宇垣纏

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宇垣纏
1890年2月15日1945年8月15日
Ugaki Matome.jpg
生誕 岡山県赤磐郡
死没 沖縄県方面
軍歴 1912 - 1945
最終階級 海軍中将
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宇垣 纏(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市)出身の日本海軍軍人。陣中日記『戦藻録』が有名。

生涯[編集]

1890年2月15日岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市)の農家で教師の父善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は同郷同族だが、縁戚関係はない[1]岡山中学校を経て1909年9月11日海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校[2]。海兵同期に大西瀧治郎山口多聞多田武雄[3]1911年7月17日成績優等章授与。1912年7月17日海軍兵学校に成績順位144名中第9位で卒業[2]、少尉候補生。

1913年12月1日海軍少尉。1915年12月13日海軍中尉。1918年12月1日海軍大尉。1919年12月砲術学校高等科学生修了。卒業時順位2位[2]1924年11月海軍大学校甲種学生22期卒業。12月1日海軍少佐。1925年12月1日海軍軍令部参謀。1928年11月15日ドイツ駐在海軍武官補(-30年)。12月10日海軍中佐。1930年12月1日第5戦隊参謀。1931年12月1日第2艦隊参謀。1932年11月15日海大教官(兼陸軍大学校教官)。12月1日海軍大佐。1935年10月30日連合艦隊参謀(兼第1艦隊参謀)。1936年12月1日海防艦「八雲」艦長。1937年12月1日戦艦日向」艦長。造船士官堀元美によれば、宇垣は夜の巡検後に浴衣姿で士官室に現れて士官達と歓談し、乗艦していた技術士官達と今後の軍艦のアイデアや、新型の巡洋戦艦の試案などを語り合ったという[4]

1938年11月15日海軍少将、軍令部出仕。12月15日軍令部第1部長。宇垣は作戦課長中澤佑大佐と共に、日独伊三国同盟締結は米国を挑発し、日米戦争の危機を招き最悪の事態に陥ると、一貫して反対の立場をとった[5]。しかし、1940年(昭和15年)夏以降の親独ムードの盛り上がりから、海軍がこれ以上反対することはもはや国内の政治事情が許さぬ(海軍次官豊田貞次郎中将の弁)と海軍首脳部が総じて同盟締結に賛意を示したこともあり、最終的に宇垣も参戦の自主性維持(自動参戦の禁止)を条件として同盟締結に賛成した[6]。その後、宇垣は対米戦準備を積極的に主張、推進するようになった[7]

1941年4月10日第8戦隊司令官。

連合艦隊参謀長[編集]

開戦直前の宇垣と山本

1941年8月1日連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)。宇垣は連合艦隊長官山本五十六の計画する真珠湾攻撃の許可を渋る軍令部に対し、説明と説得に当たっている。

1941年(昭和16年)10月16日、将来何かに必要になるだろうと考え、『戦藻録』を書き始め、1945年(昭和20年)8月15日まで書き続けられる。[8]

1941年(昭和16年)10月22日、第一航空艦隊から長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介を更迭し、小沢治三郎を長官に任命するように山本五十六に進言して同意を得たと日記にある。しかし実現はされていない。[9]

1942年(昭和17年)2月2日と3月11日の日記で、米軍機動部隊が帝都を空襲する可能性があるとドーリットル空襲の2ヶ月前に指摘している[10]。 同年3月1日、大西瀧治郎少将との協議で「広漠たる大洋上基地航空兵力の使用は困難なり。航空を前進せしむる為には航空母艦のみにて足れりや」「敵にして戦艦を有するも、凡有る場合之を無効ならしめる方策だに立たば、何億円と多大の資材を投ずるの要なし」と述べる[11]。4月23日には、空母・潜水艦の建造を優先、海軍航空隊に全力を集中すべしと軍令部と協議しているが、大和型戦艦3番艦(後の空母信濃)の建造に未練を残す記述があり、陸軍との勢力争いにも言及した[12]

ミッドウェー海戦直前の兵棋図演(シミュレーション)で宇垣は統監・審判長・青軍長官の一人三役を担うが、日本艦隊が著しく不利な状況にあっても日本艦隊の攻撃結果を過剰に大きくし、沈没判定の空母「加賀」を復活させるなど被害を少なく判定した[13]。 この図上演習で米軍(赤軍)指揮官をつとめた松田千秋は、既に連合艦隊の作戦が決定している以上「加賀」を復活させて図上演習を続けることはやむをえないと述べ、そもそも山本や黒島が決定した作戦そのものに無理があったとしている[14]。 またミッドウェー攻略作戦の打ち合わせで、敵基地攻撃時における日本海軍機動部隊の他方向から敵に対する備えが不十分であることを知った宇垣は第一航空艦隊に注意喚起を続け、『第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし、第二次は敵に備える』としたため安堵する。[15] 6月5-6日のミッドウェー海戦では、第一航空艦隊の主力空母が次々に被弾炎上すると、黒島亀人ら参謀達がパニックに陥った時にも冷静に対応し、参加部隊を統率して撤退させた[16]。 この大敗北について、二段攻撃の約束を破るなどした第一航空艦隊を厳しく非難したが、敵情変化を連絡しなかった連合艦隊側の責任も認めており、戦藻録にその旨記載している[17]。また敗因を振り返り、「今日の敵は正に飛行機」として高角砲の射程延長やレーダーの活用、対潜水艦装備の拡充が必要と認識した[18]。この後、旗艦「大和」から辞去する草鹿らを慰問し慰問品を送るなど激励している。[19]

同年8月上旬、米軍のガダルカナル島上陸により戦艦「大和」に乗艦してトラック泊地へ移動、連合艦隊参謀長としてガダルカナル島の戦い南太平洋海戦第三次ソロモン海戦い号作戦などを指導する。

1942年11月1日海軍中将。

1943年(昭和18年)4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃される(海軍甲事件)。山本搭乗機、宇垣搭乗機ともに撃墜されて山本は戦死、宇垣も負傷した。宇垣は山本の遺骨と共に、戦艦「武蔵」で内地に帰還した。その後、山本の形見として短刀を貰う。陣中録には「かねて山本長官身代わりたらんと覚悟せる身が、長官を失い、かえって生還す」とある。[20]

1943年5月22日軍令部出仕。

しばらく療養に入り1944年(昭和19年)2月25日、第一戦隊(大和、武蔵)司令官として復帰し第三次渾作戦あ号作戦捷号作戦に従事する[21]古村啓蔵(第一機動部隊参謀長)によれば、5月27日午後11時に空母「大鳳」を来艦し小沢治三郎第一機動部隊長官に激しく意見する宇垣を目撃しており、「今また第一戦隊司令官としてビアク島のことが心配でたまらず、この戦勢を何とかして挽回しようとあせっているように見受けられた」と回想している[22]

1944年11月15日軍令部出仕。

第五航空艦隊長官[編集]

1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官に就任する[23]沖縄戦では、特攻を主体とした米艦隊への海軍の航空総攻撃作戦である菊水作戦を指揮する。また、沖縄戦直前には、陸上爆撃機「銀河」24機によるウルシー泊地の米軍機動部隊への特攻作戦である「丹作戦」や、九州沖航空戦なども指揮した。

1945年2月10日第五航空艦隊の編成で軍令部、連合艦隊の指示・意向による特攻を主体とした部隊編成が初めて行われ、第五航空艦隊長官となった宇垣は長官訓示で全員特攻の決意を全艦隊に徹底させた。[24]

この時、既に日本軍には米機動部隊に通常航空攻撃をかけられる高性能機材も、機体数も、熟練パイロットの人数も揃えられなくなっており、主に特攻攻撃を主体とした攻撃法を余儀なくされた。第五航空艦隊ですら、寄せ集めの戦闘部隊に過ぎなかったのである[25]。さらに索敵機に用いる燃料すら確保困難な情況であり[26]、南九州作戦基地の収容力も加わって、不十分な偵察情報を基に散発的に少数機で特攻攻撃や通常攻撃をかけざるを得なくなった[27]。出撃した攻撃隊の多くは米機動部隊の物量とシステム化された迎撃網の前に散るばかりであった。一部迎撃網を突破して空母など主力艦に攻撃を成功させたものもあったものの、特攻機の攻撃力の低さから、終戦まで巡洋艦以上の中型艦を1隻も撃沈できなかった。しかし一方では正規空母を大破させるほどの大損害を与えることに成功した例もあり、特攻により損傷した艦艇は修理のために戦場からの一時離脱を余儀なくされた。米軍は沖縄戦だけで駆逐艦12隻を含む34隻を特攻攻撃により撃沈され、250隻が損傷を受けた[28]

また、出撃時期や部隊運用の判断についても混乱があった。長駆鹿屋基地から3,000km離れた米軍機動部隊本拠地ウルシー環礁まで特攻攻撃に出した銀河部隊「梓隊」24機・誘導の二式飛行艇3機に対して『万一天候其ノ他ノ渉外ノ為指揮官ニ於テ成功覚束ナシト認メタル場合ハ 機ヲ失セズ善処シテ再挙ヲ計レ 決シテ事ヲ急グ必要ハナイ』と訓示[29]、出撃時期を迷い、3月10日には発進した攻撃隊を一度引き返させている[30]。3月11日の再出撃では、銀河のエンジン不調により24機中7機が脱落して帰投[31]。さらに発進を1時間遅らせたため梓隊の到着は夜間となり、結果は米軍正規空母1隻(ランドルフ)を大破させたにとどまった[32]。その1週間後、本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃後、不十分な敵情把握と戦果の過大判断の末に4日目の3月21日現地部隊の反対を「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」として押し切り桜花特攻部隊神雷部隊を出撃させ、護衛部隊の零式艦上戦闘機をのぞけば「桜花」は母機諸共全機帰還しなかった。

4月6日になって菊水一号作戦が発動されると一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させたが、これも目標到達時間を統一しなかったことから飽和攻撃とはならず、結果的に散発的攻撃ではあったが、陸軍も第一次航空総攻撃(特攻機61機)を実施しており、7日の56機出撃と合わせると戦果は駆逐艦3隻、掃海艇4隻、揚陸艇(LST)2隻、貨物船2隻撃沈、正規空母1隻、護衛空母1隻、戦艦1隻、駆逐艦大破7隻を含む15隻、掃海艇7隻損傷(他に魚雷艇2隻、LCIなど)にまで上った。[33]。この際、連合艦隊司令部の強引な作戦指導により戦艦「大和」以下第二艦隊が米軍機動部隊航空機の猛攻により壊滅している。宇垣は突然決まった水上特攻作戦に不満を抱きつつも、特攻隊護衛機の一部を割いて第二艦隊の上空護衛を行っている[34]。この2日間の戦闘で損傷した正規空母は「ハンコック」中破のみであり、主力艦で言えば護衛空母が2隻、戦艦が3隻小中破した程度であった。

その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、果果しい戦果を挙げられないまま終戦に至った。8月10日付で第五航空艦隊司令長官の職を解かれ、後任には草鹿龍之介中将が内定している[35]。宇垣の用兵に対し、「特攻隊を人と見るより物と見る思想」、「軍人は死ぬことが名誉であると思っていた」という批判が戦後軍令部や関係者からなされた。なお甲標的に対する宇垣の意見は「繊弱なる本兵器は一度放たばその後の収容極めて困難なり。的確なる目標をつかんで基地より進発してこそ、甲斐あれ。連れて来たるに依り何とか使用してやらんの思ひ遣りは宜しきも、人命と兵器を軽んじ死地に投じて何等作戦上寄興せざるの結果に陥らしむるは余の最も残念とする所なり。小乗に堕すべからず」である[36]

戦艦大和」以下の第二艦隊による水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)の際、連合艦隊司令部は第二艦隊に対し護衛戦闘機を出す事を計画していなかった[37]。しかし第5航空艦隊司令長官(鹿屋基地司令官)であった宇垣は、独断で大和以下の艦隊に護衛戦闘機(零戦)部隊を出撃させている。しかし独断での出撃命令であった事と、護衛戦闘機搭乗員には他の任務がある都合上、時間が限定され、途中までの護衛しか出来なかった。第二艦隊が敵の攻撃を受けるのは護衛戦闘機隊が引き返した後である。不十分な護衛しか出来なかったが、生還した第二艦隊の乗組員から宇垣の心遣いに対して感謝の心を抱いた者も多かったと云う。

前述のように指揮官としては批判も多く見られた。特に特攻部隊指揮に関しては、宇垣の指揮していた第5航空艦隊鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。その一方、航空特攻を行わない芙蓉部隊(夜間攻撃隊)を視察した際には、彼らの戦法を賞賛している[38]

私兵特攻[編集]

特攻直前の宇垣纏中将

1945年(昭和20年)8月12日、宇垣は第七〇一航空隊の佐藤大尉に稼動彗星艦上爆撃機の稼動機数を尋ね、11機という返答を得た[39]。宇垣は「5機もあれば」とつぶやいたという。8月15日早朝、宇垣は艦上爆撃機彗星を5機用意するように部下の宮崎先任参謀、田中航空参謀、中津留達雄大尉に命じた[40]。特攻機は6機多い11機が用意された。これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、そのことについて宇垣が問いかけると、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と憤慨し怒鳴った[41]。正午に発せられた玉音放送を聴き、「戦藻録」最後のページを書き終えた後、自ら中津留大尉の操縦する彗星(この時、宇垣らが搭乗した彗星は、エンジンを空冷の金星62型に換装した彗星33型をベースにして特攻機型として生産された彗星43型)に搭乗する。彗星43型は2人乗りだが、遠藤秋章飛曹長が交代を拒否したため、宇垣、中津留、遠藤の3人が乗ることになった[42]。海軍兵学校同期である第十二航空戦隊司令官城島高次少将、及び幕僚である宮崎隆先任参謀、横井俊之参謀長から「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとかとりやめることはできないか」などと翻意を促されたが、宇垣は「武人としての死に場所を与えてくれ」と、その決意は揺らぐことはなかった[43]

特攻隊は合計11機(3機不時着)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸した[44]。出撃前の彗星前で撮った写真に彼は笑顔で写っている。高官が死地に赴くときには階級を示すものを外す習慣があったため、軍服から中将の階級を外し、そして山本五十六から遺贈された短刀を持参している[45]

宇垣機からは訣別電があり、続いて「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えた[46]。同日夕刻、沖縄県伊平屋島海岸付近に米軍が張っていたテントのすぐ近くに、1機の彗星が墜落した。中からは操縦士と思われる若い将兵1人のほかに、なぜか飛行服ではなく、階級章のない第三種軍装を着た壮年1人の遺体が収容された。出撃前の写真から判断して、これが宇垣の乗っていた彗星だった可能性が高い。しかし墜落状況は、動くことも反撃することもない目標を前にしてわざわざ特攻を行わなかったようにも見え、操縦していた中津留大尉が停戦命令を死守すべく意図的にテントを避けたとする説や、特攻の意味が無くなったと思い五十六の短刀で自決したとする説もある。ただし、これらの遺体が宇垣たちであると日本側によって公式に確認されたわけではないため、正確な死亡場所は現在も不明とされ、「敵艦に突入し命中した」などと説明する資料も存在する。

なお宇垣は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため、戦死とは見做されず大将昇級は行われていない。むしろ、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法第三十一条に抵触していたのではないかとする意見もある[47]。ただし、玉音放送を正式な「停戦命令」と解釈できるかどうかを巡って見解が分かれている。例えば、秦郁彦は8月16日16時に発せられた大陸命第1382号および大海令第48号を正式な停戦命令としている。

また、玉音放送後の出撃でいたずらに16名を犠牲にしたとして、遺族の非難も受けた。連合艦隊司令長官小沢治三郎は8月16日朝に淵田美津雄航空参謀に対し「皇軍の指揮統率は大命の代行であり、私情を以て一兵も動かしてはならない。玉音放送で終戦の大命が下されたのち、兵を道連れにすることはもってのほかである。自決して特攻将兵のあとを追うというのなら一人でやるべきである」と述べ、淵田は宇垣達に対する感謝状を起案しなかった[48]。一方、元鹿屋特攻隊昭和隊に所属していた杉山幸照は著書で「死ぬことは誰にでもできる、いと易いことだが、死地に歩を進めることは、死ぬ以上の覚悟がなければできない事を知るのである」と書き記している。

なお、この部隊の指揮を取った中津留大尉の父親は、戦後或る作家のインタビューに対し「何故宇垣中将は息子を連れて行ったのでしょう」と歯を食いしばりながら答えたという[49]。もっとも、その後中津留大尉の遺族によれば、晩年の父親は宇垣の行為を「仕方のないこと」として受け入れる心境に達していたとのことである(NHK 城山三郎追悼特集より)。

上記の問題点により戦死者(あるいは殉難者)とは認められず、戦後しばらくは靖国神社に合祀されていなかったが、現在では合祀されており、遊就館の常設展示に宇垣を取り扱ったコーナーも存在する。また死後に勲一等旭日大綬章を授与された他、1972年昭和47年)9月17日、郷里である岡山県護国神社の境内に彼と部下の慰霊碑が建立された[50]。この直前に東京水交社で行われた海兵四十五期級友会でも、土井申二(海兵45期)が「宇垣纏中将並に十七勇士菊水塔」への献詠を吟詠したところ、その中に「精忠不朽湊川似」の一節があったことから幹事長の古村啓蔵が「宇垣中将は終戦時の陛下の命を奉じなかったばかりでなく、部下十七名を伴い、敵地に投入した。何が湊川に似たりか」と憤激[51]。すると土井が「一人息子を戦陣で失ったことのないものに私の気持ちがわかるか」と古村に反論する一幕があり、宇垣の特攻を巡って海兵四十五期クラス会は喧々囂々になったという[51]

人物[編集]

自信家で当直参謀に艦隊運動の指揮を任せず自ら執ったため、常に艦橋に立っていた[52]。プライドの高い人物であり、上官に対してもあまり敬礼をせず、同期であっても海軍兵学校や海軍大学校での成績が自分より下の人物であれば無視をしたとされる[53]。下級者からの敬礼や挨拶には眼を逸らしたり「おう」とだけ言って頭を後ろに反らす傲慢な態度を繰り返していたので、海軍内での評判は良くなかったと云う[53]

上記の性格に加え、常に不機嫌そうな表情で鉄仮面(黄金仮面)と渾名されるなど「喜怒哀楽を見せない冷血漢」と見られていた一方、戦藻録からは家族思いであるなどの意外な一面が読み取れるという[54]。また若い部下、従兵、宿屋料亭の関係者から不思議と親しまれていたという[55]海軍甲事件で重傷を負った宇垣の秘書役を務めた蝦名賢造は、宇垣には人情的な一面があり事前の予想より仕えやすかったと述べている[56]

宇垣は海軍兵学校同期の山口多聞を名将と称えている[57]。山口のミッドウェー海戦での戦死に「余の級友中最も優秀の人傑を失ふものなり」と嘆き、その後もたびたび山口の最期を惜しむ[58]。山口も宇垣に草鹿龍之介に対する不満を打ち明ける関係であった[59]。その草鹿龍之介も宇垣を「木で鼻をくくったような冷淡な男」と評しており、性格的に合わなかったとみられる[60]。しかし草鹿は宇垣が死に触れ、「彼もまた偉い武人であった」と評している[61]

山本五十六との関係には曲折があった。日独伊三国同盟締結問題におけるような宇垣の変節に対して山本は嫌悪感を抱き、宇垣の連合艦隊参謀長着任後しばらくの間、山本と宇垣には不和が生じていたとされる[62]。また山本は宇垣(軍令部第一部長)が大艦巨砲主義者として大和型戦艦3・4番艦(信濃111号艦)の建造を推進したことに不快感を抱いていたという[63]。連合艦隊司令部で浮いた存在となった宇垣は「参謀連は第二段作戦の研究会を開くも参謀長(宇垣)は敬遠せられて閑暇なり」と自嘲する状態であった[64]松田千秋大和艦長が宇垣に着任の挨拶をした時にも、参謀長としての仕事がないこと、作戦は山本と黒島が決定していることを打ち明けている[65]。しかしガダルカナル島作戦のころから山本の黒島への信頼が揺らいでおり、次第に宇垣に頼ることが多くなっていたという。[66]1942年(昭和17年)10月1日には山本が宇垣の自室を尋ねて雑談し、宇垣は山本と気兼ねなく話せた事を喜んでいる[67]。のちに山本が海軍甲事件で戦死すると死に形見として短刀を貰い「かねて山本長官身代わりたらんと覚悟せる身が、長官を失い、かえって生還す」と陣中録に記した。[68]

家庭ではセパードの「エリー」を飼っており、エリー死亡の知らせを聞いた時にはその死を悼み延ばしていた髪を切った[69]。また家族が新しく飼い始めた三毛猫の姿に喜んでいる[70]。 狩猟を趣味としており、鳥撃ちでは常に獲物を仕留めた。戦艦「長門」や「大和」に持ち帰った鳥は夕食に供せられ、宇垣と確執のあった山本も、この時ばかりは上機嫌であったという[71]。狩猟に行く暇のない時には戦艦の舷側から釣りも楽しんでいる[72]。また酒を好んだ。[73]

宇垣による陣中日記『戦藻録』は枢要な職を歴任していたため第一級資料として評価され、宇垣の人生哲学、処世感、思考などが読める。[74]

年譜[編集]

  • 1890年(明治23年)2月15日-誕生
  • 1904年(明治37年)-岡山中学校入学
  • 1909年(明治42年)9月11日-海軍兵学校入校 入校成績順位150名中第9位[2]
  • 1911年(明治44年)7月17日-成績優等章授与
  • 1912年(明治45年)7月17日-海軍兵学校卒業(40期) 卒業時成績順位144名中第9位[2]
  • 1913年(大正2年)12月1日-任 海軍少尉
  • 1915年(大正4年)12月13日-任 海軍中尉
  • 1918年(大正7年)12月1日-任 海軍大尉
  • 1919年(大正8年)12月-砲術学校高等科学生修了。卒業時順位2位[2]
  • 1924年(大正13年)11月-海軍大学校甲種学生卒業(22期)
    • 12月1日-任 海軍少佐
  • 1925年(大正14年)12月1日-海軍軍令部参謀
  • 1928年(昭和3年)11月15日-ドイツ駐在海軍武官補(-30年)
    • 12月10日-任 海軍中佐
  • 1930年(昭和5年)12月1日-第5戦隊参謀
  • 1931年(昭和6年)12月1日-第2艦隊参謀
  • 1932年(昭和7年)11月15日-海大教官(兼陸軍大学校教官)
  • 1935年(昭和10年)10月30日-連合艦隊参謀(兼第1艦隊参謀)
  • 1936年(昭和11年)12月1日-海防艦「八雲」艦長
  • 1937年(昭和12年)12月1日-戦艦日向」艦長
  • 1938年(昭和13年)11月15日-任 海軍少将、軍令部出仕
    • 12月15日-軍令部第1部長
  • 1941年(昭和16年)4月10日-第8戦隊司令官
    • 8月1日-連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長)
  • 1942年(昭和17年)11月1日-任 海軍中将
  • 1943年(昭和18年)4月18日-山本長官の僚機で被弾(海軍甲事件)負傷
    • 5月22日-軍令部出仕
  • 1944年(昭和19年)2月25日-第1戦隊司令官
    • 11月15日-軍令部出仕
  • 1945年(昭和20年)2月10日-第5航空艦隊司令長官
    • 8月15日-沖縄方面へ特攻。行方不明。

演じた俳優[編集]

著書[編集]

  • 『戦藻録(せんそうろく)』(小川貫璽、横井俊幸共編) : 宇垣が太平洋戦争時に記した日誌
    • 日本出版協同(1952年、上下巻)
    • 宇垣纏著・成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
    • 原書房(1968年、明治百年史叢書、新装版1993年) : 日本出版協同版に開戦前50日間の日誌が増補されている

参考文献[編集]

  • 杉山幸照『海の歌声』(行政通信社・1972年)
  • 松下竜一『私兵特攻- 宇垣纒長官と最後の隊員たち』(新潮社・1985年)
  • 杉山幸照『海の歌声』(行政通信社・1972年)
  • 古村啓蔵回想録刊行会編 『海の武将-古村啓蔵回想録』 原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 蝦名賢造 『山本五十六と宇垣纏 死に往く長官 上巻』 西田書店、1989年3月。ISBN 4-88866-083-2
  • 蝦名賢造 『山本五十六と宇垣纏 死に往く長官 下巻』 西田書店、1989年3月。ISBN 4-88866-084-0
  • 堀元美 『造船士官の回想(上)』 朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17284-3。
  • 生出寿 『航空作戦参謀 源田実』 徳間書店、1995年8月。ISBN 4-19-890357-3
  • 小林久三 『連合艦隊作戦参謀 黒島亀人 一国の命運を分けた山本五十六と黒島亀人』 光人社NF文庫、1996年5月。ISBN 4-7698-2121-2
  • 吉田俊雄 『良い参謀、良くない参謀 8人の海軍サブリーダーを斬る!』 光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0786-4
  • 生出寿 『勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六』 徳間文庫、1997年7月。ISBN 4-19-890714-5
  • 長嶺五郎 『二式大艇空戦記 海軍八〇一空搭乗員の死闘』 光人社NF文庫、1998年11月。ISBN 978-4-7698-2215-4
    長嶺は梓隊誘導機二式飛行艇操縦・指揮官。梓隊は特攻隊だが誘導機は帰還することになっていた。
  • 蝦名賢造 『最後の特攻機 覆面の総指揮官 宇垣纏』 中央公論新社、2000年7月。ISBN 4-12-203677-1
  • 元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎 『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』 テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2
  • 安永弘『サムライ索敵機 敵空母見ゆ!』(光人社、2002)425-429頁。彩雲搭乗員から見た宇垣の特攻出撃。
  • 吉田俊雄 『大和と武蔵 その歴史的意味を問い直す』 PHP研究所、2004年8月。ISBN 4-569-63462-1

脚注[編集]

  1. ^ 阿川弘之『連合艦隊の名リーダーたち』プレジデント社233頁
  2. ^ a b c d e f #良い参謀良くない参謀60頁
  3. ^ #蝦名 特攻機78頁
  4. ^ #造船士官の回想 上221-222頁
  5. ^ #蝦名 特攻機65頁
  6. ^ #蝦名 特攻機105-106頁
  7. ^ #蝦名 特攻機114-115頁
  8. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫140-141頁
  9. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫143頁
  10. ^ #戦藻録(九版)76,93頁
  11. ^ #戦藻録(九版)89頁
  12. ^ #戦藻録(九版)108頁
  13. ^ #山本と黒島229頁、#吉田 大和と武蔵167頁
  14. ^ #生出・源田202頁
  15. ^ 戦史叢書43ミッドウェーp584
  16. ^ #山本と黒島252-255頁、#良い参謀良くない参謀65頁
  17. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫207頁、戦史43ミッドウェー海戦251頁
  18. ^ #戦藻録(九版)155頁、#蝦名 特攻機64頁
  19. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫207頁
  20. ^ #良い参謀良くない参謀81頁
  21. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫140-141頁
  22. ^ #海の武将131頁
  23. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫141頁
  24. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 708-709頁
  25. ^ #蝦名 特攻機333頁
  26. ^ #蝦名 特攻機352頁
  27. ^ #蝦名 特攻機377頁
  28. ^ #蝦名 特攻機416頁
  29. ^ #二式大艇空戦記203-204頁
  30. ^ #二式大艇空戦記228頁
  31. ^ #二式大艇空戦記239頁
  32. ^ #二式大艇空戦記267-268頁
  33. ^ #原勝洋『真相・カミカゼ特攻』KKベストセラーズ190-197頁
  34. ^ #戦藻録(九版)486頁
  35. ^ #蝦名 特攻機69頁
  36. ^ #戦藻録(九版)206頁
  37. ^ #蝦名 特攻機387頁
  38. ^ #戦藻録(九版)541-542頁
  39. ^ #蝦名 特攻機442頁
  40. ^ #蝦名 特攻機70、442-443頁
  41. ^ #死に往く長官 下173頁、#蝦名 特攻機447頁
  42. ^ #蝦名 特攻機448頁
  43. ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ vol.10 連合艦隊の最期』 学習研究社 2002年9月(第3版) ISBN 4-05-601163-X p.166
  44. ^ #蝦名 特攻機448頁
  45. ^ #良い参謀良くない参謀1.54頁
  46. ^ #良い参謀良くない参謀53-54頁
  47. ^ #蝦名 特攻機451-452頁
  48. ^ #海の武将176頁
  49. ^ #蝦名 特攻機454頁
  50. ^ #海の武将176頁
  51. ^ a b #海の武将174-175頁
  52. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫134-135頁
  53. ^ a b #良い参謀良くない参謀59頁
  54. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫141-142頁、#蝦名 特攻機164頁
  55. ^ #蝦名 特攻機81頁
  56. ^ #蝦名 特攻機257頁
  57. ^ #戦藻録(九版)143頁
  58. ^ #戦藻録(九版)142、152、243-244頁
  59. ^ #戦藻録(九版)128頁
  60. ^ #蝦名 特攻機80頁
  61. ^ #死に往く長官 下184頁
  62. ^ #良い参謀良くない参謀67頁
  63. ^ #勝つ戦略負ける戦略36頁
  64. ^ #戦藻録(九版)75,97頁
  65. ^ #勝つ戦略負ける戦略37頁
  66. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫146頁
  67. ^ #戦藻録(九版)198頁
  68. ^ #良い参謀良くない参謀81頁
  69. ^ #戦藻録(九版)150頁
  70. ^ #戦藻録(九版)157頁
  71. ^ #従兵長97頁、#戦藻録(九版)77,94頁
  72. ^ #戦藻録(九版)11頁
  73. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫146頁
  74. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 上』中公文庫140-141頁

外部リンク[編集]