大西洋憲章

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イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとアメリカの駆逐艦マクダガル
戦艦上のルーズヴェルトとチャーチル

大西洋憲章(たいせいようけんしょう、Atlantic Charter)は、1941年8月9日から12日に行われた大西洋会談において、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトと、イギリス首相ウィンストン・チャーチルによって調印された憲章である。

背景[編集]

ナチス・ドイツヨーロッパでの勢力拡大に対して、1939年11月にアメリカは中立法(米国内法1937年2月成立)を廃止し、1940年7月には英国への無制限の援助を行うことを表明した。1940年9月の英国の対独宣戦布告直後には「安全水域」を米沿岸部に設定し、さらに1941年2月にはヨーロッパまで1400キロの西経26度線まで拡張し、ドイツ商船の位置を通報(「中立精神」への違反)するなど、ドイツに対して敵対的な行動を増大させていた。

内容[編集]

憲章は、ニューファンドランド島沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。太平洋戦争開戦前であり、合衆国はまだ枢軸国に対して宣戦布告をしていなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものであった。

8項目からなり、その内容は要約すると以下になる。

  1. 合衆国と英国の領土拡大意図の否定
  2. 領土変更における関係国の人民の意思の尊重
  3. 政府形態を選択する人民の権利
  4. 自由貿易の拡大
  5. 経済協力の発展
  6. 恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準経済的向上及び社会保障の確保)
  7. 航海の自由の必要性
  8. 一般的安全保障のための仕組みの必要性

憲章の第3条については、ルーズベルトとチャーチルの間で見解の相違があった。ルーズベルトがこの条項が世界各地に適用されると考えたのに対し、チャーチルはナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに限定されると考えた。つまり、イギリスはアジアアフリカ植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。ルーズベルトも実際には、「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語った[1]。この憲章に対して植民地支配の否定と有色人種に対する人種差別撤廃を掲げ、日本が提唱したのが大東亜共同宣言である。

脚注[編集]

  1. ^ 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]