エンタープライズ (CV-6)

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USS Enterprise (CV-6)
艦歴
発注 1933年
起工 1934年7月16日
進水 1936年10月3日
就役 1938年5月12日
退役 1947年2月17日
受章

Silver-service-star-3d.png Campaign Star
Bronze-service-star-3d.png 20 Battle Stars
NavyPres.gif Presidential Unit Citation
Navy Unit Commendation ribbon.svg Navy Unit Commendation
American Defense Service ribbon.svg American Defense Service Medal
American Campaign Medal ribbon.svg American Campaign Medal
Asiatic-Pacific Campaign ribbon.svg Asiatic-Pacific Campaign Medal
World War II Victory Medal ribbon.svg World War II Victory Medal
Presidential Unit Citation (Philippines).svg Philippine Presidential Unit Citation
Phliber rib.png Philippine Liberation Medal
British Admiralty Pennant

その後 1960年5月解体
性能諸元
排水量 基準:19,800トン
満載:25,500トン
(1943年) 基準21,000トン
(1943年) 満載:32,060トン
全長 809フィート 6インチ(247m)
艦幅 83フィート 1インチ(25m)
全幅 114フィート(35m)
吃水 28.0フィート(8.5m)
機関 バブコック&ウィルコックス社製ボイラー9基120,000馬力パーソンズ蒸気タービン4基4軸推進
最大速度 32.5ノット(37.4 mph, 60.2 km/h)
航続距離 15ノットで12,500海里
乗員 2,919名(士官を含む)
兵装 (竣工時)
5インチ単装砲 8門、28mm4連装機関砲 4基、12.7mm機関銃 24挺
(1945年)
5インチ単装砲 8門、ボフォース 40mm機関砲(連装 5基、4連装 11基)エリコン20 mm連装機関砲 16基
搭載機 最大96機(F4FF6FF4U戦闘機、SBD爆撃機・SB2C爆撃機、TBDTBF雷撃機など)
エレベーター 3基
カタパルト 3基(飛行甲板2基、格納庫1基)
1941年6月、開戦前のエンタープライズ。飛行甲板が板張りの木甲板であることが見受けられる。
1942年6月4日7時30分~40分、エンタープライズ艦上で発進準備中の第6雷撃隊TBD11機(ミッドウェー海戦)。
サンタ・クルーズ沖で日本海軍機の爆撃を受けるエンタープライズ(南太平洋海戦)。
1944年2月、トラック島空襲から帰還した攻撃隊のF6F戦闘機を収容するエンタープライズ(ヘイルストーン作戦)。

エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)は、アメリカ海軍航空母艦ヨークタウン級航空母艦の2番艦。アメリカ海軍においてエンタープライズの名を受け継いだ艦としては七隻目にあたる。愛称はビッグ E

太平洋戦争においては米海軍旗艦として重要な役割を果たした。太平洋戦争開戦前に建造され、終戦まで無事に生き残った三隻の航空母艦のうちの一隻(他の二隻はサラトガレンジャー )であり、20の従軍星章を得た。またイギリス海軍から他国籍の海軍艦艇として唯一、イギリス栄誉ペナントを受章した。

艦歴[編集]

1934年7月16日にニューポート・ニューズ造船所で起工され、1936年10月3日に海軍長官クロード・A・スワンソン夫人のルーリー・スワンソンによって命名、進水、1938年5月12日に初代艦長ニュートン・H・ホワイトジュニアの指揮下就役した。起工にあたっては日本側に通告をおこなっている。

就役後、エンタープライズはリオデジャネイロへの慣熟航海を始め、1939年4月まで東海岸からカリブ海で訓練を行った。その後太平洋へ配属となり、最初の母港はサンディエゴで、続いて真珠湾が母港となった。太平洋でエンタープライズは搭載航空団の訓練を行い、太平洋のアメリカ軍基地へ航空機の運搬を行った。1941年12月2日ウェーキ島への海兵隊第211戦闘航空団の輸送を完了し、日本海軍真珠湾攻撃を行ったときはハワイに帰港する途中であった。真珠湾攻撃でハワイを攻撃されたため、エンタープライズは真珠湾への入港を中止して日本海軍の艦隊を捜索したが発見できず、燃料補給のため真珠湾に帰港したが翌日には周辺の哨戒行動のため出港した。そんな中、12月10日オアフ島南方海面で日本海軍の潜水艦伊70を艦載機が発見、撃沈する。

1942年1月11日、真珠湾を出港して南太平洋のアメリカ領サモアに向かう輸送船を護衛した。その後、空母ヨークタウンと合流して任務部隊を形成し、2月1日にマーシャル諸島ギルバート諸島の日本陸海軍の基地に奇襲攻撃を行い、任務部隊に随伴していた巡洋艦が艦砲射撃を行った(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。これらの爆撃と砲撃で日本陸海軍の港湾施設と飛行場、航空機に打撃を与え、艦船3隻を撃沈、8隻を撃破した。帰投中に攻撃を受けたが真珠湾に帰港すると修理を行い、ヨークタウンと分かれて単独で中部太平洋に出撃し、2月24日にウェーキ島を空襲、3月4日にはマーカス島(南鳥島)を空襲した。日本軍は2月21日の攻撃で「エンタープライズ級空母」1隻を撃沈したと大本営発表を行っている[1]

4月8日ドーリットル空襲に向かう空母ホーネットの護衛につき、B-25爆撃機を飛行甲板に搭載して艦載機の発着できないホーネットに代わって航空掩護を行った。ホーネットは目標から400マイルで爆撃機を発進させる予定であった。しかし、4月18日、日本軍の特設監視艇に発見されたため、600マイルで爆撃機を発進させ、両艦は撤退、4月25日に真珠湾に帰港した。

ミッドウェー海戦[編集]

南太平洋の任務部隊を補強するため、エンタープライズは全速で珊瑚海に向かったが、珊瑚海海戦で日本海軍との戦闘は終結してしまい、エンタープライズは5月25日に真珠湾に帰港した。ミッドウェー諸島への日本海軍の来攻が察知され、エンタープライズはホーネットとスプルーアンス少将の指揮下に入り、「強力な戦術的妨害によって日本軍に最大の損害を課す」ため、5月28日、真珠湾を出撃した。また、30日にはフランク・フレッチャー少将指揮するヨークタウンも出撃した。

ミッドウェー海戦が生起すると、エンタープライズは赤城加賀を爆撃し、エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネットの艦載機は赤城、加賀、蒼龍飛龍など日本海軍の参加した空母全ての撃沈に成功する。ヨークタウンが撃沈されるなどアメリカ軍側も少なくない損害を負うが、エンタープライズは6月13日、無事に真珠湾へ帰港する。

南太平洋戦線[編集]

エンタープライズはオーバーホールのため1ヶ月の間、戦列を離れた。その後、予定されていた8月7日から始まるソロモン諸島方面での反攻作戦を支援するため、エンタープライズは7月15日に出撃した。海上補給ラインの警戒と防空に従事していたが、8月24日に日本海軍の空母部隊がソロモン諸島の北方から襲来し、東部ソロモン海戦(第二次ソロモン海戦)が生起する。空母サラトガの艦載機が空母龍驤を撃沈するも、エンタープライズも爆弾3発の命中弾と4発の至近弾を受け、後退を余儀なくされる。9月10日から真珠湾で本格的な修理が行われた。10月16日には再び南太平洋に向けて出撃した。

10月26日、エンタープライズはサンタ・クルーズ諸島沖海戦(南太平洋海戦)に参加。ホーネットと半年振りの任務部隊を編成するが、ホーネットは日本海軍の集中攻撃で撃沈され、ホーネットの艦載機を収容して奮戦していたエンタープライズも爆弾3発の命中弾により戦線を離脱することになった。先の第二次ソロモン海戦でワスプが沈没、サラトガも大破していたため、ソロモン諸島海域でアメリカ海軍は稼動可能な空母が一時的にゼロになってしまった。

10月30日、エンタープライズは真珠湾には戻らず、11月11日までニューカレドニアヌーメアで応急修理を実施した。しかし、ガダルカナル島の守りが危険な状態に陥ったため、工作艦の修理要員を載せたまま急行、第三次ソロモン海戦に参加した。エンタープライズの艦載機は戦艦比叡の離脱を妨害して巡洋艦衣笠を撃沈した。また、レンネル島沖海戦で日本海軍基地航空隊の攻撃に晒されている味方艦隊の直掩を行って被害の拡大を抑えるなど、損傷は完全に修理されていない状態であったものの、活躍を続けた。

エンタープライズは1943年2月1日にエスピリトゥ・サント島に寄港して修理を行い、5月27日に真珠湾に帰港した。エンタープライズは帰港後、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将からアメリカ海軍空母で初の大統領感状(プレジデンタル・ユニット・サイテーション)を授与された。ちょうどこの頃、捕虜となっていた豊田穣海軍中尉が特別許可を得てエンタープライズを見学した[2]。豊田は航空機を天井に吊るして搭載機を増やすという方法に感心している[3]。米軍も、空母搭乗員だった豊田にエンタープライズを見学させ、日米双方の空母について何気なく雑談することで、日本軍空母の情報を得ようとしていたのである[4]

中部太平洋戦線[編集]

エンタープライズは本格的な修理と改装が必要であった。7月20日ワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所で広範囲に渡る修理が行われた。ヨークタウン級空母に共通して魚雷攻撃に脆弱なことが開戦後に判明していたため、修理に併行して水雷防御も改善の工事が行われた。

エンタープライズは11月に戦線復帰し、11月19日から21日まで、ウェーキ島空襲に加わった軽空母ベロー・ウッドと10月に太平洋に回航されたモンテレーらとラドフォード少将指揮する第2群(第50任務部隊)を編成し、ギルバート諸島マキンに上陸する海兵隊の支援を行い、ガルヴァニック作戦に従事した(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。26日の夜間には日本海軍基地航空隊の攻撃を受けた際、エンタープライズは夜間戦闘機隊をもって迎撃に成功する(ギルバート諸島沖航空戦)。12月4日マーシャル諸島クェゼリン(環礁)の基地に打撃を与え、12月9日に真珠湾へ帰港した。エンタープライズは第58任務部隊(高速空母機動部隊)に加わって1944年1月29日から2月3日までマーシャル諸島上陸支援を行い、2月17日にはアメリカ軍のマーシャル諸島占領を易しくするためトラック島空襲を行った。この攻撃でトラック島に所在する基地機能と輸送船、航空機を破壊し、日本海軍の南太平洋、中部太平洋への進出力を奪った。

その後、エンタープライズは任務部隊を脱退して2月20日ヤルート(環礁)を空襲して上陸を支援し、マジュロ(環礁)を経由してエスピリトゥ・サント島に向かった。3月15日、第1群(第36任務部隊)に加わってビスマルク諸島のエミラウ島上陸支援にあたり、第58任務部隊に再び参加して12日間に渡ってカロリン諸島西部のヤップ、ウルシー、ウォレアイとパラオ諸島を空襲した(パラオ大空襲)。マジュロで一週間の補給と休養の後、第58任務部隊は4月14日にニューギニア島北岸のホーランディア上陸を支援し、4月29日には再度トラック島を空襲した。

6月6日、エンタープライズは第3群(第58任務部隊)の旗艦となってマリアナ諸島攻略支援のため、マジュロを出撃した。第58任務部隊は6月11日からサイパン、グアム、ロタを空襲して、6月15日に始まった上陸を支援した。マリアナ沖海戦では日本海軍の空母から発進した攻撃隊を撃退するだけでなく、日本海軍艦隊にも被害を与え、第58任務部隊はマリアナ諸島近海を離れず上陸部隊を援護した。

エンタープライズは7月5日までマリアナ諸島近海に留まっていたが、整備と休養のため真珠湾に帰港した。

フィリピン海戦線[編集]

エンタープライズは8月24日には戦線復帰し、第38任務部隊に所属して8月31日から9月2日にかけてカロリン諸島西部と火山列島の小笠原諸島を空襲した。

10月7日、エンタープライズはパラオ諸島攻略を終えた第38任務部隊の空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッド、サン・ジャシントらと第4群を編成し、10日から20日にかけて沖縄台湾フィリピンを空襲した。これらの連続的空襲で日本陸海軍の航空機を壊滅させ、港湾施設とそこに停泊する艦船に打撃を与えた。また、反撃してきた日本陸海軍の基地航空隊を返り討ちにした(台湾沖航空戦)。

10月20日にアメリカ軍はレイテ島に上陸し、日本海軍艦隊の突入から上陸部隊を守るため、第4群はシブヤン海に艦載機を送って戦艦武蔵の撃沈に貢献した(レイテ沖海戦)。また、エンガノ岬沖では小沢中将指揮の空母部隊に損害を与えた。第38任務部隊はサマール島沖とレイテ島沖で10月末まで警戒を続け、補給のためウルシー泊地に帰還した。エンタープライズは11月、フィリピンのマニラ周辺とヤップを空襲して12月6日に真珠湾に帰港した。

5月14日、神風攻撃を受けて前部エレベーターが損傷し、死傷者48名を出した。戦艦ワシントンから撮影。
カリフォルニア州アラメダ海軍基地に停泊するエンタープライズ(手前から2番目)。

硫黄島・沖縄戦[編集]

12月24日、エンタープライズは夜間戦闘機の運行訓練を開始した。1945年1月、第38任務部隊の第5群に加わってルソン島近海に進出し、南シナ海における日本本土と蘭印の海上補給ラインを遮断、掌握に協力してウルシーに帰還した。2月10日、第58任務部隊に戻ると、2月16日から東京空襲や硫黄島の攻略を目的としたデタッチメント作戦に参加(硫黄島の戦い)し、日夜問わず第58任務部隊の防空を担当した。また、空中哨戒を行うエンタープライズの戦闘機隊は交代を行いながら、174時間に渡って硫黄島に上陸した海兵隊を援護した。

3月15日、同任務部隊はウルシーを出撃して沖縄攻略を目的としたアイスバーグ作戦に先立って、主に九州に展開する日本陸海軍の飛行場と日本本土から海上輸送による沖縄救援を防止するため日本海に展開する輸送船を攻撃した。その間、エンタープライズは防空に専念していたが、3月18日に、日本海軍機一機(艦上爆撃機・彗星三三型と推測される)の奇襲爆撃により損傷を受け、3月20日には直援艦の誤射を受けて艦橋部を損傷したため、ウルシーに帰還して6日間修理を行った。

エンタープライズは4月5日に沖縄攻略を支援するため、ウルシーを出撃した(沖縄戦)。菊水作戦により出撃した戦艦大和を含む水上特攻隊への空襲にも参加したが、4月11日に特攻機による被害をうけてウルシーに引き返し、修理後は沖縄沖で防空に従事した。

5月14日、26機の日本機が飛来。6機が対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒機によって撃墜された。だが富安俊助中尉[5]搭乗の1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。そして午前6時56分、この1機がエンタープライズに向かって突撃してきた。エンタープライズは富安機を20分前からレーダーで認識していたが、富安機が雲に隠れるなどしたために、効果的な反撃が出来ずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けたときに富安機は満を持して急降下攻撃を実施。エンタープライズは集中砲火を行なったが、富安機は機体を横滑りさせるなどして回避、オーバーシュートする寸前に艦の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から急降下し、前部エレベーターの後部に突入した。前部エレベーターは爆発によって400フィート(≒120m)上空まで吹き上げられた。これによりエンタープライズは大破炎上し、破孔からの浸水によって前部は2.2メートル沈下し、深刻な損傷を負った[6]。火災は17分で消火されたが、飛行甲板の損傷により発着艦不能となった。富安中尉の遺体はエレベーターホールの下で発見され、アメリカ兵と同じように丁重に水葬された。 彼は海軍関係者から「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉を受けた。またこの時の機体の破片は後に、軍属の二級登録板金工だったノーマン・ザフトから富安中尉の家族に返還された。この日がエンタープライズにとっての最期の戦闘となった。

エンタープライズは戦列を離脱し、6月7日、ピュージェット・サウンド海軍工廠に到着。8月15日の終戦時にはドックで修理中だった。

太平洋戦争中の主な活動一覧[編集]

1942年(昭和17年)

1943年(昭和18年)

※ 9月に新型のエセックス級空母エセックス」と「ヨークタウン」が初めて実戦に参加。以後、エセックス級空母は続々就役し、アメリカの空母戦力は大幅に増強される。

1944年(昭和19年)

1945年(昭和20年)

戦後[編集]

1945年10月10日に艦首から撮影された本艦。

終戦後、損傷を回復したエンタープライズは10月17日に1,000人のアメリカ軍復員兵を真珠湾からニューヨーク州ニューヨークに輸送した。また、マジック・カーペット作戦と呼ばれる北アフリカからの復員任務に従事し、エンタープライズは一連の輸送任務で約11,000人をアメリカ本土に運んだ。

エンタープライズは1946年1月18日モスボール(不活性化)のため、ニューヨーク海軍工廠に入渠して、翌年の1947年2月17日に除籍となった。記念博物館としてエンタープライズを保存するため、いくつかの運動が実施されたが資金は集まらず、リプセット社にスクラップとして売却された。それでもヨークタウン級空母の特徴である三脚マストをアメリカ海軍士官学校に新設されるフットボールスタジアムに取り入れるため保存されたが十分ではなかった。1960年5月、エンタープライズは完全に解体された。

その代わりとして世界初の原子力空母CVN-65に「エンタープライズ」の名が「ビッグE」の愛称と共に受け継がれた。 なお、錨がワシントン海軍工廠内に保存されており、工廠内の海軍博物館とともに、一般人も見学可能である。

脚注[編集]

  1. ^ 「写真週報212号」p.5
  2. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』100頁「エンタープライズ見学記」
  3. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』105頁
  4. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』108頁
  5. ^ 筑波海軍航空隊所属、当時22歳。500キロ爆弾で爆装した零式艦上戦闘機に搭乗していた。この日、鹿屋基地から出撃した。
  6. ^ 乗組員から永らく“トイ・ザミ”と呼ばれていた、この機の搭乗員は、後の調査で第六筑波隊の富安俊助中尉(予備13期)である事が判明した。菅原完「空母エンタープライズに突入した「トミ・ザイ」を追え」 潮書房『丸』2010年7月号 No.711 p151~p159。筑波空・友の会公式サイト青春の証 筑波海軍航空隊 の富安俊助中尉の記事も参照。
  7. ^ エドワード 上巻 P.70
  8. ^ エドワード 上巻 P.82
  9. ^ エドワード 上巻 P.207
  10. ^ エドワード 上巻 P.249
  11. ^ エドワード 上巻 P.275
  12. ^ エドワード 下巻 P.9
  13. ^ エドワード 下巻 P.100
  14. ^ エドワード 下巻 P.113
  15. ^ エドワード 下巻 P.212
  16. ^ エドワード 下巻 P.281
  17. ^ エドワード 下巻 P.294
  18. ^ エドワード 下巻 P.303
  19. ^ エドワード 下巻 P.311
  20. ^ エドワード 下巻 p.325 p.334
  21. ^ エドワード 下巻 P.342
  22. ^ エドワード 下巻 P.347
  23. ^ エドワード 下巻 P.349

参考文献[編集]

  • 豊田穣『空母「信濃」の生涯 巨大空母悲劇の終焉』(光人社NF文庫、2000年) ISBN 4-7698-2275-8
     著者は海軍中尉。1943年4月、捕虜。収容中に空母「エンタープライズ」を見学。
  • エドワード・P・スタッフォード 著\井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E』上、下(元就出版社、2007年)
ISBN 978-4-86106-157-8、下 ISBN 978-4-86106-158-5

関連項目[編集]

外部リンク[編集]