オーガスタ (重巡洋艦)

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USS Augusta (CA-31) with Ms 17 1942.JPG
USS Augusta (CA-31)
艦歴
発注: ニューポート・ニューズ造船所
起工: 1928年7月2日
進水: 1930年2月1日
就役: 1931年1月30日
退役: 1946年7月16日
その後: 1960年にスクラップとして廃棄
除籍: 1959年3月1日
性能諸元
排水量: 9,050 トン
全長: 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水: 16 ft 4 in (4.98 m)
機関:
最大速: 32.7 ノット (60.6 km/h)
航続距離:
乗員: 士官、兵員735名
兵装: 8インチ砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門
30口径7.62mm機銃8基
21インチ魚雷発射管6門
航空機:
モットー:

オーガスタ (USS Augusta, CL/CA-31) は、アメリカ海軍重巡洋艦ノーザンプトン級重巡洋艦の6番艦。艦名についてはジョージア州オーガスタまたはメイン州オーガスタのどちらが由来かという点で論争がある。「The Dictionary of American Naval Fighting Ships」によるとジョージア州オーガスタが由来とされる。その名を持つ艦としては4隻目。第二次世界大戦中、太平洋戦線に出動しなかったアメリカ海軍の大型艦の一隻。

艦歴[編集]

オーガスタは1928年7月2日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で起工する。1930年2月1日にジョージア州オーガスタのイーヴリン・マグダニエルによって命名、進水し、1931年1月30日にノーフォーク海軍工廠で艦長ジェームズ・O・リチャードソン大佐の指揮下就役した。

大戦前[編集]

オーガスタは慣熟航海の前に1基のタービンの調子が悪くなり、それがために航海の日程は短縮された。オーガスタはコロンへの航海の間に初歩的な訓練を行った。航海終了後の1931年5月21日、オーガスタは偵察艦隊司令長官アーサー・L・ウィラード英語版中将の旗艦となり、同年夏のニューイングランド沖での演習に参加した。1931年8月、分類番号が CA-38 に改められ、9月に入るとチェサピーク湾に向かい、11月中旬まで僚艦とともに砲術訓練を行った。訓練参加艦は、訓練終了後は各々の母港に戻り、オーガスタもノーフォーク海軍造船所に戻った。

1932年初頭、オーガスタは偵察艦隊の他の巡洋艦とともにハンプトン・ローズを1月8日に出港してグアンタナモ湾に向かい、2月18日まで航行演習を行った。主力艦隊が第13次フリート・プロブレム英語版東太平洋向かうのに合わせてパナマ運河で合流し、3月7日にサンペドロに入港した。3日後にフリート・プロブレムに再合流した。演習では、オーガスタ率いる偵察艦隊が西海岸沿岸に設けられた3つの模擬環礁内の戦闘艦隊とともに艦隊運動を行い、戦闘艦隊に輸送船団を攻撃する機会を与えた。

フリート・プロブレムは3月18日に終わったが、オーガスタ率いる偵察艦隊は大西洋には戻らなかった。これは、1940年にルーズベルト政権下で行われた第21次フリート・プロブレムの後に、真珠湾に主力艦隊を常駐させる先駆けとなる出来事だった。1932年、ルーズベルトの先代であるフーヴァー政権は、満州事変以降の満州中華民国における日本の勢力拡大を牽制する目的で西海岸に艦隊を常駐させており、1年後に第14次フリート・プロブレムが行われるまで偵察艦隊は西海岸にあったが、ルーズベルト政権誕生後は常駐を恒久化することとなった。オーガスタは1933年10月に偵察艦隊旗艦から外され、10月20日に中国大陸に向けてピュージェット・サウンド海軍造船所を出港した。

アジア艦隊[編集]

オーガスタはシアトルから北太平洋の大圏コースを通り1933年11月9日朝に上海に到着、上海市内を流れる黄浦江に投錨した。その日の午後、アジア艦隊英語版司令長官フランク・B・アパム英語版大将は、これまでアジア艦隊旗艦だったヒューストン (USS Houston, CA-30) に翻っていた星条旗と自身の大将旗をオーガスタのマストに移した。ヒューストンが帰国すると、オーガスタは12月に上海を出港しフィリピンに向かった。数ヶ月間フィリピン水域で訓練を行い、カヴィテスービック湾に面したオロンガポ英語版で整備を行った。以後数年間、冬場はフィリピンおよび東南アジア海域で行動し、春から秋にかけては上海を中心に日本や大陸沿岸部などで行動する、一種の渡り鳥のようなスケジュールを繰り返した。

1934年春に中国水域に戻ったオーガスタは外国訪問の一環で横浜に向かい、6月4日に到着した。翌朝7時30分、アパム大将は5月30日に亡くなった東郷平八郎元帥国葬に出席するため艦を下り、オーガスタでは半旗を掲げ、8時30分に19発の弔砲を以って日本海軍の英雄を弔った。6日17時45分には国葬に遅れて入港してきた中華民国巡洋艦寧海がオーガスタの大将旗に対して礼砲17発を発射したが、これに対するオーガスタの答砲に不手際があり、当初は日本軍艦旗を掲げて礼砲4発を発射して中止、次に中華民国軍艦旗を掲げ直して礼砲13発を発射し、更にやや時間を置いて4発を発射した。18時40分頃、この儀礼不手際に対してオーガスタの訪問使が日本側接伴艦の比叡に派遣され、艦長井上成美に遺憾の意が表され、井上も意に介していないことを訪問使経由でオーガスタ艦長ニミッツ大佐に伝えた。[1]。 オーガスタはアパム大将を乗せて6月11日に横浜を出港し、6月12日から15日まで神戸に滞在。その後、6月17日に青島に寄港し、9月10日に秦皇島に、9月24日に煙台にそれぞれ立ち寄って、9月26日に上海に戻った。10月20日に初めてオーストラリア領海内に入ってシドニーに入港した。この当時のオーガスタの乗組員数は824名で、64名の幹部と760名の水兵で構成されていた。オーガスタは一週間シドニーに在泊し、アパム大将はその間の10月25日と26日にキャンベラを訪問した。オーガスタは26日にシドニーを出港し、29日にメルボルンに到着。11月13日までメルボルン100年式典に参加し、その後フリーマントルパースバタビアバリ島ラブアン島サンダカンサンボアンガイロイロ(12月20日から21日)と訪問し、12月22日にマニラに入港。カヴィテと、オロンガポにあった浮きドックデウェイ (USS Dewey, YFD-1) で年一度の定期検査を行った。

1935年3月15日、オーガスタはアパム大将を乗せて香港に向かった。16日に到着し、オーガスタはアパム大将一行が艦隊ヨットイサベル (USS Isabel, PY-10) に乗り換えて広州へ向かった[2]期間をはさんで25日まで滞在した。オーガスタは3月26日から29日までアモイに滞在した後、3月31日に上海に戻った後4月30日に出港し、日本への2度目の訪問を行った。5月3日に横浜に到着し、5月17日まで滞在した後、5月18日から25日までは神戸に滞在した。その後、オーガスタは南京に向かい、29日に到着。6月27日には青島に向かい、夏の間は同方面で操艦と砲術の訓練を行った。9月30日に青島を後にして10月1日に上海に到着。その4日後、アジア艦隊司令長官の座はアパム大将からオーリン・G・マーフィン英語版大将に代わった。10月8日、オーガスタはマーフィン大将を乗せ、イサベルを伴って東南アジアに向かい、バンコク(イサベルに乗り換えて訪問)、シンガポールポンティアナックジェッセルトン、サンボアンガ、イロイロと訪問して11月11日にマニラに到着。恒例の修理スケジュールに入り、マーフィン大将は12月14日から1936年2月27日までイサベルを旗艦とした。オーガスタは修理が終わるとダバオセブタウィタウィ州などフィリピン各地を訪問して3月29日にマニラに戻ると、間もなく3月31日に出港し、4月2日に香港に到着。マーフィン大将がイサベルで広州を訪問後、アモイ、呉淞、南京と巡航し、上海に戻った。5月以降は横浜、神戸、青島、煙台、秦皇島と訪問し、9月に上海に戻った。10月30日にアジア艦隊司令長官の座がハリー・E・ヤーネル大将に代わり、定例の航海で香港、シンガポール、バタビアなどを訪問してマニラに到着。1937年春に上海に戻ると、長江流域や大陸沿岸部で行動した。

日中戦争[編集]

オーガスタが青島で通常の訓練を行っていた頃、中国と日本の政治的関係は次第に険悪なものとなっていった。中国側は軍事面で押されていると感じていた中華民国総統蒋介石は軍備改革を宣言した。

1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに両国は事実上の戦争状態に入った。日本軍は中国北部を席巻し、北京に迫ろうとしていた。ヤーネル大将は事態を鑑み日本[3]およびウラジオストクへの親善航海を中止する予定だったが、後者はとりあえず撤回された。オーガスタは4隻の駆逐艦とともに7月24日に出港し、28日にウラジオストクに到着。オーガスタは、1922年以来初めてウラジオストクを訪問したアメリカ海軍艦艇となった。乗組員は8月1日まで訪問を楽しんだ。

青島と煙台を経て上海に向かう途中、戦局は第二次上海事変の段階に入りつつあった。ヤーネルは上海共同租界の防衛を決意し、8月13日朝に共同租界近くに停泊することとした。途中で台風に遭遇し、また日本海軍艦艇を追い越しつつ目的地に到着した。8月14日、国民党軍機による空襲があり、租界に誤爆したほか、オーガスタの艦首至近にも投下してきた。オーガスタは誤爆を防ぐため、3つの砲塔の上に星条旗を描いて中立であることをアピールした。

8月18日、オーガスタは外灘に移動し、1938年1月までそこに停泊した。その間にも国民党軍機が空襲を繰り返し、ヤーネル大将はオーガスタの避難をルーズベルト大統領に進言したが、このプランは却下された。そんな中、オーガスタの乗組員は合間を縫って戦争を観察し、そのデータを元に作成した機密文書をワシントンに送って、将来対決するであろう日本海軍の能力について報告することを忘れなかった。

12月12日に発生したパナイ号事件では、オーガスタはパナイの乗組員を救助し、彼らはクリスマスをオーガスタの艦上で過ごした。1938年1月6日、オーガスタは恒例のフィリピン回航に向かったが、ヤーネル大将は砲艦外交の関係上、イサベルとともに上海に残った。

オーガスタは上海に戻ると、青島、煙台、秦皇島を訪問し、12月27日にフィリピンに向かったが、ヤーネル大将は今回も上海に残った。オーガスタは1939年4月に上海に戻った。

7月25日、ヤーネル大将はアジア艦隊司令長官の座をトーマス・C・ハート大将に譲った。第二次世界大戦が勃発した後も、オーガスタは上海とフィリピンの間を往復した。オーガスタは1940年11月22日にアジア艦隊旗艦をヒューストンに譲った。帰途、オーガスタはハワイの北方海域における日本のタンカーの動向を調査した。オーガスタは北緯35度線と西経165度線の交点付近で調査したが、悪天候の影響でうまくいかなかったものの、「この方面での洋上給油は現実的ではない」と結論付け報告した。オーガスタは12月10日にロングビーチに到着し、メア・アイランド海軍造船所にてオーバーホールに入った。

大西洋艦隊[編集]

1941年4月11日、オーバーホールを終えたオーガスタは出港し、サンペドロとパナマ運河を通過して4月23日にニューポートに到着し大西洋艦隊に合流した。大西洋艦隊司令長官アーネスト・キング大将はワシントンから戻ると、オーガスタを旗艦とした。

オーガスタは5月30日から6月23日までナラガンセット湾に停泊した後、ブルックリン海軍工廠に回航され、特殊任務につくことになった。この頃、ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルの、1939年に大戦が勃発して以来初めてのトップ会談が計画されており、当初の計画では6月に開催する予定だったが、クレタ島の戦いへの対処の関係で、会談は夏の後半に延期された。

オーガスタは、早ければ6月中旬には所定の工事を終えてルーズベルト大統領の「旗艦」となるはずであった。キング大将は6月16日に海軍工廠を視察した際、オーガスタはRCA社製のCXAM レーダー(初期型)英語版の装備と1.1インチ機銃の更新が「旗艦」としての整備と平行して行われつつあることを知った。キング大将は6月22日、オーガスタは「旗艦」としての整備を最優先するよう命じ、その他の整備は後刻行われることとなった。整備が終わったオーガスタは、チャールストンとハンプロン・ローズに寄港した後ニューポートに戻り、8月まで同地にあった。

ルーズベルト、チャーチル両首脳の会談は実行に移された。チャーチル首相がイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) で大西洋を横断している間、ルーズベルト大統領は8月3日にワシントンを出発し、ニューロンドンの潜水艦基地に到着。ここで艦隊ヨットポトマック (USS Potomac, AG-25)) に乗り換え、沿岸警備隊監視艇カリプソ (USS Calypso, AG-35) の護衛の下、マサチューセッツ州ワインヤード湾英語版で待機していたオーガスタに移動した。オーガスタは重巡洋艦タスカルーサ (USS Tuscaloosa, CA-37) および5隻の駆逐艦を伴ってニューファンドランド自治領プラセンチア湾英語版にあるアルゼンチア海軍基地英語版に向かった。この際、ルーズベルト大統領の所在を示す旗は大統領の影武者とともにポトマックに残り、あたかもルーズベルト大統領がポトマックにいるかのように装った。ルーズベルト大統領はオーガスタで釣りを楽しみ、また息子のフランクリン・ルーズベルト・ジュニア英語版とパーティーを楽しんだり、アルゼンチア海軍基地を視察した。

オーガスタ艦上のルーズベルト大統領とチャーチル首相

8月9日、チャーチル首相を乗せたプリンス・オブ・ウェールズがアルゼンチア海軍基地に到着。チャーチル首相はオーガスタにルーズベルト大統領を表敬訪問し、キング大将主催の昼食会に出席した。チャーチル首相は23時45分にオーガスタを後にしてプリンス・オブ・ウェールズに戻っていった。

8月10日、ルーズベルト大統領を迎える駆逐艦マグダガル (USS McDougal, DD-358) が横付けし、ルーズベルト大統領をプリンス・オブ・ウェールズに送っていった。ルーズベルト大統領は前日のお礼のパーティーを楽しみ、オーガスタに戻ってきた。8月11日と12日にチャーチル首相一行がオーガスタを訪れ、ルーズベルト大統領および閣僚と議論を重ね、これらの議論の結果を「大西洋憲章」として公表した。一切の会談日程が終わり、ルーズベルト大統領および閣僚は、チャーチル首相一行を軍楽隊が演奏する「国王陛下万歳」と「オールド・ラング・サイン」で見送った。オーガスタはタスカルーサおよび駆逐艦とともに出港し、メイン州ブルー・ヒル湾で待機するポトマックとカリプソに合流した。道中、ルーズベルト大統領はノバスコシア沖で航空機運搬艦ロング・アイランド (USS Long Island, AVG-1) がブリュースター・バッファローSOC シーガルの発着艦訓練を行っているを見学した。8月14日、オーガスタはブルー・ヒル湾に到着し、ルーズベルト大統領はポトマックに移ってワシントンに戻っていった。その後、オーガスタはナラガンセット湾、ブルックリン海軍工廠を経て8月29日にニューポートに戻った。オーガスタは引き続きキング大将の旗艦として、秋の間はフランク・ノックス海軍長官の視察を兼ねてニューポートとバミューダ諸島の間を哨戒した。

第二次世界大戦[編集]

12月7日の真珠湾攻撃によりアメリカが参戦。オーガスタはニューポートで待機した。1942年1月5日、キング大将が合衆国艦隊司令長官に転じ、大西洋艦隊司令長官には、かつてはオーガスタの艦長を務めたこともあるロイヤル・E・インガソル英語版大将が就任した。

1月12日、オーガスタはニューポートからカスコ湾に向かい、訓練を行った後ニューポートに戻った。この後、インガソル大将の旗はオーガスタからコンステレーション (USS Constellation) に移された。1月19日、オーガスタは第2.7任務群と合流し、3月4日までバミューダ方面を哨戒した。3月5日以降は、空母レンジャー (USS Ranger, CV-4) 、軽巡洋艦サバンナ (USS Savannah, CL-42) および駆逐艦で構成された第22.7任務群に移ってカリブ海での哨戒に従事した。オーガスタは3月19日から4月7日までブルックリン海軍工廠で修理を受けた後、ニューポートでレンジャー基幹の第36任務部隊に合流し、大西洋を横断してガーナアクラへのP-40 ウォーホークの輸送に従事した。オーガスタは5月21日にトリニダード島に到着した後、第22任務部隊(アレクサンダー・シャープ少将)の旗艦となった。第22任務部隊は6月から9月末まで、北はアルゼンチナ海軍基地、南はトリニダード島の間で哨戒と訓練を行った。

トーチ作戦[編集]

10月23日、オーガスタは第34任務部隊(ヘンリー・ケント・ヒューイット英語版少将)の旗艦となり、トーチ作戦に参加することとなった。ジョン・L・ホール少将の他、ジョージ・パットン陸軍少将もオーガスタに乗り込んだ。翌24日、オーガスタはモロッコ目指して出撃した。

パットン少将(左)を出迎えるヒューイット少将(中)

11月8日早朝、オーガスタは観測機を発進させ、軽巡洋艦ブルックリン (USS Brooklyn, CL-40) とともにカサブランカの敵砲台に対して艦砲射撃を行った。ヴィシー・フランス海軍の反撃(カサブランカ沖海戦)をはさみ、11月10日まで砲撃を行った後、11月11日にフランス軍総司令フランソワ・ダルラン大将からの停戦申し入れにより戦闘は終結。オーガスタは第34任務部隊とともに11月20日に出発し、11月26日にバミューダに到着。ここで任務部隊は解散し、オーガスタはノーフォークに寄港の後、ブルックリン海軍工廠でオーバーホールに入った。この期間中に対空兵装が大幅に強化されたオーガスタは、オーバーホール終了後1943年2月15日にニューポートに到着した。3月中はカスコ湾でレンジャーとともに夜間訓練を行い、4月以降はアルゼンチア海軍基地を中心に哨戒や船団護衛に従事した。8月19日にはスカパ・フローに進出し、11月26日までアイスランド沖などで訓練、哨戒に任じた後本国に戻り、年末年始はボストン海軍工廠で修理と整備を行った。

1944年は、1月から4月までカスコ湾を中心に訓練を行い、4月17日にプリマスに進出。同地で第122任務部隊指揮官アラン・G・カーク少将がオーガスタを旗艦とした。5月25日には、イギリス国王ジョージ6世がオーガスタを訪問し、カーク少将と昼食をともにした。

ノルマンディーと地中海[編集]

オーガスタ艦上でノルマンディー上陸作戦の戦況を見守るブラッドレー中将(左から2人目の眼鏡の人物)

6月5日、オーガスタにアメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー中将とその幕僚が乗艦し、ノルマンディー上陸作戦に参加した。

6月6日の上陸作戦当日、オーガスタはドイツ軍防御陣地に対して艦砲射撃を行った。6月10日にブラッドレー一行はオーガスタを去って占領したばかりの海岸に上陸。翌11日未明、オーガスタは空襲を受けたが至近弾1発のみで損傷はなかった。6月12日以降はオマハ・ビーチ沖に移動し、艦砲射撃と対空防御の双方を行った。7月2日朝、オーガスタはプリマスに帰投した。4日後の7月6日、オーガスタは第120.6任務群に加わり、地中海に転戦してメルス・エル・ケビールには7月10日到着した。2日後にパレルモに向けて出港し、7月14日に到着。同日、第86任務部隊司令官L・A・デヴィッドソン少将はオーガスタに将旗を掲げた。翌日、オーガスタはパレルモを出港してナポリに寄港し、艦砲射撃のため出撃した。7月27日にパレルモに戻り、翌28日には再びナポリに向かった。8月12日まで訓練を続けた後、ベンジャミン・W・シドロー英語版准将を乗せコルシカ島に到着した。

8月14日、オーガスタはドラグーン作戦支援のため出撃し、21時55分に作戦海域に到着したオーガスタは、翌15日朝、ポート・クロス島に対して主砲弾を6回発砲した。この日、海軍長官ジェームズ・フォレスタルがオーガスタにデヴィッドソン少将を訪ねた。8月16日、フォレスタル長官はオーガスタを後にし、オーガスタは少し後にポート・クロス島の防御陣地に対して63発もの艦砲射撃を行った。8月17日にも軽巡洋艦オマハ (USS Omaha, CL-4) とともに再び艦砲射撃を行い、138発もの8インチ砲弾を撃ち込んだ結果、敵守備隊は降伏した。この後、オーガスタはトゥーロン沖に移動し、艦砲射撃を続けた。トゥーロンとマルセイユは8月29日に占領され、オーガスタとフィラデルフィア (USS Philadelphia, CL-41) は部隊を上陸させて730名の囚人を解放し、その代わりにドイツ軍捕虜を島に押し込めた。8月30日、デヴィッドソン少将は将旗をフィラデルフィアに移し、オーガスタは第86任務部隊から外れた。9月1日、オーガスタは第7巡洋艦隊に加わり、タスカルーサとともにナポリからアルジェリア経由でフィラデルフィアに帰投。その後オーバーホールに入ったが、11月20日に製氷室が爆発する事故が起こり、4名の乗組員が負傷したほか、多数の労働者に死傷者が出た。

1945年[編集]

1945年時のオーガスタ
海軍記念日を期してハドソン川で展示されるオーガスタ(手前)。空母は手前がミッドウェイ、奥がエンタープライズ

1945年1月26日、オーバーホールを終えたオーガスタはトリニダード島に向かい、1月31日に到着。2月の大半を同地における砲術、夜戦、レーダーおよび対空の各訓練に費やされた。2月21日に出港し、ヤルタ会談を終えたルーズベルト大統領を乗せ帰国する重巡洋艦クインシー (USS Quincy, CA-71) を出迎え、僚艦とともにハンプトン・ローズまで護衛にあたった。3月7日までノーフォークで応急修理が行われ、その後グアンタナモ湾に進出して重巡洋艦シカゴ (USS Chicago, CA-136) とともに4月7日まで訓練を行った。オーガスタは4月10日にノーフォークに戻った。4月14日、オーガスタはフォレスタル長官の命で2日前に急死したルーズベルト大統領のために、30日間半旗を掲げることとなった。4月下旬はロングアイランド州近海で対空演習を行った。

3日後、オーガスタはニューヨークに向かい、5月1日に到着。5月7日、カスコ湾で訓練中にヨーロッパでの勝利の報を受け取った。ニューヨークを経てノーフォークに戻り、チェサピーク湾に移動して訓練を続けたあと、オーガスタはポツダム会談に出席するハリー・S・トルーマン大統領、ジェームズ・バーンズ国務長官およびウィリアム・リーヒ元帥らを乗せ、アントウェルペンに向かった。オーガスタは7月14日に到着し、ドワイト・D・アイゼンハワー元帥の歓待を受けた。トルーマン大統領一行がポツダムに向かった後、プリマスに移動して7月28日に到着した。

8月2日、ジョージ6世は会談を終えオーガスタに戻ってきたトルーマン大統領を表敬訪問した。オーガスタは帰国の途につき、8月7日にニューポートに到着してトルーマン大統領一行を下艦させた後、一週間後にカスコ湾に向かった。8月15日に戦争が終わり、オーガスタはボルチモアで訓練を行った後、9月11日にノーフォークに回航され、10月5日からしばらくの間、第69任務部隊司令官の指揮下にてカスコ湾からバージニア岬の間で一時的な軍務についた。その後、オーガスタは10月27日の海軍記念日を期してニューヨークで公開され、トルーマン大統領の観閲を受けた。オーガスタには10月25日から30日までの間に23,362人の観客が訪れた。

10月31日、オーガスタはヨーロッパからの復員計画「マジックカーペット作戦」向けの改修のため、ニューヨーク海軍造船所に係留された。同作戦には1945年末まで従事し、その後予備役として予備役艦隊フィラデルフィア・グループで保管され、1946年7月16日に処分が決定した。1959年3月1日に除籍され、11月9日にフロリダ州パナマシティのロバート・ベンジャミン社にスクラップとして売却、その船体は1960年3月2日に海軍の管理から解除された。

オーガスタは第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05023436600
  2. ^ オーガスタは吃水の関係で珠江デルタを航行できなかった
  3. ^ 堀内『米国亜細亜艦隊旗艦「オーガスタ」来航ニ関スル件』

参考文献[編集]

  • 外務次官重光葵『米国東洋艦隊ノ本邦来訪ニ関スル件』(第1060号 10.3.18 米国東洋艦隊本邦来訪に関する件) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034179300
  • 外務次官重光葵『米国亜細亜艦隊旗艦「オーガスタ」来航ニ関スル件』(第1420号 11.2.20 米国亜細亜艦旗艦「オーガスタ」来航に関する件) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034831900
  • 外務次官堀内謙介『米国亜細亜艦隊旗艦「オーガスタ」来航ニ関スル件』(第3829号の2 12.7.21 米国亜細亜艦隊旗艦オーガスタ来航に関する件) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05110737500
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

外部リンク[編集]