連合国軍占領下の日本
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連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、第二次世界大戦終結からサンフランシスコ講和条約締結までの間、連合国軍の占領下に置かれた日本である。ただし政治的(主権・行政権)については日本政府が統治権を有す。ポツダム宣言では「日本領土」ではなく「日本領土の諸地点」への「保障占領」となっていた。
目次 |
概要 [編集]
日本政府は、1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。翌8月15日、昭和天皇はラジオで終戦の詔書を日本国民に発表した(玉音放送)。1945年(昭和20年)9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で連合国との間で降伏文書に正式に調印した。この日本の降伏により、連合国の占領下に入った。
降伏文書の調印に先立ち、アメリカ主導で組織された連合国軍は、同年8月28日からイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどによるイギリス連邦による協力を受け、日本への進駐を開始した。連合国は日本本土に対して軍政を実施するとの情報があり、重光外務大臣は9月3日にマッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた[1][† 2]。一方南西諸島及び小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩む。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はイギリス軍や中華民国軍、ソビエト連邦軍などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は剥奪された(日本本土除く)。連合国は竹島は日本国の領土であるとしたが[2]、1947年に、日本の植民地であった朝鮮半島の南半分に建国された大韓民国は、一方的に「李承晩ライン」を設定し領有を宣言すると、多くの日本漁民を強制連行した[3]。
1951年(昭和26年)9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書で正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、講和条約発効まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。
統治 [編集]
日本では連合国軍最高司令官総司令部をGHQ(General Headquarters)と呼称する。日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容はアメリカ軍で、その次にイギリスをはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。ソ連軍や中華民国軍、オランダ軍は部隊を置かず駐在武官のみを送るに止めた。
最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。連合国はアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命し、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領もこれを承認した。
分割案 [編集]
詳細は「日本の分割統治計画」を参照
第二次世界大戦中、連合国軍はドイツと同様に日本の分割直接統治(東京都区部は米中蘇英、近畿地方の大部分はアメリカと中華民国による共同統治になるなど)を計画していた。しかし、国民からの崇拝の対象であった天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。占領下において日本は主権の一部を制限された状態であった。
「アメリカ合衆国による沖縄統治」も参照
政策 [編集]
「連合国軍最高司令官総司令部」も参照
憲法 [編集]
「日本国憲法」も参照
1945年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が加えられ、1946年11月3日に新憲法が公布。1947年5月3日に施行された。
- 象徴天皇制
- 連合国軍は皇室改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、日本国および日本国民統合の象徴となった。また皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるにともない[† 3][4]、多くの皇族は皇籍離脱を余儀なくされた。しかし、大半の皇族は戦犯には問われず、日本の皇族にとっては温情のある処置であったとする意見もある。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、第二次世界大戦以前の日本では「天照大神が皇室の祖」と歴史教科書に記述されていた一方で、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
- 戦後直後の1946年に毎日新聞が実施した世論調査では、象徴天皇制への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており戦後直後でも国民の多くが皇室の存続を支持している[5]。
- 平和主義(戦争放棄)
- 憲法に「戦争放棄」を明記して、日本を非武装化し連合国にとって軍事的脅威たらしめないこととした。日本は後の朝鮮戦争期に、同戦争に国連軍の1国として派兵していたアメリカの意向により戦力を保有することになるが、その解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。
- ・1945年10月5日付でスイス公使カミーユ・ゴルジェがスイス外務省に送った電報によると、10月2日の会談でマッカーサーは第二次大戦中の「日本軍の残虐性」を強調し、敗戦後の日本が「軍事的には重要でなくなることを保証する」と断言し、国際社会で「悲惨な地位を占めることになろう」と公使に語った[6]。ただしこの頃の連合国は、条約による日本の非武装化を計画してはいたが、憲法の条項に入れる案は持っていなかった。
- ・1946年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)を伝達。この文書にも9条に相当する条項を加えるような内容は含まれていない。
- ・1月24日、幣原首相がマッカーサーを訪問し、密談。
- この時、幣原首相が「かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争を放棄するという事以外にはないと考える。憲法にそういう条項を入れたい」と語ったとされる。幣原の親友の大平駒槌枢密顧問官が娘の羽室ミチ子に語った内容を、羽室がメモ(羽室メモ)を残している。
- 「戦争放棄」は幣原からの発案だったと後にマッカーサーが回顧録に書き、幣原は自身の回想録『外交五十年』の中で戦争放棄のアイデアは自発的だったと書き記している。しかし松本烝治は試案を作るまで幣原から指示はなかったと否定し、この条文に関わったケーディスらも「マッカーサーの発案」と否定している。
- ・1946年2月3日にコートニー・ホイットニー民政局長に提示されたマッカーサー三原則には、自衛のための戦争まで禁じられており、「今や世界を動かしつつある崇高な理念(発足したばかりの国際連合を指すと思われる)」に防衛と保護をゆだねる旨記されてあった。
- ・自衛権の禁止はチャールズ・L・ケーディスによって作られたマッカーサー草案8条では削除され、後者は日本国憲法前文に反映された。
- ・最終草案がまとまったころ極東委員会の中国代表が芦田修正を見とがめたが、結局ソ連代表の提案で文民条項を要請する事で収まった。日本国憲法第66条に第2項が書き加えられた。
政治 [編集]
- 極東国際軍事裁判(東京裁判)
- 連合国は極東国際軍事裁判を通して、「戦争指導者」とされた人物を「処罰」した。併せて「日本が平和と人道に対する罪を犯した」と3年間にわたって宣伝し続けた。なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルク裁判同様、右派や国粋主義勢力のみならず、国際法学者(イギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パール)から「裁判の体を成していない」「復讐目的の裁判」「事後裁判だ」と批判される。一方左派からは「最高権力者の昭和天皇が裁かれないのはおかしい」という批判を受けている。
- 民主的傾向の復活
- 占領を早く終わらせるために、満州事変以降政界から引退していた幣原喜重郎を総理大臣に擁立し、幣原内閣(1945年10月9日~1946年5月22日)を発足させる。ポツダム宣言の「民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。」の条項に従い、占領軍の指示を待たずに大正デモクラシー時代の幣原の盟友達を集めた。新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相に、マッカーサーの会談記録及び会談の中でマッカーサーが口頭で五大改革指令を伝えた。(1)女性の解放(2)労働者の団結権の保障(3)教育の民主化(4)秘密警察の廃止(5)経済の民主化である。婦人参政権、労働組合法、農地改革などの改革は、デモクラシー時代の政界の懸案であったため、憲法改正案が成立するより早い時期に明治憲法下で法制化され、実行に移された。
- 結党の自由と政治犯の釈放
- 治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年の中華人民共和国の成立や朝鮮半島情勢の悪化もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ、逆コース)。これら左翼政党は右翼政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
- 財閥解体
- 「太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は元の形に戻る。
- 産業解体
- SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。 初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。「日本を農業と軽工業の国に作り替える」と発表し、他のアジア諸国と同様に米国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。こうして各地の研究施設や工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発・生産停止を命じた。
- 1945年に来日した連合国倍賞委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約 30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省によると、1950年5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルマ、マライ)15.4%である。
- ポーレーの最終案は極東委員会内でも議論が湧いて意見の一致を見ず、米国内のメディアからさえ非現実的と批判を浴びた。そのため1947年1月、米陸軍省派遣のストライク調査団が来日した。調査団は、日本非武装化を目的とした中間賠償はすでに役割を終えているとし、日本がすでに500億ドル以上の在外資産を放棄していることや、日本の自立による東アジアの安定への寄与効果などを重視し「1935年の国民生活水準を考慮し自給自足に足る経済を残す」として、工業再建の許容水準を引き上げるとともに、賠償計画の見直しを勧告する内容の報告書を GHQ に提出し、ポーレー案の緩和を促した。が、これはドイツに対して行われた過酷な産業解体よりさらに低い水準、つまり大恐慌時代の日本のレベルを上限として残りを賠償とする弱体化政策の一環であった。例をあげると、日本の製油所は全部スクラップ化して、製品輸入に依存することが示されていた。1946年の日本経済は1930年~34年の18%のレベルで、47年でもまだ40%にしか回復しなかった。
- 1947年3月、マッカーサーが早期講和条約を提唱し「占領目的はすでに達成している、今後は日本の復興に向かう時期」と主張。5月、アチソン国務次官が「アジアおよびヨーロッパにおける2大工場として、この2大陸の究極の復興を左右する日独両国の復興を促進する」と方針発表。日本産業復興と国際社会への復帰に向けての動きが始まる。
- 1948年1月6日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を反共の砦にする」と演説(反共の砦は、戦前・戦中のローマカトリック教会の発言に基づいている)。6月、ヨーロッパでは共産勢力の台頭を防ぐためマーシャルプランが発令された。日本に対しては、日本と他のアジアの労働者の質を現実的に比較して、日本の工業施設を戦後賠償としてアジアに移転させてしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品による現物賠償が有力という現実的な判断が深まることによって、日本産業見直しの機運を盛り上げた。さらに、日本の経済的自立の立ち遅れがアメリカの占領費用負担につながるという納税者の論理も働いた。
- 1948年3月に来日したドレーパー米陸軍次官、 ジョンストンらは日本経済の実情を視察して、日本の産業復興を最大の占領目的として位置づけ、 貿易拡大・賠償削減・財閥解体の緩和などを提唱した報告書を出し、日本の産業復興が自由社会のパワーバランスに寄与し、アジア諸国に益するものと位置づけた。同年12月、経済安定九原則が発表された。
- 1950年以降、朝鮮戦争勃発によって米軍航空機の修理の必要などから工業生産規制が緩和され、制限付きではあったが重工業の復活が認められ、経済復興の道を歩み始めた。
- 他方、日本政府や実業家たちは主権回復後の経済復興に向けて、備蓄されていた技術や経験を生かしつつ「研究の徹底、生産技術の向上、経営の能率化」に重点を置いた長期プランを立てていた。1946年3月に外務省調査局特別調査委員会によってまとめられた「日本経済再建の基本問題」には、既に最先端テクノロジーを基盤とする経済復興の青写真が描かれている。
- 労働運動
- ・1945年10月2日、マッカーサーはカミーユ・ゴルジェ駐日スイス公使と会談した際、日本の工業力がまだ残存しており、戦後の日本が安い労働力によって廉価な製品を輸出しアジア市場を独占することに懸念を示していた。競争力を低下させ日本の経済進出を阻止するために、労働組合の組織化を通じて労働者の賃金を上昇させ、日本製品の価格を引き上げる必要性をスイス公使に力説している[7]。
- この会談から9日後の10月11日、マッカーサーは就任したばかりの幣原喜重郎首相に、労働組合の結成を含む「五大改革」を指示した。
- ・降伏直後、国内の多くの工場が賠償指定を受け生産を禁じられ、一部は限定された「平和産業」へと転換して生き残りを図ろうとしたが、生産制限を課せられる等、生産量の低下を余儀なくされていた。それによって失業や賃金低下をもたらされたため、全国各地で労働者による生産管理闘争や生産復興闘争が発生した。
- 1946年には、毎月平均30件の生産管理闘争が発生した。ストライキはほとんど行われなかった。占領軍の厳しい言論統制による世論操作が行われており、多くの労働者は、経済復興が遅れているのは、GHQの民主化を妨害するために資本家が生産サボを行っているせいだと信じていた。が、GHQによって弾圧されていった。
- 1946年12月、極東委員会は労働運動16原則を発表し、占領目的を阻害する労働運動を禁じた。
- 1947年、食糧輸送と占領軍へのサービスをストライキから除外した二・一ゼネストが計画されたが、マッカーサーの介入によって中止される。二・一ゼネストの中止以降、GHQと労働者運動の間に深刻な溝が生じる。
- 農地改革
- 地主から土地を強制的に召し上げ、小作人に農地を分け与えた。これによって、資産家は没落した一方、多くの新興農家が生まれ、小作農であった彼らの経済基盤は大幅に向上された。ただし、農地が個人に分散されたため、画一的な大規模農業が不可能となり、日本の食料自給率低下の原因とされる。また土地を得た農民は右翼政権の強固な支持層となった上、農地の強制収用の過程で、これを違法に逃れるものも多かった。
- 学制改革
- 1947年3月、学校教育法が公布され、4月に施行された。
- 複線教育が廃止され、各都道府県に大学が創設される等、教育の一般化が行われた。
- 公立旧制の高等教育機関としては、大学、大学予科、高等学校、専門学校と教員養成の目的で設けられていた高等師範学校、女子高等師範学校、師範学校、青年師範学校があったが、単一の四年制大学となった。
- 1947年3月、教育勅語に代わって教育基本法が施行された。小・中学校は原則男女共学となり、国公立学校での宗教的中立が規定された。
- 日本の教育の民主化は、日米政府間では根源的な認識の差異があった。すなわち「有色人種差別思想に基づいた日本弱体化を目的とする民主教育」と「字義通りの民主教育観」のギャップである。日本は古代・中世から庶民や女子への教育を勧める伝統を持ち、義務教育も米国から早く行われており、字義通りの民主教育を受容した。
- それより前の1945年12月には、GHQの指令により「民主化」の一環として教員組合が編成される。
- 日本語ローマ字化計画
- 1946年3月5日、第一次アメリカ教育使節団が来日し、日本語のローマ字化を企てる。占領時代のアメリカ人は日本文化に対する情報が乏しく、日本の民衆は奴隷化されていて識字率は低いのだろうと思い込んでいた。それを漢字が障壁と考えローマ字化すれば識字率が高まると一方的な推論を立て、日本語ローマ字化計画を企てた。事前調査として15歳から64歳までの国民17,000人を抽出して漢字の読み書き能力テストを行ったところ、漢字の読み書きができないのは、わずか2.1%という結果がでた。これはアメリカ合衆国の識字率と比べても、当時の世界水準で見ても高い識字率であったため、これに困ったGHQの担当者ジョン・ベルゼルは、調査官であった言語学者の柴田武に「調査結果を捏造してくれ」と迫った。が、事実を捏造することはできないと柴田は拒否した。(この一件があってから、日本語のローマ字化計画は立ち消えとなった)。
- 英語公用語化計画
- ポツダム宣言調印の直後、占領期間の公用語を英語とするという項目を含む三布告を突きつけられ、翌朝10時までに国民に布告するよう命ぜられた。それらはポツダム宣言の内容に反していたため、外務省の交渉によって、翌朝の10時までに三布告をすべて白紙撤回させた。
国号 [編集]
明治期以来現在においても日本の国号は法定のものではなく、行政上での慣例に従い記述されているが、明治期から昭和初期まで大日本帝国を主たる国号とし、1935年(昭和10年)7月より外務省は外交文書上「大日本帝國」に表記を統一していたが、第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱に国名を「大日本帝國」のままにしていたところ、2月13日GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が「日本國」になり、これ以降慣例として大日本帝国の国号は使用されなくなり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられる。
国旗 [編集]
日章旗の掲揚と国歌は1945年に全面禁止された。商船旗としては国際信号旗のE旗の端を三角に切り落とした日本商船管理局(SCAJAP)の旗が代わりに使用された。1946年からは特定の祝日や特定の行政機関のみに、国旗掲揚が限定的に許される。
- 1948年6月に禁止令を知らずに横浜で国旗を掲揚した男性が、米軍軍事法廷で重労働6か月の判決を受けるなどの判例がある[8]。1949年1月、GHQから国旗の掲揚が認められたが、刑罰や「軍国主義者」というレッテル張りを警戒して、実際に国旗を掲揚した日本人は少なかった。学校の教科書の挿絵に国旗があれば、削除の対象となった。児童の文房具に日章旗のデザインがついている場合、学校に監視に来たMPに没収されたり消すことを命じられたりしていた。
- 1946年からの昭和天皇の全国巡行の際には日章旗が用いられた。
貿易 [編集]
占領期間、海外との交易は禁じられ、GHQの管理下に置かれた。 輸出製品には Made in Occupied Japan(「占領下日本製造」の意)と表示することが義務付けられた。
文化・思想 [編集]
- 言論統制
- 1945年10月8日に、SCAPは「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始した[9]。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコード、ラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより地方紙も含めた新聞、雑誌などあらゆる出版物、放送や手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。
- 連合国の批判、占領軍の政策への批判、極東国際軍事裁判を批判したもの、戦時中の連合軍の虐待行為、原爆に関する情報、占領軍兵士による殺人・強盗・強姦事件・売春、満州における日本人処遇への批判、欧米諸国における有色人種差別、冷戦の高まり、飢餓の表現、戦災による死や破壊の悲しみの表現など、報道・出版を許されない項目は多岐にわたった。報道規制は海外から日本に配信されたニュースにも及んだ。沖縄県の報道も禁じられていた。連合国への批判の禁忌は中世や近世にまで及び、ヨーロッパ近世の植民地支配について触れた記述も削除を命じた。戦後のアジア諸国で起こっている独立闘争も報道を禁じられた。
- 連合国の威信を傷つける記述はすべて削除された。占領軍の行進の写真に子犬が写っているだけでも発行禁止とされた。日本の雑誌や映画に性的表現を「自由化」するよう命じられる一方、アメリカのポルノグラフィについては言及するだけでも削除を命じられた[10]。
- SCAPが日本国憲法を起草したこと、SCAPが作成に関与したことも、国民に知らせないよう命じられた。SCAPの憲法作成関与に対する批判も処分の対象となった。日本のメディアは「変な日本語」と言及することによって検閲を逃れた。
- また日本政府が占領軍に支払っている巨額の占領軍維持経費を報道することも許されなかった。1946年、GHQ検閲局はどうしても経費に触れなければならない場合は「終戦処理費」と呼ぶように命じ、1947年は「その他」経費とするよう命じた。
- また軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。
- 検閲指針に違反した社は廃刊や発行停止、記者等は解雇を命じられるか、米軍軍事法廷で裁判が行われ、有罪者は沖縄で強制重労働3~5年に処せられた。強制労働は主に占領軍基地づくりである。
- GHQによる検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止されたが、プレスコードによる言論統制は依然として存在した。事後検閲になってからは出版停止や回収などの経済的リスクを負うことを恐れ、記者、編集者や作家らはかえって用心するようになり、自己検閲が進んだ。が、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった[11]。
- 伝統文化の排斥
- GHQは軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるものについて活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された[12]。
- 占領当初は靖国神社を焼き払ってドッグレース場にする計画が立てられており、実行までにはGHQ内で賛否両論にわかれた。が、駐日ローマ法王庁・バチカン公使代理のブルーノ・ビッテル神父の反対で中止した。
- 世論対策
- 1945年10月2日に発令されたSCAPIN4号2項に基づいて、民間情報教育局で「戦争についての罪悪感と、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任を、日本人の心に植えつけるための宣伝計画(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」が組まれ、段階に分けて実行に移された。
- 新聞では早くからウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが開始され、民間情報教育局が作成した『太平洋戦争史』と題する企画を連載させられている。この宣伝文書は、新聞連載が終了したのち、1946年に高山書院から刊行され、4月から各学校で教材と使用するように、各学校の教育長と学校長に宛ての「新学期授業実施に関する件」の中で命令が出された。社会人向けの教育には、『太平洋戦争史』を劇化したラジオ番組『眞相はかうだ』を十週間にわたって放送させた。民間情報教育局は放送と同時に視聴者からの質問を集め『質問箱』という番組を作成させた。
- GHQは学校教育現場でのラジオ放送教育と校内放送を奨励して立ち入り監視と指導・勧告を行った。戦争末期から、コーデル・ハルは「日本人をアジア解放に殉じたと思わせてはならない」とルーズベルトに進言していた。米政府は、連合国軍の平和目的を伝え、「外国人」への尊敬を持たせ、「外国人」と交流を持つことが「honor」であるよう印象付けるように占領後の教育方針を組んでいた[13]。
- 日本から連合国への敵対心をなくし、特に親米的な国に作り替える方針のもと、占領軍として進駐していたアメリカに対して好感を持つような世論誘導が行われ、その一例としてアメリカ軍の兵士が、ガムやチョコレートを食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。否定的なイメージを取り除くために「占領軍」を「進駐軍」と呼ばせた。
- その一方で、アメリカ軍人やイギリス軍人を中心とした占領軍兵士による強盗や強姦、殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反連合国軍感情が起こることを防いだ。占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。
- 郵便物、電報及び電話通話の検閲
- GHQは郵便局に検閲局を置き、市民の郵便物を検閲した。多いときで約8700人の日本人を動員し、郵便物の検閲を行わせた。学生が多かったとされる。日本人検閲官は事前に和文英訳のテストを受けレベルごとに振り分けられ、郵便局に集まった私信を英訳したうえで検閲局の許可を仰いだ。特に占領軍への批判や意見、米兵の動向のほか、復員、物価や食料難、公職追放のその後の動向、労働組合、企業の経営状態、政治や共産党の動きなどを翻訳対象とした。検閲の仕事については秘匿とされた。
- 1952年3月、「連合国占領軍の為す郵便物、電報及び電話通話の検閲に関する件を廃止する法律」が国会で可決、サンフランシスコ講和条約効力発生と同時に施行された。
- 戦争花嫁
- 当時の欧米諸国には厳格な有色人種差別があった。米軍では異人種間の結婚は禁止され、概ね白人と黒人からなる米兵は黄色人種である日本人女性に産ませた子供を認知する義務すらなかった。また排日移民法のために日本人妻子のアメリカ入国は不可能だった。
- 1946年6月29日、GIフィアンセ法の制定により、日本人女性と占領軍兵士・軍属との結婚が可能になり、1947年には占領軍兵士との国際結婚の届け出数が822組を記録する。これで認められたのは米兵と日本人女性との姻戚関係のみ。
- 1950年、米兵と日本人女性間の結婚禁止令が解かれる。GIフィアンセ法が改正され、占領軍兵士の妻子が人数制限なしに、アメリカに入国可能になる。
- 焚書
- GHQの指令により東京大学文学部の教授陣数名が中心になり選抜した8,000冊弱の歴史関係の文献が没収された。
- 宗教の自由
- 第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。
占領軍への労務と物資の調達 [編集]
1945年9月3日、SCAPIN2「日本政府は連合軍の必要とするすべての資材を供給しなければならない。日本政府は各地の占領軍司令官の指示された時と所に、必要な技能を備えた労働者を提供しなければならない。日本政府は占領軍の要求に従い、適切なすべての建物を提供しなければならない」が発令された。
- 1945年9月22 日に米国務省から発表された「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、占領分の必要とする物資及び役務の調達に関しては、そのために「飢餓、広範囲の疾病及び甚だしき肉体的苦痛を生じない程度」において、日本政府が提供するよう指示している。
- 日本政府の占領軍向け支出は、1946年度で一般会計予算の三分の一を超えていた。この費用は、占領軍の命令で「終戦処理費」あるいは単に「その他の費用」と粉飾して呼ばされていた[14]。「終戦処理費」は約50億ドル(当時)に達した。
- 物資とサービスの調達例
- 占領軍は使用する兵舎、工場、飛行場、病院、通信、倉庫、交通機関、ビルディング、市民の土地家屋を強制接収した。さらに、占領軍の兵舎や住宅の建設工事、施設や飛行場の清掃・整備、道路、橋梁の修理、舗装あるいは軍需品の運搬作業、日常生活上のサービス、娯楽提供者、家政婦など、多岐にわたる労働力を要求した。
- 1945年10月2日に出されたSCAPIN80から例をあげると、「建築資材、燃料、布、家具、事務機材、石鹸、ろうそく、氷」などの23の物資、「娯楽(音楽・演劇・レスリングなど)、設備の修繕、洗濯、ドライクリーニング、靴の修繕、洋服の仕立て」などの19のサービスが列挙されている。
- 調達命令の形式がはっきりしなかった占領初期は、調達命令書を発行せず、各部隊や個人が自分の必要で勝手に注文をしてきた。物資は強制的に強奪されることも多かった。
- 占領軍のゴミ
- 1947年2月27日出されたSCAPIN1548で、日本政府に占領軍の施設と住居から出たゴミと廃棄物の収集と処理の責任を負うように命じている。
- 命令書には、「日本帝国政府が受け取る占領軍のゴミは、収集処理の費用と同等以上の価値があるため、これは占領軍へのサービスとは認められない。それゆえに、調達命令書は一切発行しない」とある。
- 占領初期の労務調達の実態
- 占領軍は基地や住居の建設を政府に命じた。また日本民間人から強制接収した住居の改造や修理、さらに接収した住居内で働かせるメイドや料理人や下男、占領軍へのサービス従事者等、必要とする日本人労働者を差し出すよう日本政府に命じた。一つの家屋につき複数名の日本人をメイドや下男として働かせることはざらであった。占領初期は、占領軍への不安から進んで就労に応じる日本人がほとんどいなかったため、占領軍から直接に労務提供の命令を受けた地方庁、市町村、警察を通じて強制的に行われた。
- この間、占領軍が現金ではなくチョコレートや食事などの物品を賃金の代わりに支給したり、占領軍が日本人労働者の逃亡を防ぐために身体に「マーク」をつけるなどの事例が報告されている[15]。占領軍は基本的に日本人労働者を無報酬で働かせ、代わりに日本の自治体が米一合などを配給していた[16]。1946年3月18日のSCAPIN764A、日本政府は占領軍に雇われている日本人と外国人への賃金支払いを日銀を通して行うよう命じられている。
- 特別調達庁の設置
- 1947年5月10日 、特別調達庁法(昭和22年法律第78号)が施行され、占領軍が必要とする施設(土地・建物)・物資・役務の調達・管理を任務とする特別調達庁の設立準備が始まる。同年9月1日 特別調達庁が発足する。以降、労動力や物資の占領軍への調達は特別調達庁を仲介として行われることになった。労働の形態としては、日本政府が雇用し給与を支払ってやり、占領軍や占領軍の住居で働く間接雇用である。
- 1947年の米軍三沢基地建設工事開始時には、全国各地から1万5千人の労働者が集められた。総事業費は当時で1500億円の負担、のべ300万人の労働者が建設に従事した。
- 朝鮮戦争勃発時には、調達局を仲介せずに、占領軍が直接に所有者から土地建物を強制接収するという混乱が、再び起こった。
- サンフランシスコ講和条約締結後、旧安保条約と日米行政協定に基づいて、不動産及び労務以外の工事、役務、需品などについては、米軍が国内業者と直接契約をすることにより調達することとなった。しかし旧日米安保条約によって占領期の法的状況が継続され、陸海空軍の基地を日本中どこでも何ヵ所でも設定・維持することができ、必要な物資および労働者を調達することになった。1960年の新安保条約によって条件が改善されたが、今でも米軍基地問題、日米地位協定など、多くの論争を残している。
日本への食糧・物資援助と貸与 [編集]
第2次世界大戦中と戦後、国土荒廃や食糧不足の進む中、日本人の過半数が栄養失調に陥っており、海外からの食料援助や貸与を受入れていた。住む家にも事欠き、多くの餓死者を出していた日本にとっては、大きな支援となった。日本が受けた支援は、ユニセフからの援助と、ララ物資、ケア物資の民間団体などである。米国政府からはGARIOA2、EROA3に代表されるGHQを経由した物資輸出(貸与)があげられる。
- 初期対日方針
- 連合国は占領目的の巨額な財政支出(ex.終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年9月22 日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国は妨害はしない」との旨を明記してある。
- 45年11月1 日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準 を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。45年12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
- 食料輸入禁止
- 占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
- 1945年9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出 。日本政府は、1945年産米の収穫量を5,500万石と予想し、穀類約 300万トン、砂糖100万トン、コプラ30万トン、ヤシ油5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。また米政府は世界的食糧不足で解放地域からの援助要請の殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
- 食糧メーデー
- 1946年5月19日、食糧を求めるデモが東京の各地で繰り広げられた。およそ25万人の民衆が皇居前に結集。「食糧メーデー」と呼ばれる大規模なデモと発展する。民衆の食糧飢餓への批判は日本政府と天皇に向けられていたが、民主化革命を信じる民衆にとって予想外だったのは「無規律な暴民デモ」とSCAPやGHQが厳しい弾圧や声明で抑圧したことであった。
- 米国からの食糧輸出解禁
- 1946年2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」と米政府に抗議した。3 月に農務長官アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年5~10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、 68万トンの食糧が輸出されることになった。
- この輸出量は、日本側が当初要望していた 25%弱であった。1946年7月からエロア資金による援助プログラムがはじまり、1948年からはガリオア資金に吸収される。アメリカ政府が米国内で余剰物資を買い付け、その資金は貸与である。ガリオア物資による援助の対象品目としては、米(110,566t)、小麦(5,059,307t)、塩(516,312t)、砂糖(796,956t)、缶詰(161,935t)などの食糧に加え、パルプ・紙(3,254t)、肥料(3,135,360t)、化学医薬品(10,990,988t)、牛など動物(10,179頭)。
- 総額は1961年の通産省の認定では17億ドルから18億ドルとされ、1962年1月、日本政府は西ドイツの返済率にならって4億9000万ドルを15年かけて返済することに同意した。
- ララによる支援
「ララ物資」も参照
- 1946年11月から1952年6月までに行われた救援物資。米国内で反日感情の根強い中、サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助によって生まれた日本向けの支援団体。アメリカ国内の日系宗教団体、労組、社会事業団体等13団体により組織されていた。多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の金額で400億円とされている。
- 南北アメリカ大陸在住の日系人が寄付の中心であったが、日本国内での物資配付にあたってはGHQの意向により日系人の関与については秘匿され、「アメリカからの援助物資」として配付されていた。ララ物資の贈呈式を記念して、12月24日を学校給食記念日としている。
- ケアによる支援
- もともとは1945年に、やはり戦災に見舞われたヨーロッパの困窮者に食糧や衣料などの援助物資を発送するために、アメリカの22の団体が協力して設立されたNGO。日本に対する支援は1948年から始まり、1955年までの8年間、学童、青少年を対象に食糧、衣料、医薬品、学用品、寝具類などを無償配布した。8年間にわたった日本への援助総額は約290万ドル(当時)。
- ユニセフによる支援
- 1949年からユニセフミルクとユニセフ原綿や衣料品が送られ、児童の給食や衣服に加工して配給した。ユニセフからの支援は主権回復後も続き、1964年までに約65億円(当時)の支援を受けた。
住宅事情 [編集]
戦災で多くの家屋が焼失して約420万人の日本人が住居を失ったうえ、大陸からの引き揚げ者が帰国した。わずかに焼け残っていた都市部のビルや住宅、土地が連合国軍に強制接収されてしまい、さらに戦後の極度の物資不足のため建築資材を欠いた状態で、多くの国民が雨露をふせぐための粗末なバラック小屋生活や仮住まい生活を強いられていた。1948年になっても、約370万世帯が住居のない状態だった。
- GHQの無関心
- 戦後のドイツとヨーロッパ諸国が住宅復興に重点を置いたこととは対照的に、占領期の日本の住宅復興対策は放置されていた。日本の政策を管理していたGHQは、全占領期間を通して日本人の住宅事情に対してまったくといっていいほど関心を向けなかった。食糧事情には一定の関心をむけたが、GHQから日本政府に出された住宅に関する指令は、物資の横流しを防ぐために建築制限が課せられたぐらいで(これによって日本にバラック小屋が乱立することになった)、もっぱら占領軍とその家族のための住宅の強制接取と建築資材供給及び建設・改築命令だけで占められている。日本政府はその対応だけで予算の相当部分をつぎ込まされ、国民の住宅復旧にまで手が回らない状態だった。占領軍のための物資の確保すらままならず、また納期期限が厳格であり、政府自ら建築資材を闇市から調達するなど奔走していた。
- 多くの日本人が家屋を失い物資に事欠いていたが、占領軍はそれらを顧みることは一切せずに焼け残った住居や家財を接収していった。
- 占領軍は日本人から接収した住宅の池をプールに造り替えたり、茶室をトイレに改造するなどの改装を、日本行政機関に命じた。気晴らしにガラス窓を銃で撃ち割って日本人労働者に交換させたり、桂離宮などの歴史的建築物のペンキ塗りを命じるなどの改築命令もあった。
- 1950年には、連合国軍人等住宅公社法(1952年に廃止)が成立した。連合国軍人等住宅公社の運営には対日援助見返り資金が使われた。
- 住宅営団の解散
- 終戦直後は同潤会を前身とする住宅営団が公共住宅の建設に取り組んでいた。だが連合軍の占領下に入ってからは国策営団とみなされ、GHQから1946年に閉鎖指令を受けた。同年12月に閉鎖し、それ以降は建設計画の断念を余儀なくされる。まだ建築途中の住宅については、しばらく整理委員会の管理下に取り扱われることとなった。
- 占領期間は、航空産業はじめその他の重工業と同様、日本の建築業界にとっても著しい立ち遅れを余儀なくされた『空白の7年間』であった。
- 住宅金融公庫法と公団住宅法等の成立
- 1950年に入り、数々の建築関連法案が議会で可決する。政府主導による政策よりも議員立法の方がGHQの認可が下りやすいという占領期の特殊な背景が手伝い、田中角栄らの国会議員が担ぎ出され、多くの法案が国会議員によって発議されるという筋道を作り、住宅復興を徐々に推進させた。同年日本住宅公団、建築基準法が誕生し、一定の文化的な生活をするための住宅の基準が定められた。占領期のこの基準が、高度経済成長を迎えてもそのまま継続されていった。
交通事情 [編集]
- 幻の戦災復興計画
- 敗戦前年の1944年(昭和19年)9月、敗戦の可能性を察知した大橋武夫は、「勝っても負けても日本の復興は必要」と、災害に強い都市の復興計画を密かに主導していた。1945年(昭和20年)11月5日、大橋の立案によって、事業推進のために戦災復興院(計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立された。同年12月30日戦災復興計画基本方針[17]、を閣議決定し、経済安定本部をとともに、国策として計画推進を図った。
- 計画は画期的かつ水準の高いもので、車社会の到来を予想したうえで、主要幹線道路の幅員は大都市では50メートル以上、中小都市でも36メートル以上とし、更に必要な場合には緑地帯と防火帯を兼ねた100メートル幅での道路建設を促した。電線は地下埋設とし、また、都市公園の拡充を考え、緑地面積の目標を市街地面積の10%以上としていた[18]。
- 戦災都市として指定されたのは全国の115都市で、復興事業へはその費用の9割を国庫補助するという極めて積極的な財政措置が取られた[19]。
- GHQの反対
- しかしGHQは、復旧計画に対してきびしい制限措置をとった。 占領軍は、日本のインフラ整備と都市復興が進んで近代化することをまったく歓迎していなかった。せいぜい昭和初期の復旧程度しか許さず、日本の復興計画には極めて冷淡な態度をとった。そのため多くの復興工事は、主権回復まで待たなければならなかった。特に100メートル道路の建設については「戦勝国の記念道路のようだ」と許可しなかった[20]。(現代の日本の狭い道路事情は、米国の占領政策に起因しているのである。)
- 日本の警察再編により、再び道路交通法を作成する必要が生じたが、「警察による車検は必要ない」というので、運輸省の管轄となった。イギリス式の左車線道路についても車両を右側通行に変更するよう、厳しい要請があったが、財政難と物資不足のため路線バスの改造や停車場の変更は不可能だと反論し、左側通行が認められた。
- さらに1949年、ドッジラインで公共費が削減され、1949年6月「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」が閣議決定され、115都市すべての復興計画の規模縮小を余儀なくされた。100m道路建設が実現したのは、名古屋と広島だけとなった。
- 自動車の生産
- 終戦直後、GHQは自動車の生産を禁止するとともに、賠償工場指定にした。多くの技師たちは、戦犯の嫌疑を恐れて設計図を廃棄した。その後輸送難問題が浮上し、1946年初頭には、年間生産数量を限定したうえで国産トラックの生産が許可されることになった。翌1947年6月、1500CC以下の小型車の生産が数量限定で許可された。1949年10月、すべての乗用車の生産制限が解除された。
- 鉄道
- 占領軍は、鉄道の支配権も確保した。優等客車、食堂車、寝台車を重点において連合軍専用列車とし、約10%を接収した。また国鉄の貨物輸送量の10%以上を占領軍に優先的に輸送すべく命令した。駅舎には連合国軍専用の窓口と出入り口が設けられた。戦災の被害に加えて占領軍に接収され、日本の鉄道輸送力は著しく低下していたため、日本政府は急いで復興作業に取り組もうとした。
- 第一次世界大戦終結当時から、鉄道電化によって石炭エネルギーに代えようという計画があり、戦後の新幹線計画の基となった「弾丸列車計画」すなわち主要幹線および山岳線区の大規模な電化計画が立てられ、すでに一部で工事を進めていたが、軍部に反対されて中断していた。空襲被害によって発電所や変電所が破壊されると交通がマヒしてしまうというのがその理由だった。平和国家としての再出発に際し、政府はこの計画を復活させ、戦前に着工していたトンネルを利用して長期的な新幹線計画を再編することになった。
- ところがGHQはここでも厳しい制限を課し、電化工事のほとんどが禁止された。GHQは新車両の製造にも制限を加え、フィリピンから米国製SLを移送させたりした。これは日本の発展を阻害するというよりもむしろ、電化計画自体に理解を示さなかったことが原因となっていたようである。オーストラリアでは鉄道はほとんど使用されていなかったし、アメリカではディーゼル機関車が主流だった。GHQは日本にもディーゼル化を勧めたうえで日本に米国製の在庫のディーゼル機関車を購入させようとしていた。
- 電化による動力分散を計画していた日本にとっては、米国製SLもディーゼル機関車もありがた迷惑であったが、電化計画と新幹線計画は主権回復後を待たざるを得ず、それまでの期間はSLで場をつないでやり過ごすことにした。
- 1949年7月、国鉄総裁下山定則が謎の死を遂げる下山事件が発生、一か月以内に三鷹事件、松川事件が連続発生している。
占領軍の犯罪 [編集]
連合軍の統治下、外地および日本から分断されていた沖縄県だけでなく、日本本土においても夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。 占領初期の一か月、神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生し、それを受けて神奈川県では女学校を閉鎖して強姦の防御に努めた。7年の占領期間中、本土だけでも2536件の殺人と少なくとも3万件以上の強姦事件が発生したとされている。
- 特殊慰安施設
「特殊慰安施設協会」も参照
- アメリカ軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生したことを受け、米兵向けに慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。それによって強姦事件は減少したと考えられる。実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。
- レイプ記録に日米間の差異
- 占領初期のGHQ 1945年9月「月例報告」では、「日本人は米兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。
- 他方、特別高等警察(1945年10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。
- 調達庁の資料では、7年の占領期間中に米兵に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人とある。警察資料では、米兵が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。
- 緘口令
- 1945年9月19日、GHQからプレスコードが発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。米兵の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。
- 私生児
- 強姦などにより「GIベビー」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。1948年には混血児の救済施設エリザベス・サンダースホームが設立された。同1948年に優生保護法が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。
「二日市保養所」も参照
- 朝鮮人の犯罪
- 日本の敗戦を受けて、朝鮮人をはじめ台湾人等が「戦勝国民」を自称し、連合国民のやり方を独自に模倣しつつ、各地で夥しく強制土地占拠、鉄道等公共物占拠、私刑、強盗、殺人、強姦等の犯罪に及んだ。そのため1946年、SCAPは「朝鮮人や台湾人は戦勝国民ではなく第三国人である」と声明を出した。
- サンフランシスコ講和条約締結以降
- サンフランシスコ講和条約19条によって、日本国と日本国民は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対するすべての請求権を放棄し、占領軍又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄。占領時代の指令や法律下での連合軍の作為・不作為による行為は民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらないとされた。
- 1958年においても、アメリカ兵の日本における一年間の犯罪は公式に記録されていたものだけでも9998件、婦女暴行事件の件数は1878件だった。
- 昭和36年11月11日、日本政府は『連合国占領軍等の行為等による被害者等に対する給付金の支給に関する法律』を定め、連合国占領軍等の行為等により負傷し、又は疾病にかかつた者、及び連合国占領軍等の行為等により死亡した者の遺族に対し、日本政府から給付金を支給するように法制化した。[21]
イラク占領と『日本占領』観 [編集]
アメリカ社会等では、歴史的検証を行わないまま、日本占領におけるアメリカの役割を「日本に民主主義をもたらし、さまざまな援助をした」と極度に美化し、また戦前の日本社会を過度に軽視・邪悪化し、アメリカのサクセスストーリーの一つとしてとらえる傾向が根深く残っている。
- 1999年、ブッシュ大統領は外交演説で、「われわれは日本を打ち破った国である。その後食糧を配り、憲法を起草し、労働組合を奨励し、女性に参政権を与えた。日本人が受け取ったものは報復でなく慈悲だった」と語った。
- だが日本への食糧輸送が厳しく禁じられていた時代は長く、その後もマーシャルプランなど西ドイツに対して行われた支援より小規模である。対日見返り資金に民間からの寄付の総額を合わせたとしても、日本政府が占領軍に負担した金額よりはるかに少額である。それにもかかわらず、アメリカ社会だけでなく世界では対日支援が誇大的に語られる傾向があるのは興味深い。
- 労働組合などの労働法や女性参政権などは明治憲法下で法制化されたもので、日本国憲法の成立とは関係がない。それらは戦前の帝国議会などで立案されていた案件だった。また労働基準法などのように戦前から立案を持ちこされていたものもある。いずれも法制化へ向けての具体案が準備されていたため、素早く日本の民主化が行われた。
- 戦後の日米関係に肯定的な土壌をもたらしたのは、米国からの豊富な物量放出もあるが、占領期間を経るうちにSCAPの対日姿勢が劇的に変わった動的変革によるところが大きい。しかしそのような側面はアメリカ社会ではあまり理解されていない。
- 日本に根付いた民主主義や平和主義の多くは大正デモクラシー時代の遺産によるもので、いわばGHQは「それ以外の選択肢を与えない」という役目を担った。占領政策は基本的に報復的であり、時代的な人種偏見も散見し、かつ米国の国益から逸れるものではない。
- 2002年、ブッシュ大統領は「イラク占領後は『日本モデル』を採用する」とイラクとアラブ社会の民主化を掲げ、イラク戦争への計画をすすめた。計画では、占領行政の初期にはトミー・フランクス米中央軍司令官あるいはその配下が「日本でのダグラス・マッカーサー将軍の役割」を担う軍事政権。次いで文民政権の形をとり、数年後には選挙を経てイラク側に政権が移管されるというものだった。しかし、日本で行われたのは軍政ではない。ポツダム宣言調印直後に三布告を突きつけられあやうく直接軍政が敷かれるところを、重光葵が「ポツダム宣言の内容に反する」と取り下げさせている。
領土 [編集]
- 外地など領土の剥奪
- ポツダム宣言には「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とされ、日本が統治していた地域のうち、外地(台湾・朝鮮)・租借地(関東州)・委任統治区域(南洋群島)を失った。
- 旧領土の放棄の時点はいつであるかについては降伏当初より論点であったが[22]、ポツダム宣言受諾は義務の発生であって領土権の喪失は(現実には台湾や朝鮮が軍事占領され別の国として取り扱われており、連合国の意向次第で流動的であるが)法律上の立場としては領土の帰属が確定する時点(即ち講和条約締結時点)と解釈されていた。結果としてサンフランシスコ講和条約、中華民国ないし中華人民共和国との平和条約により朝鮮・台湾・南樺太・千島列島の領土権を正式に放棄した(台湾並びに南樺太および千島についての帰属は未定)。
- 戦時占領下の国々
- 第二次世界大戦で日本軍が連合国軍(英、米、蘭、仏)を追い出し、その後釜に座る形で日本軍の占領下におかれた国々、もしくは独立に向かった東南アジアの国々は、日本軍が敗れた後、宗主国でもある勝戦国(英、米、蘭、仏)が再度植民地とした。しかし、これらの国からの独立を目指して戦い続けていた独立指導者が中心となって、各地で独立宣言が行われた。宗主国の多くは植民地の独立を認めず軍隊を送り込んできたため、独立戦争が勃発したが(日本本土に引き上げず、現地に留まっていた残留日本兵が協力するケースもあった)、これらの戦争にほぼ全ての植民地が勝利し、1960年代までにそのほとんどが独立した。
マッカーサーへの手紙 [編集]
占領期を通じて、内閣総理大臣を始めとする日本国民から連合国軍への手紙は50万通に及んだ。手紙の内容は在日朝鮮人送還を望むもの、復員に関する要望・嘆願、天皇制や民主主義に関する意見、などであった。
- 吉田茂首相からの手紙「在日朝鮮人の全員送還を望む」
吉田茂首相は在日朝鮮人の送還費用は日本政府が負担するとした上で、将来世代の負債となること、日本経済の再建に貢献しないこと、犯罪割合が高く経済法規を破る常習犯であり投獄者が常に7,000人を超えることなどから朝鮮人全員の送還を求めた。
- 市民による書簡の一例
- 一九四六年三月三〇日 ○○行平 三重県志摩郡磯部村
- 拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。つきましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。
- 天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)
離日後のマッカーサーの米議会証言 [編集]
- 1951 年4 月19 日、ワシントンDC の上下院の合同会議におけるマッカーサー離任演説より
- 「(前略)戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。
- 今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切るようなことは二度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証しています。私は占領軍の4個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を私は知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。(後略)」
- 1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会の質疑応答より
- " Yes sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in.
- You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry.
- Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.
- This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have the basic materials.
- There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.
- They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all which was in the Asiatic basin.
- They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.(後略)"
年表 [編集]
凡例
- 月日 日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
- 月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
- 8月14日 日本がポツダム宣言受諾の旨を中立国を通じて通告し、勅語を発布する。
- 8月15日 国民に向けての玉音放送。支那派遣軍と南方軍がこれに抗議。連合国軍は攻撃停止。しかしアメリカ軍はこの日まで攻撃を続けていた。鈴木貫太郎内閣総辞職。
- 8月16日 日本政府、陸海軍に停戦を命じる(中国大陸では9月半ばまで中華民国軍と戦闘が続く)。ソビエト連邦軍がヤルタ協定に基づいて南樺太と満州へ侵攻を開始し、日本軍抗戦(停戦令出る)。
- 8月17日 東久邇宮稔彦王臨時内閣成立。天皇、支那派遣軍と南方軍に停戦の勅旨。連合国軍の許可を得て皇族をサイゴン、昭南、南京・北京、新京に派遣。
- 8月17日 インドネシアがオランダから独立宣言(インドネシア独立戦争 - 1949年)。
- 8月18日 ソ連軍が千島列島へ侵略を開始。占守島で日本軍交戦(21日停戦令出る)。満州国消滅。
- 8月19日 関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始。フィリピンに停戦命令が届く。河辺虎四郎参謀次長と米サザランド参謀長による降伏手続打合せの会合がマニラで行われる。
- 8月26日 終戦連絡中央事務局設置。このころ、満州での戦闘が終わる。
- 8月28日 テンチ米陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、横浜に連合国軍本部を設置。以後、全国で人員と物資の上陸相次ぎ、進駐兵力は最大で43万人となる。特殊慰安施設協会が設立される。
- 8月30日 マッカーサー・アメリカ陸軍元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。車両で当初の予定地である葉山御用邸を変更し、長後街道、国道1号経由で横浜に入る。
- 9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。第二次世界大戦が正式に終結。通称「三布告」発令。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。朝鮮の日本軍に対し、北緯38度を境に対米ソ降伏を命令。台湾島は中華民国、旧満州国と千島列島・南樺太はソビエト連邦、南洋諸島はアメリカがそれぞれ併合または信託統治へ。東南アジア占領地は旧宗主国により植民地へ。
- 9月3日 フィリピンの日本軍降伏。重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性を確認。
- 9月5日 第88回帝国議会臨時会議を召集。ソ連軍が歯舞群島までを不当占領(後に北方領土問題となる)。瀬島龍三など関東軍首脳部がハバロフスクへ送られ、将兵57万人がシベリア抑留となる。
- 9月6日 帝国議会がマッカーサーに対し「天皇と日本政府の統治の権限は貴官の下に置かれる」と通達。
- 9月8日 連合国軍、東京に進駐する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
- 9月10日 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令。連合国軍が検閲を始める。『在日朝鮮人連盟』中央準備会が設立される。
- 9月11日 マッカーサー、東條英機らA級戦犯容疑者39人の逮捕を命令(東條、自決に失敗)。
- 9月13日 大本営を廃止。
- 9月14日 GHQ、同盟通信社に業務停止命令。
- 9月15日 東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。民間検閲支隊長、同盟通信社の海外放送禁止、100%の検閲実施を表明。
- 9月16日 連合国軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。
- 9月17日 マッカーサー、東京の本部に入り、日本進駐が順調なことから「進駐兵力は20万人に削減できる」と声明(米国の許可無く発言し、トルーマン大統領が疑念を抱く)。
- 9月18日 GHQ、朝日新聞に対する二日間の発行停止を命令(SCAPIN-34)
- 9月19日 プレスコードが出される。
- 9月20日 緊急勅令『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件』公布、即日施行。
- 9月22日 放送に対する検閲、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令。米国政府、「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」発表。
- 9月27日 昭和天皇、マッカーサーを訪問(直立不動の天皇と楽な姿勢のマッカーサーの2人が並んだ写真が新聞に公開された)。日本の漁獲水域を指定、いわゆるマッカーサー・ライン(北緯45度東経145度から北緯45度30分東経145度、歯舞群島を避けて東経150度、北緯26度東経150度、北緯26度東経123度、北緯32度東経125度、対馬を経て北緯40度東経135度、北緯45度東経140度を結ぶ線内)。
- 9月29日 内務省による検閲制度の廃止を指示。
- 9月30日 進駐軍、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を通達。
- 10月1日 進駐軍、「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」を通達。朝鮮・台湾など旧植民地出身者が日本国籍から離脱。
- 10月4日 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、「政治警察廃止に関する覚書」)発令。“絶対主義天皇制批判者への治安維持法適用と処罰”を明言した内務大臣山崎巌の罷免を要求。同日、マッカーサーは東久邇内閣の国務大臣である近衛文麿に憲法改正を示唆。
- 10月5日 東久邇宮内閣は内務大臣・山崎巌の罷免を不信任と受け総辞職。
- 10月8日 進駐軍、「自由の指令」(思想・言論規制法規の廃止、内務大臣らを罷免、特高の廃止、政治犯の釈放等)思想・言論規制法規の廃止[9]
- 10月9日 進駐軍が朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始[9]。
- 10月9日 幣原喜重郎内閣発足。
- 10月10日 徳田球一ら共産党員など政治犯10数名が釈放。人民大会がデモ行進と総司令部前で万歳。
- 10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
- 10月15日 治安維持法廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
- 10月20日 日本共産党が機関紙「赤旗」再刊。
- 10月31日 GHQ、軍国主義を唱える教員の追放および同盟通信社の解体を指令。
- 11月2日 日本社会党結党。GHQ、財閥資産の凍結および解体を指令。
- 11月6日 日本自由党結党(旧政友会系)。持株会社解体令(三井、三菱、住友、安田の四大財閥を解体するという政府案をGHQ/SCAPが承認、いわゆる「財閥解体指令」)。
- 11月16日 日本進歩党結党(旧民政党系)。
- 11月18日 皇族資産凍結の指令。
- 11月30日 陸軍省・海軍省を廃止。
- 12月1日 陸軍省改め第一復員省・海軍省改め第二復員省が発足。日本共産党が第4回党大会を開催。
- 12月6日 近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
- 12月7日 いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。マニラ軍事裁判において山下奉文大将の死刑判決。
- 12月8日 太平洋戰爭史を全国の新聞へ連載させる。
- 12月9日 農地改革を指示。GHQによる「眞相はかうだ」の放送が始る。
- 12月15日 神道指令を指示(国教分離など)。
- 12月16日 近衛文麿が服毒自殺。
- 12月18日 日本協同党結党。幣原内閣、衆議院を解散。
- 12月22日 昭和天皇が史上初の記者会見。
- 12月31日 「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(覚書)(SCAPIN-519)を発令。修身、国史、地理の授業は中止、教科書は蒐集される。
- 1月1日 天皇神格否定の勅諭。(「人間宣言」)
- 1月4日 軍人・戦犯および軍国主義者とみなした政治家・大学教授・企業経営者などの公職追放を指示。
- 1月25日 幣原首相、マッカーサーと会談。
- 2月1日 毎日新聞が政府の新憲法草案をスクープ。英連邦軍、日本への進駐を開始。
- 2月2日 ソ連が全樺太と全千島列島の領有を宣言。
- 2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
- 2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。
- 2月19日 昭和天皇が川崎市・横浜市の市民を訪問。以後、全国を訪問する。
- 2月20日 ソ連、樺太・千島の領有を宣言する。
- 2月25日 新旧円の交換開始。
- 2月26日 極東委員会発足。
- 3月5日 第一次アメリカ教育使節団来日。
- 3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。
- 3月22日 日本政府の行政区域を対馬、種子島、伊豆諸島までに限る(北緯30度以南の南西諸島と小笠原諸島を分離して米軍統治下に置く)。
- 4月4日 2~300人のアメリカ兵は大森の中村病院に乱入し、約100人の妊婦や看護婦らを強姦した。生まれたばかりの子供も殺害された。
- 4月5日 対日理事会発足。
- 4月10日 新選挙法に基づく衆議院議員総選挙。投票率73パーセント、自由党が第一党となるも過半数に届かず。加藤シヅエ・山口シヅエ・戸叶里子・松谷天光光・近藤鶴代ら、日本初の女性国会議員が39名当選。
- 4月17日 幣原内閣、新憲法草案を発表。
- 4月22日 幣原内閣総辞職。
- 4月29日 天皇誕生日にA級戦犯29名を起訴。
- 5月1日 11年ぶりのメーデー。およそ100万人が集まる。
- 5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
- 5月4日 鳩山自由党総裁が追放される。
- 5月19日 宮城(皇居)前で25万人が飯米獲得人民大会を開催(食糧メーデー、プラカード事件)。共産党・社会党がデモ隊をつれて吉田を訪問。デモ隊一部は皇居内に侵入。翌日、マッカーサー声明「暴民デモ許さず」。
- 5月22日 吉田茂内閣(自由党)成立。
- 6月 中国大陸で内戦が再燃(国共内戦、1949年まで)。
- 6月15日 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。
- 6月19日 国連原子力委員会でソ連代表が核技術の廃絶を提案。
- 6月20日 衆議院に新憲法草案を提出。
- 6月22日 日本の漁獲域を拡張(歯舞群島の東の東経150度から北緯45度東経165度、北緯24度東経165度、北緯24度東経123度を結ぶ線内)。
- 6月25日 衆議院本会議に憲法草案が上程。
- 7月1日 アメリカが旧南洋諸島ビキニ環礁で4基目の原子爆弾を実験爆発。
- 7月4日 フィリピンがアメリカから独立。
- 11月3日 日本国憲法公布。
- 11月16日「ポーレー最終報告」が発表される。
- 12月18日 ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
- 12月20日 在日朝鮮人により首相官邸が襲撃される(首相官邸デモ事件)
- 12月21日 南海地震が発生。紀伊半島沿岸と四国沿岸などを津波が襲い、1443名が死亡。
- 1月1日 吉田茂、労組運動者を「不逞の輩」と非難。
- 1月4日 GHQ、第二次公職の追放を指令。
- 1月11日 全官公庁労組共闘委員会(組合員260万)4万人が皇居前でデモ。委員長伊井弥四郎がゼネスト決行宣言。
- 1月18日 伊井、ゼネスト決行を2月1日と発表。
- 1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。共闘委員会解散。
- 2月10日 イタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが連合国と講和。各国が領土割譲と賠償を認める。
- 2月18日 第一次ストライク調査団報告書提出。
- 3月12日 トルーマン・ドクトリン。トルーマン大統領、「共産主義との対決」を宣言し、米ソ対立が表面化。
- 3月17日 マッカーサー声明「日本進駐は速く終わらせ、対日講和を結んで総司令部を解消するべき。講和は1年以内が良い。」対して国務次官ディーン・アチソン「日本より欧州が先」。
- 3月31日 吉田内閣、衆議院を解散。教育基本法、学校教育法公布。
- 4月22日 第一回参議院議員選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。
- 4月25日 衆議院選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。当選者の半数弱が新人で、田中角栄、中曽根康弘、鈴木善幸らが初当選。
- 4月 独占禁止法公布。
- 5月 総司令部内に賠償局を設置。
- 5月 GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる。
- 5月2日 外国人登録令(朝鮮人、台湾人などの外地人は日本籍を取り消され外国人になる)。
- 5月3日 日本国憲法施行。
- 5月20日 第一回特別国会召集。吉田内閣総辞職。
- 5月24日 社会党書記長片山哲がマッカーサーを訪問し、片山がキリスト教徒であること喜ぶ声明。また片山に「日本は東洋のスイスとなるべきだ」と言い、「東洋のスイスたれ」が流行する。
- 6月1日 片山哲内閣(社会党・民主党・国協党連立)成立。
- 6月5日 「ヨーロッパ危機に対するアメリカの行動(マーシャル・プラン)」を発表。
- 7月 極東委員会、対日政策指導原則を発表。
- 7月 国連、南洋諸島をアメリカの信託統治とする。
- 7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
- 7月12日 欧米16カ国のパリ会議開催(マーシャル・プラン受け入れ決定)
- 7月13日 マッカーサー声明「日本処理の基本的な方針である軍の撤廃と非武装化は完全に達成されており、向こう100年間、日本は近代戦を行うための再軍備はできないだろう」米本国の欧州重視に反発した模様。
- 7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
- 8月 ラジオにおける事前検閲が廃止され、事後検閲になる。[11]
- 9月 カスリーン台風の被害甚大。
- 10月26日 刑法を改正。
- 11月 雑誌における事前検閲が廃止され、事後検閲となる。[11]
- 12月22日 民法を改正。
- 12月31日 内務省を廃止。
逆コースが始まる。
- 1月6日 米陸軍長官ロイヤル、演説中「日本を反共の壁にする」と発言(反共・封じ込め政策開始)。
- 1月26日 帝国銀行椎名町支店で行員12名が殺害され、18万円(当時)が強奪される(帝銀事件)。
- 2月第二次ストライク調査団報告書提出。
- 2月10日 片山内閣総辞職。
- 2月25日 米陸軍長官ロイヤル、陸軍省作戦計画局に日本の再軍備計画について検討するよう指示。
- 同日 チェコスロバキアに共産党内閣が成立。
- 3月10日 芦田均内閣(民主党・社会党・国協党)成立。
- 4月 祝祭日のみ日章旗掲揚を許可。
- 4月6日 米国ドレーパー使節団、「日本再建四ヶ年計画」を発表。
- 4月8日 東宝が1200人の人員整理を発表。15日から労組が撮影所に篭城(東宝争議)。
- 4月27日 庭坂事件勃発。
- 4月28日 夏時間が導入される。
- 5月 海上保安庁を設置。
- 5月18日ドレーパー報告書が発表される。
- 6月28日 福井地震が発生。3736名が死亡し、戦災から復興しかけた福井市は再度壊滅した。
- 7月 GHQ、新聞の事前検閲を廃止。事後検閲となる。[11]
- 7月31日 政令201号発令(公務員の団体交渉権・スト権を否定)。
- 8月15日 朝鮮半島北緯38度線以南に大韓民国成立(アメリカによって旧宗主国である日本は無視された)、独立式典。
- 8月19日 13日の東京地裁仮処分を受けて東宝争議に米軍介入(「来なかったのは軍艦だけ」とまで評された)。
- 9月9日 朝鮮半島北緯38度以北に朝鮮民主主義人民共和国成立。
- 10月7日 芦田内閣、昭和電工事件の影響で総辞職。
- 10月19日 第二次吉田茂内閣(民主自由党)成立。
- 11月12日 東京裁判が25人に有罪判決。うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根が死刑。
- 11月30日 政令201を受け国家公務員法改正。公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)。
- 12月7日 芦田元首相を贈収賄容疑で逮捕。
- 12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。
- 12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。
- 12月23日 吉田内閣、衆議院解散(馴れ合い解散)。同日、東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
- 12月24日 岸信介などのA級戦犯容疑者を釈放。
- 1月1日 GHQ、日章旗の自由掲揚を認める。
- 1月1日 年齢のとなえ方に関する法律施行、書類に用いる年齢が数え年から満年齢へ変わる。
- 1月23日 衆議院総選挙。民主自由党が大勝利、共産党躍進。池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男ら、高級官僚の大量政界進出。
- 2月16日 第3次吉田内閣(民主自由党)成立。
- 3月1日 GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)。
- 3月30日 名立機雷爆発事件の発生。
- 4月4日 北大西洋条約機構(NATO)発足。
- 4月23日 1ドル360円の単一為替レート設定、25日より実施。
- 5月12日マッコイ声明。賠償のための日本の経済施設撤去の中止を宣言。
- 5月9日 予讃線事件発生。
- 6月1日 電波三法が施行。民間へ電波が開放される。
- 国鉄三大ミステリー事件発生。(7月6日に下山事件(国鉄総裁変死)、同15日に三鷹事件(国鉄無人電車暴走)、8月17日に松川事件(国鉄列車脱線転覆)
- 9月15日 シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表(シャウプ勧告)
- 9月21日 日本の漁獲域を東へ拡張(北緯40度東経165度、北緯40度東経180度、北緯24度東経180度、北緯24度東経165度の線内)。
- 10月 新聞、ラジオにおける事後検閲が廃止される[11]。
- 11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
- 11月3日 湯川秀樹がノーベル物理学賞受賞。
- 1月 地方政治が進駐軍政から離れる。
- 2月14日 ソ連が中華人民共和国と同盟条約を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。
- この頃、日本との講和を推進する米国務省と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する米国防総省が対立。
- 4月25日 池田勇人蔵相が白洲次郎らと共に税法問題交渉のため渡米。ジョゼフ・ドッジと面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
- 5月12日 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)。
- 6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
- 6月16日 国家地方警察、全国のデモ・集会禁止を発令。
- 6月25日 朝鮮戦争勃発(1953年まで)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
- 7月 小倉で朝鮮派遣を控えた黒人米兵達が完全武装で集団脱走。強姦や略奪を繰り返すが、全員が憲兵に逮捕され、戦線に送られた(ほぼ全員が戦死したという)。情報統制の結果、ほとんどの日本国民が事件を知らなかった(小倉黒人米兵集団脱走事件)。
- 7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
- 7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。共産党書記長徳田球一、中国へ亡命。
- 8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
- 8月23日 警察予備隊第一陣7000名が入隊。
- 8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
- 9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
- 10月 海上保安庁が朝鮮半島に特別掃海隊を派遣(国民には秘匿)。
- 11月10日 NHK東京テレビジョン実験局、テレビの定期実験放送を開始。
- 11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
- 1月 マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
- 4月11日 マッカーサー、朝鮮戦争で旧満州空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。
- 4月16日 マッカーサー、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
- 4月24日 桜木町事故。死者106名。
- 9月1日 日本初の民間放送ラジオ局、中部日本放送と新日本放送(現毎日放送)開局。
- 9月8日 サンフランシスコで日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)を調印。続いて日米安全保障条約に調印。
- 12月24日 リビアがイタリアから独立。アフリカ植民地の連続独立始まる。
- 12月25日 ラジオ東京(現 TBSラジオ)が開局。
- 1月18日 韓国が一方的に海洋主権宣言を発表(李承晩ライン)。
- 1月23日 国会中継放送が始まる。
- 2月28日 日米行政協定締結。
- 4月9日 もく星号墜落事故。
- 4月25日 漁獲水域指定(マッカーサー・ライン)を廃止。
- 4月26日 海上保安庁に海上警備隊が置かれる。
- 4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効、日本主権回復。GHQ/SCAPの進駐が終わる。占領軍のうちアメリカ軍は、講和成立と共に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(日米安全保障条約)に基づいて駐留継続(在日米軍へ衣替え)。
48ヶ国と講和し国交を回復する。なお、ブラジルやメキシコなど、連合国として対日宣戦したものの、日本と一度も戦っていない国も名を連ねている。
日本は北緯29度以南の南西諸島と小笠原諸島を残存主権を保持しつつも、アメリカから国連への提案があった場合にはアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾、南洋群島を放棄した。
1953年に奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に琉球諸島(沖縄返還)が日本に返還された。また、ソ連に不当占領された北方領土は放棄していないと主張している。
脚注 [編集]
注釈 [編集]
- ^ 日章旗は占領初期に掲揚が禁止された。詳細は#国旗の節を参照。
- ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、日本の無条件降伏が軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
- ^ 皇室財産の大部を占めたのは山林であり、これは農林省に下賜され国有化された。帝室博物館などの皇室財産は関連省庁に移管され、すべての皇族の財産は宮内省から各皇族に私的財産として返還され、伝世財産・伝世御陵(伝承された財産:山林・宮殿敷地・農地・建物敷地など)については1回かぎりの特別税を用いて国有化した。日本政府はGHQによる皇室財産の処分を懸念し、すでに1945年11月の時点から日本政府と一部の地方自治体に下賜し始めており、具体的には11月3日に箱根・桂・武庫の3離宮を地方自治体に、11月5日に那須金丸ケ原・富士山麓大野ケ原・岡崎郊外高師ケ原の土地や、42万7000石の木材を日本政府に下賜した。そのほか皇室の宝石類を海外に売却して国民のための食糧輸入に当てたい意向をもちその方途を模索していたが、すでに日銀や日本政府、交易営団などの貴金属はESSにより接収されていたため適わず、ESSからの報告をうけたマッカーサーは天皇や皇室による国民への人気取りにつながると懸念をみせたため実現しなかった。なお桂離宮については昭和22年に再び皇室財産とされている。またそのほかについては皇室財産の項も参照。
出典 [編集]
- ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
- ^ 6.サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
- ^ 竹島領有権問題について 自民党領土に関する特別委員会委員長石破茂 2006年5月16日
- ^ 「憲法制定過程におけるGSとESSの関係」金官正(横浜国際経済法学第16巻1号2007.9)[1]
- ^ 毎日新聞 1946年5月27日[出典無効]
- ^ 2002年8月にスイスから公表された公文書による。2002年8月10日共同通信
- ^ 2002年8月にスイスから公表された公文書による。2002年8月10日共同通信
- ^ 『日本の百年』1967年、他
- ^ a b c 詳細年表 1 1939年9月1日~1945年10月25日 国立国会図書館
- ^ ダワー著『敗北を抱きしめて』参照
- ^ a b c d e 中 正樹. “用語としての「客観報道」の成立”. 2009年10月13日閲覧。
- ^ 太宰治の7作にGHQ検閲の跡、削除指示も 米大に資料 朝日新聞 2009年8月2日
- ^ 1944年7月1日に国務省極東局日本担当のローリーが起草した「日本・軍政下の教育制度」
- ^ J.ダワー著『敗北を抱きしめて』1999年
- ^ 防衛施設行政45年の軌跡
- ^ 「道新」10月19日
- ^ 戦災復興誌 第3巻 建設省編 都市計画協会 1958 pp.1-4
- ^ 『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」
- ^ 『日本経済新聞』2011年8月10日朝刊「戦災復興 日本再生の記憶と遺産 ①」
- ^ 越澤明「戦災復興計画の意義とその遺産」『都市問題』第96巻第8号
- ^ http://hourei.hounavi.jp/hourei/S36/S36HO215.php
- ^ 帝国議会議事録 第89回 貴族院 昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会1号(昭和20年11月29日)発言者番号17以降
参考文献 [編集]
- 江藤淳 『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』 文藝春秋、1989年 / 文春文庫、平成6年
- 吉田恒昭「連合軍占領下における日本の平和構築とインフラ整備の経験」[2]
- 秋尾沙戸子 『ワシントン・ハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社、2009年(平成21年)、ISBN 978-4104370023
関連項目 [編集]
- 日本の連合軍占領期
- 外国の連合軍占領期
外部リンク [編集]
- 国会図書館・憲政資料室・日本占領期資料 発生機関別索引
- メリーランド大学図書館プランゲ文庫 - 教育図書目録(占領期に日本で出版された教育関係図書・パンフレット約1万点の書誌情報)
- 九州地区劇団占領期GHQ検閲台本(ダイザー・コレクション)早稲田大学
- 占領期図書館史プロジェクト(東京大学)
- 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る-
- Relations Between Allied Forces and the Population of Japan 関係連合軍と日本の人口の間に
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