桜花 (航空機)

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桜花11型性能諸元表
Japanese Ohka rocket plane.jpg
桜花の模型
型式番号 MXY-7
全長 6.066m
全幅 5.12m
全高 1.16m
自重 440kg
全重量 2270kg
速度 1040km/h(急降下突撃状態の速度)
648km/h(水平時最大速度)
航続距離 37km(投下高度によって変化)
(⇒高度7千で投下して約60km)
主武装 1200kg徹甲爆弾
副武装
エンジン 固体ロケットエンジン
出力 推力800kg×3
ただし毎本の稼働時間は9秒
乗員 1名(脱出装置なし)

桜花おうか)は日本海軍太平洋戦争中に開発した特殊滑空機である。特攻兵器として1944年より開発され、1945年(昭和20年)から実戦に投入された。

特徴[編集]

桜花(22型)

「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。一一型では母機からの切り離し後に固体燃料ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。

秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想から航空本部伊東裕満中佐によって「桜花」と命名された[1]。初戦果を報じた1945年5月28日の新聞では、ロケット機「神雷」と呼称された[2]。開発段階では大⃝部品、大⃝兵器とも呼ばれた(マルの中に「大」の文字)。連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BOMB(単にBAKAとも)、即ち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていた。

終戦までに11型が製造され755機生産された[3]。桜花で55名が特攻して戦死した[4]。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる[5][注釈 1]

桜花を搭載した一式陸攻は速度が低速であり、零戦による援護が困難であった。また敵のレーダーで事前に捕えられ撃墜された[7]。母機となる一式陸攻の搭乗員は7名程度であり、特攻はしないがこの機体もほぼ帰還はなかった[8]。確実に戦果を挙げる為の体当たり攻撃とはいえ、十分な護衛機無しで投下地点となる目標の近距離まで到達する為に、多数の高性能迎撃戦闘機を鈍重な爆撃機で突破しなければならない桜花を使用した所で攻撃が成功する確率は万に一つもなかった。桜花を防御弾幕の手薄な比較的遠距離で切り離し、敵機動部隊外縁のピケット艦等の軽艦艇に攻撃をかけるのが精一杯だったことが実際の戦果でも証明されている[9]

歴史[編集]

開発まで[編集]

桜花の着想は、第十一航空艦隊司令部付の航空偵察員大田正一海軍特務少尉が陸軍で母機から投下するロケット推進の有翼誘導弾が開発されているとの情報を得て、製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間におきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が東大に足を運んだところから軌道に乗る[10]

この大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった[注釈 2]。実験に協力した谷一郎東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。私に求められたのは、木村秀政助教授の描いた三面図を基に、風洞実験の助けを借りて、空気力学的特性を推定することであった。仕事自体はさほど困難ではないが、特攻機が母機を離れた後は、生還の可能性の全くないことを知って私はたじろいだ。」という[11]

1944年昭和19年)5月第一〇八一海軍航空隊が開隊。直後に十一航艦司令部より大田が転勤してくる。大田は司令の菅原英雄中佐に対して桜花の構想を明かす。菅原司令は、任務外の新兵器開発に奔走する大田を黙認して、航空技術廠長和田操中将に電話で技術上の検討を依頼[12]。5月、6月ごろ菅原の推薦によって、大田は和田に桜花を提案した[13]。航空技術廠三木忠直技術少佐の戦後証言によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという[14]。 もっとも、三木忠直技術少佐は戦中のインタビューでは、「ドイツのV一号に呼応してわがロケット兵器の研究もまた全力をあげて行われていた。しかしV一号の目標は地上の間であるが、わが目標は空母、戦艦、輸送船の海上の点である。目標に対して一発必中の成果を上げるためにはV一号のごとく無人機では到底不可能である。どうしても人力を借りねばならない。だが、人の力を借りれば必中と同時に必死である。ここに悩みがあった。この悩みを解決したのが大田正一中尉(当時少尉)である。『 V一号に人間が乗ってゆくことだ。まず自分が乗ってゆく』と、烈々の至情を吐露して肉弾ロケット機『神雷』(桜花)を各方面に説き回った。」と語っている[注釈 3][15]

和田から話を聞かされた三木忠直技術少佐、山名正夫技術中佐が研究に協力した。空技廠は、風洞実験装置が有り、民間飛行工場の指導も行い、出入りのある愛知航空機にも桜花研究の協力を要請している[16]

和田は航空本部二課長伊東裕満中佐へこれを進達した[17]。和田から連絡を受けた伊東は説明を聞き、大田は「私が乗っていきます」と言った[18]。伊東の感想は「これは部外で相当に研究されたものらしい」というものだった。また、伊東は「私は、大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ちうる者でなくして、必死兵器を進言できるはずがないと思い込んでいたからである。誠に迂濶千万であった。私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現促進に努力する腹を決めた」という[19]

1944年6月20日前後、筑波海軍航空隊で、司令中野忠二郎大佐が海兵出身の戦闘機教官7、8名を士官室に集めて戦局の悪化を明らかにし、「一度出撃すれば生還し難いが、成功すれば戦艦でも空母でも撃沈確実の新兵器のことで生還可能性が絶無である以上、上官からの命令はできないので搭乗員の意見を聞くことになった」という趣旨の説明があり、志願者が2名以上あれば兵器として採用すると断って志願を募った。林富士夫中尉、牧幸男大尉らが志願している[20]

マリアナ沖海戦敗北後の1944年6月19日、341空司令岡村基春大佐は第二航空艦隊司令長官福留繁中将と参謀長杉本丑衛大佐に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長伊藤整一中将に伝えるとともに中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた[21]

また、6月27日岡村は252空司令舟木忠夫とともに軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将に対しても、航空特攻部隊の構想を話し、特攻に適した飛行機の開発を要望した[22]。桑原虎雄中将によれば「大西君は岡村大佐らの建策を支持し、島田軍令部総長に、ぜひとも採用しなさいと進言しておった。が、軍令部はなかなか採用しなかった」という[23]

8月初旬、大田は東京帝国大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所の協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。私案には木村秀政東大講師による風洞実験用木型の設計図と谷一郎東大教授担当の風洞実験データがついていた。推進装置は三菱開発の呂号薬が採用されていた。その出来に伊東中佐も驚いたという[24]

伊東裕満中佐は航空本部一課長高橋千隼大佐の助言で、この案を軍令部作戦課航空部員源田実中佐のもとへ署名とともに持ち込んだ[25][注釈 4]。署名とは、大田が1081空で下士官、兵のパイロット数十名を集めて「今の戦局を挽回するには一機で一艦を確実に葬るしかないと考え、それには母機から発進してロケット進推進で敵艦に体当たりする飛行爆弾のような有人の小型機しかないのではないかとの考えに至った。これを上申すべく東京に一番近い部隊に転勤を希望し、軍令部に日参しておったのである。軍令部ではそのようなものを作っても乗る搭乗員がいないと相手にしてもらえない。そこで賛成する搭乗員がいることを証明したいので、貴様たちの名前を貸してほしい」との趣旨の話を持ちかけ、質疑をする内に賛同者が徐々に増え、それを見た大田は取りまとめを堀江良二一飛曹に託したものである。堀江によれば、偵察員だから搭乗することもないと軽い気持ちで一番最初に署名して回すと、みな快く署名し、中には血判を推すものまでいたという[27]。源田によれば「マリアナ沖海戦後、前線の若手士官、下士官から覚悟があるので体当たり機の使用を始めさせてほしいと上申があったが、軍令部は十分に効果がある爆弾の開発があるまで待ってほしいと押さえていた。桜花も同じ時期に軍令部への説得、働きかけがあった」という[28]。本兵器の利点としては、炸薬量が多いのが魅力だったと戦後話している[29]。1944年8月5日軍令部会議において源田は桜花案の報告を行い、軍令部二部長黒島亀人少将、軍令部総長及川古志郎大将がその研究試作を承認した[30]

研究試作[編集]

桜花の弾頭が如何に大きかったかがわかる

軍令部と協議した航空本部は、1944年昭和19年)8月16日発案者大田の名前から「大⃝(マルダイ)部品」と名付けて研究試作を下命、航空技術廠に任務を課した[31]。空技廠で試作番号「MXY7」とされた「K1」の試作が開始[32]。空技廠の主担当者は三木忠直技術少佐となった[33]。設計には、山名正夫技術中佐、服部六郎技術少佐等も参加した。 主翼と艤装を担当した長束巖技術少佐(空技廠飛行機部第二工場主任)は自動操縦装置を搭載して搭乗員が脱出する方法を探ったが、賛同者は無かった[34]

航空本部から提出された「試作計画要求書」[35]

  1. 頭部の爆弾は全備重量の約80パーセント。
  2. 爆弾は徹甲弾とし信管に100パーセントの信頼性を持たせる。
  3. 極力高速とする。
  4. 航続距離は片道航行に多少の余裕を持たせること。
  5. 目標を照準するに足る程度の安定性、操縦性を持たせること。
  6. 極力小型として組み立て、分解が容易く狭隘な地下壕等にも多数格納しうるようにする。
  7. 構成材料には貴重な軽合金を排し、比較的入手容易な木材等を用いること。

三木は約2週間で図面を完成させた。チームは航空本部の要求通り全体を木製にし、翼はベニヤ板にした(ただし実験機K1型は胴体と尾部が軽合金)。計算で550ノット(1000キロ)までは空中分解しないようにした(安全範囲であり、550ノットの速度が出るわけではない)。操縦席には速度計、高度計、前後傾斜計の三つ。操縦かんには火薬ロケットの起動ボタン、これを運ぶ母機の一式陸攻との連絡用の伝声管と簡易通信機を取り付けるだけでよかった。母機の一式陸攻につり下げるには操縦席の前方上方に輪型の金具で母機のフックに引っ掛け、投下する場合はフックに付けた爆管を機上から爆発させて外すようにした。設計は一週間ほどでできた。ジェット推進機は実用段階にはなく、どうにか使えるのは火薬式のものだが、燃焼時間はわずかに9秒で、自走力をつけるには程遠く、自然落下速度を加速する程度に過ぎなかった。それでも火薬ロケット担当の千葉宗三郎技術中佐の協力で、推力八百キロのものを三基後部に付け、推力四百キロのものを主翼の下に左右一本ずつ装備した。ただしこの両翼のロケットは滑空テストをした結果おもわしくなく、すぐに取り除かれることになった[36]。試作1号機は1か月ほどかけて9月ごろに完成させた[37]

当初の基礎設計案より実機の主な変更点として以下が挙げられる

  • 垂直尾翼を当初の1枚から安定性確保及び母機への搭載を容易にするため、双尾翼にした。
  • 弾頭重量の機体重量に占める割合が、設計案では80%であったが無理だったため爆薬の重量を56%に減らした。これには固体ロケットの重量が3本で500kgに及んだことも影響している。なお、桜花の爆弾とロケットを除いた部分の重量は450kg程度である。
  • 大田案では、動力に秋水と同じ特呂二号薬液ロケット・エンジンが予定されていたが、開発途上で性能も不安定であったため、火薬ロケットに変更された。
  • 強度上・重量配分上どうしても尾部と垂直尾翼部にはジュラルミンを使わなければならなかったため完全な鋼・木混合ではなくなった。
  • 不発を防ぐため、突入時に弾頭が確実に起爆するように信管を弾頭に1つ弾底に4つ装備していた。

KIは45機生産された。後に実用のため量産された11型はK1より全長が4ミリ短く、全幅は12センチ短くなった。いづれにしても翼面荷重の大きい爆弾に翼を付けたようなものであった[38]

1944年8月18日、定例会報(軍令部)で二部長黒島亀人少将から「10月末までに桜花200機生産」が要望されたが、航空本部長塚原二四三中将は100機と言明した[39]

1944年8月28日、軍令部の会議で以下の現状報告が行われた[40]

  1. 十月末までに実用機200基の製作を目標としている。九月中にダミー機九基、実用機単座一基、複座二基、棟習機五基を製作する。
  2. 桜花は翼長5m、長さ6.7m、高さ1.73m、重さ2.053トン、炸薬500~540キロである。火薬推進ロケットを五本有し、一本九秒間使用できる。最終速力は6000mの高度で500ノット。航続距離は高度6000mから降下する場合6万m、高度4000mの場合には4万mとなる。
  3. 桜花の用法上は、実用距離を3万m(航統距離6万mの場合)から2~2.5万m(航統距離4万mの場合)とする必要がある。
  4. 搭乗員の養成は九月末90名、10月末300名を予定。
  5. 充当兵力は中攻100~200機を考慮する。ただし訓練期間は23~30機でよい。いずれにせよ捷号作戦には間に合わない。充当兵力は1.捷号作戦以外の兵力、2.捷号作戦で残った兵力、3.練習中のものから充当する。

8月中旬から各航空隊で桜花の搭乗員募集が始まった。海軍省人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いの無いものから募集するという方針が出された。編成準備委員長は岡村基春となった[41]。桜花の搭乗員は志願者の中から練度の高いパイロットが選ばれた。飛行時間1000時間前後のパイロットが中心に集められ、予備士官でも300時間以上はあった[42]。堂本吉春(桜花要員)は、桜花を見た時の感想として「『これがわしの棺桶か』と思いましたね。どうせやるなら半年前にやってほしかった、とそんな気持ちでした。そのくせ『いい飛行機だなあ』と思ったことも事実でした。あの時代ですからね。死ぬのは仕方ないとみんな思っていたのではないですか」と話している[43]。湯野川守正(桜花要員)によれば、桜花は投下後は250ノットの高速だが、操縦しやすく自由自在で、零戦のようなエンジン機では急降下で機首が浮くが桜花はそういったこともなかったという[44]

桜花 (K1) の訓練は各人一回だけでそれを終えると技量Aになった[45]。保田基一(桜花要員)によれば、事前に零戦で降下スピード感覚に慣れるための降下訓練を行うという。エンジンを徐々に絞ると飛行機が沈むが、できるだけエンジンを低回転にして着陸する。最後にはデッドスローで着陸を行うという[46]。堂本吉春(桜花要員)によれば、桜花の訓練は一式陸攻に吊られた桜花を鹿島灘上空から落としてもらい、神ノ池基地の滑走路に着陸するが、桜花にも浮力があり母機から離れないので懸吊装置を爆薬で切って落とすような仕掛けになっており、切り離された瞬間、振動も音もなく奇妙な感触で、200、300メートル沈む、着陸コースに入ったらフラップを下して機首を上げ、100ノット(180キロ)くらいのスピードに調整して着陸する、その間2、3分の滞空だという[47]。訓練での死者は2名だった[48]

1944年昭和19年)8月下旬、航空本部の伊東裕満中佐が「桜花」と命名した[49][注釈 5]。1944年9月5日作戦研究で軍令部作戦課は、桜花の現状について「順調に進捗せば十二月頃約100組程度作戦可能となるべし、但し未だ実験中に属し予備兵力として期待するは危険なり」と考えていた[52]

1944年10月1日第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編成。この時点では特攻部隊ではなく、編成は普通の航空隊新設と同様の手続きで行われている[53]。軍令部では土肥一夫が編成を担当して軍令部第一部長中澤佑少将から了承を取った[54]

1944年10月23日、空技廠は相模灘において桜花ダミー機の母機からの離脱実験に成功[55]。10月27日中沢祐軍令部1部長が省部会議でT部隊と721空を主として本土迎撃にあたる方針を説明[56]。1944年10月31日、桜花11型単座練習機 (K1) 長野飛曹によって実用試験成功[57]。11月1日航空本部で「大⃝兵器に関する部隊要望事項」が処理された。機材手当、隊員数(定員1.7倍)、721空に対し優先的万事取り計らうように通達可決された[58]。1944年11月20日、空技廠は桜花の投下、頭部爆発試験成功[59]。1944年11月29日桜花50機が横須賀から呉に移動中、空母信濃と共に潮岬沖で沈んだ[60]。1944年12月13日、空技廠が桜花打ち合わせ会議で実験結果を提示[61]

1944年12月5日第七二一海軍航空隊第七六一海軍航空隊第一機動基地航空部隊と呼称。12月10日連合艦隊司令部は12月20日に桜花を台湾に集め、1945年1月10日以降レイテに参加させると計画する[62]。12月19日空母雲龍でフィリピンへ移動中の桜花30機が海没。龍鳳でルソン島へ移動中の桜花58機は台湾へ変更した[63]

12月20日、連合艦隊直属の11航空戦隊が721空と762空で編成された。12月23日連合艦隊参謀長草鹿龍之介少将が第一連合基地航空隊との打ち合わせ会議で、神雷部隊と比島の戦闘機による合同レイテ攻撃を討議する[64]

1945年1月、711飛行隊長野中五郎少佐(陸攻搭乗員)は「おれは桜花作戦を司令部に断念させたい。もちろん自分は必死攻撃を恐れるものではないが、攻撃機を敵まで到達させることができないことが明瞭な戦法を肯定するのは嫌だ」「司令部では桜花を投下したら陸攻は速やかに帰り、再び出撃せよ、と言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら自分たちだけが帰れると思うか」「そんなことは出来ない、桜花投下と同時に自分も目標に体当たりする」と八木田喜好大尉に話している[65]。整備分隊長の大島長生大尉によれば、野中五郎少佐は「こんな軽業みたいなもの兵器じゃねえ」と言って航空本部の担当者に食ってかかっていたという[66]

1945年1月25 - 30日11航空戦隊総合訓練研究会があり2月1日連合艦隊参謀長草鹿龍之介少将が11航空戦隊を正規作戦に使用することを希望。連合艦隊参謀神重徳大佐ももう一度総合訓練の後に正規で使いたいと要望したが、再び総合訓練は行われなかった。2月10日第五航空艦隊編制。十一航空戦隊が編入され、五航艦直属になる。この編制によって神雷部隊は正式に特攻部隊となった。

採用後[編集]

一式陸攻に搭載された桜花
一式陸攻から切り離される桜花
終戦後アメリカ軍兵士に接収される桜花(1945年)

1945年3月17日、内令兵第八号をもって、桜花11型は正式に兵器として採用された[67]

桜花の初陣は、1945年3月九州沖航空戦であった。神雷部隊司令岡村基春大佐は、援護の戦闘機が少ないことと目標が遠距離であることから中止を5航艦司令部に上申した。しかし、5航艦長官宇垣纏中将は「今の状況で使わなければ使うときがないよ」と言って断行した。当時得られた情報では計画通りの目標であったためである[68]。野中少佐は飛行長岩城邦広少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川だよ」と言った[69]。一方で、隊員には「戦わんかな最後の血の一滴まで、太平洋を血の海に」と訓示を行う[70]

1945年3月21日、神雷部隊は第一回神雷桜花特別攻撃隊(第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた[71][注釈 6]。部隊は進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されてしまい、ホーネット隊F6F 16機及びベローウッド隊F6F 12機に迎撃され、陸攻隊は18機全機未帰還、零戦隊は30機中10機が撃墜され全滅という結果に終わった。事前の計画では必要最小限援護機は72機と見積もられていたが、当初、護衛機として零戦55機が出撃し、エンジン故障などで25機が途中で引き返し、最終的に敵兵力と同等の30機に減ってしまったのが致命的であった。桜花隊は三橋謙太郎大尉ほか14名が未帰還となった。18機の母機が全機撃墜されるのにかかった時間はわずか20分程度であった。この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわすも、ついに被弾して一瞬で火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っている[注釈 7]

第一神雷部隊の陸攻隊は離陸後、攻撃隊内では意図をもって連絡を取っていた[73]が、司令部には一本の電報もなく、司令部は帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握した。また出撃後、目標の機動部隊が健在であることが偵察機の報告から判明し、一部の参謀から帰還命令を発するよう宇垣中将に進言があったが、宇垣はこれを聞き入れなかった[74]。第七ニ一海軍航空隊の戦闘詳報には「神雷攻撃の戦機の得ざりしこと並びに直掩戦闘機の出動率僅少なりしことが、この作戦を不成功ならしめたる原因にして、次回作戦に対し大いに研究の余地あり」「第一回神雷攻撃を敢行し、桜花機の使用の限界を判明とし、その後の作戦に資する所、極めて大なり」と記されていた[9]

湯野川守正(桜花要員)によれば、桜花の悲報を受けても隊員たちの士気は旺盛だった、編成当初は悩みもあったが、張りきって立派にやっていた、最善を尽くして死ぬのは本望で淡々と順番を待ち生き死にを深刻に考えず人に後ろ指をさされないように、一人でも多くの敵をやっつけると考えていたという[75]

岡村基春大佐は、桜花の胴体内に燃料タンク増設を行い、ロケットで敵戦闘機を振り切る構想を持っていたが、1945年4月前後の実験でロケット装備に効果がないと判断した[76]

初陣の戦訓により昼間大編隊による攻撃を断念し、薄暮及び黎明時に陸攻少数機が1 - 2機ずつに別れての出撃を主とし、10次にわたって攻撃を敢行した。しかし米艦隊を捕捉できず、桜花のみ空中投棄して帰投する機も多かった[77]

1945年4月12日、第三回神雷桜花特別攻撃隊出撃。沖縄戦で土肥三郎中尉の桜花が駆逐艦マナート・L・エベールを撃沈。母機の機長は三浦北太郎少尉であり、鹿屋基地に帰投。駆逐艦マナート・L・エベールは、艦体中央部に命中した瞬間、爆発して真っ二つに折れ、一瞬で沈没させる事が出来た。

7月、海軍は桜花の使用を中止。大田正一中尉は再開を方々に説いて回ったが、終戦まで再開されることはなかった[78]

合計10度に渡る出撃の結果、桜花パイロット55名が特攻で戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死した。桜花が与えた戦果は、沖縄戦においてアメリカ海軍駆逐艦マナート・L・エベール撃沈1隻、その他連合国の駆逐艦以下の数隻に損傷を与えるにとどまった。駆逐艦に命中したものには、幅の薄い艦首部だったために機体が炸裂せず貫通、そのまま海に突っ込んでから爆発したという例もある。

派生型[編集]

11型

実戦に投入された機体。55機が特攻に出撃した。終戦までに755機生産されている[79]。桜花11型は独力で離陸できなかったため、一式陸攻24型を改造した一式陸攻24型丁と呼ばれる改造機を造り、アメリカ軍艦隊の近くまで、その下部に搭載して運び、そこから発進する方法をとった。爆弾搭載量800kgで設計された一式陸攻にとって、全備重量2.3トン弱の桜花は非常に重く、桜花を搭載した一式陸攻は、限界ギリギリの離陸可能重量となる。桜花は、ロケットエンジンによる数秒程度の加速と、滑空によって飛行するため、その航続距離は、母機の一式陸攻からの切り離し時の高度に大きく左右され、航続距離を伸ばすためには、母機の一式陸攻は高高度飛行をせざるを得ない(一式陸攻は大型機かつ桜花の搭載によって機動力の低下もあり急上昇できない。)しかし、敵艦のレーダーから探知される距離が伸びることになる。

21型

作戦の成功率を高めるため母機を銀河に変更したもの。銀河の機体形状に合わせて若干の改良が加えられている他、自重の軽減のため、爆弾の搭載量を減らして (1200kg→800kg) いる。最初の試作機は実際に銀河を母機として飛行試験が行なわれたが、銀河からの分離発進後にエンジンの不調により墜落し、搭乗していたパイロットが殉職している。その後、試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。

22型

発進後の飛行距離の増大を目指して、21型の四式噴進器を「ツ11」に変更したもの(レシプロエンジンでコンプレッサーを駆動し、燃焼室内に燃料を噴射するというモータージェットカンピーニロケット)である)。21型同様試験段階で終戦を迎えたため、実戦には参加していない。

33型

母機をさらにパワーのある連山に変更したもの。同時に桜花自体のエンジンも強化されている。連山自体が増備されなかったため、こちらも量産されなかった。

43型

ジェットエンジンを搭載し、200km近い航続距離を得たタイプ。陸上からのカタパルト発進を行う予定で開発された。モックアップが概成したところで終戦を迎えている。この型ではエンジンと燃料タンクの設置のため爆弾重量は600kgに減らされていた。練習型および多くの発進基地は完成しており、実戦機も大量生産への秒読み段階にあった。

房総半島南部の山中には、桜花用のカタパルトを設置して、本土決戦の備えとした。このため朝鮮人の徴用工を南房総市に集め、各所に秘匿基地を建設した。このとき残された桜花発射用のレールが、三芳村の知恩院という寺の片隅に保存されている。三芳村の平和会が、年に約3回程度草刈りをして手入れしている。

また関西地区では比叡山延暦寺の側にカタパルトが造られ、カタパルト建設と桜花の輸送に比叡山鉄道のケーブルカーが接収された。カタパルトは終戦直後に連合国軍の手で爆破された、との記録が有る(大津市市制100周年企画展「大津の鉄道百科展」の展示より)。

現存する桜花[編集]

アメリカ合衆国ワシントンD.C.の海軍博物館とスミソニアン博物館 (Steven F. Udvar-Hazy Center) で日本の降伏後連合国軍に接収された実物を見る事ができる。またイギリスマンチェスターにある産業博物館、コスフォードのイギリス空軍博物館でも見ることができる。

日本国内では、埼玉県入間市にある航空自衛隊入間基地内の修武台記念館に一機が保存されている。この記念館は2005年12月に閉館したが、2010年度にリニューアルを行って再開館する予定であり、リニューアル時も桜花は展示される予定とされている。また、靖国神社に隣接する遊就館で実物大模型を見る事が可能である。

機体以外では、本土決戦に備えて千葉県南房総市一帯に桜花基地が建築されていた安房郡三芳村(現在の南房総市)の智恩院に桜花の発射レールが保存されている。

主題にした作品[編集]

  • 漫画・アニメ
    • 松本零士戦場まんがシリーズ』「音速雷撃隊」
      • 『ザ・コクピット』のタイトルでOVA化もされた。
    • 天沼俊『戦空の魂』
      • 作品を通して数回題材になった。但し、物語中に史実と考証とが異なる部分がある。
    • 貝塚ひろし『番長特攻す!』
    • 葉剣英 画・水谷青吾 原作 『劇画太平洋戦争・神風特別攻撃隊』
      • フィリピンでの特攻作戦を生き残った青年が、桜花に乗り組み、米戦艦に体当たりするまでを描く。大西瀧治郎中将や関行男大尉など特攻に関わった実在の人物も実名で登場する。
  • 映画
    • 森永健次郎 監督『花の特攻隊 あゝ戦友よ』(日活、1970年)
  • テレビ
  • 小説
  • IL-2 Sturmovik 1946』(コンバットフライトシミュレータゲーム) 一一型が一式陸攻二四丁型とともにAI専用機として登場するが、制作上のバグにより1200kg爆弾の再現がなされておらず敵艦船に突入しても単なる航空機の衝突爆発扱いになっている。MODを利用することでプレイヤーが操縦することや、1200kg爆弾の再現修正を行ったものに乗ることが可能となる。

注釈[編集]

  1. ^ 航空特攻兵器「」も実戦に投入された可能性が指摘されている[6]
  2. ^ 小川は後に特攻兵器梅花を発案した人物でもある
  3. ^ 必死であることに悩みがあったなら、悩みの解決は必死の有人化ではないという矛盾がある。
  4. ^ 作家生出寿は民間協力に源田の紹介状があったと想像している[26]が、既述のように民間協力はすでにあった。
  5. ^ 書面上から海軍特攻部長大森仙太郎中将が命名者とされる場合もある(8月31日、書類上正式認定は1945年3月17日内兵令8号)[50]。記者渡邉恒雄源田実を命名者と広言したことがあるが根拠はない[51]
  6. ^ 野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(うち隊長機3機は桜花未搭載)、桜花15機、護衛の零戦55機の編成。
  7. ^ この戦闘で、攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官 野中五郎少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:伊澤勇一大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:漆山睦夫大尉ほか2名、も未帰還となった。出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻の電探員によれば、桜花1機が整備ミスで出撃できず、離陸直後に零戦2機が空中衝突。BBCの短波放送を無断で聞いたところによれば、米側損害は7機だったという[72]

脚注[編集]

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  1. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p70『海軍神雷部隊』戦友会編
  2. ^ 御田重宝『特攻』講談社401頁
  3. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備 (2) 開戦以後 5 - 6頁
  4. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』p45
  5. ^ 特攻最後の証言制作委員会『特攻 最後の証言』アスペクト12頁
  6. ^ 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想―未発表資料により解明する究極 のメカニズム』光人社p198
  7. ^ 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想―未発表資料により解明する究極 のメカニズム』光人社p183-184
  8. ^ 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想―未発表資料により解明する究極 のメカニズム』光人社p183
  9. ^ a b 内藤初穂「太平洋戦争における旧海軍の「戦闘詳報」」『世界の艦船 No.512』1996年7月号 113頁
  10. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫511頁
  11. ^ 海空会『海鷲の航跡』原書房43頁
  12. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁
  13. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』p6
  14. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁
  15. ^ 御田重宝『特攻』講談社401-402頁
  16. ^ 木俣滋郎『桜花特攻隊』光人社NF文庫24-26頁
  17. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』p6
  18. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫512-513頁
  19. ^ 御田重宝『特攻』講談社397頁
  20. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』p6
  21. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333
  22. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫506頁、加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社63-64頁、戦友会編『海軍神雷部隊』p7、草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫51頁
  23. ^ 草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫53頁
  24. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』p7
  25. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p65 - 67、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 p333
  26. ^ 生出寿『一筆啓上瀬島中佐殿』徳間文庫
  27. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社65-66頁
  28. ^ 『丸』53巻5号171頁
  29. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う上』文春文庫510頁
  30. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫510頁、加藤浩『神雷部隊始末記』66 - 67頁
  31. ^ 戦友会編『海軍神雷部隊』7頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 333頁
  32. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p7
  33. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 333頁
  34. ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)331頁
  35. ^ 御田重宝『特攻』講談社402 - 403頁
  36. ^ 御田重宝『特攻』講談社403頁
  37. ^ 木俣滋郎『幻の秘密兵器―恐るべき先駆的技術の集大成』光人社NF文庫276頁
  38. ^ 御田重宝『特攻』講談社404頁
  39. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 333頁
  40. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 345頁
  41. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p69 - 80
  42. ^ 御田重宝『特攻』講談社414頁
  43. ^ 御田重宝『特攻』講談社414-415頁
  44. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ220-224頁
  45. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ220頁
  46. ^ 御田重宝『特攻』講談社408頁
  47. ^ 御田重宝『特攻』講談社415頁
  48. ^ 御田重宝『特攻』講談社377頁
  49. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p70『海軍神雷部隊』戦友会編
  50. ^ 御田重宝『特攻』講談社400頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 p334
  51. ^ 『昭和の戦争 保阪正康対論集』朝日新聞社236頁
  52. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期 396頁
  53. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦704頁
  54. ^ NHK スペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部参謀の語った敗戦』p152 - 154
  55. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p9
  56. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p9 - 10
  57. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p10
  58. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p9 - 10
  59. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p11
  60. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p11
  61. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p12
  62. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p12
  63. ^ 牧野育雄『最終決戦兵器「秋水」設計者の回想―未発表資料により解明する究極 のメカニズム』光人社p181
  64. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p12-13
  65. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』学習研究社146-147頁、御田重宝『特攻』講談社429-430頁
  66. ^ 御田重宝『特攻』講談社427 - 428頁
  67. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後186頁
  68. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p201 - 202
  69. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p18、加藤浩『神雷部隊始末記』p202
  70. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p18
  71. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p17
  72. ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)137頁
  73. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p209
  74. ^ 御田重宝『特攻』(講談社文庫、1991年) ISBN 4-06-185016-4
  75. ^ 神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ220-224頁
  76. ^ 『海軍神雷部隊』戦友会編p21
  77. ^ 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年)569 - 577頁
  78. ^ 加藤浩『神雷部隊始末記』p479
  79. ^ 戦史叢書88海軍軍戦備 (2) 開戦以後 p5 - 6

参考文献[編集]

  • 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊 (6) 第三段作戦後期
  • 戦史叢書88海軍軍戦備 (2) 開戦以後
  • メカ
    • 野原 茂『「秋水」と日本陸海軍ジェット、ロケット機』(モデルアート社、1998年11月号臨時増刊 No.525)
      • 第三章 空技廠 特別攻撃機「桜花」 p133 - p166
  • 戦史
  • 証言集
    • 佐伯正明 ほか『証言・昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション12 恐怖の人間爆弾「桜花」発進準備よし』(光人社、1991年) ISBN 4-7698-0546-2
    • 文藝春秋 編『人間爆弾と呼ばれて 証言・桜花特攻』(文藝春秋、2005年) ISBN 4-16-366860-8
    • 半藤一利『戦士の遺書 太平洋戦争に散った勇者達の叫び』(文春文庫、1997年) ISBN 4-16-748306-8
    • 御田重宝『特攻』(講談社文庫、1991年) ISBN 4-06-185016-4

関連項目[編集]

外部リンク[編集]