フランクリン (空母)

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USS Franklin
艦歴
発注
起工 1942年12月7日
進水 1943年10月14日
就役 1944年1月31日
退役 1947年2月17日
除籍 1964年10月1日
その後 1966年にスクラップとして売却
性能諸元
排水量 基準27,100トン
満載36,380トン
全長 水線長820 ft、全長872 ft
全幅 水線長93 ft、全幅147 ft 6 in
吃水 満載:34 ft 2 in
機関 ウェスティングハウス製蒸気タービン4機, 4軸推進, 150,000 shp
最大速 33ノット
航続距離 20,000海里(15ノット時)
乗員 士官、兵員 2,600名
兵装 連装38口径5インチ砲4基
単装38口径5インチ砲4基
56口径40mm4連装機関砲8基
単装78口径20mm機関砲46基
搭載機 90 - 100機
エレベーター 中央2基、舷側1基
カタパルト

フランクリン (USS Franklin, CV/CVA/CVS-13, AVT-8) は、アメリカ海軍航空母艦エセックス級航空母艦の5番艦。その名を持つ艦としては5隻目。艦名はベンジャミン・フランクリンに因んで命名された前の4隻を引き継いだ。

「ビッグベン Big Ben」の愛称で呼ばれたフランクリンは、第二次世界大戦において何度も損傷を受けながらも残存した艦の一つとして有名である。特に、1945年3月の九州沖航空戦において、日本海軍機の急降下爆撃により大破しながらもかろうじて沈没を免れ、アメリカ本国に帰還したエピソード(後述)はゲーリー・クーパーが主演した1949年の映画『機動部隊 Task Force』でも描かれている。


就役[編集]

フランクリンはバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で1942年12月7日に起工し、1943年10月14日にミルドレッド・H・マカフィー少佐によって命名、1944年1月31日にジェームズ・J・シューメイカー艦長の指揮下就役した。艦の乗員の中には当時徴兵されていたプロ・ミュージシャンのサクシー・ドーウェルディーン・キンケードがおり、艦のバンド・メンバーであったが彼らはくじによってフランクリンに配属されていた。

フランクリンはトリニダード島へ調整航海を行い、27.7空母機動部隊に配属、演習訓練に参加のためサンディエゴへ向けて出航した。6月には58.2空母機動部隊に参加、エニウェトク環礁へ向けて真珠湾経由で出港した。

小笠原、マリアナ諸島攻略[編集]

1944年6月末、フランクリンは小笠原諸島攻略部隊に配属される。同部隊はマリアナ諸島攻略部隊の支援部隊であった。7月4日に硫黄島父島母島に対する攻撃が始められ、フランクリンの艦載機は対地攻撃を行い、港に停泊する大型輸送艦を撃沈、三隻の小型船舶を破壊した。

7月6日にフランクリンはグアムロタ島に対する攻撃を行う。第一陣攻撃部隊の安全な上陸を可能とするために21日まで直接攻撃を継続した。サイパンで二日間の補給を受け、第58機動部隊と行動を共にし、パラオへの偵察写真撮影と航空攻撃を行う。フランクリンの艦載機は25日と26日に作戦活動を行い、敵機および地上建造物、船舶への打撃を与えた。7月28日には部隊を離れサイパンへ向かい、58.1空母機動部隊に配置転換される。

8月4日には再び小笠原諸島に対して攻撃を行う。フランクリンの艦載機は父島、弟島の無線所、水上機基地、応急滑走路、船舶に対して攻撃を行った。

8月9日から28日までエニウェトクで休養した後、フランクリンはエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 、ベロー・ウッド (USS Belleau Wood, CVL-24) およびサン・ジャシント (USS San Jacinto, CVL-30) と共に出発、8月31日から9月2日までフランクリンは多くの対地攻撃、二隻の貨物船を撃沈、敵機を多数撃墜し、写真調査も行った。

ペリリュー島攻略[編集]

9月4日、フランクリンはサイパンで補給を受け、ヤップ島攻略(9月3日 - 6日)を行う 38.1 機動部隊の一部として出港した。15日にはペリリュー島攻略のために航空支援を行い、同部隊は9月21日から25日までマヌス島で補給を受けた。

フランクリンは 38.4 機動部隊の旗艦としてパラオ海域へ戻り、連日偵察機と夜間戦闘機を飛行させる。10月9日、レイテ島攻略のための空母部隊と合流する。10月13日の早朝に機動部隊は4機の爆撃機による攻撃を受けた。フランクリンは二発の魚雷をかろうじて回避した。敵機はフランクリンの後部デッキに衝突し、艦橋と飛行甲板を横切り船体右舷の海上に落下した。

台湾沖航空戦レイテ沖海戦[編集]

14日の午前、フランクリンの艦載機はアパリルソンへの攻撃を行う。レイテ島攻略に先立って敵の抵抗を一掃するためであった。16日にフランクリンは日本海軍三機によって攻撃され、その内の一機は飛行甲板端のエレベーター付近に爆弾を命中させた。3名が死亡し22名が負傷した。しかしながらフランクリンは作戦行動を継続し、10月19日にはマニラ湾で敵艦を多数撃沈、乾ドックと11機の航空機も破壊した。

レイテ島上陸作戦初期の10月20日に、フランクリンの艦載機は周囲の臨時滑走路を攻撃し、敵部隊の探索を行った。10月24日の午前におけるシブヤン海の戦いでは、栗田健男中将率いる第一遊撃部隊に対する攻撃部隊の一部として、ルソン南方で戦艦武蔵の撃沈及び扶桑山城への攻撃、駆逐艦若葉の撃沈に貢献した。

しかし、10月29日、レイテ島に上陸した米軍に対する支援作戦任務遂行中、ルソン島の海軍航空基地から出撃した神風特別攻撃隊の複数の特攻機の攻撃を受け、一機の爆装零戦が飛行甲板に体当たりして火災が発生し、フランクリンは中破した。また、別の爆装零戦一機は、軽空母ベロー・ウッドに体当たりして同艦を損傷させた。

フランクリンとベロー・ウッドは応急修理のためウルシー泊地へ帰還し、フランクリンは1944年11月28日にピュージェット・サウンド海軍工廠へ向かった。その間の11月7日にレズリー・H・ゲーレス艦長がシューメイカー艦長と交替した。

フランクリンは訓練演習の後、1945年2月2日にブレマートンを出港、沖縄上陸支援のための日本本土攻略部隊、 58.2任務群に加わる。3月15日に同部隊に合流、三日後の3月18日に九州南部、鹿児島出水に対する攻撃を始めた。この日、鹿屋基地に司令部を置いていた第五航空艦隊(司令長官:宇垣纏中将)は、その指揮下にある各航空隊(四式重爆撃機「飛龍」雷撃機型装備の陸軍雷撃隊二個飛行戦隊を含む)を投入し、全力で第58任務部隊(高速空母機動部隊)に対する迎撃を開始する。

1945年3月19日[編集]

九州沖航空戦2日目の1945年3月19日の夜明け前、フランクリンは僚艦と共に高知県の海岸から50マイル沖の太平洋上海域を、多数の艦上機を載せて、神戸港攻撃に向けて巡航中であった。 朝の6時57分、フランクリンは第二次攻撃隊の出撃準備を開始させた。その直後の7時8分頃、突如、陸上爆撃機「銀河」艦上爆撃機・彗星三三型とする資料もある)と思われる日本海軍機一機が雲を抜け低空で接近し、緩降下爆撃で二発の徹甲爆弾を投下した。被害分析では投下された爆弾は250kg(または、500kgとする資料もある)だったとされる。この日本海軍機は、爆弾を投下した直後にフランクリンの対空砲火(または、上空哨戒のF6Fヘルキャット戦闘機)によって撃墜され、空中で爆発・四散して破片をフランクリンの甲板上に撒き散らしたが、命中した二発の爆弾のうち、一発は飛行甲板中央部を貫通し格納庫で炸裂、二層及び三層で火災を引き起こし、戦闘司令所及び飛行司令所にダメージを与えた。もう一発は飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂。第二層を突き破り、弾薬・火薬の引火を誘発した。また、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していたため、次々と誘爆を引き起こした。

なお、フランクリンに爆弾二発を命中させた日本海軍機は、「銀河」であるとすれば、第五航空艦隊指揮下の第762海軍航空隊所属機、また、「彗星」(彗星三三型)であるとすれば、同じく第五航空艦隊指揮下の第701海軍航空隊所属機であったと推定されている。

攻撃の被害で右舷に傾くフランクリン
1945年4月26日、ニューヨークのブルックリン海軍造船所へ接近するフランクリン。

フランクリンは浸水し、右舷に13°傾斜した。また消火活動の放水により艦尾が沈下した。無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物は全損に近い損害を受けた。乗組員の多くが攻撃及びその後の火災で死傷したが、数百名の士官と兵員は艦を救おうと必死の作業を行った。724名が死亡し265名が負傷したが、生存者達の献身的な作業がなければこの数はもっと増加していたと考えられる。従軍神父ジョセフ・T・オハラハン大佐は消防及び救助作業を指揮し、誘爆の危険があった弾薬を処理した。この功績で後に名誉勲章を受章している。またドナルド・A・ゲーリー大尉は300名が閉じこめられたコンパートメントを発見し、出口から彼らを救うための作業を繰り返した。続いてゲーリーは格納庫デッキで消火作業を行い、艦の出力を上げるために第3ボイラー室に入って危険な作業に勇敢に立ち向かった。軽巡洋艦サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60) はフランクリンの乗員を救助するため支援を行った。4つの機関室には浸水や火災はなかった。

フランクリンは14ノット(26km/h)の速度で重巡洋艦ピッツバーグ (USS Pittsburgh, CA-72) に牽引され、ウルシー泊地に到着した。その後真珠湾で応急処置を行った後、ニューヨークブルックリン海軍造船所へ4月28日到着した。

なお、フランクリンは、3月19日の午後(12時54分頃)にも、彗星三三型と見られる日本海軍機一機による急降下爆撃を受けたが、投下された爆弾はフランクリンから少し離れた海面に落下して炸裂し、結局、それ以上の被害はなかった(爆弾を投下した彗星三三型は、雲間に退避して飛び去っていったという)。

艦の到着に際して、乗組員の艦内での復旧作業に関する論争が生じた。ゲーレス艦長は火災を避けて海に飛び込んだ乗員達を「艦を放棄した」として非難した。ウルシー泊地への帰路において、艦に留まったとされる704名をゲーレス艦長は「ビッグ・ベン704クラブ」のメンバーであると宣言した。しかしながら実際には艦に留まったのは約400名であったという。

戦後[編集]

戦争の終了に従って、フランクリンは海軍記念日に一般公開され、1947年2月17日に任務から解かれニュージャージー州ベイヨンでモスボール処理された。その後1952年10月1日に攻撃航空母艦(CVA-13)、1953年8月8日に対潜水艦戦支援空母(CVS-13)、1959年5月15日に航空機輸送艦(AVT-8)へと艦種変更されたが、他のエセックス級空母と違って大規模改装を受けず、同じく大被害を受けた経験のあるバンカー・ヒルと共に朝鮮戦争やベトナム戦争に参加することはなかった。結局フランクリンはその後航海を行わず、1964年10月1日に除籍された。

海軍はフランクリンを当初バージニア州ポーツマスのペック鉄鋼株式会社に売却したが、艦の主機4機を再使用するという船舶事務局からの要求で再所有することとなった。しかしながら1966年7月27日にバージニア州チェサピークのポーツマス・サルベージ社に廃棄のため売却された。フランクリンは1966年8月1日の夜、海軍の護衛を伴いレッド・スター牽引株式会社によって出港した。

フランクリンは第二次世界大戦の戦功で4つの従軍星章を受章した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]