関行男
| 関 行男 | |
|---|---|
| 1921年8月29日 - 1944年10月25日 | |
| 生誕地 | 愛媛県西条市 |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1941年 - 1944年 |
| 最終階級 | 海軍中佐 |
関 行男(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、第二次世界大戦中における日本海軍航空隊の艦上爆撃機、戦闘機パイロット。愛媛県西条市出身。最終階級は海軍大尉(死後海軍中佐に二階級特進)。海軍兵学校70期。レイテ沖海戦における最初の神風特別攻撃隊である敷島隊を隊長として指揮し、自らも愛機とともに米艦艇に突撃して戦死した。死後は軍神に認定され、大いに宣伝されたが、敗戦後は当時の世相の中で一転して日陰の存在となるなど、死後の評価は時代背景に翻弄された。
名前の読みは「つらお」であるともいう五〇一空所属搭乗員だった小澤考公の証言がある。小澤によると、セブ基地において関から「俺の名前の行(つら)は、楠木正行(まさつら)の一字を取って、国に奉公するようにとつけられた」と聞かされたという[1]。一方で、関の親族は「つらお」という読みを否定している[2]。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] フィリピン進出まで
古物商の家に生まれる[3]。旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)を経て1938年(昭和13年)12月に海軍兵学校に入校し、1941年(昭和16年)11月15日に卒業する。同期には菅野直大尉、イースタン・カーライナー社長高井太郎、日本基督教団総会議長後宮俊夫らがいる。なお、海軍兵学校入校に際し、関家では繁子という母方の親族に当たる女性を養女をとっており[4][5][6]、父は兵学校卒業を待たずして亡くなった[7]。父の死後、母サカエは古物商をたたんで草餅の行商人に転じた[3]。
兵学校時代の関は、70期の同期生の中でも一、二を争うほどの高身長で目立っており、新入生恒例の姓名申告では唯一、上級生に褒められたという[8]。その一方で、事あるごとに義妹の繁子の自慢話をしたり、繁子と他の生徒の許婚を比較して「繁子の方が何もかも上だ」というような記述を日記に認めていた事が発覚して制裁を受け、日記が見世物にされたこともあった[9]。しかし、繁子の件を除けば、料亭での芸者遊びで芸者連中にあまり関心を持たなかったのを例として[10]、一見して異性に対する関心はあまりなかった感じだったという[7]。それでも、兵学校卒業後に水上機母艦「千歳」に少尉候補生として配属されていた頃に、渡辺エミ子という鎌倉の有名な医者の娘から慰問袋を送られ[注釈 1]、その礼状に「横須賀に帰ってきたら直接会ってお礼を言いたい」というようなことを書いていた[3]。後にこの出会いは実現するが、関は渡辺エミ子ではなく、同行していた渡辺エミ子の姉に一目ぼれしてしまう[11]。その姉こそが、後に妻になる渡辺満里子である[11]。
1943年(昭和18年)、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊[12]。翌1944年(昭和19年)2月に練習航空隊課程(艦爆)を修了ののち、霞ヶ浦空で飛行教官となる[13]。この間、昭和18年6月に海軍中尉に任官し[14]、昭和19年5月1日に海軍大尉に進級する[14]。5月31日、関は福永恭助退役海軍少佐夫妻の媒酌のもと、渡辺満里子との結婚式を水交社で執り行った[14][注釈 2]。その後は台南航空隊に転任し、9月25日付で第二〇一航空隊(二〇一空)に赴任する[13]。そして、10月12日から10月16日の台湾沖航空戦で戦死した鈴木宇三郎海軍大尉の後任として戦闘三〇一飛行隊長となった[13]。
[編集] 体当たり攻撃隊編成
10月17日、第一航空艦隊(一航艦)司令長官(予定者)の大西瀧治郎海軍中将[注釈 3]はマニラに到着し、前任の寺岡謹平海軍中将と事務の引継ぎを終えた後、翌18日には参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る[15]。10月19日、大西は一航艦司令部で第七六一航空隊司令前田孝成大佐らに戦局の説明を行った後、副官の門司親徳海軍大尉を伴ってマバラカット飛行場に向かう[16]。夕刻近くにマバラカットに到着の後[17]、二〇一空指揮所に二〇一空副長玉井浅一海軍中佐、一航艦首席参謀猪口力平海軍中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する[18]。大西と入れ違いにマニラに向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折してマニラの海軍病院に入院した二〇一空司令山本栄大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長小田原俊彦海軍大佐から体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた[19]。しばらくして玉井が体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長指宿正信海軍大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った[20]。
玉井は大西に、攻撃隊の編成を二〇一空に一任するよう申し出て了承されると[20]、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。すなわち、隊員は第十期甲種飛行予科練習生(甲十期生)から選び、これは玉井が第二六三航空隊(二六三空)時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきたという背景があり、甲十期生に一花咲かせようという魂胆からであった[21]。二〇一空にいた甲十期生は63名おり[22]、体調を崩していたり日本本土へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした[23]。指揮官は兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶというもので、これは猪口の提案であった[24]。猪口の構想では、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野もまた日本本土へ航空機受領に行っており不在であった。菅野が不在となって関が攻撃隊指揮官となるが、その理由として関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」な感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからと玉井は回想している[13]。猪口の賛成を得た玉井は就寝中の関を起こし、関に体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」ことを涙ぐみつつ告げる[25]。関はしばらく間を置いた後、「ぜひ、私にやらせて下さい」と承諾した[25][注釈 4]。猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「きみはまだチョンガーだったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えている[26]。玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「
[編集] 突入まで
[編集] 10月20日
最初の特攻隊である第一神風特別攻撃隊は本居宣長の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」および「山桜隊」であり、各隊3機ずつ配分された。この四隊から漏れた甲十期生は、別途に「菊水隊」に編入された[28]。ところで、10月20日の第一神風特別攻撃隊編成の時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた[28]。「敷島隊」のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹であった[28]。20日朝、関と敷島・大和・朝日・山桜の各隊員と直掩隊隊員が二〇一空本部前に整列し、大西が隊員の前に現れて訓示を述べた握手を行った後、関と敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場それぞれ移動して出撃の時を待つ事となった[29]。午後になって大西はマニラに戻る事となったが、その前にマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わしたり雑談を行った後、マニラに向かった[27]。また、大和隊(隊長・久納好孚海軍中尉(法政大学出身))は20日夕方に二〇一空飛行長中島正少佐に率いられセブに移動していった[30]。
その10月20日、関の下に一人の訪問者が来る。訪問者は同盟通信の記者で海軍報道班員の小野田政である[31]。小野田はまず、関の談話を取ろうと関の部屋に入った[32]。しかし、前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴った[32]。小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めたが、森本忠夫はこの行動を「異常な心的状況の中に身を置いていた」[33]が故の「異常な行動」とする[32]。少し後、関と小野田は外に出て、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で語り合う。その際、関は小野田に対して次のように語った。
報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番[注釈 5]を命中させる自信がある。ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA[注釈 6]のために行くんだ。命令とあらばやむをえまい。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!
— 関行男, [34]
この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満と解釈され[35]、後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言とし[33]、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言と森本は解釈している[33]。発言の真意はさておき、関は宿舎で満里子宛およびサカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した[36]。また、この日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けた[36]。10月20日は、敵艦隊発見の情報なく暮れていった[30]。
[編集] 10月21日から24日
10月21日朝、百式司偵がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見し、これを報じる[30]。敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する[37]。この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼ねるようになり、「敷島隊」のメンバーも永峰肇 飛長(丙種飛行予科練習生15期。戦三〇五)が加えられて総勢5名となった[38]。関は玉井に遺髪を託し、9時、僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した[38][注釈 7]。日本映画社稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別のシーンとこの日の出撃シーンを組み合わせた映像が、日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」として公開された[39]。マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも敵影を見つけることは出来ず、燃料状況からこの日の攻撃を断念してレガスピに引き返した[40]。関は翌10月22日朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に面会して「相済みません」と涙を流して謝罪した[41]。
この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」と「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった[42]。予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した[43]。しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日「本人の性情と、特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定された」[44]。久納は特攻隊の「戦死者第1号」となったが、この事については改めて解説する。
10月23日、「朝日隊」と「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動[45]。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日と10月24日にも出撃したが、ともに悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた[46]。関は帰投のたびに玉井に謝罪をし、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況であったという[47]。
[編集] 10月25日
10月24日、大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早暁の栗田健男中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる[47]。「敷島隊」には戦闘三一一飛行隊(戦三一一)から大黒繁男 上飛曹が加わり、直掩には歴戦の西沢広義 飛曹長が加入した[48]。10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する[49]。途中、初出撃からともにあった山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる[50]。10時10分にレイテ湾突入をあきらめて引き返す栗田艦隊を確認した後[50]、10時40分に護衛空母5隻を基幹とする[注釈 8]第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)を発見して機をうかがい、10時49分に僚機とともに突入して散華した[51]。享年23。
[編集] 「初物」はすべて関のものか
[編集] 公表
特攻隊の「戦死者第1号」は、前述のように大和隊隊長の久納である。また、突入順を時系列で並べると、関は「戦死者第9号のち第8号」から「戦死者第13号のち第12号」ということになる。「敷島隊」に先立つ事約1時間前に、ダバオから「朝日隊」「山桜隊」および「菊水隊」が出撃し、7時40分に第77.4.1任務群(トーマス・L・スプレイグ少将)に突入して護衛空母「スワニー」に滝沢光雄 一飛曹機(山桜隊)が、「サンティー」に加藤豊文 一飛曹機(菊水隊)が命中している[52]。「第2号」から「第8号のち第7号」の内訳のうち6名のち5名はこの攻撃によるものであり、残る1名は10月23日に「大和隊」で出撃して消息を絶った佐藤馨 上飛曹である[53]。1人減っているのは、「朝日隊」の磯川質男 一飛曹が当初「特攻で戦死」と発表されたものの、後に取り消されたからである[注釈 9]。このことから、「敷島隊」は出撃時刻で約1時間、攻撃時刻で約3時間、戦死者が出るまでに至っては4日も遅れをとった事になる。「敷島隊」の戦果は西沢が確認してセブに帰投後、中島に戦果報告を行っているが[54]、「朝日隊」「山桜隊」および「菊水隊」の戦果もまた、「菊水隊」直掩の塩盛実 上飛曹が確認して、やはりセブにて中島に報告されている[55]。
ところが、10月28日15時に公表された特攻最初の戦果は「敷島隊」のものだけであり、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の戦果、久納の突入、佐藤の消息不明はこの時点では一切無視された。このことは戦後になってから「ミステリー」として騒がれた[56]。10月28日の公表の時点で「敷島隊」以外が無視された真相は未だ藪の中であるが、金子敏夫[注釈 10]は以下のような推測をしている。以下は金子の推測の要約である[57]。
- 「菊水隊」直掩の塩盛から中島に伝達された戦果情報は、9時48分にダバオの第六十一航空戦隊に伝えられたが、「朝日隊」と「山桜隊」の戦果については定かではなかったため夕方まで待った後、19時6分に一航艦に戦果報告を行った。第六十一航空戦隊は後方支援部隊であるため、作戦部隊の状況判断に欠けていた。
- 一方、「敷島隊」直掩の西沢から中島に伝達され12時5分に一航艦に打電された戦果情報は「疑問の余地なく、かつ上層幹部も予想していなかった大戦果」であった。
- 「敷島隊」のみ、隊員全員の戦闘状況が明確だった。
- 関が最初に指名された特攻隊全ての総指揮官であり、かつ先頭に立って突入した。
- 陸軍最初の特攻隊である「万朶隊」がフィリピンに進出しており、報道において一種の「先陣争い」があった。
最初に突入した久納、消息を絶った佐藤、そして「朝日隊」「山桜隊」および「菊水隊」について連合艦隊布告が出されたのは、11月13日になってからのことであった[58]。また、報告に関するタイムラグに関して中島が何かしら証言を残した形跡はない[59]。
[編集] 戦果
「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるため超低空で飛び、至近距離まで近寄った後雲間に隠れて機をうかがい、10時49分に攻撃を開始した。1機は「キトカン・ベイ」の艦橋をかすめて飛行甲板外の通路に命中[60]。「カリニン・ベイ」には1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した[61]。「ホワイト・プレインズ」を狙った1機は、被弾による操縦不能により狙いがずれて艦尾至近の海中に突入[62]。そして「セント・ロー」には「ホワイト・プレインズ」に向かっていた2機のうちの1機が針路を変えてきて突入し、格納庫で爆発した爆弾により激しく炎上した「セント・ロー」は、11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した[63]。
デニス・ウォーナー[注釈 11]によれば、「「セント・ロー」撃沈の栄光は、日本の多くの著者たちにより、関大尉にあたえられている」[64]。しかしウォーナーは「日本の多くの著者」の主張を採用せず、関は「カリニン・ベイ」に突入したとする[65]。金子は突入時刻やアメリカ側が撮影した写真などから、関が突入したのは「カリニン・ベイ」ではなく「キトカン・ベイ」であると主張している[66]。しかし、結論から言えば「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である[67]。
なお、関に先んじる特攻隊の「戦死者第1号」である久納の「戦果」については、連合軍側の記録でその突入がオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」の損傷に結び付けられており[68]、事実なら彼が敵艦に突入した神風特攻第1号という事になる。しかし、出撃時刻と損傷時刻がかけ離れる[注釈 12]など疑問視する意見があり、また「オーストラリア」を攻撃したのは陸軍飛行第65戦隊あるいは飛行第66戦隊の九九式襲撃機であり、被弾の後「体当たり」したという資料もある[69]。
関がどの護衛空母に突入したのかはさておいても「敷島隊」による特攻は「異例の大戦果を挙げた」と喧伝され、その後の特攻推進を決定づけた。
[編集] 戦後
戦中に軍神と称えられ、軍国主義の宣伝材料に使われたことが敗戦後の世相の中では仇となり、関や彼の遺族は終戦後は一転日陰の存在となった。遺族には国からの扶助などは行われなかった。関には子供がなく、妻の満里子は戦後に再婚した[70]。母のサカエは草餅の行商で生活し、後に石鎚村立石鎚中学校に用務員として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさんの関おばさん」と呼ばれ親しまれたが、昭和28年11月9日に用務員室で57歳で急死して[5][70]関家は断絶した。
その後はサカエの実家の小野家と義妹の繁子が親族代表となった。ロックバンド「Sanaemon(さなえもん)」のギター・バックボーカルであるHIDEKI(ヒデキ)は繁子の孫にあたる。サカエの没後、伊予三島市(現・四国中央市)の村松大師に関の墓が建立され[5]、1975年3月には関の慰霊と平和祈願のため、源田実らの発願により、西条市の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された[5]。毎年、関が敵空母に突入した10月25日午前10時に海上自衛隊徳島航空基地又は小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ 慰問袋は「初期は戦地の個人宛に送ったものの」「次第に不特定の相手に送ることが多くなってきた」(#町田p.68)。渡辺エミ子が関宛に送ったのか、それとも送られた先がたまたま関だったのかのどちらかなのかは不明。
- ^ この結婚は海軍大臣の許可を得たもので、5月11日に婚姻願を提出して5月26日に許可が下りている(#ウォーナー上p.146)。
- ^ 親補10月5日、着任10月20日(#金子p.26)
- ^ なお、「深夜、大西中将や飛行長中島少佐たちの前で突然隊長指名を受けた関大尉は、頭を抱えて考え込んだという。彼は即答を避けて一晩悩んだ末、翌日になってようやく応諾した」という説も流布しているが(副長の玉井浅一が戦後に明かした話。一昔前の文献では、 戦意昂揚の為に作られた神風最初の特攻 最初の特攻 隊長関行男大尉中島正/猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』 ISBN 4-7928-0210-5などの、しばらくの沈黙の後、「承知しました」と即答したあと、遺書を書いたというように書かれている。この著者は関の上官であるが史実に脚色もある)、時間的にありえない(森史朗『敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯』光人社、1987年[文春文庫、2003年])。
- ^ 500キロ爆弾のこと。
- ^ 海軍の隠語で妻のこと。
- ^ このうち、谷機はエンジントラブルで発進できなかった(#金子p.88)
- ^ 当初は6隻だが、6隻のうち「ガンビア・ベイ」は栗田艦隊の砲撃により沈没
- ^ 磯川は戦死取り消し後に日本へ帰還する間際、要務士から「磯川待て。貴様は特攻で死んでもらわなければならない」と一喝されて帰還が遅れるも、のちに分隊士の要望を受けた玉井の尽力で日本に帰還した。帰還後は第三四三航空隊に配属され、昭和20年5月28日に戦死(#金子pp.180-182, p.222)
- ^ 海軍兵科予備学生として海軍兵学校に入校後、予科練などの教官を務める。終戦後は東京工業大学を卒業し、管制装置やロボット制御装置の研究開発に従事する。工学博士(#金子カバー)。
- ^ 第二次世界大戦中、新聞記者として活躍。沖縄戦において特攻攻撃により負傷して帰還を余儀なくされる。戦後はロイター東京支局長を務める一方、朝鮮戦争などアジア地域の戦争を取材したり、オーストラリアの軍事雑誌「パシフィック・ディフェンス・レポーター」の編集者を務めた(#ウォーナー上カバー)。
- ^ 「大和隊」の出撃は10月21日16時25分、「オーストラリア」の被弾は同日朝(#ウォーナー上pp.167-173)
[編集] 出典
- ^ 小澤考公『搭乗員挽歌』光人社、1983年。
- ^ “Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ 生誕の日●小野サカエの息子『行男』” (日本語). さなえもん. 2011年9月14日閲覧。
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- ^ “Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ 関行男大尉●小野家親族の真意と誇り” (日本語). さなえもん. 2011年9月14日閲覧。
- ^ a b #ウォーナー上p.93
- ^ #ウォーナー上pp.90-91 。同期・宮崎富哉の回想
- ^ #ウォーナー上pp.92-93
- ^ #ウォーナー上p.107
- ^ a b #ウォーナー上p.108
- ^ #ウォーナー上p.107
- ^ a b c d #金子p.47
- ^ a b c #ウォーナー上p.146
- ^ #金子pp.30-31
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- ^ #金子p.38
- ^ #金子pp.38-41
- ^ #金子pp.36-37, pp.40-41, pp.62-63
- ^ a b #金子p.41
- ^ #金子pp.42-46
- ^ #金子p.42
- ^ #金子pp.45-46
- ^ #金子p.46
- ^ a b c #金子p.48
- ^ #ウォーナー上p.162
- ^ a b #金子pp.54-55
- ^ a b c #金子p.49
- ^ #金子p.51
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- ^ #森本p.130
- ^ a b c #森本p.133 オリジナル:高木俊朗の回顧(文藝春秋1975年6月号)
- ^ a b c #森本p.133
- ^ #森本pp.130-133
- ^ #森本p.131
- ^ a b #ウォーナー上p.164
- ^ #金子p.86
- ^ a b #金子p.88
- ^ #金子pp.54-55, p.88 。外部リンクも参照
- ^ #金子pp.87-89
- ^ #金子pp.89-90
- ^ #金子p.91
- ^ #金子pp.91-92
- ^ #金子p.92 オリジナル:「神風特別攻撃隊戦闘概要」防衛研究所戦史室資料
- ^ #金子pp.88-89
- ^ #金子pp.92-96
- ^ a b #金子p.96
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- ^ #金子pp.110-111
- ^ a b #金子p.111
- ^ #金子pp.111-112
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- ^ #金子p.91
- ^ #金子p.100,114,140,145
- ^ #金子p.99, pp.109-110, p.140
- ^ #金子p.145
- ^ #金子p.99, pp.144-149
- ^ #金子p.143
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- ^ #金子p.122
- ^ #金子p.123
- ^ #金子p.124
- ^ #金子pp.124-125
- ^ #ウォーナー上p.202
- ^ #ウォーナー上pp.202-203
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- ^ #金子p.126
- ^ #金子pp.91-92
- ^ #木俣p.109
- ^ a b #ウォーナー下p.280
[編集] 参考文献
- デニス・ウォーナー・ペギー・ウォーナー 『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌』上、妹尾作太男(訳)、時事通信社、1982年。ISBN 4-7887-8217-0。
- デニス・ウォーナー・ペギー・ウォーナー 『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌』下、妹尾作太男(訳)、時事通信社、1982年。ISBN 4-7887-8218-9。
- 木俣滋郎「基地航空隊の作戦 -レイテ戦の直前まで-」 『写真・太平洋戦争(4)』 雑誌「丸」編集部(編)、光人社、1989年。ISBN 4-7698-0416-4。
- 森本忠夫 『特攻 外道の統率と人間の条件』 文藝春秋、1992年。ISBN 4-16-346500-6。
- 町田忍 『戦時広告図鑑 慰問袋の中身はナニ?』 WAVE出版、1997年。ISBN 4-87290-001-4。
- 金子敏夫 『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』 光人社NF文庫、2005年。ISBN 4-7698-2465-3。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- “日本ニュース 第232号「神風特別攻撃隊」” (日本語). NHK 戦争証言アーカイブス. 2011年9月12日閲覧。
- “Sanaemon(さなえもん・サナエモン)オフィシャルブログ” (日本語). Sanaemon. 2011年9月14日閲覧。
- 楢本神社
- 西条藩立写真館