特別攻撃隊

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1945年4月12日、知覧陸軍飛行場より出撃する陸軍特別攻撃隊第20振武隊の一式戦闘機三型甲「隼」穴沢利夫少尉搭乗)と、それを見送る知覧町立高等女学校(現鹿児島県立薩南工業高等学校)の女学生達
1944年11月25日、空母エセックス」に突入直前の第4神風特別攻撃隊「香取隊」の艦上爆撃機彗星」(山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗)。突入後アメリカ軍が回収した遺品により搭乗員が特定された例の一つ。
1945年4月11日、戦艦ミズーリ」に突入直前の神風特別攻撃隊「第5建武隊」の零式艦上戦闘機(石井兼吉二飛曹あるいは石野節雄二飛曹搭乗)
沖縄近海で特別攻撃隊機の攻撃を受け炎上する空母「ヴィクトリアス

特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)は、ほぼ生還の見込みがない決死の攻撃、もしくは戦死を前提とする必死の攻撃を行う部隊戦術である。略称は特攻隊(とっこうたい)。特別攻撃(とくべつこうげき)、略称特攻(とっこう)も合わせて紹介する。

語源は太平洋戦争の緒戦に日本海軍によって編成されたほぼ生還の見込みのない攻撃を行う特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである[1]が、太平洋戦争の末期には爆弾爆薬等を搭載した軍用機高速艇潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たり、自爆する戦死を前提とするものが中心となった。海外の例では第二次世界大戦末期の独空軍におけるゾンダーコマンド・エルベがある。

転じて特攻は、軍事攻撃以外の捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「Tokko」(トッコウ)、「Kamikaze」(カミカゼ)として通じている。


歴史[編集]

日本陸軍[編集]

戦死前提以前[編集]

日本陸軍日露戦争において、白襷隊といった決死隊を臨時に編成したことはあったが、これは決して生還を期さない任務ではなく、ただ決死の覚悟で極めて困難で危険な任務を果たすというものであった。

第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自発的な自爆攻撃が現場で行われることはあった。1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊一式戦闘機「隼」操縦石川清雄曹長)が、米海軍潜水艦が発射した魚雷3本を発見。機銃掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し、戦死するも爆破に成功した[2]。1944年8月20日、米陸軍航空軍B-29爆撃機による八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊二式複座戦闘機「屠龍」(操縦野辺重夫軍曹、後方射手高木伝蔵伍長)が第794爆撃飛行隊の「ガートルードC号」に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC号」は空中爆発し墜落、また破片の直撃を受けた僚機カラミティ・スー」号も墜落している。「屠龍」は墜落し野辺・高木共に戦死しするも、1機で2機のB-29を撃墜した。

1943年(昭和18年)には現場において特攻の必要を訴える者が現われており、1943年3月初旬、ラバウル飛行第11戦隊の上登能弘准尉は、防弾装備が整った大型のB-17爆撃機は弾丸を全弾命中させても撃墜できないため体当たり攻撃が必要、体当たり攻撃機を整備すべきと現地の上級部隊司令部に上申したが、陸軍中央へは届かなかった。5月上旬、同じ第11戦隊の小田忠夫軍曹はマダン沖でB-17に体当たりして戦死している。同年11月9日、ビルマで重爆撃機部隊の中隊長である西尾常三郎は、機体に500kg爆弾を装備しての組織的な体当たり攻撃を計画すべしと日記に記している例もある[3]

1944年(昭和19年)5月下旬、飛行第5戦隊長高田勝重はビアク島への敵来攻に独断で4機率いて敵艦船に自爆攻撃をしかけている。これは爆装戦闘機の体当たりで駆逐艦級を沈める例となった。また現地で艦船攻撃に際し爆弾投下前に被弾し生還が望めない場合、機上で信管を外し体当たりできるように改修するものもあった[4]。同年中後半、ビルマ方面の防空戦闘で陸軍戦闘機隊は、新鋭爆撃機として投入されていたB-29に一式戦「隼」で数次の体当たりを行っていた。これらの訴えは飛行機への体当たりであり、一部破壊(撃破)でも墜落する可能性があり生還する余地もあった[5]

戦死前提への過程[編集]

陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。主に艦船に対する体当たりについてで、春には機材、研究にも着手した[6]。1944年3月28日、陸軍航空本部には特攻反対意見が多かったことから、内閣総理大臣陸軍大臣参謀総長東條英機大将航空総監兼航空本部長の安田武雄中将を更迭、後宮淳大将を後任に据えた[7]。1944年春、中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致した。当初は精鋭と器材で編成し一挙に敵戦意をそぐことを重視した。そこでまず九九式双軽爆撃機と、四式重爆撃機「飛龍」を改修することになり、中央で2隊の編成準備を進めた。軍政の不振を兵の生命で補う部隊を上奏し正規部隊として天皇大元帥)、中央の名でやるのはふさわしくないとして現場指揮官の臨機に定めた部隊として要員、機材の増加配属だけを陸軍大臣の部署で行うことにした[8]。また同年5月、体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される[9]

マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた[10]。サイパンの玉砕を受け1944年7月7日の会議で参謀本部航空参謀からもう特攻を行う以外にないと提案した[11]。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究した[12]

1944年7月、鉾田教導飛行師団に九九双軽装備、浜松教導飛行師団に四式重爆「飛龍」装備の特攻隊を編成する内示が出た。8月中旬からは九九双軽と四式重爆「飛龍」の体当たり機への改修が秘かに進められた[13]。9月28日、大本営陸軍部の関係幕僚による会議で「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[14]

フィリピンでの特攻[編集]

1945年1月8日(ルソン島の戦い)、重巡洋艦ルイビル 」に陸軍特別攻撃隊「石腸隊」あるいは「進襲隊」の九九式襲撃機が命中した瞬間
1945年1月6日(ルソン島の戦い)、軽巡洋艦「コロンビア」に急降下突入し命中直前の九九式襲撃機(所属不明)
上掲写真直後17時29分、「コロンビア」に命中した瞬間の九九襲

陸軍の特攻は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊によって最初に行われた。通常の編成は航空本部から電文で命令されるが、命令は天皇を介するため、任命電報が送れず、菅原道大中将が編成担当者に任務を与え派遣した[15]富嶽隊万朶隊は、梅津美治郎参謀総長が藤田東湖の「正気の歌」から命名した[16]

万朶隊は、1944年10月4日航空総監部から鉾田教導飛行師団に九九双軽装備の特攻隊編成の連絡があった[17]。10月13日、師団今西六郎中将は航空総監と連絡し特攻部隊を編成の打ち合わせをした。中旬に九九双軽の特攻改修機が到着した[18]。10月20日、参謀本部から編成命令が下され、21日岩本益臣大尉以下16名が決定した[19]。22日航空総監代理により総監訓示が行われ、今西師団長も訓示を行う[20]。26日九九双軽の特攻隊はフィリピンのリパに到着。29日万朶隊と命名された[21]

富嶽隊は、浜松教導飛行師団長川上淸志少将は特攻隊編成の内示を受けると、同師団の第1教導飛行隊を母隊として編成し1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された[22]

万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長岩本大尉以下5名が米軍戦闘機と遭遇し戦死。富嶽隊もフィリピンに到着後、こちらも待機していたが11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。富嶽隊は13日に、隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。残った富嶽隊、万朶隊はその後順次出撃し、戦後の復員者は万朶隊の佐々木友治伍長のみであった。遠距離目標を指示されて未帰還となるなど、4航軍は焦りから無理な特攻隊運用を行っていた。

1944年11月6日陸軍中央は新たに編成した6隊の特攻隊に「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。名前の由来は日本書紀(准南子)の「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。この6隊は第4航空軍司令官富永恭次中将によって現地で行われた命名式で、八紘隊、一宇隊、靖国隊、護国隊、鉄心隊、石腸隊と改名された。その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた[23]。陸軍は比島での捷一号作戦だけで約210機を特攻に投入した[24]

全軍特攻化[編集]

1944年末、陸軍航空総監部は『航空高級指揮官「と」号部隊運用の参考』の作成に着手、これは1945年4月ごろ関係部隊に配布された[25]。1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う[26]。1945年1月29日陸軍中央は『「と」号部隊仮編成要領』を発令。2月6日参謀本部は特攻要員の教育を『「と」号要員学術科教育課程』の通り示達[27]。2月23日、中央はと号部隊の第二次編成準備を指示。3月20日実行発令[28]

沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、6航軍司令官は菅原道大中将が務め、知覧都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺進戦隊による水上特攻も行われた。6航軍航空参謀倉澤清忠少佐によると、当時の陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願によって戦闘する「特攻部隊」に区別し、決号作戦のために航空機を温存するため、また操縦が容易な機体である九七式戦闘機などの旧式機が主に配備された[29]。同作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名は福岡県振武寮(福岡女学院女子寮)に収容され、その存在は秘匿された[30]。特攻隊員の生き残りは、その後、本土決戦のための特攻要員として全国に配備された。

終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に配備され、大戦最末期の1945年(昭和20年)8月9日には第255神鷲隊(岩手より釜石沖に出撃)が、13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)、第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)、第398神鷲隊(相模より下田沖に出撃)と3隊が出撃している。

日本海軍[編集]

戦死前提以前[編集]

日露戦争の旅順閉塞隊真珠湾攻撃甲標的など特攻的決死戦法思想は古くからあったが、最高指揮官は攻撃後の生還収容方策手段を講じられる時のみ計画、命令したものであり、1944年10月以降に行われた特攻作戦とは本質的に異なる[31]

1941年12月太平洋戦争の劈頭で実施された甲標的の部隊が「特別攻撃隊」と命名された。甲標的は攻撃後に帰還する計画だが、一度出撃すれば、自力での帰還はほぼ不可能に近いため、決死の作戦だった。その後も甲標的による特別攻撃隊は、1942年4月シドニーの「第一特別攻撃隊」、マダガスカルの「第二特別攻撃隊」、ガダルカナルの「第三特別攻撃隊」が実施されたが、全て帰還者はいなかった。甲標的の部隊は、その後も数が増えていったため、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の特攻隊に名前は受け継がれた[32]

また、自発的な体当たり、自爆攻撃が行われることもあった。真珠湾攻撃で制空隊中隊長飯田房太大尉の搭乗機は被弾し母艦への帰還が困難と判断し、カネオヘの米海軍飛行場格納庫に向け突入した(命中できず妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突)。珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹は、空母「翔鶴」へ雷撃態勢に入ったTBD デバステーターに対して撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行し戦死した。ミッドウェー海戦で南雲機動部隊の空母3隻が致命打を受けたあと、空母「飛龍」から米機動部隊に向け発進した攻撃隊隊長友永丈市大尉は米空母「ヨークタウン」を攻撃した際に被弾し同乗の赤松少尉・村井一等飛行兵曹と共に同艦に体当たりした。南太平洋海戦南雲機動部隊の上空直衛の大森茂高一飛曹の零戦が、空母「翔鶴」へ攻撃態勢に入ったSBDドーントレス投弾体勢に対し体当たりを敢行し戦死。また「翔鶴」ならびに「瑞鶴」から出撃した米空母機動部隊への攻撃隊のうち、第5航空戦隊艦攻隊隊長・第1次攻撃隊総指揮官村田重治少佐の九七式艦上攻撃機、第5航空戦隊艦爆隊隊長坂本明大尉の九九式艦上爆撃機が空母「ホーネット」を攻撃中に同艦の対空砲火により被弾し、2機とも同艦へ突入し戦死した。台湾沖航空戦で第26航空戦隊司令官有馬正文少将は一式陸上攻撃機に搭乗し攻撃部隊の空中指揮を執り、敵艦に突入した。

戦死前提への過程[編集]

連合艦隊主席参謀としてモーターボートによる特攻の構想(後の震洋)を軍令部に語っていた黒島亀人が軍令部第二部長に就任すると、1943年8月6日戦備考査部会議において突飛意表外の方策、必死必殺の戦を提案し、一例として戦闘機による衝突撃の戦法を挙げた。1943年8月11日には第三段作戦に応ずる戦備方針をめぐる会議で必死必殺戦法とあいまつ不敗戦備確立を主張した[33]。1943年6月末、侍従武官城英一郎が航空の特攻隊構想である「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」を立案する。内容は爆弾を携行した攻撃機による艦船に対する体当たり特攻で、専用機の構想もあり、艦船ごとの予期効果までまとめられていた。城は航空本部総務部長大西瀧治郎中将に相談して「意見は了とするが未だその時にあらず」と言われるが、城の決意は変わらず、上の黙認と機材・人材があれば足りると日記に残している[34]

水中特攻[編集]

1943年末、甲標的搭乗員の黒木博司大尉と仁科関夫中尉が人間魚雷の構想を血書で省部に上申したが、12月28日軍令部総長永野修身は「それはいかんな」と却下する。マーシャル陥落、トラック島空襲を受けて中央は1944年2月26日初の特攻兵器となる「人間魚雷」の試作を決定した。最初は搭乗員の水中放出を条件としていたが、海軍はここから組織的特攻に動き出した[35]。1944年4月4日、軍令部第二部長黒島亀人により「作戦上急速実現を要望する兵力」として、「体当たり戦闘機」「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の特攻兵器の開発が提案された。軍令部はこれを検討後、他の兵器とともに「装甲爆破艇(震洋)」「大威力魚雷(回天)」の緊急実験を海軍省に要望した。海軍省海軍艦政本部は仮名称を付して担当主務部定め特殊緊急実験を開始した[36]

マリアナ沖海戦の敗北を受け、1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言がある。 陸軍の参謀本部総長東條英機、海軍の軍令部総長嶋田繁太郎はすでに考案中であると答えた。会議後、軍令部総長兼海軍省大臣の嶋田繁太郎は、海軍省に奇襲兵器促進班を設け、実行委員長を定めるように指示する。1944年7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令される(正式就任は9月13日)[37]。大森の人選は、水中特攻を重視しての人選であり、大森は全権を自分に委ねてどの部署も自分の指示に従うようにするという条件を出して引き受けた[38]。1944年9月13日海軍省特攻部が発足。特攻兵器の研究・調査・企画を掌握し実行促進を行う[39]

1944年7月10日特攻兵器回天の部隊として第一特別基地隊の編成が行われる[40]。1944年7月21日、総長兼大臣の嶋田繁太郎連合艦隊司令長官豊田副武に対して特殊奇襲兵器(「回天」)の作戦採用が含まれた「大海指四三一号」を発令した(水中特攻のみで航空では夜間の奇襲作戦が採用されている)[41]

航空特攻[編集]

航空特攻は、軍令部第二部長黒島亀人の提案や1944年春に海軍省兵備局第3課長大石保から戦闘機による大型機に対する体当たり特攻が中央に要望されていたが、1944年6月マリアナ沖海戦敗北まで中央に考慮する動きはなかった[42]。海戦後、既述した航空機の特攻隊構想を考案した城英一郎から機動部隊長官小沢治三郎連合艦隊司令部軍令部に対して航空特攻採用の上申が行われる。1944年6月19日、341空司令岡村基春大佐は第二航空艦隊長官福留繁中将に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長伊藤整一中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。また7月サイパンの失陥で国民からも海軍省、軍令部に対して必死必殺の兵器で皇国を護持せよという意見が増加した[43]

マリアナ沖海戦前後に海軍省の航空本部、航空技術廠で研究が進められていた偵察員大田正一少尉発案の航空特攻兵器「桜花」を軍令部も承認して1944年8月16日正式に桜花の試作研究が決定する[44]。1944年10月1日桜花の実験、錬成を行う第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編制。この編制ではまだ特攻部隊ではなく、普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている[45]

1944年10月5日、大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に内定し、10月20日神風特別攻撃隊を創設。神風特攻隊は大西独自の動きであり、事前に報告はあったが、同攻撃隊の編成に海軍部が関与することはなかった[46]。大西はフィリピンに出発する前に海軍省大臣米内光政に現地で特攻を行う決意を語り承認を得て[47]、軍令部総長及川古志郎に対しても決意を語り、「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」[48]「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と及川の承認も得た。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[49]。また大西は発表に関する打ち合わせも行い、事前に中央は発表に関して大西からの指示を仰ぐ電文も用意し、事後に発信している[50][注 1]

大西はフィリピンに到着するまでに、豊田副武連合艦隊長官に「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。フィリピンに到着すると前任者である寺岡謹平に特攻隊の構想を打ち明けて同意を求めたが、寺岡は後任の大西に一任した[54]。1944年10月19日夕刻マバラカットに到着後、第201海軍航空隊副長玉井浅一中佐、1航艦首席参謀猪口力平中佐などを招集し体当たり攻撃法を披瀝する。玉井が人選を行い、指揮官は猪口の意向で海軍兵学校出身の現役士官から関行男大尉が選ばれた。10月20日に大西による訓示と部隊名発表があり、神風特別攻撃隊が編成される[55]

フィリピンでの特攻[編集]

1944年10月25日、護衛空母「ホワイト・プレーンズ」に肉迫する第1神風特別攻撃隊「敷島隊」の零戦。この直後、対空砲火によって右翼に被弾、撃墜された。

神風特別攻撃隊の初出撃は1944年10月21日であった。大和隊敷島隊朝日隊山桜隊の計24機が出撃したが悪天候などに阻まれ、ほぼ全機が帰還したが、大和隊隊長久納好孚中尉が未帰還となった。各隊は出撃を連日繰り返すも空振りに終わり、23日に大和隊佐藤馨上飛曹が未帰還。そして25日、敷島隊の関行男大尉以下6機が、4度目の出撃で1機(2機)が米海軍護衛空母「セント・ロー」を撃沈したのをはじめ、大和隊の4機、朝日隊の1機、山桜隊の2機、菊水隊の2機、若桜隊の1機、彗星隊の1機等が次々に突入し、護衛空母を含む5隻に損傷を与える戦果を挙げた。これを大本営海軍部は大々的に発表し、敷島隊指揮官であった関は軍神として祀り上げられることとなった[56]

特攻成功後大西は福留繁第2航空艦隊長官を説得し第1航空艦隊と第2航空艦隊を統合した連合基地航空隊を編成し、特攻隊の規模を拡張した[57]。10月27日、大西によって特攻隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、海軍航空本部など中央に通達された[58]。大西の強引な特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」と指導している[59]

1944年11月5日、豊田副武連合艦隊司令長官は玄作戦によって回天による特攻を下令し、11月20日に戦果を上げ、以後繰り返された[60]

全軍特攻化[編集]

ここまで航空特攻は現地部隊の自発による編成の形式をとっていたが、1945年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行い、1945年2月10日には第5航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われた。5航艦司令長官となった宇垣纏中将は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた[61]

1945年2月4日、軍令部の寺内義守航空部員は、今の訓練様式では駄目で特攻なら使用可能と言い、松浦五郎とともに命中の良さから特攻をすべきと主張した。田口太郎作戦課長は練習生が練習機で特攻を行う方法の研究を求め、寺崎隆治も練習機「白菊」が多数あることから戦力化が必要と発言[62]。1945年2月、硫黄島の戦いが開始されたことを受けて、全航空隊特攻化計画が決定する。同年3月1日、海軍練習連合航空総隊を第10航空艦隊に改編し、特攻隊員訓練のため一般搭乗員の養成教育を5月中旬まで中止した[63]。1945年5月15日、中止されていた新規搭乗員教育が再開したが、戦闘機搭乗員の他は特攻教育が主になった[64]

1945年2月17日、豊田副武連合艦隊司令長官は米艦隊をウルシー帰着の好機をとらえて奇襲を断行する丹作戦を命令した。宇垣纏5航艦司令長官は陸上爆撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。3月11日からウルシーに帰投した米機動部隊の正規空母を目標に特攻が繰り返された[65]

1945年4月頃から沖縄周辺に侵攻した米英豪海軍を中心とした連合国軍の艦隊に対し、日本軍は菊水作戦を発動して特攻隊を編成し、九州・台湾から航空特攻を行った。これと連動して戦艦「大和」以下の艦艇による水上特攻や「回天」、「震洋」などの体当たり艇など、各種特攻兵器が大量に投入された。機材、燃料の不足、本土決戦のためなどから温存され始め、十次に渡る菊水作戦が終了すると出撃のペースは鈍化、沖縄方面への特攻は1945年8月11日、喜界島に最後まで残っていた第2神雷爆戦隊岡島四郎中尉以下2機の爆戦が米機動部隊突入を行い途絶えた。本土からの特攻は1945年8月15日、百里原基地からの第4御楯隊の「彗星」8機、木更津から第7御楯隊の流星1機によって行われたが全機未帰還。これが玉音放送前の最後の出撃であった[66]。当初より問題視されていた威力不足の改善を図る等の対策を採り、想定される決号作戦に向けて大量の特攻戦備を整えている段階で終戦を迎えた。

なお、1945年8月10日に次期第五航空艦隊司令長官の内命を受けていた(宇垣纏の後任となる。終戦後の8月17日に着任。)草鹿龍之介によれば、本土決戦では九州に上陸してくる米軍に対し、「六分の一が命中すれば上々」として、約1,000機を一波とし、これを10派、10,000機の特攻機で攻撃をかける目算であった。内命された時点ですでに九州南部に、訓練中のものを含めて5,000機が用意されていたという[67]

1945年8月15日、敗戦を迎え菊水作戦の最高指揮官であった5航艦司令長官宇垣纏中将は、玉音放送終了後8月15日夕刻、大分から「彗星四三型」の後席に搭乗し、列機10機(長官搭乗機を含めて計11機)を率いて沖縄近海の米海軍艦隊に突入、戦死した(うち3機は、途中で不時着)。8月16日、特攻隊を創設した大西瀧治郎中将は自決した[68]

終戦後の自発的な体当たり攻撃として、8月18日北千島の陸海軍航空部隊によって占守島に侵攻してきたソ連赤軍艦艇や輸送船団に対する反撃が行なわれ、九七艦攻1機が対空砲火により被弾、別の艦艇に体当たりし自爆した。同18日、ウラジオストクに停泊していたソ連タンカーに鎮海海軍航空隊塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機が特攻をしかけるが、対空砲火で撃墜されている[69]

海外[編集]

世界初の航空機による体当たり攻撃を描いたイラスト

自発的な特攻[編集]

第一次世界大戦中の1914年9月8日、にロシア帝国ピョートル・ネステロフ大尉がオーストリア機に対して行った行動が、世界初の航空機による体当たり攻撃とされる[70]。これにより墜落した2機の乗員3名は死亡している。第二次大戦初期(独ソ戦)のソ連軍には、旧式化していたI-16が多数存在していたが性能が劣っていたため、「タラーン(タラン)」と称される航空機による体当たり攻撃が行われた[70]。これは一種の流行となり、大戦中期になって高性能の新鋭機が登場するようになっても、ベテランパイロットが体当たり攻撃を行うことが多々あり、赤色空軍はタラーン禁止令を発している。

太平洋戦争の米軍側においても自発的な体当たり、自爆攻撃が行われている。ミッドウェー海戦で、空母「飛龍」を攻撃した米海兵隊SBD ドーントレス指揮官ロフトン・R・ヘンダーソンは、被弾炎上後に「飛龍」へ体当たりを試みたが失敗した。SB2U ビンジゲーターに搭乗した米海兵隊フレミング大尉は、対空砲火により被弾後、重巡洋艦三隈」に自爆攻撃を敢行した。第三次ソロモン海戦で重巡洋艦「摩耶」に空母「エンタープライズ」所属のSBD1機が体当たりを敢行し「摩耶」は中破した。重巡洋艦「足柄」乗員、黒木新二郎によれば、1944年12月26日、フィリピン防衛戦において対空戦闘中、被弾した米軍機1機が左舷中央に特攻を仕掛け、激しい火災が生じたという。「足柄」乗員は連合国側の特攻と認識し、翌日、数十人の戦死者を水葬したが、その最後に艦に特攻を仕掛けた敵機パイロット(氏名不詳)を忠勇の軍人として丁重に弔ったという[71]

1943年末、独空軍においてフォン・コルナツキー少佐によってシュトゥルム・フリーガーと命名されたB-17、B-24に体当たりを行う決死特攻が行われていた。落下傘で直前に脱出することとなっていたが、困難なため中止された。これに代わり1944年5月ヴァルター・ダールの案で、誓約書を書いた隊員で体当たりの肉薄攻撃を行っていたが、戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドはこれを知り禁止命令を出した[72]

組織的な特攻[編集]

英海軍が、独海軍の戦艦「ティルピッツ」を撃沈するため、1942年にチャリオット人間魚雷による攻撃を実行しようとしていたが、事故で失われたために実行されなかった。また、1943年9月末に有人の小型潜行艇2隻がティルピッツに肉迫攻撃をかけるために、火薬を積んで突入してきた。これも生還を期さない特攻に近いものがあったとされるが、この場合は日本海軍の「回天」と違い、隊員の命を確実に奪うというものではなかった。しかし、ハイリスクの攻撃であったことは確かであり、船底に2,000kg爆弾を据え付けて、ティルピッツに深手を負わせることには成功したものの、英海軍は二度とこの作戦を採ることはなかった。

1944年春頃、ドイツにおいてハンナ・ライチュによって提唱されたHe 111の下部にV1 有人飛行爆弾を搭載、空中発射されたV1に搭乗した操縦者が誘導し対艦攻撃する計画があり、志願者が集められ試験飛行も行われたが実施されなかった[73]

独空軍大佐ハヨ・ヘルマンは、レイテ沖海戦より日本軍が投入した特別攻撃隊に触発され、その戦法が周囲でも話題になっていたこともあり、最終手段として劇的な戦法を試案するため、当時の駐独大使である大島浩デーベリッツの司令部に招き特攻について質問して情報を得た[74]。その効果については疑問を持ちつつも、第二次大戦末期はドイツでも通常の防空戦は困難になりつつあったことや「カミカゼ」戦術が衝撃的だったこと、過去にもその場の判断で敵機に体当たりを行い撃墜した事例、最新鋭のMe 262が圧倒的な速力で戦果を上げており機体生産を確保するための被害回避等の理由から「爆撃機への体当たり攻撃」を立案した[74]。この作戦にアドルフ・ヒトラーは難色を示し、空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングも当初は反対したが、燃料も戦闘機も不足する中ではやむを得ない戦法だと説得し許可を得て、ハヨ・ヘルマンが指揮官となって「自己犠牲攻撃」として志願者を募り、作戦が独北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特別攻撃隊」(Sonderkommando Elbe)と称された[74]

この作戦は1945年4月7日に実行され、内容はMe 109Fw 190を使用し、機関砲を撃ちながら敵機目掛けて一直線に突進するものであり、衝突と同時に落下傘で脱出することで生還の可能性は残しており[74]、必ず体当たりすることを要求されたのではなかったが、死を覚悟しなければ志願できない作戦であり、周囲もパイロットが戦死することを前提にすべての用意を整えていた。「敵重爆の直前で射撃し、各自1機は撃墜すること。必要とあれば激突せよ」と命じられ彼らは無線で流されるドイツ国歌を聞きながら突撃したと言う。しかし、P-51を始めとする多数の護衛戦闘機群に阻まれ、推定189機が出撃したが出撃機の大半とパイロットの約半数(約80人との資料もある[74])を失い、8機(B-17 5機撃墜」との資料[73]や、20数機との資料もある[74])の爆撃機を撃墜したに留まり、効果への疑問から作戦はこの一度のみで終了となった[74]。この部隊は解散したが独空軍は別の特攻作戦「オーデル川作戦」を発動した。

また独空軍ではミステルと称す親子飛行機を開発し、これは子機(Ju 88爆撃機を改造して爆薬と無線操縦装置を取り付けた無人機)の上部に連結器を装備して親機のMe 109を乗せたものであり、目標上空で切り離し、親機が子機を誘導して目標に体当たりさせる仕組みになっていた。ミステルは若干ながら戦果を挙げ、さらなる組み合わせとして親機にFw 190を使用した型も生産された。しかし、速度の遅いミステルは通常の爆撃機以上に敵戦闘機の好餌であり、間もなく敵目標に対する攻撃は中止され、敵の進撃経路に当たる橋梁や道路を爆破するのに使用されたという。

戦後[編集]

特攻に反対した美濃部正は「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」と語っている[75]

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが、戦後は復興が重要と約束を破り、守ったのは大西と宇垣などわずかであったことを批判する声もある[76]。また、中央から特攻の命令があったかについても論争がある[77]。機体故障などでやむをえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめおめ帰ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリンチしたことで知られる第6航空軍参謀倉澤清忠少佐は死の直前まで拳銃と軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えながら2003年死の床についた[78]

旧軍人、元特攻隊員は戦後復興・経済発展のために日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。戦後息子が特攻死した寺岡謹平と特攻指導者の菅原道大も特攻平和観音奉賛会を設立し、菅原道大の三男の菅原道煕は特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会理事長を務めている。

フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した ― 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、昭和天皇との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。

ビルマ(現:ミャンマー)独立の英雄のバー・モウも神風特攻隊に激しく感動した一人である。タイの王室主催の晩餐会でスピーチを求められたバー・モウは、流暢な英語で特攻隊について語っているうちに涙で声が詰まり、それを聞く晩餐会出席者もまた感涙に堪えなかったという(深田祐介『大東亜会議の真実』)。

フランスのジャーナリストのベルナール・ミローは、著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は・・・無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。

一方で、フランス文学者、歴史学者で東京大学客員教授・モーリス・パンゲは主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する』という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している[79]

戦後生き残った特攻隊員は、戦中に嫌だと言える空気でなかったが戦死した隊員や遺族を思い生きていても地獄と思いながら生き、特攻を命令した陸軍参謀は、自分の命は惜しいから現に生きて恩給を貰い、特攻は本人志願と語っていた。[80]

2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)のようだ」と報道されたものである。実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。

これに対し日本国内ではかつての米国との戦争、そして特攻は肯定的に評価しながら、現代の米国へのテロや抵抗は批判していた保守層から、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論が生じた。しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」というレッテルはなお根強く、またミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところでは米軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。さらには当の武装勢力(含むテロ組織)のタミル・イーラム解放のトラハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来るという[81]

これらの諸事情に加えて戦争体験の風化もあり、イラク戦争以降は特攻が論じられ、評価されること自体が少なくなっている。

戦法[編集]

思想[編集]

日本軍では、東条内閣発足以来「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)という、捕虜に対する強い否定的意識が兵隊に訓育されていたことや、真珠湾攻撃時に日本軍捕虜第一号となった酒巻和男少尉の存在を隠匿した海軍上層部(海軍省)に見られるように、陸海軍共に捕虜となることは恥であるとされ、負傷や乗機の損傷によって帰還が絶望的な場合は、自爆や敵への突入を選択をする者が多かった[74]

神風特攻隊を創設した大西瀧治郎海軍中将は、機材、人数から餌食にされるだけの戦局で部下に死所を与えるのは主将としての役目で大愛と考えていた[82]一方でこんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道とも考えていた[83]。軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っておりもう戦争を終わらせるべきだと考え講和を結ぶ必要を考えたが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。またこの犠牲の歴史が日本を再興すると考えていた[84]。これは米内海軍大臣が当時進めていた一撃和平と通じる。搭乗員淺村淳は当時の戦局は乾坤一擲の作戦に爆弾を落として当たらなかったと言える次元の話ではなかった、ぶつかるのが確実だったという[85]。搭乗員岩本徹三中尉は特攻を勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後の悪あがきで士気は低下したと語っている[86]

陸軍初の特攻隊の編成にあたった鉾田教導飛行師団長今西六郎陸軍中将は特攻隊の編成化は士気の保持が困難、低下するだろう。現地の決意であるべきで常時編成しておくようなものではない。慣熟や団結を考えてのことだろうが、慣熟が必要な機種(九九式双発軽爆撃機)でもないし、団結もなくなる。機材を用意しておくだけでよく、人の心の逡巡や天候不良など想定し生還可能性は残すべきだという[87]

特攻は戦果を挙げることが目的であったが、目的と手段が逆転し、前席は操縦、後席は航法を担当する2人乗りの旧式爆撃機の後席に整備専門で航法に素人の兵員を乗せて機体バランスを取ったことに関して、復員した特攻隊員は「人を砂袋扱いしやがって」と生涯憤り、特攻作戦末期には旧式機どころか練習機まで駆り出され成功の可能性がない作戦で多くの若い命が消えていった[88]

スプルーアンス提督は、負傷もしくは機体の損傷によって死が避けられないならば、敵に損害を与える可能性が高い体当たりの方が合理的で効果がきわめて高いと分析していた[89]

空中特攻[編集]

対艦船特攻[編集]

対艦船特攻の研究は日本陸海軍で存在し、1943年7月ごろ城英一郎大佐が対艦船特攻を研究し「特殊航空隊の編成に就て」にまとめた。目的はソロモン、ニューギニア海域の敵艦船を飛行機の肉弾攻撃に依り撃滅すること、部隊構成、攻撃要領、特殊攻撃機と各艦船への攻撃法、予期効果がまとめられている[90]。1944年7月11日第4航空技術研究所長正木博少将は「捨て身戦法に依る艦船攻撃の考案」を起案し対艦船特攻の方法を研究し6つの方法を提案している[91]

神風特攻隊の目標は、最初の隊は敵空母の使用不能を目的とし1944年10月27日には目的を達成した。しかしレイテ島付近で戦闘が続いたため目標に敵主要艦船も加えられた。そして1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[92]。特攻に使われた零戦はもともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのは難しい[93]。沖縄戦の戦訓として当時の日本軍は航空特攻の予期命中率について対機動部隊に対しては9分の1、対上陸船団に対しては6分の1と判断していた[94]

航空特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成されていた。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による突入を見届けた後、帰還して戦果の報告を行った。しかし、直掩機も特攻機とともに連合軍艦隊の防空圏に突入を行うわけであり、特攻隊とともに未帰還になる機体も少なくなかった。

目標艦艇に突入するためには、まずアメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍の迎撃(護衛戦闘機)隊を、次いで目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕を掻い潜らなければならない。こうした敵艦隊の防空網を突破するためには、本来なら最新鋭の機体に訓練を積んだ操縦者を乗せ、敵迎撃機を防ぐ戦闘機を含む大部隊が必要であり、さらに無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要であった。しかも戦争後半には、VT信管装備の砲弾による対空射撃やレーダー管制による迎撃、優秀な新型戦闘機の投入等が大きな難関となっていった。そのため、戦果を挙げるにはその外縁に位置する哨戒用の艦艇、すなわち駆逐艦を狙わざるを得なくなった。こうした事情から、日本軍の攻撃対象は本来狙うべき正規空母戦艦などの主力艦艇から、駆逐艦や護衛空母などの補助艦艇に移行していった。実際、沖縄戦で特攻機によってアメリカ軍が受けた被害は、輸送船や駆逐艦に集中している。

当初は、連合国軍の意表をついてそれなりの戦果を挙げることができた。しかし、アメリカ海軍を中心とした連合国軍は次第に特攻に対する防衛策を整えるようになった。先ずレーダーピケット艦や偵察機で出来るだけ特攻機を早く発見し、邀撃機で迎撃し、それらを通り抜け艦隊に達した特攻機に対しては、大型艦は円運動を小型艦は直線高速運動を行って、レーダーと連動した防御砲火によって、突入体勢に入る前に撃墜を容易にし、突入体制に入れても艦船への命中を難しくした。それでも防御可能射程範囲内へ突入されれば命中率は通常の攻撃よりかなり高く、硫黄島や沖縄での海軍艦艇の損害のほとんどが特攻機によるものであり米軍を悩ませた。速度超過を防止するためのダイブブレーキを持たない零戦のような機体は、突入直前に機体が浮き上がってしまったり、操縦不能になったり、被弾でフラッター現象等を起こし空中分解してしまうため、操縦者にはこれを抑制する技量や自制心も必要になった。また突入に成功しても機体強度と運動エネルギーが艦艇の装甲強度を上回れず、艦艇に命中しても機体ごと装甲に弾き返されることもあった。特に飛行甲板に厚い装甲を施したイギリス空母にその傾向が見られた[注 2]神雷部隊(零戦の新造機を使用した「建武隊」)などの一部の部隊では、突入直前に爆弾を投下する戦術も用いられている。

末期には、本土決戦用に新型機や高性能機を温存させるために、本来戦闘には適さない低性能の機体、陸軍の九九高練二式高練、海軍の機上作業練習機「白菊」、複葉練習機(いわゆる「赤トンボ」)などの練習機も特攻用に爆弾装備可能に改修、実戦で特攻作戦に使用された。練習機は、ガソリンを極力温存するためにアルコールを混入した「八〇丙」と言う劣悪な燃料でも飛行可能であったのも投入理由の一つである。実戦機に比べ非力な300馬力から800馬力程度のエンジンを積み、元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していたため、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった[注 3]

艦隊網の外部に位置し早期警戒を行うレーダーピケット艦に、「現在特攻機を追跡中」[注 4]という打電をされたという逸話もある。だがまったく使えなかったわけでもなく、古い羽布張りの複葉機などの場合VT信管が作動しなかったり、機関砲弾が命中しても貫通するだけで炸裂しなかったり、また低速で突入艦への狙いがつけやすいこと等から、わずかながらも戦果を挙げている。九三式中間練習機による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦「キャラハン」を撃沈し、30日には「キャシン・ヤング」と「プリチェット」に突入して損害を与えた。

「特攻では片道の燃料しか積んでいなかった」と言われることもあるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために、満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、出来る限り多くの燃料が積み込まれた。零戦の主任設計者である堀越二郎技師は、戦後に自著で「零戦を爆戦(戦闘爆撃型、52型以降)として運用するために胴体下に爆弾、両翼下に増加燃料タンクを振り分けたが、翼下燃料タンクの投下装置の不具合によって特攻作戦において中止帰投や未帰還となる例があった」としている。特に被害の大きかったアメリカ軍からは、「燃料が突入時の火災を大きくする効果があった」という評価もある。

しかし、日本本土から沖縄周辺海域までの距離は、鹿屋からでも約650km。レーダーピケット駆逐艦や戦闘機による戦闘空中哨戒(CAP)を避ける意味からも、迂回出来るならば迂回して侵入方向を変更するのが成功率を上げるためにも望ましく、また先行して敵情偵察や目標の位置通報を行うはずの大艇や陸攻もしばしば迎撃・撃墜され、特攻機自らが目標を索敵して攻撃を行わざるを得ない状況もあり、燃料は「まず敵にまみえるために」必要とされた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、訓練のための燃料も機体も少なくなっていたために搭乗員の技量の低下が激しい当時、航法を誤ればあっという間に燃料をむだに消費してしまうわけで、日本側がわざわざ焼夷効果を狙って燃料を増載していた、「特攻だから片道燃料としていた」という話には疑問が出ている。一方で、陸軍第六航空軍の青木喬参謀副長が「特攻隊に帰りの燃料は必要ない」と命令していた姿も目撃されている[95]

特攻隊員たちが憂いなく出発できるように、出撃機には可能な限りの整備がなされたとも言われるが、現実問題として日本の工業生産力はすでに限界に達しており、航空機の品質管理が十分ではなかった[注 5]ことや、代替部品の欠乏による不完全な整備から、特攻機の機体不調による帰投は珍しいことではなかった。

対空特攻[編集]

アメリカが入手した文書によれば日本軍は1939年12月から1942年7月にかけて戦闘機と志願パイロットによって空中衝突実験を行っている。その結果、敵に衝突することが最も効果的な方法という結論を得ている[96]

アドルフ・ガーランド独空軍中将は「肉薄攻撃はいいが、体当たりすることはない。体当たりしなければならないのは、技術不足、相討ちの時だけである。戦闘機パイロットは一朝一夕で養成できるものではないため体当たりは避けるべき」と語っている[97]

大型攻撃機の編隊の中に突入して爆弾で自爆する特攻戦法も考案された。天雷特別攻撃隊においては零戦52型に3号爆弾を装備しB29の編隊に前から50 - 60度の角度で侵入し敵一番機をかわした時に自爆ボタンを押し爆弾を爆発させる。直径250 - 300メートルの範囲でダメージを与えられると想定していた。戦闘機にやられず、味方にも被害がないように誘導機1機と特攻機1機の単機攻撃が原則であった[98]。312空でも秋水によって同様の自爆特攻が予定されていた[99]

空中特攻として震天制空隊飛行第244戦隊のように敵爆撃機への体当たり攻撃を行なった事例もある。陸軍は本土上空を護るための十分な能力を持つ高高度迎撃機が日本に当時存在しなかったため、体当たりをしてでも防ごうと、武装、防弾装備や通信アンテナすらも一切取り払った「無抵抗機」と称した機体を仕立て、これによってB-29に体当たりする迎撃部隊を発案した。最初に組織化されたのは昭和19年11月7日、首都防空部隊であった第10飛行師団の隷下部隊に対し師団長心得吉田喜八郎少将から、1部隊につき各4機ずつ体当たり機の編成命令(震天制空隊)が発令された時である。この後、大都市圏の防空任務部隊を中心に空対空特攻部隊が組織されていくこととなる。

初出撃は同年11月24日、サイパン島より東京に初来襲したB-29に対するものであった。この戦闘で飛行第47戦隊所属の見田義雄伍長が二式複戦「屠龍」で体当たりを敢行し1機を撃墜して戦死。同じく飛行第53戦隊入山稔伍長は突入間際に機体が空中分解、戦死した。

こう言った戦死が相次ぐ一方で、2回体当たりして2回とも生き残り、遂には沖縄艦船特攻で戦死した飛行第244戦隊の四之宮徹中尉や、同じくB-29に2回体当たりを敢行して生還した中野松美伍長[注 6]のような例もあり、搭乗員は落下傘降下やもしくは損傷した機体で生還出来る可能性があったため、対艦船特攻のように100%死を覚悟しなければならないものではなかったが、死亡率は極めて高く、やはり特攻であることに変わりは無かった。

なお、これらの特攻は衆人環視の中で行なわれたものであったため、戦果の翌日は写真付で新聞紙面を飾ることが少なくなかった(参照:震天制空隊飛行第244戦隊)。実際、衆人環視の中で落下傘が開かず墜死する操縦者を見たという証言は多く、そのうち何人かは宮城(皇居)に向かって敬礼しつつ墜ちていったと伝えられている。

海軍では、組織的な空対空特攻は、221空が1944年12月にルソン島B-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった「天雷特別攻撃隊」にとどまった。金鵄隊は250kg爆弾で爆装した零戦6機で編成されたが、3度の出撃で体当りに成功しないまま3機未帰還となり、残機は対艦特攻任務へと切り替えられた[100]。海軍でも自発的な空対空特攻は相次いだ。陸軍空対空特攻隊の初出撃に先駆けること3日前の昭和19年11月21日、海軍352空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、北九州上空でB-29に体当たりして撃墜、戦死している。

だが、一部では1機で2機を体当たり撃墜したような戦果もあったものの、全体的に見ると重防御を誇るB-29は2機の体当たりを受けても生還出来た機体があったように、総合的な戦果はあまり芳しくなかった。B-29の日本本土爆撃において1回の攻撃あたりの最大の損失率は15.9%、平均1.38%であったと言われる。機数での数字としては延べ約33,000機の出撃に対し戦闘での喪失機数は450機であった。勿論この数字は特攻だけでなく、昼間戦闘機、夜間戦闘機、高射砲の戦果も含んだ数であり、対敵飛行機特攻のみの戦果はかなり低くなる。そして昭和19年6月15日の北九州初空襲以来、終戦までにB-29によって本土に落とされた爆弾は14万7,000トン[注 7]にのぼると言われている。)

結局こうした苦心の策も、硫黄島を占領され、B-29がP-51を初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると、組織的な空対空特攻隊の編成は下火となっていった。また空母艦載機群が本土空襲を始め、日本本土の各航空基地に来襲するようになると、地上撃破されていった。しかし、そのような状況の中でもわずかながら戦果を挙げている[101]

空挺特攻[編集]

生還が極めて困難なエアボーン方式のコマンド作戦が行われた例があり、特別攻撃隊として評価されることがある。いずれも敵飛行場に航空機を用いて強行着陸し、地上部隊を突入させるものであった。最初の実行例は、レイテ島の戦い高砂義勇兵によって編成された「薫空挺隊」を輸送機で強行着陸させようとした「義号作戦」である。同じレイテ戦では、正規空挺部隊である挺進連隊の大規模空挺作戦の「テ号作戦」でも、一部が海岸地帯の生還困難な飛行場へ強行着陸を試みている。沖縄戦でも一時的に飛行場を制圧して対艦特攻を間接支援する目的で、挺進連隊の一部が「義烈空挺隊」として強行着陸を行っており、これも「義号作戦」と呼称している。このほか、マリアナ諸島の飛行場および原爆貯蔵施設を標的とした剣号作戦が計画されたが、終戦で実行に至らなかった。

水中特攻/水上特攻[編集]

水中特攻、水上特攻は、回天震洋などの特攻兵器を使用した敵艦船を目標とする体当たり、自爆攻撃である。戦艦の巨砲で敵地へ突入し玉砕する戦法は海上特攻と呼ばれた。

海上特攻隊はマリアナ沖海戦の敗北後から神重徳大佐によって主張されていた。坊ノ岬沖海戦で行われた戦艦大和以下によって行われたものについて、豊田副武連合艦隊長官は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。草鹿龍之介少将は「大和」の第二艦隊司令長官伊藤整一中将に「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説得した[102]

海上特攻は、片道燃料での出撃を命じられていた。具体的には軍令部より2,000トンの重油が割り当てられ、連合艦隊もこれを了承、軍令部第一部長の富岡少将は連合艦隊参謀副長の高田少将にこれを厳守するよう命じていた。しかし連合艦隊の現場側は「はらぺこ特攻」を容認せず(参加駆逐艦長は「死にに行くのに腹いっぱい食わさないという法があるか!」と叫んだという)、呉鎮守府補給担当、徳山燃料廠まで巻き込み、責任追及を受けた場合には「命令伝達の不徹底であり過積載分は後日回収予定であったが果たせなかった」との口裏合わせまで行って燃料を補給し当初予定の5倍の燃料が搭載された[103]

陸上特攻[編集]

日中戦争以降、日本陸軍では九七式中戦車に対戦車地雷を取り付けて敵戦車に体当たりする戦法や、歩兵が爆弾を抱えて敵戦車に体当たりする戦法が行われることが多数あった。

対戦車特攻で有名なのはフィリピン、バギオ近郊イリサンでの丹羽戦車部隊によるM4中戦車に対する戦車特攻である。1945年4月12日、軍司令部の置かれていたバギオに対して侵攻してきたアメリカ陸軍に対して、第14方面軍司令官山下奉文大将は司令部直轄戦車隊であった戦車第10連隊第5中隊に対して決死特攻隊の編成を命じ、アメリカ陸軍戦車部隊の侵攻阻止を厳命した。

この命を受け、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車、九七式中戦車各一両の戦車前方に先端に20kgの爆薬を取り付けた長さ1mの突出し棒を取付け、体当り特攻を仕掛けることとなった。17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当りを仕掛け、双方の戦車4両が大破、炎上した。狭隘な道であったためにこれらの残骸の除去は難航。アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間にバギオの司令部は整然と撤退したのである。日本の公刊戦史ではこれを「戦車の頭突き」と称している。

このような戦法を採らざるを得なかったのは、陸軍に対戦車火器が不足していたからである。砲や砲弾の製造技術が低かったこと、成形炸薬弾や携行射出装置(他国ではアメリカのバズーカやドイツのパンツァーファウスト、イギリスのPIATとして大戦中に使用)への注目の遅れ、全体的な生産力や先見性の欠如などから対戦車火器の欠乏は絶望的であり、歩兵がM4やT-34などの連合軍戦車を正面から撃破することはほぼ不可能だった(これは、民間人に対し、竹槍を用いた白兵ゲリラ戦訓練が強制されていたことからも窺える)。火力の不足は血で贖われ、効果の薄い挺身肉薄攻撃で多くの将兵が命を落とした。追い詰められた日本軍はさらに生還の可能性が無い自殺攻撃に手を染めるようになる。沖縄戦では本来軍が守るべき民間人(学生)を現地徴用した鉄血勤皇隊に地雷や爆薬を抱えて戦車に体当たりする戦法を行わせることまでしている。

満州国に展開していた関東軍では、ソ連軍の侵攻に備えて肉攻(特攻)班が編制された。これは国境線上に掘った蛸壷に隠れた2人1組の兵士が2人がかりで野砲の15センチ榴弾を抱え、先端の信管をソ連軍戦車にぶつけて破壊しようという戦法であった。実際に戦果がどの程度あったかは不明である。

特攻部隊一覧[編集]

出撃ごとに編成される特攻隊の総称。もしくは出撃ごとに特攻隊を編成するために特攻要員で編成された部隊。

決死隊
航空特攻
水中・水上特攻

特攻兵器[編集]

戦闘機機

など。

爆撃機・攻撃機
練習機

など。

特攻専用兵器
その他の機体

など。

末期は数を揃えるために様々な機体が特攻用に爆弾装備可能に改修され実戦に投入された。

効果[編集]

1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母バンカー・ヒル

影響[編集]

1946年に提出された米国戦略爆撃調査団の報告書は、日本側に十分な航空機があり、それによる一斉特攻があった場合、米軍側が想定していた許容範囲を超える損害が出た可能性はある、と指摘している[104]。報告書によれば、沖縄戦時の特攻による奏功率は18.6%となっている(この数値は史料ごとに異なっており、山本親雄『大本営海軍部 (文庫版航空戦史シリーズ (21))』によると、沖縄戦時の特攻による奏功率13.4%、命中率6.8%となっている)[105]。この命中率は、日中戦争勃発時における日本海軍の艦爆隊の命中率60~70%、インド洋海戦時の急降下爆撃命中率80~90%と比べると[106]、著しく低いが、大戦末期にはパイロットの練度が低下していたため、「彼ら[=日本側]が所有する唯一の資産は、パイロットの自決意思」(The one and only asset which they still possessed was the willingness of their pilots to meet certain death.)であり[107]、日本の航空戦力が既に壊滅していたことを意味している。

アメリカでは特別攻撃隊の報道はアメリカ軍兵士の戦意喪失を招き、銃後の家族に不安を与えるとして規制され、後に一括して報道された。神風特攻隊を受けたアメリカ軍はパニックで神風ノイローゼに陥るものもいた。健康検査では戦闘を行える健常者が30%まで落ちた艦もあった[108]

米資料には、フィリピンであと100機の特攻があれば、日本上陸侵攻は何か月も遅れただろうと残っている。1945年7月2日スチムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。大統領付幕僚レーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した[109]

戦果[編集]

1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻で米軍が公式に認めている艦船の損害は、空母(護衛空母含む)撃沈2、撃破18、戦艦撃破5、巡洋艦撃破8、駆逐艦撃沈3、撃破22、上陸用舟艇撃沈14、計撃沈19、撃破53である。ただし、これらの損害に米海軍所属外の艦船の被害は含まれていない。

特攻機が撃沈したとされるアメリカ海軍の護衛空母は3隻であるが、セント・ローはフィリピン上陸作戦、オマニー・ベイはフィリピン攻防戦、ビスマーク・シーは硫黄島上陸作戦において撃沈されている。空母は特攻作戦の全期間を通じて最重要目標とされたが、その理由は日本軍守備隊への最大の脅威が航空攻撃であったためであり、護衛空母は攻略目標近傍においてCAP(戦闘空中哨戒)を形成し、アメリカ軍の地上部隊の援護を行うため特攻機の目標とされた。碇泊中の米軍機動部隊への奇襲も計画され、3月11日、第五航空艦隊の「銀河」24機(7機故障脱落)・二式飛行艇3機(誘導)の梓隊がウルシー泊地の空母ランドルフを中破させた。

また、イギリス海軍のイラストリアス級航空母艦フォーミダブルが5月4日に、ヴィクトリアスが5月9日に攻撃を受け、沈没こそ免れたものの大きな被害を出した。

アメリカ海軍は沖縄戦において駆逐艦12隻を含む撃沈26隻、損傷164隻(31隻沈没、368隻損傷[110])、768機を失った。人的損害は1945年4月から6月末で死者4,907名、負傷者4,824名となっている。特攻の主力艦に対する戦果は、2月21日に香取基地を飛び立った海軍第二御楯特別攻撃隊が硫黄島沖において正規空母サラトガに突入、これを大破させ、同艦を終戦まで出撃不能とした。空母バンカー・ヒルは5月11日に特攻機2機の突入を受けて大損害を受けブレマートンに帰投を余儀なくされ、空母エンタープライズも5月14日の特攻機による損傷大破で炎上し、ピュージェット・サウンド海軍工廠に帰還しており、終戦時は修理中であった。沖縄戦直前の空母フランクリンの大破戦線離脱を含めると以上、4隻の正規空母を使用不能状態とすることに成功した。これはアメリカ軍としてはかなりの痛手であった。

損傷を受けた正規空母は少なくないが、沈んだ艦は1隻もない。その要因として、

  • 特攻機の攻撃力は元々かなり低く、一定の装甲防御を有する中型以上の艦艇に対する効果は当初から懸念されていた。桜花のような専用機が開発されたり、大改造を施された飛龍のような事例が生まれたのはこの問題への根本的な対応を図るためである。
  • アメリカ海軍の正規空母の飛行甲板の装甲防御や、艦内のレイアウト等ダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて飛躍的に向上していた。
  • アメリカ海軍が制空権・制海権を握っていたため、曳航退避が可能だった。例えばミッドウェー海戦で沈んだ日本空母4隻のうち、「赤城」と「飛龍」は曳航可能だったが、米軍制空権下では処分するしかなかった。
  • イギリス海軍の正規空母は戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲を持ち、甲板上にいた航空機は大きな被害を受けたが、沈没に至るようなダメージは受けずに済んだ。

等が挙げられる。とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害[注 9]を特攻機が与えた事例もある。

特攻による攻撃隊は、突入機が1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、連合国軍からすれば1日の来襲機数は直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものであった。南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであればさらなる戦果拡大も望めたと見られるが、現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機も数を揃えることができず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行える水準についに復帰できなかった。

唯一、1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に、翌7、8日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかったために散発的な攻撃となる。突入に成功した機は比較的多かったものの、飛行技術の未熟さや興奮などの諸条件により、小型艦艇を目標にした特攻機が多かった[111]。その結果、駆逐艦「ブッシュ」、「コルホーン」、高速輸送艦「デッカーソン」、掃海駆逐艦「エモンズ」、輸送船「ローガンビクトリー」、「ホッブスビクトリー」、揚陸艇LST-447が沈没。護衛空母「サン・ジャシント」(至近距離突入)、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」、駆逐艦「モリス」、「ハッチングス」、「ベネット」、「ロイツェ」、「マラニー」、「ハリソン」、「ニューコム」、「ホーワース」、「ヘインズワース」、「ハイマン」、「タウジング」、「ロングショー」、「グレゴリー」、護衛駆逐艦「ウィッター」、「フィバーリング」、「ウェスン」、敷設駆逐艦「ハリー・F・バウワー」、掃海駆逐艦「ロッドマン」、「ハーディング」、掃海艇「ファシリティ」、「ディフェンス」、「ラムソン」、「デバステーター」、掃海特務艇311号、321号、81号が損傷を受けた。また陸上砲撃により戦艦「ネバダ」が損傷を受け、水上特攻艇により駆逐艦「チャールズ・J・バジャー」、「ポーターフィールド」、資材輸送艦「スター」、「LSM-89」が損傷。他にも友軍艦からの誤射や衝突で数隻が損傷した。米戦艦を護衛中だった駆逐艦「ニューコム」では、特攻機が戦艦ではなく自分達に突入したことに対し、乗員が「どうして我々なんだ?」と困惑していたという[112]。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた[113]

アメリカ国立公文書館に保管されているアメリカ軍の機密文書には、アメリカ軍が視認できる距離まで接近できた特攻機のうち、至近自爆を含む命中効果率を半年間で56%と算定していた(日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26 - 28%と推定)[114][115]。また、アメリカ軍損害分分析班が1945年4月に行った集計では、特攻作戦が始まった1944年10月から1945年3月までにアメリカ海軍艦隊の視界に入った特攻機は計356機で、うちアメリカ海軍艦船への命中が140機(39%)、至近距離での爆発による被害が59機(17%)だった。半年間の航空特攻作戦でアメリカ海軍艦船20隻が沈没した(データには視界に入る前に米軍機によって撃墜された特攻機は含まれていない)[116]。他にも特攻機が敵に損害を与えた最終的な確率は諸説あるが、2割弱[117][118]との見方が比較的多くなっている。ただし、視界に入らないうちに阻止されたものも含む実際の出撃数から算出される命中率は、5%程度である[要出典]

以下は日本軍特攻攻撃によって損傷・沈没した主要な連合軍艦艇である。

他損傷艦多数。補助艦艇の撃沈破された艦は割愛。

特攻対策[編集]

航空特攻に対しては、対空砲火射撃指揮レーダーレーダーピケット艦戦闘機による迎撃VT信管などの対策がとられた。フィリピンで特攻による損害を強いられた連合国軍は、沖縄戦の頃にはピケット艦や空母艦載機編成の改編等様々な対策を採っており、特攻の有効性は大きく減じられることとなった。

回避運動[編集]

航空特攻による被害が問題になると、アメリカ海軍のオペレーションズ・リサーチ部門はただちに特攻機の攻撃を受けた艦のデータ収集に着手した。短期間のうちに477件が収集され、このうち有効なデータは365件であった。分析に当たっては、攻撃を受けた艦を大型艦(空母・戦艦・重巡洋艦)と小型艦軽巡洋艦・駆逐艦等に層別化して、まず艦の回避運動の有無に応じて、特攻機の突入成功率と、対空砲火による撃墜率を分析して、下表のような結果が得られた[119]

特攻機の突入成功率
回避運動 大型艦 小型艦
あり 22% 36%
なし 49% 26%
対空砲火による撃墜率
回避運動 大型艦 小型艦
あり 77% 59%
なし 74% 66%

要すれば、大型艦では回避運動をとった方が突入を受けにくいのに対して、小型艦ではむしろ回避運動をとった方が突入を許しやすく、かつ、これは対空砲火による撃墜率と相関しているとの結果であった。この結果は、下記のような理由に基づいていると考えられた[119]

  1. 特攻機の阻止には回避運動よりも対空砲火による効果のほうが大きい
  2. 大型艦では回避運動中でも艦が安定しているため、対空砲火に与える影響が小さいのに対して、小型艦では艦の動揺が激しく、対空砲火の射撃精度への悪影響が大きい

また特攻機の攻撃経路(急降下低空か、艦のどの方位から攻撃してきたか)に応じた突入成功率を分析した結果、艦首・艦尾方向から急降下突入を受けた場合には突入を許す危険性が増大すること、また艦の真横方向から低空突入を受けた場合にも同様の傾向が見られるとの結果が得られた[119]

これらの分析結果に基づき、下記のような勧告がなされたことにより、勧告に従った艦艇に対する突入成功率は29%に低下した。なお勧告に従わなかった艦艇に対する突入成功率は47%という高率を保っていた[119]

  • 大型艦には回避運動を推奨する一方、小型艦には対空砲火に悪影響を与える回避運動を避けさせる
  • 特攻機が高空から攻撃してきた場合には艦腹を、低空から攻撃した場合には艦首尾線を向けさせる

対空砲火[編集]

下表[120]はアメリカ軍が比島戦時に通常攻撃と特攻に対して、対空砲火の有効性を判定したものである。ただしアメリカ軍側からのみの判定であり、特攻と通常攻撃が一部混同されている可能性が高いことを付記しておく。

一般に有効とされた5インチVTが特攻に対しては意外に効果を挙げておらず、対して40mmボフォースは通常攻撃より少ない投射弾数で撃墜判定に至っていることがわかる。つまり通常攻撃機は追い払うか攻撃を失敗させれば良いが、特攻機は突入を図ってくるため確実に撃墜しなければならないこと、高角砲のレンジ(射程)では有効な打撃を与えきれずにボフォースのレンジへの突入をしばしば許していることがこの判定結果に現れている(さらに言えば撃墜判定数が少ない場合は小数機に多数の砲が集中されているということであり、結果的に消費弾量が大きく増加している)。

この高角砲の威力不足は深刻な問題とされ、戦後ボフォース4連装がVT付き3インチ両用砲に換装される大きな動機となった。

特攻機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常 1,479発/機
(1.5機)
1,213発/機
(5機)
493発/機
(9機)
2,675発/機
(3.5機)
5インチVT 242発/機
(6.5機)
324発/機
(6機)
218発/機
(4機)
402発/機
(8機)
3インチ通常 59発/機
(1.5機)
392発/機
(1機)
戦果なし 986発/機
(4機)
40mmボフォース 2,201発/機
(23.5機)
2,408発/機
(27機)
1,003発/機
(33機)
3,576発/機
(30.5機)
28mm機銃 戦果なし 戦果なし 戦果なし 2,170発/機
(1機)
20mm機銃 9,983発/機
(11機)
8,755発/機
(13機)
3,933発/機
(23.5機)
16,313発/機
(15機)
12.7mm機銃 戦果なし 戦果なし 24,942発/機
(0.5機)
17,402発/機
(2機)
通常攻撃機の撃墜判定記録
火砲 44.10 44.11 44.12 45.01
5インチ通常 748発/機
(23機)
2,601発/機
(1.5機)
795発/機
(5機)
1,765発/機
(4機)
5インチVT 65発/機
(9.5機)
798発/機
(1機)
179発/機
(6.5機)
1,083発/機
(3機)
3インチ通常 294発/機
(4機)
戦果なし 戦果なし 戦果なし
40mmボフォース 3,672発/機
(23機)
1,249発/機
(6.5機)
2,151発/機
(9.5機)
5,633発/機
(7.5機)
28mm機銃 戦果なし 戦果なし 戦果なし 戦果なし
20mm機銃 7,802発/機
(27機)
3,156発/機
(5.5機)
6,729発/機
(8機)
7,935発/機
(10機)
12.7mm機銃 39,986発/機
(0.5機)
875発/機
(1機)
戦果なし 9,929発/機
(1.5機)

特攻隊員[編集]

待遇[編集]

特攻隊は、各部隊から選出された特攻要員が予定戦力となり、特攻配置の部隊、あるいはそれに準じる部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員となり、特攻隊が編成される。特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)[注 10]の栄誉を受けることが原則であった。

特攻隊員の間では特攻花と称し、機内にテンニンギクほか日本の花(テンニンギクは外来種)を持ち込み、その花を本土(大隅薩摩半島の岬)から離れる瞬間に投げたり、そのまま胸に抱いて戦場へということがあった[121]

特攻隊員には自決するための特攻隊用短刀が下賜された。東京・秋葉原にあった陸海軍御用鞘師(佐官待遇)の処にて刀身が製作された。鞘に物心一如真言宗空海の言葉が鞘書きされている。ハバキは木製。刀袋に入れて特攻隊員に授与された。

特攻隊の自決用に製作された短刀。神風特攻隊、人間魚雷回天、陸軍の特攻隊員に下賜された。刀身は不錆刀。

日本陸軍の振武寮では、特攻隊員として出撃したが何らかの要因により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員に対し、担当者だった倉澤清忠らによって「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた[122]

日本海軍では、航空機による体当たり攻撃を「神風特別攻撃隊」として統一名で呼称した。名称は猪口力平中佐の発案によるもので、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から名付けたものである[123]。一方で第201航空隊飛行長中島正少佐の証言にでは「かみかぜ」と読む[124]。神風特攻隊は、心構えを厳粛にするため特別扱いはしない、勝手な体当たりの禁止と大西瀧治郎によって決められた[125]。初期には特攻隊員は出撃前にぼた餅やいなり寿司をもらう儀式があったが、後に省略されていった。 戦艦の突入による玉砕攻撃は、豊田副武によって「海上特攻隊」と命名された[126]

志願[編集]

最初の特別攻撃隊となる第1神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として戦死し軍神と畏敬された関行男大尉
日本陸軍

陸軍初の特攻部隊の1つ富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった。もう1つの万朶隊は飛行隊長が面接を行い志願を募った[127]。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の河辺虎四郎中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している[128]

大倉巌陸軍少尉機は親戚の女性(許嫁)を同乗させ、谷藤徹夫陸軍少尉は自機に新妻を乗せて特攻した[129]

大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している[130]二等兵だった記者の渡邉恒雄は太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている[131]

日本海軍

海軍では、特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。特攻兵器の部隊は比較的早い段階から特攻要員が集められた。中島正飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという[132]。「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた[133]。終戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の質問に対して、下級現場指揮官5名(中佐1、大尉4)は全て志願者だったと証言している[134]。。

坂本雅俊(回天要員)は戦局を挽回する兵器とだけ知らされ志願したという[135]。竹森博(回天要員)によれば、志願は希望する者は○を、しないものは白紙を出し、志願したのに選出されなかったものは教官に詰め寄ったという。決まった後も回天を見せられ、特攻の説明があり、もし嫌なら原隊へ返すと説明されたという[136]。鈴木英男(桜花要員)によれば必ず死ぬ任務のため強制はしないが志願者がいれば答えてほしいと募集があり、志願したという。佐伯正明(桜花要員)によれば一人づつ呼ばれ説明を受け行くか聞かれて志願したという[137]。湯野川守正(桜花要員)によれば、詳細は伏せられて、必死必中兵器として募集があり、志願したという[138]

最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された玉井浅一によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明して志願を募ると、皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという[139]。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫び、さっと一同の手が上がったと証言するものもいる[140]。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という[141]。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という[142]。志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという[143]。志願者井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという[144]

特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった猪口力平によれば指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせてください」と即答したという[145]が、人選した玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った[146]

フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという[147]。クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという[148]

菅野直大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった[149]杉田庄一上飛曹も特攻に志願したが許可されなかった[150]

角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという[151]。搭乗前に失禁、失神する隊員もおり、怖じ気づいて整備兵に抱えられて搭乗するものもいた[152]

清水芳人によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという[153]。末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという[154]

反対・拒否[編集]

陸軍飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋はその日のうちに罷免された[155]。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。

海軍では、特攻に関する指揮官先頭を守って、部下から特攻を出さなかった指揮官に、343空司令源田実大佐[156]芙蓉部隊指揮官美濃部正少佐[157]の例がある。343空飛行長志賀淑雄少佐は上級司令部から343空に特攻の打診があった際に、行けと言う軍令部参謀が最初に行くべきだと意見具申して、源田司令から賛意を得ている[158]。特攻に反対したが、認められずに特攻を出している例には、203空飛行隊長岡嶋清熊少佐[159]、203空飛行長進藤三郎少佐[160]、341空飛行隊長藤田怡与蔵少佐[161]がある。特攻の志願が募られた際、岩本徹三海軍少尉は「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落すのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と志願しなかった。

構成人数・比率と戦死者数[編集]

1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は陸軍202機、海軍333機。戦死者は陸軍252名、海軍420名であった。沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。

殆どの特攻隊員は下士官学徒出陣士官将校)である。海軍では下士官・兵は予科練、陸軍では少年飛行兵出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。そして学徒出陣の士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に甲種幹部候補生特別操縦見習士官出身者からなる。特攻指導者冨永恭次陸軍中将の長男である冨永靖を始め、阿部信行朝鮮総督(陸軍大将、第36代総理大臣)、松阪広政司法大臣といった陸軍および政府高官の子息の一部も特攻隊員ないし特攻で戦死している。

海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた[162]。これは当時の搭乗員における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。

あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表[163]に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。

階級 あ号作戦期間中の戦死者数 構成比率 捷号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率 天号作戦期間中の戦死者数(内特攻) 構成比率
士官 99名 6.5% 185名(内33名) 9.9% 190名(内52名) 6.6%
予備士官 23名 1.5% 163名(内75名) 8.7% 963名(内507名) 33.6%
特務士官 38名 2.5% 30名 1.6% 55名 1.9%
准士官 115名 7.5% 124名(内10名) 6.6% 67名(内17名) 2.3%
下士官兵 1,257名 82.0% 1,371名(内299名) 73.2% 1,591名(内1,014名) 55.5%
合計 1,532名 100.0% 1,873名 100.0% 2,866名 100.0%

顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これはこの頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、以後急速に士官の数的主力を占めていく過程と連動している。

下表[163]は昭和20年4月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた[162]

階級 S20.4.1現在数 構成比率
士官 1,269名 5.3%
予備士官 5,944名 25.0%
特務士官 675名 2.8%
准士官 827名 3.5%
下士官兵 15,114名 63.0%
合計 23,829名 100.0%

海軍の特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)であった。
特攻戦死者数の合計が一致しないのは、資料の差異や後日調査結果の補完などに起因するものと推測される。

2010年8月現在確認されている特攻隊員戦死者数は

海軍
  • 海軍航空特攻隊員:2,531名
  • 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
  • 回天特攻隊員:104名
  • 震洋特攻隊員:1,081名
  • 合計:4,156名
陸軍
  • 陸軍航空特攻隊員:1,417名
  • 丹羽戦車特攻隊員:9名
  • 海上挺進戦隊員(マルレ):263名
  • 合計:1,689名

この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者、義烈空挺隊等の特攻作戦関連戦没者などが以下となる。

  • 第二艦隊戦没者:3,751名
  • 回天部隊関連戦没者:1,083名
  • 震洋部隊関連戦没者:1,446名
  • 陸軍航空関連戦没者:177名
  • 海上挺進戦隊関連戦没者:1,573名
  • 空挺部隊関連戦没者:100名
  • その他(終戦時自決、神州不滅特別攻撃隊、大分701空による「宇垣軍団私兵特攻」など)戦没者:34名
  • 合計:8,164名

以上合計14,009名を数える[164]

元特攻隊員の著名人[編集]

年表[編集]

  • 1941年11月11日、真珠湾攻撃に参加する甲標的の部隊が特別攻撃隊と命名される[165]
  • 1944年2月26日、海軍は脱出装置を条件に人間魚雷の試作を命じた[166]
  • 1944年春、陸軍航空関係者が特攻の必要に関して意見を一致し研究が開始した[167]
  • 1944年4月、海軍艦政本部で各種水中・水上特攻兵器の特殊緊急実験が開始した[168]
  • 1944年5月、陸軍で体当たり爆弾桜弾の研究が第3陸軍航空技術研究所で開始される[169]
  • 1944年6月25日、元帥会議が行われ特攻が示唆された[170]
  • 1944年7月1日、大森仙太郎少将が海軍特攻部長に発令された(正式就任は9月13日)[171]
  • 1944年8月、海軍は航空特攻に動き出し特攻兵器桜花の開発を始める[172]
  • 1944年9月28日、大本営陸軍部から航空本部に航空特攻に関する大本営指示が発せられる[173]
  • 1944年10月17日、日本軍は捷一号作戦を発動。
  • 1944年10月20日
    • 大西瀧治郎海軍中将、第一航空艦隊司令長官に着任(発令は10月5日)。神風特別攻撃隊編成命令を行う。
    • 大本営陸軍部から鉾田教導飛行師団に編成命令が下される[174]
  • 1944年10月21日、海軍、第一次神風特別攻撃隊初出撃。(空振りに終わるも大和隊隊長、久納好孚中尉未帰還。)
  • 1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊(零戦6 隊長:関行男大尉)、突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈。他に零戦10、彗星1が突入。米艦船5隻を撃破。特攻における初戦果となる。
  • 1944年11月7日、陸軍、特別攻撃隊“富嶽隊”初出撃。(山本中尉機未帰還。)
  • 1944年11月20日、海軍、回天特攻隊“菊水隊”4基、ウルシー環礁で初出撃。戦果未確認。初の水中特攻
  • 1944年11月24日、B-29による東京初空襲。陸軍、震天制空隊第10飛行師団第47戦隊見田義雄伍長、B-29ラッキー・アイリッシュ号に体当たりによる空中特攻。ラッキー・アイリッシュ号撃墜。初の組織的空中特攻。
  • 1944年11月26日、義号作戦。ブラウエン飛行場に“薫空挺隊”降下。戦果未確認。初の空挺特攻。
  • 1945年1月9日、リンガエン湾にて陸軍海上挺身隊第12戦隊(戦隊長:高橋攻大尉)40隻(一説には70隻)が米上陸部隊に対してマルレ、震洋による挺身攻撃。戦車揚陸艇など撃沈6隻、撃破10隻の戦果を挙げる。
  • 1945年1月12日、在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃。
  • 1945年1月25日、在フィリピン海軍航空部隊、最後の特攻出撃。
  • 1945年2月19日、連合軍、硫黄島に上陸作戦開始。硫黄島戦始まる。海軍、硫黄島周辺の艦船に向け特攻作戦開始。
  • 1945年3月18日、九州沖航空戦始まる(- 21日)。
  • 1945年3月21日、第一神雷桜花隊(桜花15機)出撃。特攻兵器桜花初出撃。進撃中、米戦闘機に迎撃され戦果無し。
  • 1945年3月26日、天号作戦発動。
  • 1945年4月1日、連合軍、沖縄に上陸作戦開始。
  • 1945年4月6日 - 7日、菊水一号作戦開始。菊水作戦(沖縄への大規模航空特攻作戦)、坊ノ岬沖海戦において海上特攻が行われた。
  • 1945年4月10日、菊水二号作戦開始。
  • 1945年4月16日、菊水三号作戦開始。
  • 1945年4月17日、|バギオ近郊イリサンにて、丹羽治一准尉以下11名が九五式軽戦車九七式中戦車各一両で米M4中戦車に体当り陸上特攻。三両撃破(戦車の頭突き)。
  • 1945年4月22日、菊水四号作戦開始。
  • 1945年5月3日、菊水五号作戦開始。
  • 1945年5月11日、菊水六号作戦開始。
  • 1945年5月24日、菊水七号作戦開始。義烈空挺隊、沖縄の米飛行場に強行着陸(空挺特攻)。
  • 1945年5月28日、菊水八号作戦開始。
  • 1945年6月1日、菊水九号作戦開始。
  • 1945年6月21日、菊水十号作戦開始(最後の菊水作戦)。
  • 1945年6月23日、沖縄での組織的戦闘が終結。以後、兵力、機材、燃料の枯渇及び本土決戦のための兵力温存のため散発的な特攻攻撃となる。
  • 1945年7月1日、第180振武隊が都城より出撃し、陸軍の沖縄航空特攻終わる。
  • 1945年8月11日、喜界島から海軍第2神雷爆戦隊2機が沖縄の連合軍艦船群に突入。沖縄への航空特攻終結。
  • 1945年8月15日、
    • 木更津から流星艦上攻撃機1、百里原から彗星8が特攻出撃。最後の組織的特攻となった。
    • 正午に玉音放送があり終戦する。
    • 午後(夕刻)、宇垣纒海軍中将、計11機を指揮して大分基地から沖縄に特攻出撃。8機突入、戦果無し[注 11][175]
  • 1945年8月19日、神州不滅特別攻撃隊、大虎山飛行場から今田均少尉以下十名が赤峰付近に進駐し来るソ連戦車群に体当り全員自爆を遂げた[注 12][注 13][176]

特別攻撃隊を描いた作品[編集]

映画[編集]

音楽[編集]

テレビ[編集]

DVD[編集]

  • ドキュメンタリー『ドキュメント 特攻〜日本海軍による対艦体当たり攻撃機の記録〜前篇・後篇(全2巻)』(DVDアートデイズ 2007年

舞台[編集]

[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢佑、起案源田実。「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見[51]。「神風」の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし、命名者の猪口力平は19日に提案したと証言している。最初の編成命令を起案した門司親徳によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している[52]。電文の起案を担当した源田実も名前はフィリピンに出張した際に大西から直接聞いたと証言している[53]
  2. ^ 英軍の空母の被害は米軍よりもかなり少ない。
  3. ^ 当時のアメリカ軍の戦闘機は2000馬力級、時速600-700km級。
  4. ^ 「艦艇で追跡出来てしまう程に遅い」という皮肉。
  5. ^ 工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の朝鮮特需の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては層流翼を採用した紫電の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる
  6. ^ うち1回は、1機のB-29の水平尾翼を自機のプロペラでかじり取った後、そのまま、そのB-29の背面に馬乗りになった状態で飛行し、そのB-29が失速して高度を下げ始めた直後に、体当たり時に損傷を受けた機体を巧みに操縦して東京郊外の農地に不時着した。終戦時は軍曹。現在も健在
  7. ^ 単純に全てをTNT火薬だとすると広島型原爆約10発分の威力
  8. ^ 「彗星」や「銀河」などと比較すると、特攻に投入された機体は極めて少数であった。
  9. ^ 例えば45年3月19日の九州沖航空戦時の空母フランクリン(これは、日本海軍機の急降下奇襲爆撃による被害であるが)では、戦死だけで739名というダメージコントロールにあたる人員そのものが大量に失われた
  10. ^ 兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級
  11. ^ この攻撃は玉音放送後の戦闘行動として、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。
  12. ^ この攻撃は玉音放送後の戦闘行動、さらに2名女性を同乗させた軍紀違反の理由により、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。
  13. ^ 記録には存在しない幻の特攻隊と呼ばれている。公式記録では8月15日が最後の特攻とされているが実は8月19日が正しいと一部ではいわれている。

脚注[編集]

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  1. ^ 寺田近雄『完本 日本軍隊用語集』学習研究社117頁
  2. ^ 土井全二郎『失われた戦場の記憶』80-86頁(光人社 2000年)
  3. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫505頁
  4. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁
  5. ^ 戦史叢書」48 比島捷号陸軍航空作戦343頁
  6. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁
  7. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫507頁
  8. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦344頁
  9. ^ 戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給459-460頁
  10. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.34-37
  11. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫140-143頁
  12. ^ 戦史叢書87陸軍航空兵器の開発・生産・補給455-456頁
  13. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦345頁、『特攻隊振武寮』p.55
  14. ^ 『特攻隊振武寮』p.57
  15. ^ 柳田邦男『同時代ノンフィクション選集7巻戦死と自死と』文芸春秋330頁
  16. ^ 戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦347頁
  17. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦345頁
  18. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁
  19. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁、『特攻隊振武寮』p.69
  20. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦346頁
  21. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦347-348頁
  22. ^ 戦史叢書48 比島捷号陸軍航空作戦347頁
  23. ^ 御田重宝『特攻』講談社242-243頁、戦史叢書48比島捷号陸軍航空作戦347頁
  24. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁
  25. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 311頁
  26. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁
  27. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 307頁
  28. ^ 戦史叢書36 沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 311頁
  29. ^ NHK「ETV特集」『許されなかった帰還 〜福岡・振武寮 特攻隊生還者たちの戦争〜』(2006年10月21日 22:00-22:45放送、NHK教育)
  30. ^ #重爆特攻3頁
  31. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後124頁
  32. ^ 寺田近雄『完本 日本軍隊用語集』学習研究社117頁
  33. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.322
  34. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.322-324
  35. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.325-327
  36. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.326-327
  37. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.34-39
  38. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.327
  39. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 327-328頁
  40. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.328
  41. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.212-216
  42. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 331-333頁
  43. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 331-333頁
  44. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 331-333頁、秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁
  45. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦704頁
  46. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁
  47. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p.224
  48. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁
  49. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁
  50. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁
  51. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 108-109頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 503-504、538頁
  52. ^ 御田重宝『特攻』講談社32頁、神立尚紀『特攻の真意──大西瀧治郎 和平へのメッセージ』文藝春秋126-127頁
  53. ^ 御田重宝『特攻』講談社32頁
  54. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁
  55. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p.111-114
  56. ^ 特別攻撃隊慰霊顕彰会 非売品
  57. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.155-159
  58. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.161-163
  59. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 706頁
  60. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 551-555頁
  61. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁
  62. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期242-243頁
  63. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後141-142頁
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  65. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期231-232頁
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  73. ^ a b 秦郁彦『第二次大戦航空史話(上)』中央公論社、1996年、ISBN 978-4122026940
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  75. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫p.109
  76. ^ 半藤一利・保阪正康・中西輝政・戸高一成・福田和也・加藤陽子『あの戦争になぜ負けたのか』(文春新書)249-250頁
  77. ^ 『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀たちが語った敗戦』NHKスペシャル取材班
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  79. ^ パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本死』第12章『奈落の底へ』ISBN 4062920549
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  100. ^ 渡辺洋二 「特攻隊、海軍にただ一つ」『重い飛行機雲―太平洋戦争日本空軍秘話』 文藝春秋〈文春文庫〉、1999年、119頁以下。
  101. ^ 一例として、1945年5月29日飛行第5戦隊静岡県榛原町上空にて横浜へ爆撃(横浜大空襲)に向かうB29の大編隊に対して屠龍にて体当たり攻撃を行い、一機撃墜し散華した河田清治少尉がいる(参考資料:[1][2]インターネット・アーカイブ)・『内なる祖国へ』ISBN 978-4-562-03873-2
  102. ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期273-275頁
  103. ^ 大井篤『海上護衛戦』 ISBN 978-4059010401
  104. ^ 同上
  105. ^ 同上
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  108. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.225
  109. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫p.225
  110. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁
  111. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』148頁
  112. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』150頁
  113. ^ ラッセル・スパー『戦艦大和の運命』153頁
  114. ^ Yahoo!ニュース時事通信2006年11月15日「旧日本軍の航空特攻作戦、命中効果率は56%=予想以上の戦果-米軍機密文書」(参考資料[3][4])より
  115. ^ 原勝洋『写真が語る「特攻」伝説』ベストセラーズ ISBN 9784584189795
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  117. ^ 小沢郁郎『つらい真実─虚構の特攻隊神話』ISBN 978-4-88621-014-2
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  119. ^ a b c d 飯田 耕司 『情報化時代の戦闘の科学 軍事OR入門』 三恵社、2008年ISBN 4883616428
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  132. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫95-96頁
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  142. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁
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  161. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社162頁 反対、森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件』光人社NF文庫183-189頁 特攻例
  162. ^ a b 『海軍飛行科予備学生・生徒史』より
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  170. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.34-39
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  172. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p.333
  173. ^ 『特攻隊振武寮』p.57
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  176. ^ 「神州不滅特別攻撃隊之碑」碑文

参考文献[編集]

  • NHK取材班編 『太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器 カミカゼを制す』 角川文庫 ISBN 4041954142
  • 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮 証言 帰還兵は地獄を見た』 講談社 ISBN 4062155168
  • 海軍飛行予備学生第十四期会 編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 光人社 ISBN 4769807139
  • 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社 ISBN-10: 4054042023 ISBN-13: 978-4054042025
  • 北影雄幸『特攻の本 これだけは読んでおきたい』 光人社 ISBN 476981271X
  • 草鹿, 龍之介 (1979), 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂  - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
  • 草柳大蔵『特攻の思想 大西滝治郎伝』 文藝春秋 文春文庫 ISBN 4167315017
  • 佐藤早苗『特攻の町・知覧 最前線基地を彩った日本人の生と死』 光人社 ISBN 4769808291
  • 鈴木勘次『特攻からの生還 知られざる特攻隊員の記録』 光人社 ISBN 4769812337
  • 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』 1~3 文藝春秋 文春文庫 1 ISBN 4167151049、2 ISBN 4167151057、3 ISBN 4167151065
  • 高木俊朗『特攻基地知覧』 角川書店 角川文庫 ISBN 4041345014
  • 知覧高女なでしこ会『群青 知覧特攻基地より』 高城書房出版 ISBN 4924752622
  • 特攻隊慰霊顕彰会 「特別攻撃隊」非売品
  • 長嶺五郎 『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』 光人社NF文庫、1998年11月。ISBN 978-4-7698-2215-4 長嶺は梓隊誘導機操縦。
  • 日本戦没学生記念会(わだつみ会) 編『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315715
  • 林えいだい 『重爆特攻「さくら弾」機 日本陸軍の幻の航空作戦』 光人社NF文庫、2009年ISBN 978-4-7698-2608-8
  • 日本戦没学生記念会 編『きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記〈第2集〉』 岩波書店 岩波文庫 ISBN 4003315723
  • 原 勝洋『真相・カミカゼ特攻 必死必中の300日』 KKベストセラーズ ISBN 4584187991
  • 保阪正康『「特攻」と日本人』 講談社現代新書 講談社 ISBN 4061497979
  • 保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』 文春文庫 文藝春秋 ISBN 4167494051
  • ラッセル・スパー『戦艦大和の運命 英国人ジャーナリストのみた日本海軍左近允尚敏訳、新潮社、1987
  • 三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊 歴史に埋もれたドイツの「カミカゼ」たち』作品社 ISBN 9784861822247
  • ロバート・C・ミケシュ「破壊された日本機」三樹書房
  • 宮本雅史『「特攻」と遺族の戦後』 角川書店 ISBN 4048839136
  • 森山康平、太平洋戦争研究会 編『図説 特攻』(ふくろうの本 太平洋戦争の戦場) 河出書房新社 ISBN 4309760341
  • 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』扶桑社、2002

関連項目[編集]

外部リンク[編集]