ウォレアイ環礁

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ヤップ州の地図。地図の右下の144度線に近い位置にウォレアイ環礁がある
ウォレアアイ環礁の写真
ウォレアアイ環礁の地図

ウォレアイ環礁(ウォレアイかんしょう、Woleai Atoll、北緯7度22分 東経143度54分 / 北緯7.367度 東経143.900度 / 7.367; 143.900)はカロリン諸島ミクロネシア連邦ヤップ州にある22の小島の一群である。太平洋戦争中は日本軍の基地が置かれ、兵員は飢餓に苦しんだ。現在の人口はおよそ800名。

歴史[編集]

ウォレアイでは1913年にジョン・マクミラン・ブラウンによって、現地人によって書かれた固有の文字が発見された。

太平洋戦争[編集]

第二次世界大戦中はメレヨン島と呼ばれて日本軍の基地となり、マリアナでの戦いに備えて1944年(昭和19年)2月に海軍第四四警備隊(宮田喜信海軍大佐)と第二百十六設営隊が上陸して滑走路を建設し、4月12日に陸軍独立混成第五〇旅団(北村勝三陸軍少将)が合流した[1]。陸海軍合わせて6426名であった。しかし、直後から米軍の激しい爆撃と艦砲射撃に晒されて、折角作った飛行場も殆ど使われず、食料の殆ど全てを揚陸直後に喪失してしまい、以後の日本軍は終戦まで極度の飢餓に苦しんだ。島全体が標高の殆どない珊瑚礁の為農耕には向かず(2m掘ると水が湧き出す)、火薬を用いたによる成果も部隊全体に行き渡る量はなく[2]、食糧生産もはかどらなかった。小魚、ネズミ、ヤドカリトカゲヤシガニは貴重な蛋白源であったという[3]。潜水艦による4度の補給はあったものの、深刻な飢餓が発生し、終戦までに全体の7割に当たる4493名の餓死病死者を出している。自殺して戦病扱いになった兵も少なくない[4]。米軍も本島を放置しており、たまにB-24リベーレーター爆撃機の爆撃があるのみで、日本軍の高角砲は体力不足から1発を発射するのがやっとであった[5]

1945年(昭和20年)3月11日、ウルシー環礁への特攻作戦「丹作戦」で特攻隊を誘導した第五航空艦隊宇垣纏海軍中将)所属の二式飛行艇1機が着水、修理も燃料補給も出来ず水没処理された。宮田海軍守備隊司令は搭乗員に対し、内地との連絡が遮断されて1年が過ぎ、暗号も更新されていないと伝えた[6]。基地の兵は「毎日10名が餓死する生き地獄の島」とも紹介している[7]。また北村陸軍少将が搭乗員に賜った黒塗りの箱にはサツマイモが入っていたが、これは同島最大級の褒章であった[8]。飛行艇搭乗員は5月7日に伊号第三六九潜水艦に救助され、設営隊員50名と共に島を離れた[9]

結果的に、日本軍守備隊は飢餓により事実上全滅しており、戦わずして玉砕した悲劇の島と言われている。

戦後[編集]

終戦後、草鹿任一海軍中将を団長とした第二次南方方面遺骨収集派遣団がメレヨン島を訪れた[10]。島民は水深8mに沈んだ二式大艇を特攻機と説明したが、これは3月12日に水没処理された機体であり、搭乗員は潜水艦で帰還している[11]1966年(昭和41年)4月、全国メレヨン会員一同によって慰霊碑が建設された[12]

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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