赤城 (空母)

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AkagiDeckApril42.jpg
艦歴
建造者 呉海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
起工 1920年12月6日
進水 1925年4月22日
竣工 1927年3月25日
その後 1942年6月5日雷撃処分
除籍 1942年9月25日
主要諸元
艦種 航空母艦
艦級 天城型
排水量 基準:36,500t 公試:41,300t
全長 艦体:260.67m
水線長:250.36m
全幅 31.32m
機関 133,000hp
速力 最大30.2ノット
巡航16ノット
航続距離 8,200浬
乗員 1,630名[1]
兵装 20cm砲 6基6門
12cm連装高角砲 6基12門
25mm連装機銃 14基28門
艦載機 常用66機、補用25機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機:27機
飛行甲板 249.17m×30.5m
着艦識別文字: ア
その他 上記は近代化改装後の要目
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赤城(あかぎ)は、かつて大日本帝国海軍(以下日本海軍)に所属した航空母艦である。同型艦は「天城」(未成)。太平洋戦争初期の重要な海戦において、機動部隊旗艦として活躍したが、1942年6月、ミッドウェー海戦で沈没した。1930年代後半にドイツへ本艦の技術と設計図が譲渡され、交換として大和型戦艦建造用の工作機械が導入された。

艦名の由来[編集]

艦名は赤城山にちなんで命名された。日本海軍の軍艦としては、摩耶型砲艦赤城」に続いて二隻目[2]。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられた理由は、後述の艦種変更に起因する。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。

建造経緯[編集]

日本海軍が計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」[3]という規模の天城型巡洋戦艦2番艦として呉海軍工廠で建造され、1920年(大正9年)12月6日に起工した。完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった[4]。それでも巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合が続出している[5]。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった[6]。1925年4月22日、航空母艦「赤城」として進水した[7]

なお、本艦の同型艦である「天城」も同様に航空母艦に改造される予定であったが[4]関東大震災により竜骨を破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦「加賀」が航空母艦に改造された[8]。天城型3番艦・4番艦は「愛宕」「高雄」と命名されていたが[9]、この2隻は廃棄された[10]。のちに艦名のみ高雄型重巡洋艦愛宕」、「高雄」に使われている。

初期の艦形[編集]

建造当初の「赤城」の飛行甲板は、イギリス海軍空母「フューリアス」の第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(本艦は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中は、どの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった[11]

また煙突は右舷に設置され、重油専焼の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から現在の空母の中でも後にも先にも「赤城」だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った「加賀」で改装前に使用されていたものを移設したものである[12]

1929年に撮られた赤城。艦首に20cm連装砲塔2基が見える

上述の通り三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を10門装備する。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である。当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り(基準排水量で約1万トン減)、喫水が浅くなった。

機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛されている[13]。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめな数値で公表され、搭載機数については秘密であった[14]。また三段空母時代の艦影は広く知られていたが、飛行甲板一枚に統一された近代化改装以降の姿は有名ではなく、1940年(昭和15年)に発刊された書籍でも「加賀」が改装後の写真を公表している一方、「赤城」は三段甲板時代の写真が使われていた[15]セイロン沖海戦の前に本艦に乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代の「赤城」と近代化改装後の「赤城」の艦影が違うことに驚いている[16]

近代化改装[編集]

航空機の発達にともなって飛行甲板の延長が必要となり、先に大改装を行っていた「加賀」を参考に1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長するなどの近代化改装が佐世保海軍工廠で施された。艦型は一新され、排水量も41,300t(公試状態)となった。この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて常用の搭載機も66機に増えた。飛行甲板は中央部が水平で、艦首方向へ0.5度、艦尾方向へ1.5度の傾斜が付けられていた。 ただし「赤城」の改装は予算上の制約から「加賀」に比べると、丁寧ではなかったり略式なものにとどまり、用兵側からは不満の残る仕上がりとなった。 例えば飛行甲板では、木製の板の隙間を埋める防水充填剤が板と板の間からはみ出て、それが甲板上に黒く硬くなって残っているなど、他の空母にはこのような雑な飛行甲板の仕上げは見られなかったという[17]。旧石炭庫を居住室に転用するなど、艦内は迷路同然であった[18]

第一煙突と第二煙突は一つにまとめられ、右舷中央部に設置された。また艦橋を艦中央部に設置することになり、右舷のままでは煙突と干渉するため反対側の左舷中央部に設置した。この艦橋配置は右舷の煙突と相まって気流を乱し、艦載機の着艦を難しくさせた他、排煙が艦橋に流れ込みやすく、見張りに支障をきたすこと、格納庫面積が狭くなるといった欠点があり、以後は「飛龍」に採用されただけである。航空機の着艦時には煙突内に海水を噴射して煙を吸収させるため、煙突から滝が落ちているように見える[19]。右舷後部の居住区は煙突の排気が流れ込むため窓をあけられず、居住性の悪さから「人殺し長屋」の異名があった[20]。煙突を艦橋と一体化し、煤煙を上方へ逃がす欧米空母型の艦橋・煙突を採用した飛鷹型航空母艦隼鷹」を見た赤城将兵が、これからは軍艦の居住性が良くなると解説した事もある[21]。また「赤城」では結核赤痢を発症する兵が多く、暑さと空気の悪さのために廊下でハンモックを吊り睡眠する兵や、飛行機格納庫に寝床を作る兵が多かった[22]。食事は上等であったという[23]

武装面では、「加賀」と違って、旧式の十年式45口径12cm高角砲を、新式の八九式40口径12.7cm高角砲に換装・増強できなかった。設置位置も低い位置のままだったので、依然として反対舷方向は撃てなかった。96式25mm機銃の数は中型空母「蒼龍」と同じで「飛龍」よりも少なく、4万トン級という船体の大きさの割に、真珠湾攻撃に参加した空母6隻の中で対空火力は最も貧弱だった。三段甲板時代、中段甲板に設置されていた砲塔式の20cm砲は撤去されたが、艦尾舷側に装備した計6門の20cm砲は近代化改装後も装備していた。若手士官は「発射すると飛行甲板がめくれあがる無用の長物」と揶揄している[24]ミッドウェー海戦で「赤城」は20cm砲最低54発を発射しているが[25]、飛行甲板への影響については不明である。飛行甲板に手すりはなかったが、一段低い高角砲と機銃甲板の間にポケットと呼ばれる整備兵退避場所がある[26]。さらにネットが張ってあり、落下事故を防止していた[27]

三段の格納庫も船体の大きさの割には狭く、大蔵省の記録では、戦闘機27、攻撃機53、計80、補用機40、総計120(加賀は、戦闘機24、攻撃機45、計69、補用機31、総計100)となっているが[28]、実際の搭載機数は「加賀」、「翔鶴」、「瑞鶴」より少なかった。太平洋戦争開戦時の常用搭載機数は艦上戦闘機18機、艦上爆撃機18機、艦上攻撃機27機。加賀、翔鶴、瑞鶴はいずれも艦戦18、艦爆27、艦攻27である。航空機はエレベーターで上下するが、乗組員は左舷のタラップで飛行甲板へ上がった[20]

各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、速力は32.1ノットから30.2ノットに低下した。

航続距離もあまり延長されなかったため、遠距離外洋航行が問題になる真珠湾攻撃作戦の計画段階では「蒼龍」、「飛龍」とともに作戦から外されることが検討されたこともあった[29]

戦役[編集]

竣工後[編集]

1928年(昭和3年)6月、東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣等が「赤城」を訪れ、航空訓練を視察した[30]。1929年(昭和4年)になると山本五十六大佐(のち連合艦隊司令長官)が赤城艦長に着任しており、後年には山本元帥の乗艦としても国民に紹介されている[31]。他艦よりも汚れ、艦内清掃も行き届いていない第一航空戦隊旗艦「赤城」を見て同戦隊司令官高橋三吉少将が叱責したところ、松永寿雄赤城副長は「観艦式ならともかく、猛訓練を優先すれば、清掃や化粧(艦外観の塗装)が疎かになるのは当然」と反論[32]。山本艦長も「いざ実戦となったら、軍艦のお化粧よりも戦いが先だ。軍艦は散髪屋ではないし、ペンキを塗るのがその本職でもない」と副長の判断を是認した[33]

支那事変[編集]

第一次上海事変発生時には予備艦とされて一部改装工事を受けており、支那事変で空母部隊に出番のあった序盤も近代化改装を受けている最中だったため、ほとんど出番はなかった。1939年(昭和14年)、日本本土に戻った空母「加賀」と入れ替わるように第一航空戦隊旗艦となり、1月に横須賀軍港を出港[34]米内光政海軍大臣や草鹿龍之介軍令部第一課長等が主導する海南島攻略作戦に参加する[35]。佐世保軍港で九七式艦上攻撃機を搭載したのち、第二十九駆逐隊(追風、疾風)に護衛されて中国方面へ進出する[36]。「赤城」の航空戦力は艦戦18、艦爆12、艦攻18であった[37]。2月3日、香港島万山諸島万山湾に投錨[38]。その後、南支方面艦隊(司令官近藤信竹中将[39]、第五艦隊:第九戦隊妙高名取、第四水雷戦隊長良[40])と共に2月10日の海南島制圧作戦[41]を実施した[42]。「赤城」航空隊は水上機母艦千代田」、特設水上機母艦「神川丸」、陸海軍基地航空隊と協力し、海軍陸戦隊や陸軍部隊の上空掩護、地上支援を任じた[43]。「赤城」の出番はこれで終わり、有明湾に帰投して飛行機隊の訓練に従事した。日本海軍の海南島占領に対し、中華民国の蒋介石は「1931年9月18日の奉天攻略と対をなす、第二の奉天、太平洋上の満州事変である」と反発[44]。欧米列強も日本が日中戦争の枠を越えたと判断し、東アジアでの敵対構造が鮮明化していった[45]

太平洋戦争[編集]

「赤城」にとって、太平洋戦争(大東亜戦争)の真珠湾攻撃が本格的な初陣となり、「加賀」とともに第一航空戦隊を編成していた。 1941年11月9日から14日にかけて、重油の入ったドラム缶900本を搭載し、内火艇などもすべて陸揚げした[46]

第一航空戦隊所属の艦載機部隊は、艦上攻撃機隊64機が海軍航空隊鹿児島基地(戦後、旧鹿児島空港となる)、艦上爆撃機隊45機が海軍航空隊富高基地(戦後廃止され跡地は民間に開放、財光寺#沿革参照)を訓練基地として、そして第一航空戦隊ならび第二航空戦隊所属の艦上戦闘機隊72機は海軍航空隊佐伯基地(戦後廃止され跡地は民間に開放、佐伯海軍航空隊#戦後の佐伯飛行場参照)を訓練基地として[47]錦江湾志布志湾佐伯湾で演習を行い、11月16日佐世保基地にいた「加賀」以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。 その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日午前4時、第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」と駆逐艦9隻が動き出したのを皮切りに、時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、艦隊が最終集結する千島列島択捉島単冠湾を個別に目指した。「赤城」は同日午前9時に動き出し、単冠湾へ向かった。

11月19日、八丈島沖の「赤城」では飛行甲板上に全飛行機搭乗員が集められて真珠湾攻撃が訓示され、艦隊集結予定日通り11月22日の朝に単冠湾へ入る[48]。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日に単冠湾を出港し、南雲機動部隊の旗艦として一路ハワイ真珠湾へと向かった[49]

赤城からの真珠湾攻撃参加機[50]
第一次攻撃隊
九七式艦攻27機(水平爆撃隊15機=指揮官:飛行隊長淵田美津雄中佐、雷撃隊12機=指揮官:飛行隊長村田重治少佐)、零戦9機=指揮官:飛行隊長板谷茂少佐
第二次攻撃隊
九九式艦爆18機=指揮官:分隊長千早猛彦大尉、零戦9機=指揮官:分隊長進藤三郎大尉

12月8日午前1時30分、淵田中佐率いる第一次攻撃隊は「赤城」から発進した。日本軍航空隊の奇襲により、米軍太平洋艦隊は潰滅した。赤城第一次攻撃隊は零戦1機を喪失し、10機が被弾、戦死者2名を出した[51]。赤城第二次攻撃隊は九九艦爆4機を喪失し、13機が被弾、戦死者8名を出した[52]。「赤城」は日本への帰路につき、12月24日、日本本土に到着した[53]。1942年1月下旬ラバウルを攻撃し[54]、2月中旬のオーストラリアの港湾都市ポートダーウィン空襲[55]、3月5日チラチャップ攻撃と南太平洋を転戦する[56]

3月24日、第17駆逐隊の駆逐艦「谷風」で負傷者が発生し機動部隊旗艦「赤城」での治療を依頼したところ、赤痢患者多発のため受け入れを断る[57]。谷風負傷者は到着したばかりの空母「瑞鶴」にまわされた。3月26日、セレベス島を出港し、インド洋へ進出する[58]セイロン沖海戦では、他の空母とともにイギリス海軍重巡洋艦「ドーセットシャー」、空母「ハーミーズ」を撃沈するなど破竹の進撃を続けた[59]。一方で「ハーミーズ」攻撃直前、英軍のウェリントン爆撃機(著作や戦闘詳報ではブリストル・ブレニム爆撃機)から攻撃され、10発近い爆弾が「赤城」の艦首附近に落下する[60]。対空警戒警報も出されず、爆撃されてからはじめて高高度を飛行する英軍機の存在に気づき、高角砲を撃ち始める有様だった[61]。この時、飛行甲板の下の格納庫では、九七艦攻の装備を対地攻撃用の爆弾から艦艇攻撃用の魚雷に変更している最中だった[62]。護衛駆逐艦の間では「爆弾が赤城に命中していた方が、機動部隊の目が覚めたのではないか」との話があり、またミッドウェー作戦後にも同様の話題が繰り返されたという[63]。インド洋作戦中の1942年(昭和17年)4月1日、「赤城」の常用搭載機数は、艦戦18、艦爆18、艦攻18に減らされ、中型空母の「蒼龍」、「飛龍」と同じ航空攻撃力しか持たなくなった。4月24日、母港横須賀港に戻る[64]

ミッドウェー海戦[編集]

回避行動中の空母「赤城」

そして「赤城」は1942年6月に生起したミッドウェー海戦に参加する。ミッドウェー島占領後、基地航空隊の司令となる予定の森田大佐、飛行隊長、整備員達が「赤城」に乗り込み、士官室は手狭になった[65]淵田美津雄中佐(赤城飛行隊長)や村田重治少佐(雷撃隊隊長)ら飛行搭乗員達は、山本連合艦隊長官と戦艦大和」が南雲機動部隊の300浬後方をついてくることに「戦争見物でもするつもりか」と怒りを隠さなかったという[66]。5月27日の海軍記念日に「赤城」以下南雲機動部隊は日本から出撃する[67]。6月4日、艦橋の周辺にハンモックを丸めたマントレットを装着した[68]

日本時間6月5日午前1時30分、日本軍南雲機動部隊はミッドウェー島の米軍基地に攻撃部隊を発進させた[69]。「赤城」からは零式艦上戦闘機9機(空中戦で1機喪失[70])、九九式艦上爆撃機18機が発進した。空中攻撃隊総指揮官を務めるはずだった淵田美津雄中佐は盲腸手術からの回復期で出撃できず、飛行甲板から攻撃隊を見送った[71]。その彼の足元の航空機格納庫では、魚雷を搭載した九七式艦上攻撃機が米軍機動部隊出現に備えて待機している[72]。第一次攻撃隊発進後、魚雷を搭載した第二次攻撃隊の九七艦攻が飛行甲板に揚げられた[73]。午前4時、ミッドウェー基地攻撃を終えた第一次攻撃隊が『第二次攻撃の必要性あり』と伝達する[74]南雲忠一司令官は兵装転換を各艦に命令、第一航空戦隊(赤城、加賀)では飛行甲板の九七艦攻を格納庫に戻して魚雷を外し、陸用爆弾に転換する作業が始まる[75]

その最中、南雲機動部隊はミッドウェー基地から飛来した米軍航空機の空襲を受けた。「赤城」は攻撃を全て回避し[76]、直衛の零戦を発進させて米軍機の攻撃を撃退した[77]。午前4時40分、重巡洋艦「利根」の零式水上偵察機が予期せぬ米軍部隊の存在を報告したため[78]、南雲司令部は兵装転換を45分に一時中止する。5時20分に詳細が入り敵空母の存在を確認。5時30分、ミッドウェー基地への攻撃をとりやめ、米軍機動部隊を攻撃するため魚雷兵装転換命令を出す[79]。さらに南雲機動部隊上空に帰還した第一次攻撃隊の着艦や、直衛戦闘機の燃料・弾薬補給の着艦・発艦を優先させた。「赤城」の格納庫では兵装転換を終えていた6機の九七艦攻への魚雷再装着作業が始まる[80]。格納庫には、取り外された爆弾が乱雑に転がっている状態となった[81]

「赤城」は第一次攻撃隊27機の収容を優先し、午前6時18分に収容を終える[82]。その後も米軍は南雲機動部隊に波状攻撃を行い、直掩の零戦隊は米軍のTBFアベンジャー雷撃機に対応するため海面付近に降下した[83]。各艦の注意が低空に向いていた日本時間午前7時26分、「赤城」はアメリカ海軍空母「エンタープライズ」から発進した艦上機SBD ドーントレス急降下爆撃を受ける[84]。面舵にて回避に努めたが、2発が命中、1発が至近弾となる[85]。至近弾となった最初の1発は艦橋左舷数十mで炸裂[86][87]、命中した2発は1発目が中部エレベーター付近に命中し[87]、飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂[84]。2発目が左舷後部甲板縁で炸裂[84][87]を破壊した。「赤城」飛行甲板にいた牧島カメラマンによれば、初弾が左舷艦橋附近至近弾、次発が飛行甲板中央、三発目が艦尾至近弾となり、飛行甲板後部がめくれあがったという[88]。艦橋にいた橋本信号兵曹も、三発目は命中弾ではなく至近弾と回想している[89]。当時、「赤城」の飛行甲板上では直衛戦闘機の発艦準備中で、零戦1機(木村惟雄一飛曹)が発艦を終えた直後だった[90]。木村によれば、「加賀」「蒼龍」が被弾炎上するのを見て、咄嗟に発進準備中の隊長機に乗り発進したと回想している[91]。滑走中だった二番機は甲板中央で逆立ちとなり、炎上した[92]

「赤城」の格納庫内には3機の零戦、魚雷装備艦攻18機、第一次攻撃隊として着艦収容したばかりの艦爆18機があった[93]。特に九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、これらが誘爆を始め、「赤城」の致命傷となった[94][84]。午前7時42分、「赤城」は舵故障により洋上に停止[95]。乗組員は炎上する飛行甲板にいられず、前部錨甲板か後部甲板に追い詰められてしまう[96]。艦橋にも炎に追われた乗組員が逃げ込んだが、その艦橋にも逆立ちとなった炎上零戦から延焼し[95]、南雲中将や草鹿龍之介参謀長ら司令部は艦橋前面の小窓から飛行甲板に下りた[97]。彼らは艦首前甲板に移り、短艇で「赤城」を脱出した[98]源田実航空参謀は「(珊瑚海海戦で損傷・消耗した)翔鶴瑞鶴」がいれば…」とつぶやき[99]、その後は南雲中将以下、全員が無言だったという[100]。午前7時46分、南雲忠一第一航空艦隊司令長官と司令部人員は軽巡洋艦長良」(第十戦隊旗艦)に移乗した[101][102]。駆逐艦を経由したかどうかは、複数の証言が伝えられる。第十駆逐隊司令艦「風雲」(司令官阿部俊雄大佐)の吉田正義駆逐艦長によれば、「赤城」内火艇で南雲長官以下司令部が「風雲」に移乗、続いて「長良」に移っていったという[103]。牧島カメラマンや橋本の回想では「長良」に直接移乗している[104]。上空の木村も、「赤城」から「長良」へ向かうカッターボートを目撃している[105]。橋本によれば、駆逐艦「」(第四駆逐隊司令艦)が「赤城」左舷後部至近距離に停泊して南雲司令部の移乗を待っていたところ、「赤城」左舷前方500mに停泊した「長良」からも迎えの短艇2隻が来たため、水雷戦隊の旗艦である「長良」に移乗艦を変更したらしい[106]戦闘詳報戦史叢書では、この時接近した駆逐艦を「野分」と記している[95][107]

沈没[編集]

「赤城」は魚雷を被雷しておらず、格納庫内部の誘爆によって内部から焼き尽くされていった。甲板士官が独断で防火扉を開放したため、負傷者の移動と応急班員の移動を迅速に行うことが出来たという[108]。午前8時、機関部との連絡が途絶[109]。罐室の機関科兵は脱出に成功したが、タービン室と発電機室の兵は脱出連絡が間に合わず、全員戦死した[110]。午前8時20分、青木泰二郎大佐は火勢が強まった艦橋から飛行甲板前部に移ると[111]、負傷兵の駆逐艦移乗を命じる[112]。この時点で格納庫内の魚雷と爆弾の誘爆により飛行甲板は大火災となり、艦長以下幹部達は艦首錨甲板(飛行甲板と船体の間)に追い込まれた[113]。午前9時3分、「赤城」はなぜか自然に前進をはじめ、右回りに円を描いた[114]。午前10時38分、昭和天皇の写真(御真影)を駆逐艦「野分」に移す[115]。この後、後部との連絡が可能となったが、正午ちょうどに前部格納庫で再び大爆発が起きた[116]。午後1時、青木艦長は「赤城」は一部の乗組員を駆逐艦「野分」や「嵐」に移乗させた[117]。それでも青木は「赤城」を救おうと努力し、午後3時20分には機関部の復旧を試みたが、ガスと熱気のため作業不可能であった[118]

午後4時20分、赤城機関長の「自力航行不可能」の報告をもって青木艦長は総員退去を決定[119]。自沈のため、駆逐艦の魚雷発射を要請した[119]。午後5時、乗組員は艦長の訓示を受け、駆逐艦「嵐」、「野分」に移乗を開始する[120]。午後7時、「嵐」に約500名、「野分」に約200名が移乗した[121]。ところが午後7時25分、後方の主力部隊・旗艦大和」に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官(旧赤城艦長)から「赤城の処分は待て」と命令が入る[101][121]。午後7時30分、青木艦長は第四駆逐隊の有賀幸作司令官(後の戦艦「大和」艦長)、三浦中佐(赤城航海長)、増田正吾中佐(赤城飛行長)[122]等の説得により「嵐」に移ったため[123]、「赤城」は無人のまま漂流を続けた。日付が変わる頃、沈没した空母「加賀」の乗組員を救助していた「萩風」と「舞風」が合流、有賀は「今夜は赤城の警戒に任じ、敵艦来たらば刺違え戦法をもってこれを撃滅せんとす」を発令し、第四駆逐隊各艦は「赤城」の周囲を往復して警戒を行った[124]

午後11時55分、空母「飛龍」の喪失により勝敗が決したことを悟った山本長官は、連合艦隊電令第161号にてミッドウェー攻略中止を各部隊に命じる[125]。日本時間6月5日午後11時50分、山本長官は魚雷による「赤城」の処分を命令した[101][126]。第四駆逐隊は日付変更の時点でも燃えていると報告したが[126]、この頃になると可燃物が全て燃え尽きたため、「赤城」は焼け焦げた姿で漂流していたという[123][127]。一方、未だ誘爆が起きていたという証言もある[128]。6月6日午前2時、第四駆逐隊各艦(航行順野分萩風舞風)は「赤城」右舷に対し各1本を発射する[126][129]。4本の魚雷のうち2ないし3本が命中(萩風砲術長によれば、嵐・萩風の魚雷命中・起爆[130])。1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、北緯30度30分、西経178度40分の地点で、「赤城」は艦尾から沈んでいった[101][131]。「萩風」によれば、沈没時刻は現地時間午前4時55分(日の出五分前)[132]。駆逐艦に分乗した赤城生存者は連合艦隊主力部隊と合流後、戦艦「陸奥」に移乗して日本本土へ向かった。

ミッドウェー海戦時の「赤城」に乗り組んでいた実員は不明である。これはミッドウェー基地占領時、同島基地に進出するための基地要員や兵員が便乗していた為である。「赤城」の定員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死した[133]。機関科員が閉じ込められた「加賀」、「蒼龍」と異なり、その多くが救出されたため人的被害はこの二艦ほど多くはなかった。同海戦における赤城搭載機搭乗員の戦死者は機上3名、艦上4名の合わせて7名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻2名)で[134]、淵田中佐、板谷少佐、村田少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。「赤城」炎上後も、数機の零戦が空母「飛龍」に着艦したが[135]、その後の戦闘や「飛龍」沈没によって全機が失われた。「赤城」被弾直前に発進した木村の零戦も、エルロン故障のため、「飛龍」着艦後海中投棄された[105]

艦歴[編集]

主要目一覧[編集]

要目 竣工時 近代化改装後
排水量 基準:26,900t 公試:34,364t 基準:36,500t 公試:41,300t
全長 261.2m(763呎) 艦体:260.67m
水線長:250.36m
全幅 29.0m 31.32m
吃水 8.1m
飛行甲板 190.2m x 30.5m (上段) 249.17m×30.5m
主缶 ロ号艦本式専焼缶11基
ロ号艦本式混焼缶8基
機関 技本式タービン8基4軸 131,200hp 133,000hp
速力 最大32.1ノット 最大30.2ノット 巡航16ノット
航続距離 8,000カイリ / 14ノット時 8,200浬
乗員 1,297名 1,630名[136]
兵装 50口径20cm連装砲2基4門
50口径20cm単装砲6基6門
45口径12cm連装高角砲6基12門
20cm砲 6基6門
12cm連装高角砲 6基12門
25mm連装機銃 14基28門
搭載機 三式艦上戦闘機:16機
一〇式艦上偵察機:16機
一三式艦上攻撃機:28機
合計:60機
常用66機、補用25機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機:27機
着艦識別文字

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』43-46頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長[編集]

  1. 海津良太郎 大佐:1925年12月1日 -

艦長[編集]

  1. 海津良太郎 大佐:1927年3月25日 -
  2. 小林省三郎 大佐:1927年12月1日 -
  3. 山本五十六 大佐:1928年12月10日 -
  4. 小林省三郎 大佐:1929年10月8日 -
  5. 北川清 大佐:1929年11月1日 -
  6. (兼)原五郎 大佐:1930年10月26日 -
  7. 和田秀穂 大佐:1930年12月1日 - 1931年8月28日
  8. 大西次郎 大佐:1931年8月28日 -
  9. 柴山昌生 大佐:1931年12月1日 -
  10. 近藤英次郎 大佐:1932年12月1日 -
  11. 塚原二四三 大佐:1933年10月20日 -
  12. 堀江六郎 大佐:1934年11月1日 -
  13. 松永寿雄 大佐:1935年11月15日 -
  14. 寺田幸吉 大佐:1936年12月1日 -
  15. 茂泉慎一 大佐:1937年8月27日 -
  16. 水野準一 大佐:1937年12月1日 -
  17. 寺岡謹平 大佐:1938年11月15日 -
  18. 草鹿龍之介 大佐:1939年11月15日 -
  19. 伊藤皎 大佐:1940年10月15日 -
  20. 長谷川喜一 大佐:1941年3月25日 -
  21. 青木泰二郎 大佐:1942年4月25日 -

ドイツへの技術供与[編集]

1935年(昭和10年)6月に英国との海軍協定(対英比率35%)を締結したナチス・ドイツ海軍は、2隻の空母建造を計画した。空母建造の経験を持たない同海軍は、事前にフリードリヒ・ハック(日独協会理事、シンツィンガー・ハック商会代理人)を通じて第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の帰途にあった大日本帝国海軍中将山本五十六アドルフ・ヒトラー総統との面会を打診、ヒトラーとの対面は実現直前にキャンセルされたが、ベルリンにてエーリヒ・レーダー海軍軍令部部長、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ軍縮問題担当全権代表、ポール・ベンケ英語版提督と山本の会談が実現する[137]。日本海軍とドイツ航空産業との関係は深く、また山本も九九式艦上爆撃機や新型艦上戦闘機(零式艦上戦闘機)の開発にあたってドイツの技術に強い関心を示していた[138]。実際に、「赤城」の視察はハインケル社からの急降下爆撃機の技術導入が交換条件の一つであり、ドイツ側も、かつて山本が艦長を務めた「赤城」を敢えて指定した可能性がある[139]。当時、ドイツ陸軍は蒋介石中華民国)と密接な関係を持ち軍事支援を行う一方、日本陸軍に対しては非常に冷淡であった[140]。日本側も、空母を巡る交流からドイツの最新技術を取り入れたい思惑があり、軍務局の黒島亀人艦政本部が準備を進めた[141]

なお、ドイツに技術提供がなされた当時の「赤城」は三段飛行甲板であり、大改装前の状態である[142]

1935年1月24日、山本のベルリン訪問直後にドイツ海軍は「ドイツ海軍将校によるに日本の軍艦調査」の依頼を通知、続いて駐日ドイツ海軍武官ヴェネガ―中佐が「赤城」を見学、4月に鹿屋にて「赤城」搭載機訓練が許可された[142]。8月、日独海軍間で正式に協定が結ばれ、「航空母艦赤城について、その設計から訓練方法まで、一切の秘密を公開し、ドイツ側の技術者及び飛行将校の視察」が許可される[142]。日本帰国後の山本は12月に航空本部長職に着任するまで出仕のままであったが、思い入れのある「赤城」の技術移転に何らかの指導力を発揮したと思われる[142]。9月、ドイツ技術使節がアメリカ経由で日本に到着すると、海軍省で「赤城」のブループリントが提供された[143]。これら「赤城」の技術を参考して建造が開始されたのが、ドイツ空母「グラーフ・ツェッペリン」(1936年末起工)であった。

1936年(昭和11年)2月、小島秀雄(在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督官兼航空本部造兵監督官)がドイツに着任、レーダー海軍総司令官から「赤城」技術移転について感謝されたのち、小島は呉海軍工廠用の1万5000トン水圧機と室蘭用ローリングマシーン、最新防御甲鉄板(クルップ社)を発注する[144]大和型戦艦建造のために絶対必要な技術であり、また「赤城」技術移転の交換条件の一つでもあった[144]。一連の日独技術交流は、いわば空母「赤城」と戦艦「大和」の交換であった[142]

その後、第二次世界大戦勃発後には「赤城」の設計図が九五式酸素魚雷などと共にドイツに届けられた(遣独潜水艦作戦)が[145]、空母「グラーフ・ツェッペリン」は遂に完成されることはなかった。1942年6月上旬のミッドウェー海戦で「赤城」が沈没すると、海軍(山本と黒島)は「グラーフ・ツェッペリン」を買収して日本海軍に編入しようとした[146]。しかしドイツ側は「グラーフ・ツェッペリン」の極東回航は不可能であると拒否し、代艦として神戸港に係留されていた客船「シャルンホルスト」を譲渡、同船は1943年(昭和18年)12月、空母「神鷹」として竣工した[146]

赤城が登場する作品[編集]

  • 安倍季雄 著[他]『幼年冒険小説集』(1929年、国民図書) - 子供向け冒険小説。最新鋭艦として物語中盤から登場し、恐竜を探す主人公達が乗艦する。海賊退治のため南方へ派遣される。
  • 『日本ニュース第99号<凱歌高しインド洋>』(1942年4月28日) - セイロン沖海戦全般を国民に向け報道するニュース映画で、赤城の飛行甲板上で零戦の発艦作業及び零戦と九七式艦攻の発艦シーンが撮影されている。NHK戦争証言アーカイブスにて全編を無料視聴可能。
  • 『日本海軍艦艇集【下】』(2005年、コニービデオ発売。ASIN B000A6K8AG) - 過去に発売されていたVHS製品のDVD版。日本海軍が撮影したフィルムのうち未公開の映像を集めて解説を加えた物。真珠湾攻撃に出撃する直前に赤城の外舷を塗装している模様などが撮影されている。
  • ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、東宝) - 記録映像の流用やミニチュアによる特撮映像のほか、艦橋や飛行甲板を再現した実物大のセットが千葉県の海岸に建てられ、攻撃隊の発艦シーンなどが撮影された。
  • 太平洋の鷲』(1953年、東宝) - 真珠湾攻撃の場面を中心に『ハワイ・マレー沖海戦』や戦中の記録映像を流用した。なお、ミッドウェイ海戦の場面はミニチュアや実物大セットを用いて新規に撮影されている。
  • ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』(1960年、東宝) - 洋上航行が可能な大型のミニチュアが製作され、航行シーンが三浦半島沖で撮影された。
  • 連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年、東宝) - 瀬戸内海に停泊する姿やミッドウェイ海戦の場面で特撮映像が新規撮影されたが、発艦シーンなどは『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』で飛龍として撮影したものを一部流用した。
  • トラ・トラ・トラ!』(1970年、20世紀フォックス) - 日本側での撮影用として福岡県の海岸に実物大セットが製作された。なお、アメリカ側で撮影された攻撃隊発艦シーンの撮影にレキシントンを使用した関係上、実物大セットや特撮用ミニチュアの艦橋配置は実物と異なる右側とされている。
  • ダイ・ハード』(1988年、20世紀フォックス) - ナカトミコーポレーションの債券が納められた金庫のセキュリティロックを解除するためのパスワードとして登場。戦歴のみが表示される画面から赤城という艦名を割り出し、然る後「赤城」を英訳した「RED CASTLE」を端末に入力することでロックが解除されるというもの。
  • 永遠の0』(2013年、東宝) - 甲板のオープンセットが千葉県南房総市白浜運動公園の崖に建設され、SBDドーントレスから急降下爆撃を受け被弾するシーン等が約2ヶ月間撮影された。ミッドウェー海戦での航行、沈没のシーン等は、海上自衛隊保有のたかなみの協力の下、それまでの邦画としては最大規模の空撮とVFXを用いて再現された。[147]

なお、『ミッドウェイ』(1976年、ユニバーサル映画)や『連合艦隊』(1981年、東宝)でも赤城は登場するが、映像の多くは『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』や『トラ・トラ・トラ!』などから流用、編集したものである。

参考文献[編集]

  • 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
    • 安倍季雄 著[他]『幼年冒険小説集』(国民図書、1929年)
    • 中島武『航空母艦』(三省堂、1930年)
    • 宇都宮敏雄『軍艦写真帖』(宇都宮本店、1936年)
    • 海軍研究社編纂部『日本軍艦集 : 2600年版』(海軍研究社、1940年)
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』(海軍研究社、昭和12乃至15)
    • 朝日新聞社 編『航空母艦』(朝日新聞社、1942年)
    • 永松浅造『海軍航空隊』(東水社、1942年)
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』(海軍研究社、昭和12乃至15)
    • 高橋三吉著『海を征く』(東水社、1943年)
    • 秦賢助 著『聖将:山本元帥伝』(鶴書房、1943年)
    • 大木雄二 著『山本元帥 : 少国民伝記』(講談社、1944年)
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070076900 『大正9年達完/3月』。
    • Ref.C11080422300 『在本邦 仏伊大使館附武官との往復文書 大正14年/第508号大正14年2月16日 赤城、加賀、愛岩、高雄の処分』。
    • Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
    • Ref.C04015098600「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
    • Ref.C04015099100「赤城建造予算減額の件」
    • Ref.C04015098800「4月16日附進達呉工機密第182号14航空母艦赤城工事予定概括表の件」
    • Ref.C05034244800「第1168号 10.3.22 横厰工第29号の56航空母艦赤城艦橋見張所新設の件」
    • Ref.C08050174000「軍艦尾張製造の件」
    • Ref.C04015628700「赤城艦隊編入に関する件」
    • Ref.C04015274000「教練運転成績表 赤城」
    • Ref.C08051350900「軍艦赤城」
    • Ref.C04015069300「航空母艦赤城満艦飾不施行の件」(三段空母時代の図面付。艦側面図、機密保持のため消去)
    • Ref.C11110378100 『登號(Y)作戦の爲 第21軍第5艦隊間協定 昭和14年1月21日 於廣東軍司令部』。
    • Ref.C11110378400 『登號(Y)作戦の爲 飯田支隊 第4飛行団 第1航空部隊 第2航空部隊間協定案 昭和14年1月26日 於廣東軍司令部』。
    • Ref.C08051579600「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」
    • Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
    • Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」
    • Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)」
    • Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)」
    • Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)」
  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
    • Ref.A09050370500「飛行機格納数」
    • Ref.A06031028400『週報 第122号』
    • Ref.A06031028500『週報 第123号』「海南島攻略の新展開」
    • Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」
  • 防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書10 ハワイ作戦海戦』(朝雲新聞社、1967年)
  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。
    倉橋は1941年9月~1942年9月まで駆逐艦「萩風」砲術長勤務。
  • 防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社、1971年)
  • 澤地久枝 『記録ミッドウェー海戦』 文藝春秋社、1986年5月。
  • 橋本敏男田辺弥八ほか 『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』 光人社、1992年ISBN 4-7698-0606-x
  • 宮尾直哉 『空母瑞鶴から新興丸まで 海軍軍医日記抄』 近代文藝社、1992年3月。ISBN 4-7733-1211-4 著者は1941年11月18日~1943年2月15日まで瑞鶴勤務。
  • 松田憲雄 『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』 光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9
    松田は九七式艦上攻撃機電信員。ミッドウェー海戦後、嵐に救出され、翔鶴に転属。
  • 小林昌信ほか 『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』 光人社、1995年
    • 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(著者は整備科。1938年12月17日、赤城配属。1940年5月10日転勤)
  • 亀井宏 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7
  • 生出寿 『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』 光人社、1996年12月。ISBN 4-7698-2143-3
  • 橋本廣 『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』 光人社、2001年ISBN 4-7698-1028-8
    橋本は南雲司令部信号兵、艦橋勤務。1938年12月15日「赤城」配属。回想中に牧島貞一も登場する。
  • 牧島貞一 『炎の海 報道カメラマン空母と共に』 光人社、2001年ISBN 4-7698-2328-2
    牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦を体験。
  • 牧島貞一 『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』 光人社、2002年ISBN 4-7698-2339-8
    『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。前作は南太平洋海戦まで収録。
  • 相澤淳 『海軍の選択 再考 真珠湾への道』 中央公論新社、2002年12月。ISBN 4-12-003304-x
  • 淵田美津雄 『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』 講談社、2007年12月。ISBN 978-4-06-214402-5
  • 秋本実編 『伝承・零戦空戦記2 零戦の攻防 母艦部隊の激闘/ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ガ島戦』 光人社、2010年3月。ISBN 978-4-7698-1459-7
    非情の海ミッドウェー・アリューシャン「赤城戦闘機隊最後の戦い」 元赤城戦闘機隊・海軍一飛曹 木村惟雄(15-22頁)
  • 戸高一成編 『[証言録] 海軍反省会3』 PHP研究所、2012年2月。ISBN 978-4-569-80114-8
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

脚注[編集]

  1. ^ 『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』
  2. ^ 『幼年冒険小説集』p.27
  3. ^ 「軍艦尾張製造の件」pp.17-19
  4. ^ a b 「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
  5. ^ 「赤城艦隊編入に関する件」pp.6-7
  6. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」p.2-3
  7. ^ 「軍艦赤城」p.14等
  8. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
  9. ^ #大正9年達3月p.19『達第三十號 軍備補充費ヲ以テ建造ニ着手スヘキ巡洋戦艦二隻及二等巡洋艦一隻ヲ左ノ通命名セラル 大正九年三月二十六日 海軍大臣加藤友三郎|巡洋戦艦二隻 高雄(タカヲ)、愛宕(アタゴ)|二等巡洋艦一隻 由良(ユラ)』、p.21『達第三十二號 艦艇類別等級別表巡洋戦艦ノ欄「赤城」ノ次ニ「、高雄、愛宕」ヲ、巡洋艦二等ノ欄「名取」ノ次ニ「、由良」ヲ加フ』
  10. ^ #赤城加賀愛宕高雄の処分p.1『愛宕 龍骨ヲ据付テ後解体廃棄|高雄 仝右』
  11. ^ 「赤城建造予算減額の件」p.7-8
  12. ^ 『世界の艦船 2011年1月号増刊 日本航空母艦史』21頁
  13. ^ #続 炎の海16頁
  14. ^ 「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」pp.5,29
  15. ^ 『日本軍艦集 : 2600年版』p.13-14
  16. ^ #続 炎の海24頁
  17. ^ 歴史群像シリーズ太平洋戦史スペシャルvol.3「決定版 日本の航空母艦」学研パブリッシング p.10
  18. ^ #続 炎の海33頁
  19. ^ #続 炎の海41頁
  20. ^ a b #炎の海149頁
  21. ^ #続 炎の海51頁
  22. ^ #続 炎の海38-39頁
  23. ^ #続 炎の海91頁
  24. ^ #続 炎の海42頁
  25. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10
  26. ^ #続 炎の海30頁
  27. ^ #炎の海147頁
  28. ^ 「飛行機格納数」(航空隊設備関係説明資料)
  29. ^ 『戦史叢書10 ハワイ作戦』111頁、文芸春秋『完本・太平洋戦争〈上〉』1991年39-40頁
  30. ^ 『海を征く』(東水社、1943年)p.6
  31. ^ 『山本元帥 : 少国民伝記』p.55、『聖将:山本元帥伝』p.98
  32. ^ 『聖将:山本元帥伝』p.99
  33. ^ 『聖将:山本元帥伝』p.100
  34. ^ #橋本信号員47頁
  35. ^ #海軍の選択p.139-140
  36. ^ #大和檣頭下に死す214頁
  37. ^ #登號(Y)作戦の爲第21軍第5艦隊間協定p.18
  38. ^ #橋本信号員48頁
  39. ^ 『週報 第123号』p.17
  40. ^ #登號(Y)作戦の爲第21軍第5艦隊間協定pp.12,14,44
  41. ^ 『週報 第122号』p.17「大本営陸海軍部公表、昭和14年2月10日、海南島奇襲上陸に成功せり」
  42. ^ #大和檣頭下に死す215-217頁、#橋本信号員47頁
  43. ^ #登號(Y)作戦の爲飯田支隊第4飛行団第1航空部隊第2航空部隊間協定案p.13
  44. ^ #海軍の選択pp.157-158
  45. ^ #海軍の選択pp.180-181
  46. ^ #橋本信号員64頁
  47. ^ 面白いほどよくわかる太平洋戦争 日本文芸社 p.37
  48. ^ #電信員遺稿11-12頁
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]