2大陸の究極の復興を左右する日独両国の復興を促進する」と方針を発表。日本の産業復興と国際社会への復帰に向かう動きが始まる。
1948年1月6日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を反共の砦にする」と演説。6月、ヨーロッパでは共産勢力の台頭を防ぐためマーシャルプランが発令された。また日本については、日本と他のアジアの労働者の質を現実的に比較して、日本の工業施設を戦後賠償としてアジアに移転させてしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品による現物賠償が有力という現実的な判断が深まり、日本製造業の見直しの機運を盛り上げた。さらに、日本の経済的自立の立ち遅れがアメリカの占領費用負担につながるという納税者の論理も働いていた。
1948年3月に来日したドレーパー米陸軍次官、 ジョンストンらは日本経済の実情を視察して、日本の産業復興を最大の占領目的として位置づけ、 貿易拡大・賠償削減・財閥解体の緩和などを提唱した報告書を出し、日本の産業復興が自由社会のパワーバランスに寄与し、アジア諸国に益するものと位置づけた。このような経緯を経て占領下の日本は経済復興の道を歩み始めた。同年12月、経済安定九原則が発表された。1950年以降、朝鮮戦争勃発によって米軍航空機の修理の必要などから工業生産規制が緩和され、制限付きではあったが重工業の生産枠が拡大した。
他方で日本政府や実業家たちは敗戦直後から、主権回復後の経済復興に向けて、備蓄されていた技術や経験を生かしつつ「研究の徹底、生産技術の向上、経営の能率化」に重点を置いた長期プランを立てていた。1946年3月に外務省調査局特別調査委員会によってまとめられた「日本経済再建の基本問題」には、既に最先端テクノロジーを基盤とする主権回復後の経済復興の青写真が描かれている。
労働運動
・1945年10月2日、マッカーサーはカミーユ・ゴルジェ駐日スイス公使と会談した際、日本の工業力がまだ残存しており、戦後の日本が安い労働力によって廉価な製品を輸出しアジア市場を独占することに懸念を示していた。日本の経済進出を阻止するために、労働組合の組織化を通じて労働者の賃金を上昇させ、日本製品の価格を引き上げれば日本の競争力を低下させることができると、その必要性をスイス公使に力説し、「戦後日本は、国際社会であわれな地位を占めることとなろう」と語っている[5]
この会談から9日後の10月11日、マッカーサーは就任したばかりの幣原喜重郎首相に、労働組合の結成を含む五大改革指令を指示したのである。
・降伏直後、国内の多くの工場が賠償指定を受け生産を禁じられ、一部は限定された「平和産業」へと転換して生き残りを図ろうとしたが、生産制限を課せられる等、生産量の低下を余儀なくされていた。それによって失業や賃金低下をもたらされたため、全国各地で労働者による生産管理闘争や生産復興闘争が発生した。1946年には、毎月平均30件の生産管理闘争が発生した。ストライキはほとんど行われなかった。皮肉なことに、占領軍の厳しい言論統制によって、日本の民主化を占領目的とする世論誘導が行われていたので、多くの労働者は、経済復興が遅れているのは、GHQの民主化を妨害するために資本家が生産サボを行っているせいだと信じていた。が、GHQによって弾圧されていった。
1946年12月、極東委員会は労働運動16原則を発表し、占領目的を阻害する労働運動を禁じた。
1947年、食糧輸送と占領軍へのサービスをストライキから除外した二・一ゼネストが計画されたが、マッカーサーの介入によって中止される。二・一ゼネストの中止以降、GHQと労働運動家たちの間に深刻な溝が生じる。
農地改革
地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の食料自給率低下の原因とされる。また土地を得た農民は保守政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
武装解除
日本軍は本土のみならず植民地や全ての占領地において武装解除され、植民地や占領地にいた全ての軍人は本土へ戻された他、ソビエト連邦の占領地で捕虜となったものの多くはシベリア抑留される事となった。またインドネシアやマレー半島などでは、イギリスやオランダからの独立を画策する勢力に加担する為に現地に留まる事を選択するものもいた。本土だけで1万機以上残存していた航空機は全て廃棄処分とされ、最新のジェット機やロケット、潜水艦等とその技術文書は、研究の為にすべてアメリカやイギリスに持ち去られた。また一部の植民地や占領地では、これらの航空機や戦車がそのまま中華民国軍やフランス軍などで使用された。本土に残存していた戦艦や空母、潜水艦を含めた艦艇は、一部の空母や輸送船が植民地や占領地からの引上げに使用された他は、ソビエト連邦や中華民国、アメリカなどの戦勝国に戦利品として持ち去られたり、接収される以前の民間船舶会社に戻された他、スクラップとして廃棄処分とされた。

教育[編集]

教育・学制改革
1947年3月、学校教育法が公布され、4月に施行された。
複線教育が廃止され、各都道府県に大学が創設される等、教育の一般化が行われた。
公立旧制の高等教育機関としては、大学、大学予科、高等学校、専門学校と教員養成の目的で設けられていた高等師範学校、女子高等師範学校、師範学校、青年師範学校があったが、単一の四年制大学となった。
1947年3月、教育勅語に代わって教育基本法(旧法)が施行された。小・中学校は原則男女共学となり、国公立学校での宗教的中立が規定された。
日本の教育の民主化は、日米政府間では根源的な認識の差異があった。すなわち「有色人種蔑視思想に基づき日本弱体化を目的とした、複線教育を廃した民主教育」と「字義通りの民主教育」のギャップである。日本は、この方面では東アジア諸国はむろんのこと西洋史的基準で見ても例外的な国で、古代・中世から女子や庶民への教育を勧める伝統を持っており、近代的な義務教育制度も米国より早くから行われていたため、字義通りの民主教育を受容した。
それより前の1945年12月には、GHQの指令により「民主化」の一環として教員組合が編成される。
日本語ローマ字化計画
1946年3月5日、第一次アメリカ教育使節団が来日し、日本語のローマ字化を企てる。占領時代のアメリカ人は日本文化に対する情報が乏しく、日本の民衆は奴隷化されていて識字率は低いのだろうと思い込んでいた。それを漢字が障壁と考えローマ字化すれば識字率が高まると一方的な推論を立て、日本語ローマ字化計画を企てた。事前調査として15歳から64歳までの国民17,000人を抽出して漢字の読み書き能力テストを行ったところ、漢字の読み書きができないのは、わずか2.1%という結果がでた。これはアメリカ合衆国の識字率と比べても、当時の世界水準で見ても高い識字率であったため、これに困ったGHQの担当者ジョン・ベルゼルは、調査官であった言語学者の柴田武に「調査結果を捏造してくれ」と迫った。が、事実を捏造することはできないと柴田は拒否した。この一件があってから、日本語のローマ字化計画は立ち消えとなった。
英語公用語化計画
ポツダム宣言調印の直後、占領期間の公用語を英語とするという項目を含む三布告を突きつけられ、翌朝10時までに国民に布告するよう命ぜられた。それらはポツダム宣言の内容に反していたため、外務省の交渉によって、翌朝の10時までに三布告をすべて白紙撤回させた。

国号[編集]

明治期以来現在においても日本の国号は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から昭和初期まで大日本帝国を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していたが、第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降慣例として大日本帝国の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。

国旗[編集]

日章旗の掲揚禁止を受けて用いられた日本商船管理局旗

日章旗掲揚、国歌を公的な場で歌うことは1945年に全面禁止された。商船旗としては国際信号旗のE旗の端を三角に抜いた日本商船管理局(Shipping Control Authority for JAPan、略してSCAJAP)の旗が代わりに使用された。1945年、GHQ司令部から警察署長や市長を通して、日本市民に対し、畏敬の念をもって星条旗に敬礼するよう命令された例が全国各地にある[6]。 1946年からは特定の祝日や特定の行政機関のみに、国旗掲揚が限定的に許される。

1948年6月に制限令を知らずに横浜で国旗を掲揚した男性が、米軍軍事法廷で重労働6か月の判決を受けるなどの判例がある[7]。1949年1月、GHQから国旗の掲揚が認められたが、刑罰や「軍国主義者」というレッテル張りを警戒して、実際に国旗を掲揚した日本人は少なかった。学校の教科書の挿絵に国旗があれば、削除の対象となった。児童の文房具に日章旗のデザインがついている場合、学校に監視に来たMPに没収されたり消すことを命じられたりしていた。
1946年からの昭和天皇の全国巡行の際には日章旗が用いられた。


貿易[編集]

Made in Occupied Japan

占領期間、海外との交易は禁じられ、GHQの管理下に置かれた。 輸出製品には Made in Occupied Japan(「占領下日本製造」の意)と表示することが義務付けられた。

戦犯裁判[編集]

極東国際軍事裁判(東京裁判)
1945年8月8日に英米仏ソ四ヵ国がロンドンで調印した国際軍事裁判所憲章に基づき、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、同年1月19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立を宣言した。裁判は1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われ、憲章第6条A項が規定する「平和に対する罪」に違反したとされる政治家や軍関係者をA級戦犯容疑で約100人を逮捕、そのうち28人を起訴した。裁判の結果、7名が死刑、16名の終身刑の判決を受けて処罰された。
当初55項目の訴因があげられたが、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、最終的には1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議、 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争、米・英・仏・蘭に対する侵略など、10項目の訴因にまとめられた。
なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルク裁判同様、右派国粋主義から批判されている。当時ではイギリス領インド帝国ラダ・ビノード・パールが「裁判の体を成していない」「復讐目的の裁判」「事後裁判だ」と批判した。一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。
BC級戦犯
約5,600人がBC級戦犯として各地で逮捕された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1,000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。
BC級戦犯の中には、朝鮮人が148人台湾人が173名が含まれていた。

文化・思想[編集]

言論統制
1945年10月8日に、SCAPは「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から朝日新聞毎日新聞讀賣報知日本産業経済東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始した[8]。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコードラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより地方紙も含めた新聞、雑誌などあらゆる出版物、学術論文、放送、手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。それらに携わった日本人スタッフへの給与及びすべての経費は日本政府が負担し、『終戦処理費』あるいは『その他』経費として計上され、国民には秘匿された。
連合国の批判、占領軍の政策への批判、極東国際軍事裁判を批判したもの、戦時中の連合軍の虐待行為、原爆に関する情報、占領軍兵士による殺人・強盗・強姦事件・売春、満州における日本人処遇への批判、欧米諸国における有色人種差別、冷戦の高まり、文学作品ですら飢餓の表現や戦災がもたらした死や破壊の悲しみの表現は禁じられるなど、報道・出版を許されない項目は多岐にわたった。報道規制は海外から日本に配信されたニュースにも及んだ。沖縄県の報道も禁じられていた。連合国への批判の禁忌は中世や近世にまで及び、ヨーロッパ近世の植民地支配について触れた記述も削除を命じた。
第二次大戦後、連合国によって再植民地化されたアジア諸国各地で勃発した独立闘争も、報道を禁じられた。
連合国の威信を傷つける記述はすべて削除された。占領軍の行進の写真に子犬が写っているだけでも発行禁止とされた。日本の雑誌や映画に性的表現を「自由化」するよう命じられる一方、アメリカのポルノグラフィについては言及するだけでも削除を命じられた[9]
SCAPが日本国憲法を起草したこと、SCAPが作成に関与したことも、国民に知らせないよう命じられた。SCAPの憲法作成関与に対する批判も処分の対象となった。日本のメディアは「変な日本語」と言及することによって検閲を逃れた。
また日本政府が占領軍に支払っている巨額の占領軍維持経費を報道することも許されなかった。1946年、GHQ検閲局はどうしても経費に触れなければならない場合は「終戦処理費」と呼ぶように命じ、1947年は「その他」経費とするよう命じた。
また軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。
検閲指針に違反した社は廃刊や発行停止、記者等は解雇を命じられるか、米軍軍事法廷で裁判が行われ、有罪者は沖縄で強制重労働3~5年に処せられた。強制労働は主に占領軍基地づくりである。
GHQによる検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止されたが、プレスコードによる言論統制は依然として存在した。事後検閲になってからは出版停止や回収などの経済的リスクを負うことを恐れ、記者、編集者や作家らはかえって用心するようになり、自己検閲が進んだ。が、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった。こうして、戦後日本の世論に、大勢順応的な姿勢が形成されていった。[10]
伝統文化の排斥
GHQは軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道歌舞伎神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるもの(例:国家神道)について活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された[11]
占領当初は靖国神社を焼き払ってドッグレース場にする計画が立てられており、実行までにはGHQ内で賛否両論にわかれた。が、駐日ローマ法王庁・バチカン公使代理のブルーノ・ビッテル神父の反対で中止した。
世論対策
「戦争についての罪悪感と、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任を、日本人の心に植えつけるための宣伝計画」いわゆるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが組まれたとする江藤淳らの主張がある。
江藤によると、1945年10月2日にGHQは一般命令第四号において「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」と勧告したというが、史的実証が不十分なまま議論が続いている。[12]
ともあれ民間情報教育局の本部はNHKの内部に設置し、日本の各所にラジオを普及させた。新聞では民間情報教育局が作成した『太平洋戦争史』と題する企画を連載させられている。この宣伝文書は、新聞連載が終了したのち、1946年に高山書院から刊行され、4月から各学校で教材と使用するように、各学校の教育長と学校長に宛ての「新学期授業実施に関する件」の中で命令が出された。社会人向けの教育には、『太平洋戦争史』を劇化したラジオ番組『眞相はかうだ』を十週間にわたって放送させた。民間情報教育局は放送と同時に視聴者からの質問を集め『質問箱』という番組を作成させた。
GHQは学校教育現場でのラジオ放送教育と校内放送を奨励して立ち入り監視と指導・勧告を行った。戦争末期から、コーデル・ハルは「日本人をアジア解放に殉じたと思わせてはならない」とルーズベルトに進言していた。米政府は、連合国軍の平和目的を伝え、「外国人」への尊敬を持たせ、「外国人」と交流を持つことが「honor」であるよう印象付けるように占領後の教育方針を組んでいた[13]
日本から連合国への敵対心をなくし、特に親米的な国に作り替える方針のもと、占領軍として進駐していたアメリカに対して好感を持つような世論誘導が行われ、その一例としてアメリカ軍の兵士が、ガムチョコレート(これらの菓子代も占領経費として計上され、日本政府が負担していた)を食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。報復行為を避けるため、対日戦に参加した米兵は極力日本に駐屯させないようにした。特に沖縄県では、沖縄を日本から分断させるために、同種の世論操作が熱心に行われた。
また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。否定的なイメージを取り除くために「占領軍」を「進駐軍」と呼ばせた。
その一方で、アメリカ軍人やイギリス軍人を中心とした占領軍兵士による強盗強姦殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反連合国軍感情が起こることを防いだ。占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。
郵便物、電報及び電話通話の検閲
GHQは郵便局に検閲局を置き、市民の郵便物を検閲した。多いときで約8700人の日本人を動員し、郵便物の検閲を行わせた。学生が多かったとされる。日本人検閲官は事前に和文英訳のテストを受けレベルごとに振り分けられ、郵便局に集まった私信を英訳したうえで検閲局の許可を仰いだ。特に占領軍への批判や意見、米兵の動向のほか、復員、物価や食料難、公職追放のその後の動向、労働組合、企業の経営状態、政治や共産党の動きなどを翻訳対象とした。検閲の仕事については秘匿とされた。検閲官の給与も日本政府が負担するよう命じられた。
1952年3月、「連合国占領軍の為す郵便物、電報及び電話通話の検閲に関する件を廃止する法律」が国会で可決、サンフランシスコ講和条約効力発生と同時に施行された。
戦争花嫁
当時の欧米諸国には厳格な有色人種差別があった。米軍では異人種間の結婚は禁止され、概ね白人と黒人からなる米兵は黄色人種である日本人女性に産ませた子供を認知する義務すらなかった。また排日移民法のために日本人妻子のアメリカ入国は不可能だった。
1946年6月29日、GIフィアンセ法の制定により、日本人女性と占領軍兵士・軍属との結婚が可能になり、1947年には占領軍兵士との国際結婚の届け出数が822組を記録する。これで認められたのは米兵と日本人女性との姻戚関係のみ。
1950年、米兵と日本人女性間の結婚禁止令が解かれる。GIフィアンセ法が改正され、占領軍兵士の妻子が人数制限なしに、アメリカに入国可能になる。
焚書
GHQの指令により東京大学文学部の教授陣数名が中心になり選抜した8,000冊弱の歴史関係の文献が没収された。
宗教の自由
第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Denazification/

占領軍への労務と物資の調達[編集]

1945年9月3日、SCAPIN2「日本政府は連合軍の必要とするすべての資材を供給しなければならない。日本政府は各地の占領軍司令官の指示された時と所に、必要な技能を備えた労働者を提供しなければならない。日本政府は占領軍の要求に従い、適切なすべての建物を提供しなければならない」が発令された。

1945年9月22 日に米国務省から発表された「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、占領軍の必要とする物資及び役務の調達に関しては、そのため日本国民に「飢餓、広範囲の疾病及び甚だしき肉体的苦痛を生じない範囲」において、日本政府が提供するよう指示している。
日本政府の占領軍向け支出は、1946年度で一般会計予算の三分の一を超えていた。この費用は、占領軍の命令で「終戦処理費」あるいは単に「その他の費用」と粉飾して呼ばされていた[14]。「終戦処理費」は約50億ドル(当時)に達した。
物資とサービスの調達例
占領軍は使用する兵舎、工場、飛行場、病院、通信、倉庫、学校、宿泊施設、交通機関、ビルディング、市民の土地家屋や娯楽施設を強制接収した。さらに、占領軍の兵舎や住宅の建設工事、施設や飛行場の清掃・整備、道路、橋梁の修理、舗装あるいは軍需品の運搬作業、日常生活上のサービス、娯楽提供者、家政婦など、多岐にわたる労働力を要求した。
1945年10月2日に出されたSCAPIN80から例をあげると、「建築資材、燃料、布、家具、事務機材、石鹸、ろうそく、氷」などの23の物資、「娯楽(音楽・演劇・レスリングなど)、設備の修繕、洗濯、ドライクリーニング、靴の修繕、洋服の仕立て」などの19のサービスが列挙されている。
調達命令の形式がはっきりしなかった占領初期は、調達命令書を発行せず、各部隊や個人が自分の必要で勝手に注文をしてきた。物資は強制的に強奪されることも多かった。民家に押し入って勝手に物資を奪うことは普通であり、気に入った家に赤札を張って強制的に土地家屋を摂取して住民を追い出した。日本人民間人を捕まえて「マネー、マネー」と言って金品を奪う例も多かったが、報道は禁じられた。
占領軍の買春のための女性調達と施設の建設も命じられており、都内の花柳界はあらかた米軍専用に接収された。
占領軍のゴミ
1947年2月27日出されたSCAPIN1548で、日本政府に占領軍の施設と住居から出たゴミと廃棄物の収集と処理の責任を負うように命じている。
命令書には、「日本帝国政府が受け取る占領軍のゴミは、収集処理の費用と同等以上の価値があるため、これは占領軍へのサービスとは認められない。それゆえに、調達命令書は一切発行しない」とある。
占領初期の労務調達の実態
占領軍は基地や連合国軍の住居の建設を政府に命じた。また日本民間人から強制接収した住居の改造や修理、さらに接収した住居内で働かせるメイドや料理人や下男、占領軍へのサービス従事者等、必要とする日本人労働者を差し出すよう日本政府に命じた。占領軍が日本人に給与を支払わずにすむのを良いことに、占領軍の一家屋につき複数名の日本人をメイドや下男として召しかかえ、権力を誇示することが通例となっていた。占領初期は、占領軍への不安から進んで就労に応じる日本市民はほとんどいなかったため、占領軍から直接に労務提供の命令を受けた地方庁、市町村、警察を通じ、強制的に行わせていた。
この間、占領軍が現金ではなくチョコレートや食事などの物品を賃金の代わりに支給したり、占領軍が日本人労働者の逃亡を防ぐために身体に「マーク」をつけるなどの事例が報告されている[15]。占領軍は基本的に日本人労働者を無報酬で働かせ、代わりに日本の自治体が米一合などを配給していた[16]。1946年3月18日のSCAPIN764A、日本政府は占領軍に雇われている日本人と外国人への賃金支払いを日銀を通して行うよう命じられている。
特別調達庁の設置
1947年5月10日 、特別調達庁法(昭和22年法律第78号)が施行され、占領軍が必要とする施設(土地・建物)・物資・役務の調達・管理を任務とする特別調達庁の設立準備が始まる。同年9月1日 特別調達庁が発足する。以降、労動力や物資の占領軍への調達は特別調達庁を仲介として行われることになった。労働の形態としては、日本政府が雇用し給与を支払ってやり、占領軍や占領軍の住居で働く間接雇用である。
1947年の米軍三沢基地建設工事開始時には、全国各地から1万5千人の労働者が集められた。総事業費は当時で1500億円の負担を強いられ、のべ300万人の日本人労働者が建設に従事させられた。
朝鮮戦争勃発時には、調達局を仲介せずに、占領軍が直接に所有者から土地建物を強制接収するという混乱が、再び起こった。
サンフランシスコ講和条約締結後、旧安保条約と日米行政協定に基づいて、不動産及び労務以外の工事、役務、需品などについては、米軍が国内業者と直接契約をすることにより調達することとなった。しかし旧日米安保条約では占領期の法的状況が継続され、陸海空軍の基地を日本中どこでも何ヵ所でも設定・維持することができ、必要な物資および労働者を調達することになった。1960年の新安保条約によって条件が改善されたが、今でも米軍基地問題日米地位協定など、多くの論争を残している。

日本への食糧・物資援助と貸与[編集]

第2次世界大戦中と戦後、国土荒廃や食糧不足の進む中、日本人の過半数が栄養失調に陥っており、海外からの食料援助や貸与を受入れていた。住む家にも事欠き、多くの餓死者を出していた日本にとっては、大きな支援となった。日本が受けた支援は、ユニセフからの援助と、ララ物資ケア物資の民間団体などである。米国政府からはGARIOA2、EROA3に代表されるGHQを経由した物資輸出(貸与)があげられる。アメリカから食料支給は、日本が輸入禁止を解き、アメリカの要望を受け入れたことへの見返りでもあり、1954年に施行されたアメリカの余剰農産物処理法の最大対象先に日本が指定されたためである[17]

初期対日方針
連合国は占領目的の巨額な財政支出(ex.終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年9月22 日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
45年11月1 日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準 を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。45年12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
食料輸入禁止
占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
1945年9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出 。日本政府は、1945年産米の収穫量を5,500万石と予想し、穀類約 300万トン、砂糖100万トン、コプラ30万トン、ヤシ油5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。また米政府は世界的食糧不足で解放地域からの援助要請の殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
食糧メーデー
1946年5月19日、食糧を求めるデモが東京の各地で繰り広げられた。およそ25万人の民衆が皇居前に結集。「食糧メーデー」と呼ばれる大規模なデモと発展する。民衆の食糧飢餓への批判は日本政府と天皇に向けられていたが、民主化革命を信じる民衆にとって予想外だったのは「無規律な暴民デモ」とSCAPやGHQが厳しい弾圧や声明で抑圧したことであった。
米国からの食糧輸出解禁
1946年2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」と米政府に抗議した。3 月に農務長官アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年5~10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、 68万トンの食糧が輸出されることになった。この輸出量は、日本側が当初要望していた量の25%弱であった。
1946年7月からエロア資金による援助プログラムがはじまり、1948年からはガリオア資金に吸収される。アメリカ政府が米国内で余剰物資を買い付け、その資金は貸与である。ガリオア物資による援助の対象品目としては、米(110,566t)、小麦(5,059,307t)、塩(516,312t)、砂糖(796,956t)、缶詰(161,935t)などの食糧に加え、パルプ・紙(3,254t)、肥料(3,135,360t)、化学医薬品(10,990,988t)、牛など動物(10,179頭)。
1954年のアメリカの余剰農産物処理法により、日本への輸出が増え、とくに小麦は日本人の常食を米食からパン食に移行させる日米の方針により、日本が引き受けた余剰物資の約半分にのぼった[17]。総額は1961年の通産省の認定では17億ドルから18億ドルとされ、1962年1月、日本政府は西ドイツの返済率にならって4億9000万ドルを15年かけて返済することに同意した。
ララによる支援
1946年11月から1952年6月までに行われた救援物資。米国内で反日感情の根強い中、サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助によって生まれた日本向けの支援団体。アメリカ国内の日系宗教団体、労組、社会事業団体等13団体により組織されていた。多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の金額で400億円とされている。
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄付の中心であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与については秘匿され、「アメリカからの援助物資」として配付されていた。ララ物資の贈呈式を記念して、12月24日を学校給食記念日としている。
ケアによる支援
もともとは1945年に、やはり戦災に見舞われたヨーロッパの困窮者に食糧や衣料などの援助物資を発送するために、アメリカの22の団体が協力して設立されたNGO。日本に対する支援は1948年から始まり、1955年までの8年間、学童、青少年を対象に食糧、衣料、医薬品、学用品、寝具類などを無償配布した。8年間にわたった日本への援助総額は約290万ドル(当時)。
ユニセフによる支援
1949年からユニセフミルクとユニセフ原綿や衣料品が送られ、児童の給食や衣服に加工して配給した。ユニセフからの支援は主権回復後も続き、1964年までに約65億円(当時)の支援を受けた。

住宅事情[編集]

1945年に入り激化した空襲により都市部の家屋の多くが焼失して約420万人が住居を失ったうえ、大陸からの引き揚げ者や強制帰国を命じられた日系移民らが難民となって帰国した為に住居不足に陥った。さらに、都市部のみならず、占領軍とその家族のためにビル、商業・娯楽施設、学校、病院、市民公園、住宅、土地など連合国軍に、家財もろとも強制接収された。接収対象の住民は、行くあての有無にかかわらず強制的に立ち退かされた。接収地はフェンスを張り巡らされ、日本人は立ち入り禁止となった。家財を取りに帰ろうとすれば威嚇射撃を浴びせられた。さらに戦後の極度の物資不足のため建築資材を欠いた状態で、家屋を失った国民の多くは雨露をふせぐための粗末なバラック小屋生活や仮住まい生活を強いられていた。1948年になっても、約370万世帯が住居のない状態だった。

サンフランシスコ講和条約以降も多くの接収地域が米軍およびその家族に占拠・支配されたままで、元住民のもとには講和条約締結から数十年たってからやっと、更地にされたうえで返還された。米軍は原状復帰の義務を持っていなかった。

GHQの無関心
戦後のドイツとヨーロッパ諸国が住宅復興に重点を置いたこととは対照的に、占領期の日本の住宅復興対策は放置されていた。日本の政策を管理していたGHQは、全占領期間を通して、なぜか日本人の住宅事情に対してまったくといっていいほど関心を向けなかった。食糧事情には一定の関心をむけたにも関わらず、GHQから日本政府に出された住宅に関する指令は、物資の横流しを防ぐために建築制限が課せられたぐらいで(これによって日本にバラック小屋が乱立することになった)、もっぱら占領軍とその家族のための住宅の強制接取と建築資材供給及び建設・改築命令だけで占められている。日本政府はその対応だけで予算の相当部分をつぎ込まされ、国民の住宅復旧にまで手が回らない状態だった。占領軍のための物資の確保すらままならず、また納期期限が厳格であり、政府自ら建築資材を闇市から調達するなど奔走していた。
多くの日本人が家屋を失い物資に事欠いていたが、占領軍はそれらを顧みることは一切せずに、焼け残った民間人の住居や家財を接収していった。
占領軍は日本人から接収した住宅の池をプールに造り替えたり、茶室をトイレに改造するなどの改装を、日本行政機関に命じた。気晴らしにガラス窓を銃で撃ち割って日本人労働者に交換させたり、桂離宮などの歴史的建築物のペンキ塗りを命じるなどの改築命令もあった。
1950年には、連合国軍人等住宅公社法(1952年に廃止)が成立した。連合国軍人等住宅公社の運営には対日援助見返り資金が使われた。
住宅営団の解散
終戦直後は同潤会を前身とする住宅営団が公共住宅の建設に取り組んでいた。だが連合軍の占領下に入ってからは国策営団とみなされ、GHQから1946年に閉鎖指令を受けた。同年12月に閉鎖し、それ以降は建設計画の断念を余儀なくされる。まだ建築途中の住宅については、しばらく整理委員会の管理下に取り扱われることとなった。
占領期間は、航空産業はじめその他の重工業と同様、日本の建築業界にとっても著しい立ち遅れを余儀なくされた『空白の7年間』であった。
住宅金融公庫法と公団住宅法等の成立
1950年に入り、数々の建築関連法案が議会で可決する。政府主導による政策よりも議員立法の方がGHQの認可が下りやすいという占領期の特殊な背景が手伝い、田中角栄らの国会議員が担ぎ出され、多くの法案が国会議員によって発議されるという筋道を作り、住宅復興を徐々に推進させた。同年日本住宅公団建築基準法が誕生し、一定の文化的な生活をするための住宅の基準が定められた。占領期のこの基準が、高度経済成長を迎えてもそのまま継続されていった。

交通事情[編集]

幻の戦災復興計画
敗戦前年の1944年(昭和19年)9月、敗戦の可能性を察知した大橋武夫は、「勝っても負けても日本の復興は必要」と、災害に強い都市の復興計画を密かに主導していた。1945年(昭和20年)11月5日、大橋の立案によって、事業推進のために戦災復興院(計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立された。同年12月30日戦災復興計画基本方針[18]、を閣議決定し、経済安定本部をとともに、国策として計画推進を図った。
計画は画期的かつ水準の高いもので、車社会の到来を予想したうえで、主要幹線道路の幅員は大都市では50メートル以上、中小都市でも36メートル以上とし、更に必要な場合には緑地帯と防火帯を兼ねた100メートル幅での道路建設を促した。電線は地下埋設とし、また、都市公園の拡充を考え、緑地面積の目標を市街地面積の10%以上としていた[19]
戦災都市として指定されたのは全国の115都市で、復興事業へはその費用の9割を国庫補助するという極めて積極的な財政措置が取られた[20]
しかしGHQは、復旧計画に対してきびしい制限措置をとった。 占領軍は、日本のインフラ整備と都市復興が進んで近代化することをまったく歓迎していなかった。せいぜい昭和初期の復旧程度しか許さず、日本の復興計画には極めて冷淡な態度をとった。そのため多くの復興工事は、主権回復まで待たなければならなかった。特に100メートル道路の建設については「戦勝国の記念道路のようだ」と許可しなかった[21]。(現代の日本の狭い道路事情は、米国の占領政策に起因しているのである。)
日本の警察再編により、再び道路交通法を作成する必要が生じたが、「警察による車検は必要ない」とGHQがいうので、運輸省の管轄となった。イギリス式の左車線道路についても車両を右側通行に変更するよう、厳しい要請があったが、財政難と物資不足のため路線バスの改造や停車場の変更は不可能だと反論し、左側通行が認められた。
さらに1949年、ドッジラインで公共費が削減され、1949年6月「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」が閣議決定され、115都市すべての復興計画の規模縮小を余儀なくされた。100m道路建設が実現したのは、名古屋と広島だけとなった。
自動車の生産
終戦直後、GHQは自動車の生産を禁止するとともに、賠償工場指定にした。多くの技師たちは、戦犯の嫌疑を恐れて設計図を廃棄した。その後輸送難問題が浮上し、1946年初頭には、年間生産数量を限定したうえで国産トラックの生産が許可されることになった。翌1947年6月、1500CC以下の小型車の生産が数量限定で許可された。1949年10月、すべての乗用車の生産制限が解除された。
鉄道
占領軍は、鉄道の支配権も確保した。優等客車、食堂車、寝台車を重点において連合軍専用列車とし、約10%を接収した。また国鉄の貨物輸送量の10%以上を占領軍に優先的に輸送すべく命令した。駅舎に連合国軍専用の窓口と出入り口を設け、日本人利用者との差別化を図った。
戦災の被害に加えて占領軍に接収されたため日本の鉄道輸送力は著しく低下し、日本政府は急いで復興作業に取り組もうとした。
日本では、第一次世界大戦終結当時から、鉄道電化によって石炭エネルギーに代えようという計画があり、戦後の新幹線計画の基となった「弾丸列車計画」すなわち主要幹線および山岳線区の大規模な電化計画が立てられ、すでに一部で工事を進めていたが、軍部に反対されて中断していた。空襲被害によって発電所や変電所が破壊されると交通がマヒしてしまうというのがその理由だった。平和国家としての再出発に際し、政府はこの計画を復活させ、戦前に着工していたトンネルを利用して長期的な新幹線計画を再編することになった。
ところがGHQはここでも厳しい制限を課し、電化工事のほとんどが禁止された。GHQは新車両の製造にも制限を加え、フィリピンから米国製SLを移送させたりした。GHQは日本にもディーゼル化を勧めたうえで日本に米国製の在庫のディーゼル機関車を購入させようとしていた。ただし、これは日本の発展を阻害するというよりもむしろ、GHQが電化計画自体に理解がなかったことが原因となっていたようである。オーストラリアでは鉄道はほとんど使用されていなかったし、アメリカではまだディーゼル機関車が主流だった。
電化による動力分散を計画していた日本にとっては、米国製SLもディーゼル機関車もありがた迷惑であったが、電化計画と新幹線計画は主権回復後を待たざるを得ず、それまでの期間はSLで場をつないでやり過ごすことにした。
1949年7月、国鉄総裁下山定則が謎の死を遂げる下山事件が発生、一か月以内に三鷹事件松川事件が連続発生している。
航空
船舶

占領軍等の犯罪[編集]

連合軍の統治下、外地から引き揚げようとしていた民間人が、ソ連兵や朝鮮人や中国人から、虐殺や強姦、強制拉致、監禁、強奪などの激しい被害を受け続けていた。また日本から分断されていた沖縄県だけでなく、日本本土内においても占領軍等による夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。 占領初期の一か月、神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生し、神奈川県では女学校を閉鎖するなどの処置をとって強姦の防御に努めた。7年の占領期間中、本土だけでも少なくとも2536件の占領軍による殺人と3万件以上の強姦事件が発生したとされている。英連邦の占領地域でも「狩り」と称して日本女性がジープ等で拉致され、女性が助けを求める声がキャンプ周辺から絶える日がなかったと記録されている。ソ連の占領下にあった北方領土内では、1947年まで日本人が本土に移住することが許されず、約1万7千人の日本人が無防備のまま、ソ連兵によって殺害され、強姦や強奪の被害にさらされていた。多くの日本兵は、ポツダム宣言に反して帰還を許されず、現地でリンチにあったり虐殺され、シベリア、朝鮮半島、中国などに抑留され、強制労働を課せられた。

特殊慰安施設
アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で1336件の強姦事件が発生した。沖縄戦でも目を覆うような強姦事件が繰り返されており、日本政府はそれらの被害報告を受け、米兵の強姦対策として銀座に慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。同年9月28日、今度はGHQ軍医総監から東京都衛生局に対し、慰安施設の増設を指示された。9月の同じ時期、千葉県と神奈川県でも米軍司令部から慰安所を設けるように要請を受けた。東京や神奈川県の慰安所では、開業前日に米兵が大挙して押し寄せ、無差別に強姦を行った。神奈川県の慰安所では、抵抗した慰安婦を米兵が絞殺する事件も起こっている。
慰安所設置によって、確かに強姦事件は減少したと考えられている。実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。
1945年の12月25日、東京都の渉外部長(占領軍司令部の命令にサービスを提供する部署)だった磯村英一は、SCAPの将校から呼びだされ、当時焦土と化していた“ヨシワラ”に宿舎を造営して復活させ、占領軍の兵隊のための“女性”を集めるよう命令された。東京都はすでに女性や子供をできるだけ田舎に避難させる政策をとっていたが、占領軍の命令にはあらがう術もなく、磯村自ら焼け跡地区で困窮生活をしていた一般女性に、食糧を支給すると約束して集める苦渋の決断を下した。都内の焼け残った花柳界も米軍専用に接収された。
レイプ記録に日米間の差異
ロバート・アイケルバーガー将軍は、特殊慰安施設協会に乗り込んだ数百人のアメリカ兵が女性たちをレイプしたことをマッカーサー元帥と話し合ったことや、アメリカ軍による日本女性への暴行を防ぐために日本人が設立した自警団を武装した戦闘車両で鎮圧し、自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁したことなどを回顧録に残しているが[22]、占領初期のGHQ 1945年9月「月例報告」では、「日本人は米兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーも、米軍自身が日本人慰安婦及び施設を要請したことについては言及していない。
他方、特別高等警察(1945年10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。
調達庁の資料では、7年の占領期間中に米兵に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人とある。警察資料では、米兵が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。
緘口令
1945年9月19日、GHQからプレスコードが発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。米兵の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。
私生児
強姦などにより「GIベビー」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。混血児の多くは父親が誰かわからず、むろん母親からも歓迎されず、線路脇などに遺棄されたり、嬰児の遺体を電車の網棚に遺棄するなどされていた。1948年には混血児の救済施設エリザベス・サンダースホームが設立された。同1948年に優生保護法が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。1953年に厚生省が行った調査によると、国内で4972人のGIベビーが確認されている。
朝鮮人の犯罪
日本の敗戦を受けて、朝鮮人等の中には「戦勝国民」を自称する者が多く現れ、数々の犯罪を犯した。彼らは組織的かつ広範囲に、警察を襲撃し、土地家屋や鉄道などの公共施設を強奪し、市民に暴行をふるい、闇市に関与した。市民社会でも恒常的に、殺人、強盗、強姦事件が多発した。しかし朝鮮人や中国人の犯罪の事実は、SCAPの検閲によって控え目な報道をするように命じられていた。GHQの資料によると、日本国内だけで最低4000人の日本人市民が朝鮮人の犠牲となり殺害されたとある。これは氷山の一角にすぎないという説もある。吉田首相は朝鮮人の犯罪傾向について言及しつつ、朝鮮人は日本の再建に利さないため帰国させるべきとマッカーサーに書簡で訴え、大半の朝鮮人を帰還させた。
李承晩は李承晩ラインを引いて竹島を占拠したうえで日本人漁民を殺害・抑留し、抑留者の返還と引き換えに重大犯罪を犯した朝鮮人472人を放免し、日本在留特別許可を与えるよう要求した。
サンフランシスコ講和条約締結以降
サンフランシスコ講和条約19条によって、日本国と日本国民は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対するすべての請求権を放棄し、占領軍又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄。占領時代の指令や法律下での連合軍の作為・不作為による行為は民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないとされた。
1958年においても、アメリカ兵の日本における一年間の犯罪は公式に記録されていたものだけでも9998件、婦女暴行事件の件数は1878件だった。
1971年まで米軍軍政下にあった沖縄県での米軍人・軍属による刑事事件は、53年から71年までの18年間で1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)が記録されている。
1961年11月11日、日本政府は『連合国占領軍等の行為等による被害者等に対する給付金の支給に関する法律』を定め、連合国占領軍等の行為等により負傷し、又は疾病にかかつた者、及び連合国占領軍等の行為等により死亡した者の遺族に対し、日本政府から給付金を支給するように法制化した。[23]

領土[編集]

外地など領土の剥奪
ポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、外地台湾朝鮮)・租借地関東州)・委任統治区域南洋群島)を失った。
また内地についても、ソ連の侵攻によって南樺太千島列島が占領され、SCAPIN第677号では南西諸島小笠原諸島伊豆諸島についても暫定的に施政権が停止された(後に施政権を回復)。
旧領土の放棄の時点はいつであるかについては降伏当初より論点であったが[24]、ポツダム宣言受諾は義務の発生であって領土権の喪失は(現実には台湾や朝鮮が軍事占領され別の国として取り扱われており、連合国の意向次第で流動的であるが)法律上の立場としては領土の帰属が確定する時点(即ち講和条約締結時点)と解釈されていた。結果としてサンフランシスコ講和条約中華民国ないし中華人民共和国との平和条約により朝鮮・台湾・南樺太・千島列島の領土権を正式に放棄した(台湾並びに南樺太および千島についての帰属は未定)。
戦時占領下の国々
第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で日本軍の占領下におかれた国々、もしくは独立に向かった東南アジアの国々は、日本軍が敗れた後、宗主国である勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、これらの国からの独立を目指して戦い続けていた独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。連合国はほとんどのアジアの植民地の独立を認めず軍隊を送り込んできたため、独立戦争が勃発した。日本本土に引き上げず、現地に留まっていた残留日本兵が協力するケースもあった。これらの戦争によって1960年代までにほぼ全ての植民地が独立を認められた。
朝鮮半島
朝鮮半島は、テヘラン会談ヤルタ会談によって数十年間連合国の信託統治下に置かれることになっていたが、金日成李承晩らの運動によって独立国家設立が認められた。
李承晩は大韓民国を建国させてすぐに、まだ連合国の部分占領下にあった日本に対馬の領有を要求したが、連合国によって却下され、1949年4月、連合国は大韓民国の国連加盟を否決するにいたった。また朝鮮戦争時には山口県などに数万人規模の亡命政府を設立することを要求したが、マッカーサーをはじめ連合国は許さなかった。
サンフランシスコ講和条約では、日本が放棄すべき地域として「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定。条約の草案が作られる段階で、韓国政府は独島(竹島)もこれに加えるように要求していたが、ラスク極東担当国務次官補から梁大使へ、竹島に関する韓国の主張は認められないとする書簡(ラスク書簡)が送られ、韓国の主張は退けられた。
なお国際法上の朝鮮半島の正式な独立は、サンフランシスコ講和条約発効日である。
サンフランシスコ講和条約発効直前の1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国は国際法に反して「李承晩ライン」を一方的に設定し竹島を武装占拠した。多くの日本漁船が拿捕され、日本人漁民の44人が死傷し、3,929人が抑留された。船や漁獲物は強奪された。[25]
北方領土
北方領土については、米国は「サンフランシスコ講和条約ヤルタ会談の密約を放棄したものである(ダレス国務長官)」という立場をとっている。

キーパーソン[編集]

歴史学者ハワード・B. ショーンバーガーは戦後日本の占領政策のキーパーソンとしてダグラス・マッカーサージョセフ・グルートーマス・アーサー・ビッソンジェームス・S・キレンハリー・カーン(Harry F. Kern)、ウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニアジョゼフ・ドッジジョン・フォスター・ダレスの8人をあげている[26]

マッカーサーへの手紙[編集]

占領期を通じて、内閣総理大臣を始めとする日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は在日朝鮮人送還を望むもの、復員に関する要望・嘆願、天皇制民主主義に関する意見、などであった。

吉田茂首相からの手紙「在日朝鮮人の全員送還を望む」

吉田茂首相は在日朝鮮人の送還費用は日本政府が負担するとした上で、将来世代の負債となること、日本経済の再建に貢献しないこと、犯罪割合が高く経済法規を破る常習犯であり投獄者が常に7,000人を超えることなどから朝鮮人全員の送還を求めた。

市民による書簡の一例
一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡磯部村
拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)

離日後のマッカーサーの米議会証言[編集]

1951年4月19日、ワシントンDC の上下院の合同会議におけるマッカーサー離任演説より[27]
「(前略)戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。
今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証しています。私は占領軍の4個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。」
「(中略)私は今、52年にわたる軍務を終えようとしています。今世紀に入る前に私が陸軍に入隊したとき、それは私の少年時代の希望と夢が成就した瞬間でした。私がウェストポイント(陸軍士官学校)で兵士になる宣誓をして以来、世界は何度も向きを変え、希望や夢はずっと前に消え失せてしまいました。しかし、当時兵営で最も人気が高かったバラードの一節を今でも覚えています。それは誇り高く、こう歌い上げています。『老兵は死なず。ただ消え去るのみ』と。
そしてこのバラードの老兵のように、私もいま、私の軍歴を閉じ、消え去ります。神が光で照らしてくれた任務を果たそうとした1人の老兵として。
さようなら。」
1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の質疑応答より
" Yes sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in.
You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry.
Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.
This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have the basic materials.
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.
They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(後略)"

年表[編集]

凡例

  • 月日 日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
    • 月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
1945年
東京湾に停泊する戦艦ミズーリ上で降伏文書調印。中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣、左後方に侍しているのは加瀬俊一
国際連合が発足。
海軍省が廃され第二復員省が発足。
1946年
1947年
  • 1月1日 吉田茂、労組運動者を「不逞の輩」と非難。
  • 1月4日 GHQ、第二次公職の追放を指令。
  • 1月11日 全官公庁労組共闘委員会(組合員260万)4万人が皇居前でデモ。委員長伊井弥四郎がゼネスト決行宣言。
  • 1月18日 伊井、ゼネスト決行を2月1日と発表。
  • 1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。共闘委員会解散。
  • 2月10日 イタリアフィンランドハンガリールーマニアブルガリアが連合国と講和。各国が領土割譲と賠償を認める。
  • 2月18日 第一次ストライク調査団報告書提出。
    • 3月12日 トルーマン・ドクトリン。トルーマン大統領、「共産主義との対決」を宣言し、米ソ対立が表面化。
  • 3月17日 マッカーサー声明「日本進駐は速く終わらせ、対日講和を結んで総司令部を解消するべき。講和は1年以内が良い。」対して国務次官ディーン・アチソン「日本より欧州が先」。
  • 3月31日 吉田内閣、衆議院を解散。教育基本法学校教育法公布。
  • 4月22日 第一回参議院議員選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。
  • 4月25日 衆議院選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。当選者の半数弱が新人で、田中角栄中曽根康弘鈴木善幸らが初当選。
  • 4月 独占禁止法公布。
  • 5月 総司令部内に賠償局を設置。
  • 5月 GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる。
  • 5月2日 外国人登録令(朝鮮人、台湾人などの外地人は日本籍を取り消され外国人になる)。
  • 5月3日 日本国憲法施行
  • 5月20日 第一回特別国会召集。吉田内閣総辞職。
  • 5月24日 社会党書記長片山哲がマッカーサーを訪問し、片山がキリスト教徒であること喜ぶ声明。また片山に「日本は東洋のスイスとなるべきだ」と言い、「東洋のスイスたれ」が流行する。
  • 6月1日 片山哲内閣(社会党・民主党・国協党連立)成立。
  • 6月5日 「ヨーロッパ危機に対するアメリカの行動(マーシャル・プラン)」を発表。
  • 7月 極東委員会、対日政策指導原則を発表。
  • 7月 国連、日本が国際連盟によって信託統治していた南洋諸島をアメリカの信託統治とする。
  • 7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
  • 7月12日 欧米16カ国のパリ会議開催(マーシャル・プラン受け入れ決定)
  • 7月13日 マッカーサー声明「日本処理の基本的な方針である軍の撤廃と非武装化は完全に達成されており、向こう100年間、日本は近代戦を行うための再軍備はできないだろう」米本国の欧州重視に反発した模様。
  • 7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
  • 8月 ラジオにおける事前検閲が廃止され、事後検閲になる。[10]
  • 9月 カスリーン台風の被害甚大。
  • 10月26日 刑法を改正。
  • 11月 雑誌における事前検閲が廃止され、事後検閲となる。[10]
  • 12月22日 民法を改正。
  • 12月31日 内務省を廃止。
1948年

逆コースが始まる。

1949年
1950年
  • 1月 地方政治が進駐軍政から離れる。
  • 2月14日 ソ連が中華人民共和国と同盟条約を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。
  • この頃、日本との講和を推進する米国務省と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する米国防総省が対立。
  • 4月25日 池田勇人蔵相が白洲次郎らと共に税法問題交渉のため渡米。ジョゼフ・ドッジと面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
  • 5月12日 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)。
  • 6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
  • 6月16日 国家地方警察、全国のデモ・集会禁止を発令。
  • 6月25日 朝鮮戦争勃発(1953年まで)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
  • 7月 小倉で朝鮮派遣を控えた黒人米兵達が完全武装で集団脱走。強姦や略奪を繰り返すが、全員が憲兵に逮捕され、戦線に送られた(ほぼ全員が戦死したという)。情報統制の結果、ほとんどの日本国民が事件を知らなかった(小倉黒人米兵集団脱走事件)。
  • 7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
  • 7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。共産党書記長徳田球一、中国へ亡命。
  • 8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
  • 8月23日 警察予備隊第一陣7000名が入隊。
  • 8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
  • 9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
  • 10月 海上保安庁が朝鮮半島に特別掃海隊を派遣(国民には秘匿)。
  • 11月10日 NHK東京テレビジョン実験局、テレビの定期実験放送を開始。
  • 11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
1951年
マシュー・バンカー・リッジウェイ将軍
1952年

48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、ブラジルメキシコなど、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。

日本は北緯29度以南の南西諸島小笠原諸島を残存主権を保持しつつも、アメリカから国連への提案があった場合にはアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太千島列島朝鮮半島台湾南洋群島を放棄した。

1953年奄美群島1968年に小笠原諸島、1972年琉球諸島沖縄返還)が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された北方領土は放棄していないと主張している。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 日章旗は占領初期に掲揚が禁止された。詳細は#国旗の節を参照。
  2. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、日本の無条件降伏が軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  3. ^ 皇室財産の大部を占めたのは山林であり、これは農林省に下賜され国有化された。帝室博物館などの皇室財産は関連省庁に移管され、すべての皇族の財産は宮内省から各皇族に私的財産として返還され、伝世財産・伝世御陵(伝承された財産:山林・宮殿敷地・農地・建物敷地など)については1回かぎりの特別税を用いて国有化した。日本政府はGHQによる皇室財産の処分を懸念し、すでに1945年11月の時点から日本政府と一部の地方自治体に下賜し始めており、具体的には11月3日に箱根・桂・武庫の3離宮を地方自治体に、11月5日に那須金丸ケ原・富士山麓大野ケ原・岡崎郊外高師ケ原の土地や、42万7000石の木材を日本政府に下賜した。そのほか皇室の宝石類を海外に売却して国民のための食糧輸入に当てたい意向をもちその方途を模索していたが、すでに日銀や日本政府、交易営団などの貴金属はESSにより接収されていたため適わず、ESSからの報告をうけたマッカーサーは天皇や皇室による国民への人気取りにつながると懸念をみせたため実現しなかった。なお桂離宮については昭和22年に再び皇室財産とされている。またそのほかについては皇室財産の項も参照。

出典[編集]

  1. ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
  2. ^ 「憲法制定過程におけるGSとESSの関係」金官正(横浜国際経済法学第16巻1号2007.9)[1]
  3. ^ 毎日新聞 1946年5月27日[出典無効]
  4. ^ 2002年8月にスイスから公表された公文書による。2002年8月10日共同通信
  5. ^ 2002年8月にスイスから公表された公文書による。2002年8月10日共同通信
  6. ^ 愛媛新聞1945年11月22日など。
  7. ^ 『日本の百年』1967年、他
  8. ^ a b c 詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日 国立国会図書館
  9. ^ ダワー著『敗北を抱きしめて』参照
  10. ^ a b c d e 中 正樹. “用語としての「客観報道」の成立”. 2009年10月13日閲覧。
  11. ^ 太宰治の7作にGHQ検閲の跡、削除指示も 米大に資料 朝日新聞 2009年8月2日
  12. ^ 江藤1989,p226
  13. ^ 1944年7月1日に国務省極東局日本担当のローリーが起草した「日本・軍政下の教育制度」
  14. ^ J.ダワー著『敗北を抱きしめて』1999年
  15. ^ 防衛施設行政45年の軌跡
  16. ^ 「道新」10月19日
  17. ^ a b ラーメンと愛国松岡正剛の千夜千冊1541夜、2014年04月15日
  18. ^ 戦災復興誌 第3巻 建設省編 都市計画協会 1958 pp.1-4
  19. ^ 『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」
  20. ^ 『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」
  21. ^ 越澤明「戦災復興計画の意義とその遺産」『都市問題』第96巻第8号
  22. ^ Terese Svoboda U.S. Courts-Martial in Occupation Japan: Rape, Race, and Censorship - See more at: http://www.japanfocus.org/-terese-svoboda/3148#sthash.J2EixRRr.dpuf The Asia-Pacific Journal: Japan Focus
  23. ^ http://hourei.hounavi.jp/hourei/S36/S36HO215.php
  24. ^ 帝国議会議事録 第89回 貴族院 昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会1号(昭和20年11月29日)発言者番号17以降
  25. ^ 竹島領有権問題について 自民党領土に関する特別委員会委員長石破茂 2006年5月16日
  26. ^ Howard B. Schonberger,Aftermath of War: Americans and the Remaking of Japan, 1945-1952.翻訳:ハワード・B. ショーンバーガー『占領1945~1952―戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人』宮崎章訳,時事通信社 1994
  27. ^ 連邦議会での離任演説(1951年)(在日米国大使館ウェブサイト-About the USA)

参考文献[編集]

  • 江藤淳 『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』 文藝春秋、1989年 / 文春文庫、平成6年
  • 吉田恒昭「連合軍占領下における日本の平和構築とインフラ整備の経験」[2]
  • 秋尾沙戸子 『ワシントン・ハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社、2009年(平成21年)、ISBN 978-4104370023
  • 土持ゲーリー法一 『戦後日本の高等教育改革政策: 「教養教育」の構築』玉川大学出版部, 2006年

関連項目[編集]

日本の連合軍占領期
外国の連合軍占領期

外部リンク[編集]