シカゴ (CA-29)

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USS Chicago
艦歴
発注:
起工:
進水: 1930年4月10日
就役: 1931年3月9日
退役:
その後: 1943年1月30日に戦没(レンネル島沖海戦
除籍:
性能諸元
排水量: 9,300 トン
全長: 600 ft 3 in (182.9 m)
全幅: 66 ft 1 in (20.1 m)
吃水: 16 ft 8 in
機関:
最大速: 32 ノット
航続距離:
乗員: 士官、兵員621名
兵装: 8インチ砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門
21インチ魚雷発射管6門
航空機:
モットー:

シカゴ (USS Chicago, CL/CA-29) はアメリカ海軍重巡洋艦ノーザンプトン級重巡洋艦の4番艦。艦名はイリノイ州シカゴに因み、その名を持つ艦としては二隻目。

艦歴[編集]

シカゴはメア・アイランド海軍造船所で起工し、1930年4月10日にE・ブリトゥンによって進水、1931年3月9日にM・H・シモンズ艦長の指揮下就役する。

大戦前[編集]

ホノルルタヒチおよびサモアへの整調巡航後、シカゴは1931年7月27日にメア・アイランドを出航し東海岸に向かい、ニューヨーク州フォート・ポンドベイに8月16日到着した。同所でシカゴは偵察艦隊旗艦となり、部隊と共に1940年まで活動する。

1932年2月、シカゴは偵察艦隊と共にカリフォルニア沖で例年の艦隊演習に参加する。艦隊は西海岸を拠点とし1934年までアラスカパナマ運河地帯ハワイ諸島といった太平洋海域で作戦活動に従事した。1934年に例年の艦隊演習がカリブ海で実施され、その後シカゴは5月に行われたニューヨーク湾での大統領による閲艦式に参加する。艦隊は10月まで東海岸とカリブ海で活動し、その後カリフォルニア州サンペドロを拠点とする。シカゴはサンペドロから活動を続け、1940年9月29日に真珠湾に向かう。

続く14ヶ月にわたってシカゴは真珠湾から作戦活動に従事し、様々な任務部隊ともに戦術、巡航訓練を行い、オーストラリアや西海岸を訪れた。

第二次世界大戦[編集]

1941年12月7日の真珠湾攻撃時、シカゴは第12任務部隊と共に海上にあった。部隊はすぐにオアフ島ジョンストン島パルミラ環礁を結ぶ三角形内で敵の捜索を開始した。部隊は12月12日に真珠湾に戻った。シカゴは12月14日から27日まで、空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) を基幹とする第11任務部隊と共に、ウェーク島の戦いの妨害をするための行動や哨戒・索敵任務に従事した。

1942年2月2日、シカゴは真珠湾を出航し、スバ湾に向かった。そこで新たに編成されたANZAC部隊英語版部隊に加わり、シカゴはアメリカ・オーストラリア連合の第44任務部隊英語版の一艦として行動した。3月と4月はシカゴは第44任務部隊とともにルイジアード諸島沖で活動し、3月10日のニューギニア島ラエサラモア攻撃を援護した。また、シカゴはニューカレドニアへの兵員の到着も支援した。

5月1日、シカゴはヌメアを出港して南西太平洋部隊に合流。5月4日、シカゴはソロモン諸島ツラギ島攻撃をおこなう空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を援護した後、日本軍のポートモレスビー進撃を阻むべく、5月8日の珊瑚海海戦に参加した。シカゴは日本機からの機銃掃射を受けたものの反撃。これは日本軍がポートモレスビー攻略を断念して引き返すまで続いた。その後、シカゴはオーストラリアのシドニーに向かった。

5月31日から6月1日にかけての夜、シドニーで停泊中であったシカゴは攻撃してきた日本軍の特殊潜航艇を砲撃した。シカゴ艦長ハワード・D・ボーデは、シカゴが発砲した当時は陸上にいて砲撃の真意が理解できなかったが、やがて状況を掴み、他の幹部が酔っ払っていたものの潜航艇に対抗した。潜航艇は3隻侵入してきたが、1隻(伊27搭載艇。中馬兼四大尉)は防潜網に絡まって自爆した。他の2隻のうち、伊24搭載艇(伴勝久中尉)はシカゴに向けて魚雷を発射。しかし、発射された魚雷はシカゴには当たらず、1本はガーデン島英語版に命中し、爆発でガーデン島に係留してあった宿泊艦クッタブル (HMAS Kuttabul) を撃沈した。もう1本は不発に終わった。シカゴはこれ以上の攻撃から逃れるべく、他の艦船とともに急遽外洋に向けて出港することになったが、その途中で伊22搭載艇(松尾敬宇大尉)の攻撃を受けたが、松尾艇の魚雷が艇首部損傷により発射できず、シカゴは難を逃れた。

6月から7月にかけてもシカゴは南太平洋で作戦に従事した。8月7日から9日、シカゴはガダルカナル島上陸を支援した。9日夜、シカゴはガダルカナル島とサボ島の間でオーストラリア重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) および駆逐艦パターソン (USS Patterson, DD-392) 、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) とともに哨戒を行っていた。本来はオーストラリア重巡洋艦オーストラリア (HMAS Australia, D84) もいたが、オーストラリアに座乗してガダルカナル島沖の巡洋艦部隊の指揮を執っていたヴィクター・クラッチレー英語版少将がリッチモンド・K・ターナー少将に呼ばれて艦もろとも不在だった[1]。やがて、三川軍一中将率いる第八艦隊がこの海域に入ってきた。第一次ソロモン海戦である。23時47分、シカゴの前方にあったキャンベラが砲雷撃を受け一気に破壊された。シカゴはボーデ艦長が起きたばっかりだったが[2]、見張り員が魚雷の航跡を発見し、すかさず回避運動に入ったが、左舷艦首部に1本が命中し大破した。シカゴは錨を曳きながら西に向かったが、途中で上部構造物にさらなる命中弾を受けた。シカゴは申し訳程度の反撃を行い、さらにパターソンに対して射撃を行い[3]、戦場を去った。損傷したシカゴはヌメア、シドニーを経てサンフランシスコで修理を受けた。サンフランシスコには10月13日に到着した。

ボーデ艦長は、第一次ソロモン海戦の件で聴取された後[4]、43年4月19日、バルボア海軍基地宿舎のバスルームにて拳銃で頭を撃ち、翌20日、バルボア海軍病院で死亡した[5]

レンネル島沖海戦[編集]

ウイチタから見た、レンネル島沖海戦直前のシカゴ。右後方はルイビル
シカゴの最後。1943年1月30日

1943年1月初め、修理が終わったシカゴはサンフランシスコを出航した。1月27日、シカゴはロバート・C・ギッフェン少将率いる第18任務部隊に加わり、ガダルカナル行き船団の間接護衛に当たるためヌメアを出撃した。予定では、サボ島沖に待機して日本側の反撃に備え、遅れて出撃するエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第16任務部隊が上空を援護することとなっていた[6]。29日夕刻、会合点に向かう第18任務部隊は檜貝嚢治少佐率いる第七〇一航空隊と第七〇五航空隊の陸上攻撃機隊の攻撃を受け、レンネル島沖海戦の幕は切って落とされた。陸攻隊は照明弾を投下しつつ突撃し、17時45分にシカゴの右舷缶室に1本、続いて前部機械室付近に1本と、計2本の魚雷が命中し、それにより浸水し航行不能となった[7]。ギッフェン少将は避退を命じ、重巡洋艦ルイビル (USS Louisville, CA-28) がシカゴを曳航することとなった。

翌朝、曳航の任務はルイビルから曳船ナバホ (USS Navajo, AT-64) に交代した[8]。午後、第七五一航空隊の陸上攻撃機隊が第18任務部隊を追撃し、陸攻隊はようやく駆けつけたエンタープライズのF4F戦闘機10機の妨害を受けつつも[9]、4本の魚雷をシカゴに命中させた。2日のうちに総計6本もの魚雷が命中したシカゴは、総員退艦が令された。ナバホからの曳航用ロープも切られ、シカゴは南緯11度25分 東経160度56分 / 南緯11.417度 東経160.933度 / -11.417; 160.933の地点で艦尾を先にして沈没した。

この艦の喪失に、米海軍司令部は衝撃を受けた。護衛艦隊が敵機には致命的な存在であるはずの新兵器で極秘扱いの近接信管(VTヒューズ)弾を搭載した対空砲を装備しており、なおかつ10機の戦闘機の直衛までつけていたのに沈没したためである。ニミッツの強い要請で「シカゴ」の喪失は海軍部外へはしばらく秘匿されることになった[10]。以前の空母沈没の発表で日本軍に防御上の不利益を大統領選挙のために公表された過去の経緯から、新式の対空システムへの不信感が部内に広がることを司令長官のニミッツが危惧したためである。

脚注[編集]

  1. ^ 木俣『日本軽巡戦史』263ページ
  2. ^ 木俣『日本軽巡戦史』272ページ
  3. ^ 木俣『日本軽巡戦史』284ページ
  4. ^ 永井、木俣, 50ページ
  5. ^ shanks, p503
  6. ^ 秦, 140ページ
  7. ^ 秦, 154ページ
  8. ^ 永井、木俣, 56ページ
  9. ^ 秦, 156ページ
  10. ^ 「こういうことを言ったことはないが、誰であれシカゴ沈没の事実を公表したものは”射殺する”」とまで会議で発言している。E.B.ポッター/「提督ニミッツ」/フジ出版 307頁

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 鈴木範樹「特殊潜航艇によるシドニー攻撃」『写真・太平洋戦争(2)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0414-8
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記 PART II朝日ソノラマ、1990年、ISBN 4-257-17223-1
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
  • 秦郁彦「レンネル島沖海戦」『太平洋戦争航空史話 (上)』中公文庫、1995年、ISBN 4-12-202370-X
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • Shanks, Sandy. The Bode Testament. Writers Club Press, 2001. ISBN 0-595-18013-2


外部リンク[編集]