無条件降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
無条件降伏(むじょうけんこうふく, Unconditional surrender)とは、普通には軍事的意味で使用され、軍隊または艦隊が兵員・武器一切を挙げて条件を付することなく敵の権力にゆだねることを言う。従来、国際法上は降服の語が用いられていたが、第二次大戦における国家の無条件降伏については降伏の語が用いられた[1]。
目次 |
概要
降伏の条件があらかじめ取り決められていない場合は無条件降伏であるが、“戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずして降伏した”場合も、一般には「無条件降伏」と言う[2][3]。
古代から近代に到るまでの無条件降伏は、元首すなわち部族長、盟主、王などの身柄や生殺与奪の引渡しと武装解除に象徴されているが、統帥権の分立している近現代国家においては無条件降伏の判断要件は容易ではない。また戦時国際法の元では近代以前の意味での無条件降伏や投降は成立しない。
一般に継戦中の部隊に対し降伏条件として無条件降伏を突きつけることは極めて稀である。この条件下では敵部隊に自暴自棄な戦闘継続の意志を焚き付けるだけであり、戦争終結がむしろ遠のくからである。
無条件降伏の事例としては、北米での南北戦争の南軍が、また国土を敵軍に蹂躙され政府が消滅し征服された第二次世界大戦時のナチス・ドイツが有名である。
国家が無条件降伏をしている場合、講和条約を締結するさいに戦勝国にこの条件で条約を受諾せよと提示された場合、法理論的には受諾しなければならない[4]。
ディアドコイ戦争
古代マケドニア時代、アレクサンドロス3世急逝後その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争の末期、講和を申し出たカッサンドロスに対しアンティゴノスが降伏を要求。これが戦争継続と帝国分裂の最終的な要因となった。(ディアドコイ戦争参照)
カレー包囲戦
英仏百年戦争の初期、イングランド王エドワード3世がフランスの港湾都市カレーを包囲し開城させた戦い。11ヶ月の包囲の後、飢餓により市民が開城を申し出た時、エドワード3世は「全市民を処刑するも身代金を取るもエドワード3世の自由」とする無条件降伏を要求した。(カレー包囲戦参照)
南北戦争
「無条件降伏」という用語は、1862年のドネルソン要塞の戦いの際、南軍からの降伏の申し出に対して、包囲軍の司令官グラントが発した「『無条件』のみを降伏の条件として認める」という回答が初出であったとされる。この戦いは北軍にとって最初の勝利の一つであった。このとき新聞がグラントのイニシャルである U.S. と Unconditional Surrender とをかけて報道したために用語が広まった。
その後、1865年に南軍全体が降伏したが、この降伏は必ずしも「無条件」であったわけではない。リーの降伏の際は、北軍は将兵の復員のために個人用武器と馬の携行を認めている。
オーストリア・ハンガリー帝国
第一次世界大戦の末期、フランスとの単独講和画策に失敗し同盟国ドイツの信頼を失ったカール1世は、連合国に対し1918年11月3日無条件降伏。11月11日に退位した。
ユーゴスラヴィア王国
1941年4月6日、ドイツ軍の航空部隊がユーゴスラヴィアに侵入し空爆をおこない、次いで多方面から国境を越えたドイツ軍がユーゴスラヴィア王国軍の守備隊を次々と打ち破った。ユーゴスラヴィア王国軍は総崩れとなり開戦からわずか11日後の4月17日に無条件降伏に追い込まれた[5]。
イタリア王国
1943年ムッソリーニの失脚にともないパドリオ政権は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とともに南部イタリアのブリンディシに脱出して連合軍の一員となりドイツとの戦いをはじめる。その際9月に無条件降伏調印、10月にドイツに宣戦布告している。
ナチス・ドイツ
ルーズベルト大統領によって「無条件降伏」という用語が用いられた。
ナチス・ドイツの場合は、完全な無条件降伏であったといわれる。ドイツ軍は、5月7日 (発効は翌日) にフランスのランスで連合国と、5月9日に首都ベルリンでソ連軍に対し降伏文書に署名をしている。調印式が2回行われたわけだが、降伏文書には軍の代表者の署名がされている。
しかしドイツ国家としての降伏文書(休戦協定)に署名はなく、一方的に「征服」されたことになり国家の法的断絶が生じている。したがって戦争を法的に終結するための「平和条約」を締結する資格を失うことになった。
ベトナム戦争
1975年4月30日北ベトナム軍の完全包囲の元で、ベトナム共和国(南ベトナム)政府が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。ズオン・バン・ミン大統領は前日に就任したばかりであった。(ベトナム戦争参照)
大日本帝国
日本国軍隊
終戦に伴う、日本国軍隊の降伏は、無条件降伏である。日本国が受諾したポツダム宣言十三条には、日本国軍隊の無条件降伏が定められている。ポツダム宣言九条には、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と、日本国軍隊に関する規定が定められているので、日本国軍隊はポツダム宣言九条の条件(term)の下で無条件降伏した。
日本国政府
政府の場合は、降伏が無条件の降伏ではなかったとする説と、無条件の降伏であったとする説とがある。
なお、どちらの説の立場をとるにせよ、大日本帝国政府と大本営は、降伏文書を通じて、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施する為適当と認むる処置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かれること、ポツダム宣言とカイロ宣言の条項などを受け容れている。このため占領中は、この限りに於いて連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の命令と指示にしたがう必要があった。
無条件降伏論争
1978年、文芸評論家の江藤淳と本多秋五の間で「無条件降伏論争」が行なわれた(江藤『全文芸時評』『もう一つの戦後史』、『本多秋五全集』第13巻)。その際、東大教授で国際法の権威である高野雄一は、江藤が正しいとした。その後学術的に高野らに明確に反論した者はなく、ポツダム宣言受諾は条件つき降伏であるとの論が有力である[6]。この際本多は、ドイツの降伏が無条件降伏であったのに対し、日本のそれは条件つき降伏だったと認めつつ、カイロ宣言の精神がポツダム宣言の底流に流れているとしている。
無条件降伏ではないという説
ドイツ政府は征服によって消滅し連合国の完全なる支配の下に置かれることとなったが、日本政府と連合国との法的関係はドイツのそれとは異なる基礎の上に立つものである。これは休戦に至った経緯の差異に基づく。日本は連合国のポツダム宣言を受諾することとなり、そこに条件が示されている。そして降伏文書自体もその宣言即ち「下名はここにポツダム宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為聯合国最高司令官の要求することあるべき一切の命令を発し且かかる一切の処置を執ることを天皇、日本政府及その後継者の為に約す。」又「天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降服条項を実施する為適当と認むる処置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。」と援用されている。この文書は「降伏文書」という形式をとってはいるが、締約国を拘束する国際協定の性質を持つものであり、相互的な義務及び権利が存することとなったものである。[7]
ポツダム宣言自体一つの条件であり、第5條には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第十三條及び降伏文書第二項にも使用されているがこれは何れも日本の軍隊に関することであって、これが為にポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うものであると解すべきではない。[7]
日本は国体護持という条件を突付け戦闘行為を終えたものであり、無条件降伏ではなく条件付降伏であった。[8]
ポツダム宣言は条件付休戦条約であると考えられている[9]。 政府見解では「我が国と米国はサンフランシスコ平和条約を発効するまでの間、それまでの間、国際法上のいわば戦争状態にあり、戦時国際法である陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約が当時の両国間の関係について適用されていた」[10]としており、ポツダム宣言受諾調印をもって国家間の戦争状態の終結とはしていない。
極東委員会やマッカーサー総司令部が行った憲法制定や検閲、言論や教育の統制などの占領政策は大西洋憲章の趣旨が反映されたポツダム宣言や降伏文書、降伏の条件として国体護持を出したときに日本国の最終の政治形態は日本国民が自由に表明する意志で決めるとの回答に違反する行為であった[8]。
ポツダム宣言13条では「日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す」とあり(原文カナ文字)、日本国政府の日本国軍隊に対する姿勢は「軍隊の無条件降伏を宣言する主体」として別個の扱いであり、日本国政府が自らの無条件降伏を宣言する体裁を採用していない。
一方で、カイロ宣言が発表された1943年11月のカイロ会談では、無条件降伏を行うのが軍なのか国家なのかが議論され、この時は、無条件降伏を行うのは国家とされた。カイロ宣言では、単に最後の項で「右の目的を以て、右三同盟国は、同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすに必要なる重大且長期の行動を続行すべし。」(原文は片仮名体)とある。
無条件降伏であったという説
日本国政府の基本見解である[11]。ただし無条件降伏を最初に持ち出したフランクリン・ルーズベルトが当初から一貫して「無条件降伏」の具体的要件について明確化させない方針を採用したことから、「無条件降伏」の要件については今日でも議論がある。ルーズベルトは、枢軸国が一切の条件をつけずに文字通りに無条件降伏を宣明することが重要で、その後に、交渉によっては寛大な処置もありうるということを重視した。またその処置についても枢軸諸国の国民に対してのものであり、枢軸諸国の国家の思想およびその指導者は別のことであったとされる。ドイツの降伏はルーズベルトが意図した一切の事前の条件提示のない完全な無条件降伏であった。その後、トルーマンは、多くの側近の助言を受け日本に対する降伏要求については、無条件降伏の原則に一部修正を加え、ルーズベルトが否定した条件付無条件降伏論の立場に立って対日降伏勧告のポツダム宣言を発した[12]。
降伏文書署名後の1945年(昭和20年)9月6日には、米国大統領トルーマンから「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)(原文どおり)があり、その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」と記載されている。
この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠であるとされる[要出典]。
無条件降伏と領土問題
降伏文書においては『無条件的降伏の布告は、大本営が日本国軍隊並びにその支配化(引用ママ)にある一切の軍隊に対して、無条件敵降伏(引用ママ)を布告いたしたのでありまして、この文章の中には日本国民に布告している文章というものは一つも発見できない』[13]ため、日本国国民は講和条約に発言権が認められるとの主張がある。これはポツダム宣言で言明された「日本が暴力及び貪欲により奪取した一切の地域を取上げる」趣旨の規定に対する日本国民(あるいはその代表である国会)の反論が可能かという点で領土問題に及ぶ[13]。これに対して吉田は日本国は無条件降伏をしたのであると明言した上[14]で、日本国民の希望が認められるかについては、連合国の好意により反映されるだろうとの判断を示している[15]。
脚注
- ^ 出典:新法律学辞典 第三版(有斐閣 平成元年10月30日発行)の「無条件降伏」および「降服(降伏)」の説明
- ^ 三省堂・大辞林の「無条件降伏」の説明の1つに「交戦国の一方が一定の降伏条件を無条件に受諾して降伏すること」とある
- ^ 昭和26年10月24日第12回衆議院、平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、西村熊雄条約局長は「日本は連合国がポツダム宣言という形で提示いたしました戦争終結の条件を無条件で受けて終戦いたしたのであります。無条件降伏というのは、戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずして降伏したという意味であります。」と、政府の公式見解を示した(出典:国会議事録)
- ^ 昭和26年2月21日、第10回衆議院外務委員会外務事務官条約局長 西村熊雄
- ^ 「「1941年4月戦争」とユーゴスラヴィア王国崩壊の考察」材木和男(広島大学大学院総合科学研究科紀要. II, 環境科学研究 Vol.2 page.19-42 (20071231))[1]
- ^ [2]
- ^ a b 小堀桂一郎編、東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋 講談社学術文庫平成7年8月
- ^ a b 大西洋憲章には民族自決権が謳われているが、降伏条件として国体護持を出し、日本国の最終の政治の形態は日本国民が自由に表明した意思で決めるとしたにもかかわらず、憲法改正を指示したり極東委員会による文民条項についての干渉(ソビエトの意向から極東委員会、GHQというラインを通じた干渉)をおこなっており、極東委員会とマッカーサー総司令部はポツダム宣言及び降伏文書に違反している(一部要約)。第147回衆議院憲法調査会 参考人青山武憲(日本大学法学部教授)平成12年2月24日
- ^ 第147国会衆議院憲法調査会(平成12年3月23日)参考人:高橋正俊香川大学法学部教授『日本が受諾いたしましたポツダム宣言というものは、実は本来、いわゆる条件つき休戦条約であったと考えられております。どうして条件つき休戦条約であったかといえば、これは実はポツダム宣言をアメリカ側で制定する過程を調べてまいりますと、特にその起草に深くかかわった国務省内で二つの勢力、いわゆる中国派と言われる人たちと、日本派もしくは知日派と言うべきなんでしょうが、知日派と一応名づけておきますが、その勢力が激しくぶつかっております。そして、その結果、ポツダム宣言が形成される段階におきまして、七月二十日のことだというふうに言われておりますが、それまで草案二項の中に、日本の無条件降伏までということがうたわれておったわけですけれども、それが、日本が抵抗をやめるまでというふうに変更されておりまして、国家としての無条件降伏という言葉が消えております。日本の軍隊の無条件降伏だけが残る、こういうことになるわけですね。実際、そのように意図したようでございまして、ここでは、したがってポツダム宣言というのは、本来、条件交渉を認めない条件つき休戦条約、そういうふうなものになった、そしてそのように理解されておったということでございます。』[3]
- ^ 第134回参議院予算委員会(平成7年10月27日)政府委員 大出峻郎内閣法制局長官
- ^ 昭和24年11月26日、第6回衆議院予算委員会 内閣総理大臣 吉田茂
- ^ フランクリン・D・ローズベルトの無条件降伏論」藤田宏郎(甲南大学法学部 甲南法学48(1)pp.1-36 20070900)[4]PDF P.24-28
- ^ a b 昭和24年11月26日、第6回衆議院予算委員会 西村栄一。
- ^ 昭和24年11月26日の第6回衆議院予算委員会で内閣総理大臣の吉田茂は「またこの間もよく申したのでありますが、日本国は無条件降伏をしたのである。そしてポツダム宣言その他は米国政府としては、無条件降伏をした日本がヤルタ協定あるいはポツダム宣言といいますか、それらに基いて権利を主張することは認められない、こう思つております」と答弁している。
- ^ 昭和24年11月26日、第6回衆議院予算委員会 内閣総理大臣 吉田茂
文献情報
- 小堀桂一郎編、東京裁判 日本の弁明 「却下未提出弁護側資料」抜粋 講談社学術文庫平成7年8月
- 吉田一彦『無条件降伏は戦争をどう変えたか』PHP新書 ISBN 4569640419
- 「フランクリン・D・ローズベルトの無条件降伏論」藤田宏郎(甲南大学法学部 甲南法学48(1)pp.1-36 20070900)[5]
- 「「1941年4月戦争」とユーゴスラヴィア王国崩壊の考察」材木和男(広島大学大学院総合科学研究科紀要. II, 環境科学研究 Vol.2 page.19-42 (20071231))[6]

