西沢広義

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西澤 廣義
にしざわ ひろよし
Nishizawa lifevest.jpg
渾名 ラバウルの魔王
生誕 1920年1月27日
長野県上水内郡小川村
死没 1944年10月26日
所属組織 日本の旗大日本帝国海軍
軍歴 1936-1944
最終階級 中尉
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西澤 廣義/西沢 広義(にしざわ ひろよし、1920年(大正9年)1月27日 - 1944年(昭和19年)10月26日)は、大日本帝国海軍エース・パイロットである。海軍中尉。(戦死後、飛曹長から二階級特進

経歴[編集]

開戦まで[編集]

長野県上水内郡小川村出身。少年時代 負けず嫌いの頑張り屋で成績はクラスでトップだったという。1934年(昭和9年)3月 南小川小学校高等科を卒業後 生糸工場に就職するが、予科練の募集広告を見て応募し、航空兵となる。

1936年(昭和11年)6月1日、横須賀航空隊の乙種飛行予科練習生第7期に採用。大分海軍航空隊大村海軍航空隊鈴鹿海軍航空隊などの基地航空隊を経て、1941年(昭和16年)10月1日千歳海軍航空隊に配属される。日米開戦に備え訓練を受けていた。

開戦[編集]

西澤は後1941年サイパンに赴任するが出撃の機会を得ず、1942年(昭和17年)2月、トラック島からラバウルに進出した。2月3日夜、新月という視界が悪い中九六式艦上戦闘機で双発飛行艇を迎撃し初撃墜を記録する[1]。2月10日、第四航空隊に配属、単独撃墜7機、協同撃墜5機を記録し、エースの仲間入りを果たす。4月1日、台南海軍航空隊(台南空)に配属される。坂井三郎は西澤と太田敏夫とともに台南空の三羽烏と呼ばれたと主張している。8月7日西沢はガダルカナル島上空の空中戦で6機の敵機を撃墜した。11月1日、台南空は第251海軍航空隊と改称、部隊損耗、再建のため豊橋に帰還する。生還した搭乗者は西沢を含め10数名だった。

坂井三郎は「台南空の搭乗員の中では、西澤が一番うまかったねえ。あとはそんなでもない」と言っている[2]

1943年(昭和18年)5月、ラバウルに再進出。小隊長となっていた西澤は4機の部下とともにF4Uコルセア4機と戦い、一人で3機撃墜し1機を部下に任せ戦果をあげる。9月に253空に転属。航空艦隊司令長官から「武功抜群」と書かれた軍刀を授与される。10月に内地帰還、大分空で飛行教員。教え子には厳しかったが自分の武功を自慢することはなかった[3]。その後厚木空(のち203空に改称)に配属され、北千島方面の防衛にあたる。ベテランが次々死んでいくため経験の浅い者の指揮を心配し軍紀のあり方についての論文を提出するまじめな面があった。

1944年(昭和19年)9月下旬、千葉県茂原基地の角田和男飛曹長の部屋に南東方面の激戦を戦った戦闘機搭乗員である西澤、岩本徹三長田延義尾関行治斎藤三朗の撃墜王たちで談話をしている[4]。10月、捷号作戦参加のためフィリピンへ進出。10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し、新しい飛行機受領のためマバラカット基地へ輸送機[5]に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fに攻撃を受けて撃墜され、戦死した。

美男子であり身長は180センチ以上あった[6]。戦後書かれた戦記では「ラバウルの魔王」と評された。

現在、嘗ての敵国であるアメリカ合衆国国防総省スミソニアン博物館には、西沢の肖像が飾られている。

撃墜数[編集]

全軍布告文では、協同撃墜429機・撃破49機、単独撃墜36機・撃破2機としている。撃墜数は87機[7]とも120機以上[8]であったとも言われるが、1943年からは個人撃墜数を公式記録に残さなくなったため、詳細な数は不明である。家族への手紙では143機、戦死時の新聞報道では150機と書かれている。草鹿任一司令長官より100機撃墜記念の感状と軍刀を受預している[9]

なお、戦後坂井三郎の著書で紹介された事もあり、日本最強の撃墜王との印象が広がっているが、撃墜数そのものは岩本徹三のほうが上回っていると言われる(もちろん上記の通り、個人撃墜数の公式記録が存在しないので、正確な所は不明であるが)。

脚注[編集]

  1. ^ ゼロ戦の秘密: 驚異の性能から伝説の名勝負までP221。豪空軍の記録によれば、このカタリナ飛行艇は被弾しながらも基地に帰投してる。Jon Guttman The Devil: Japanese ace of aces Hiroyoshi Nishizawa
  2. ^ 神立尚紀『祖父たちの零戦』p.333-p.334
  3. ^ ゼロ戦の秘密: 驚異の性能から伝説の名勝負までP223
  4. ^ 角田和男「修羅の翼」
  5. ^ ニュウェルによれば百式重爆撃機だったとするが、1021空の河野光揚によれば、一式陸攻ではないかという。p.40 サカイダ,1999
  6. ^ ゼロ戦の秘密: 驚異の性能から伝説の名勝負までP223
  7. ^ ラバウル離任時、岡本晴年に語った「86機撃墜」が根拠となっている。p.40,サカイダ,1999
  8. ^ 1944年9月に角田や岩本らに語った「120機以上」が根拠となっている。p.363,角田,2008
  9. ^ p.363,角田,2008

書籍[編集]

伝記[編集]

参考書籍[編集]

関連項目[編集]