ラバウル航空隊

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ラバウル航空隊ブイン基地(1943年4月い号作戦時撮影)

ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)とは、太平洋戦争大東亜戦争)当時、ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル基地に集結してこの空域に展開して戦闘に参加した、大日本帝国海軍、及び同陸軍の戦闘・爆撃・偵察・水上・各航空隊の総称である。

各航空隊は本部をラバウルに置き、作戦に呼応してニューギニアソロモン方面の各基地を移動転戦した。海軍航空隊は、当初は第21・26航空戦隊、1943年昭和18年)後半以降は第22・25・26航空戦隊を主力としていた。

概要[編集]

ラバウル航空隊は南太平洋諸島の確保、機動部隊の支援を目的に1942年1月から基地航空隊としてポートモレスビー方面に進出して連合軍航空隊に対して優位に戦闘を進めていた。ニューブリテン島ラバウルは連合国軍からはラバウルの要塞と呼ばれ、米海軍・米海兵隊・英領ニュージーランド空軍のソロモン方面と米陸軍・英領豪州軍の東ニューギニア方面の2方面に対する攻撃・防御および補給の起点の役割を果たしていた。

しかし、1942年8月南部ソロモン方面で開始したガダルカナル島をめぐる戦いで航空消耗戦に突入し、搭乗員、機材を多数失い疲弊して劣勢に追い込まれる。1943年(昭和18年)に入り連合軍は新型航空機を順次投入し6月末からは中部ソロモン、ニューギニアの両方面で連合軍の本格反攻が開始され、日本軍の補給力は減衰し順次後退していった。

1943年10月から激化した連合軍の空襲により空前の大規模邀撃戦が開始され、ラバウル航空隊は戦闘機隊を中心とする邀撃基地となった。1944年2月1718日には後方基地であるトラック島が空襲(トラック島空襲)されたため、2月20日ラバウル航空隊の主力はラバウルを撤収した。日本軍は南太平洋方面への補給線維持が困難になり、連合国軍も戦略上放置したためラバウル航空隊は孤立し終戦まで無力化された。

歴史[編集]

誕生[編集]

太平洋戦争開戦後の1942年1月20-22日第一航空艦隊がラバウルを空襲し制圧し[1]、1942年 1月25日 水上機部隊がラバウル地区に進出する。1942年1月31日96戦装備の千歳空分遣隊が空母瑞鶴翔鶴で輸送されラバウルに到着した[2]。千歳空分遣隊飛行隊長兼司令岡本晴年大尉とともに搭乗員のみが先着した[3]。1942年2月10日千歳空分遣隊と高雄空陸攻隊で4空(森玉司令)を編成。1942年2月20日4空中攻隊、ラバウル攻撃米機動部隊の接近を察知し雷撃攻撃。自爆・未帰還9機[4]。 1942年 2月23日1空中攻隊がラバウルに着任[5]

1942年2月24日からニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃を開始。1942年3月7日南海支隊の一部のサラモア上陸、海軍陸戦隊のラエ上陸で終戦まで続くニューギニアの戦いが始まる。3月31日原田機96陸攻乗組員一同、モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻[6]

1942年4月台南空がラバウルに着任(斉藤司令)。4空の戦闘機隊は台南空に編入される[7]。1942年4月10日1空は後退し本土木更津で再建に入る[8]。1942年5月3日浜空飛行艇隊、ガダルカナル島ルンガ泊地北東対岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出する。

珊瑚海海戦[編集]

1942年5月7日珊瑚海海戦でニューギニア・ラエ戦闘機隊とラバウル攻撃機隊が地上基地から協同作戦で敵機動部隊への攻撃に向かう。一式陸攻31機で重巡中心の水上部隊と遭遇し雷撃するが一本の命中もなくこちらの被害は甚大だった。しかし戦果を型不明戦艦一隻撃沈、重巡一隻大破と過大に報告しさらに水増しされて発表される[9]

1942年 5月末から数ヶ月間数次にわたり 第1空先遣隊(千歳空主隊の一部との混成)がラバウルに補給される[10]

ミッドウェー攻略のため部隊が錬成されていたが1942年6月5日 ミッドウェー海戦で大敗を受け中止。1942年7月末ニューギニア島東南・ラエ基地戦闘機隊は連合軍側空襲激化のため一時撤収、ラバウルへ帰還する[11]

日米開戦当時は花吹山は小噴火を断続的に起しており、熱帯の花咲き乱れる美しいカビエンとは異なる火山灰が降り積もって荒涼とした風景であった[12]。1942年(昭和17年)6月に凄まじい大雨が降ったのを境にそのとき以降、この小噴火は止まってしまったが火山灰地は残された。

ガダルカナル島の戦い[編集]

1942年 8月初め、日本海軍の設営隊はガダルカナル島の北沿岸、ルンガ川とテナル川の間の平地に建設していた飛行場をほぼ完成した。[13]

8月5日 - 6日の両日、浜空飛行艇隊哨戒担当の3機が毎日1時間の哨戒任務で雲上を飛び、スコール雲下を航行中の低速な大船団を見逃した。[14]。ガダルカナル上陸作戦の船団編成は、19隻の輸送船と4隻の輸送駆逐艦に分乗した19,000名の上陸部隊を、3隻の航空母艦を含む護衛艦隊が護る大船団、米軍上層部ではこの計画は無謀で成功の見込みは薄いと考えていたものであった[15]それによって8月 7日 米大船団によるガダルカナル上陸作戦奇襲に成功しガダルカナルの戦い始まる。8月7日ツラギの浜空、早朝から攻撃され飛行艇全滅。以後48時間耐え島半分を死守したが翌日島の背後に回った米駆逐艦から艦砲射撃うけ全滅する。ラバウル航空隊はガダルカナル制空権の継続確保のため、中攻を攻撃主力とするガダルカナル攻撃航空作戦を開始する[16]

1942年8月7日2空(山本栄司令)の艦爆隊と零戦32型装備した戦闘機隊がラバウルに着任する。2空は、日本出発時はニッケル産地のニューカレドニア島へ進出予定だった。艦爆隊は洋上不時着水覚悟でツラギ攻撃。過半数が撃墜され残機も洋上不時着、艦爆機全機喪失、18名中生還者6名[17]。8月21日 6空(森田司令)、ラバウル着任[18]8月22日 2空と台南空一部、ニューギニア島の東南・ブナ、ラエ基地に進出、モレスビー攻撃[19]

9月上旬 2空は8月末完成したブーゲンビル島北端ブカ基地に前進[20]。1942年 9月、2空の制空戦の支障となっていたブーゲンビル島南端ブイン基地(米呼称:カヒリ)が完成した[21]。また3空(梅谷司令)[22]鹿屋空戦闘機隊、中攻隊(小林司令)[23]がラバウル着任。

1942年 9月12日 日本陸軍のガダルカナル第一回総攻撃の予定日(当初)にあわせ、ラバウルから陸上攻撃機25機、戦闘機隊15機(2空、倉兼大尉指揮[24])はガダルカナルを攻撃し、日本海軍側は米軍機11機撃墜を報告し日本側の陸上攻撃機3機の自爆を報告した。米軍側は日本軍爆撃機10機と零戦3機の撃墜を報告 [25] 。またこの直掩の零戦隊15機を台南空零戦隊とし [26] 、米軍側の戦闘機17機と交戦、日本海軍側は、米軍戦闘機13機撃墜20機地上破壊、陸上攻撃機自爆2機、未帰還2機を報告した。9月12日夜~13日夜日本陸軍は1日遅れで第一回総攻撃するも失敗した [27]

9月13日昼、陸軍との連絡参謀の田中海軍少佐はガダルカナル飛行場へ飛来し、駐機している約40機の戦闘機を確認し着陸中止して帰投。9月14日 昼、ラバウルの海軍航空隊 陸攻27機、直掩の零戦11機(2空、倉兼大尉指揮)はガダルカナル飛行場西側から進入して爆撃、零戦隊は10機撃墜を報告 [28] [29] 。9月14日 午後、ラバウル東飛行場では修理機引火事故が大爆発を引き起こし弾薬、燃料を大量に喪失。吹き上がる黒煙はラバウル湾東側の火山群を覆い、セントジョージ岬上空からも見え、夜半まで爆発炎上が続いた。[30]

9月18日 米海兵隊第7連隊 4,200名あまりガダルカナルに到着、米側は上陸以来ずっと悩まされていた弾薬・糧食の不足を解消でき、戦力は著しく充実する[31]。9月末 米海兵隊航空機迎撃体制確立、常時60機の作戦使用が可能になり、基地の専守防衛から島内の日本陸軍を航空機で撃滅する積極策に転換する。[32]10月初旬 駆逐艦による数次の陸軍部隊輸送成功、第十七軍百武司令官ガダルカナルへ進出。

10月25日 前夜、日本海軍は陸軍よりガ島飛行場を占領したとの連絡(誤報)が入り2空の零戦8機が進出、F4Fの奇襲を受け4機未帰還[33]11月 台南空消耗、251空と改称し、零戦機材を残し輸送船で内地へ戻り豊橋基地で再建に入る[34]11月 3空、202空(岡村基春司令)と改称し中部太平洋ケンダリーで錬成に入る[35]。また2空は582空(山本栄司令)と改称[36]、 6空は204空(森田司令)と改称[37]、鹿屋空戦闘機隊は253空(小林司令)と改称してラバウルで任務継続した[38]。11月9日 252空(柳村司令)がラバウルに着任する[39]

1942年11月14日、ガダルカナル島へ最後となる第2次強行輸送作戦実施。輸送船1隻に護衛駆逐艦1隻をつけ突入擱座を覚悟して高速大型輸送船11隻がガダルカナル島に突入[40]、早朝から米軍機8波のべ100機による攻撃に対し、日本側は零戦のべ32機、水上機のべ14機が上空直衛に当った。輸送船員達によれば朝から船団上空を護って米軍機を迎え撃ってくれたのは水上機だけで、身軽な多数の米軍戦闘機に包囲され簡単に撃墜されながら1機1機次々と突っ込んでいったと伝える[41]。また同戦域で基地航空隊および空母飛鷹の零戦隊が来襲したB-17および米空母機と空戦した[42]

1942年12月の時点で一式陸攻と中核主力、練達の中攻乗組員たちの大半を消耗し、効果のある難易度高い編隊攻撃による夜間雷撃などが困難になる[43]。(701空702空703空705空707空752空753空755空の各中型陸上攻撃機部隊)

12月23日、252空の零戦24機が完成したばかりのニュージョージア島ムンダ飛行場に進出した。しかし進出直後から連日の連合国側の空襲を受け、数日で壊滅した。29日、701空の96陸攻救出隊により搭乗員はラバウルに帰還した。24機の零戦中、ラバウルに撤退できたのは3機のみであった。[44]

1942年12月末 陸海軍は南部ソロモン・ガダルカナル島からの撤退を決定する。

形勢逆転[編集]

1943年1月末陸攻夜間爆撃開始。海軍艦爆隊、昼間攻撃参加[45]。1月末 陸軍航空ラバウルに合流し昼間攻撃参加、機材は一式戦キ43、二式複戦キ45改(夜間)、爆撃、偵察キ46、後に三式戦キ61も参戦。[46]

1943年春の三式戦キ61大編隊、トラックからの移動中多数機損失の事故は、キ61が試作審査開始1年経過し液冷エンジン周りのトラブル頻発するなかでの強行出撃という中、発生した。ラバウル陸軍司令部では、液冷エンジントラブルで一旦基地に戻り離陸やり直したため誘導機に合流できず単発機編隊で偏流修正せずに洋上を進んだため進路が左にそれてほとんどが燃料切れでブーゲンビル島東海岸に辛うじて不時着した、とした[47]、あるいは通り過ぎニューギニア島東岸のラエにまで飛んでいった機[48]、 あるいはスパイ工作員による隊長機コンパスの狂いを疑う伝聞の噂が流布された[49]、あるいは複数機が燃料不足で洋上不時着した(洋上に着水し機から脱出した搭乗員が鱶に食われた)と伝えられた。この燃料不足については、設計製造の川崎飛行機の調査により、逆止弁すり合わせ工作精度が悪く翼の負圧側に開口していた空気抜きの孔から燃料が漏れた(吸いだされた)ための燃料不足であると判明。全く申しわけないミスと陳謝した[50]。 1943年 2月初 南部ソロモン・ガダルカナル島から撤退完了[51]戦闘機隊 201空・204空・582空、ブーゲンビル島南端ブイン基地に進出。以後、制空戦と中部ソロモンへの輸送船団上空直掩任務[52]

3月3日陸軍輸送「81号作戦」(ビスマルク海海戦)上空直掩[53]ニューギニア東南ラエへの輸送作戦。米軍機に捕捉され輸送船団壊滅。以後このニューギニア島東~ニューブリテン島間の海域の制海権を失い、潜水艦か大発による夜間小規模輸送になった。

1943年 4月 日本海軍、「い号作戦」発動(4月2日 - 4月17日)、作戦期間中は2航戦の飛鷹隼鷹隊がラバウル進出X作戦でソロモン方面、Y作戦でニューギニアのポートモレスビー方面、Y1作戦でニューギニアの南東端ラビ方面を攻撃[54]。4月18日 山本五十六連合艦隊司令長官ブイン近くで搭乗機を撃墜され戦死(海軍甲事件[55]

1943年 5月14日 251空(小園司令)が再進出[56]。6月16日ガダルカナル島ルンガ沖航空戦[57]。以後、南部ソロモン制空権を喪失し1943年6月30日中部ソロモン・レンドバ島に米軍上陸。6月30日、ニューギニア島危機、東南・サラモア攻略作戦開始、連合軍陽動作戦で南のナッソウ湾上陸[58]。1943年 7月上旬 レンドバへの陸軍爆撃機隊と海軍戦闘機隊協同作戦が2回実施される。攻撃で与えた在地連合軍ダメージ大きく効果あったが、2回で中止になり海軍戦闘機搭乗員側に不満が残った。1943年 7月15日 201空(中野司令)ラバウル着任[59]。7月中旬 2航戦全機、ラバウル経由でブインへ進出[60]

1943年 7月中旬 ラバウル陸軍航空、ニューギニア攻防・反撃のため両面作戦に入る。 陸軍14航空(68戦隊、78戦隊、司令部戦隊数機、爆撃部隊)ウエワクとの間を移動・往来。以後、ニューギニア島東南部および海峡を越えたニューブリテン島南西のツルブマーカス岬の両方面を担当し1943年12月にも68戦隊は爆撃隊とともに海峡を越えマーカス岬防衛戦闘へ出動継続[61]。8月16日 - 17日 ニューギニア島中央の陸軍14航空ウエワク基地が連合軍奇襲うけ100機地上破壊される。一時期作戦続行困難に陥り、以後完全守勢となる。

1943年 9月 1日 251空は消耗により解散し、搭乗員は201空と253空へ転属[62]。9月中旬 中部ソロモン・ニュージョージア島ムンダ基地放棄。9月、ニューギニア島東南、サラモア・ラエ相次いで陥落、地上軍は死のサラワケット越えでキアリへ脱出。連合軍はこの地域に11月までに10か所以上の飛行場を建設。 (10月~翌年1月まで、ニューギニア島・フィッシュハーフェン戦継続1943年10月 北部ソロモン・ブーゲンビル島南端ブイン基地放棄脱出、ラバウル帰還命令)[63]

1943年10月27日 ブーゲンビル島南端938空水上基地に隣接するモノ島を米軍占領[64]。1943年11月 1日 日本海軍、「ろ号作戦」発動1943年11月 1日-13日 ろ号作戦中1航戦ラバウルに進出、作戦終了時半数を消耗し一部を残し引上げ[65]。ろ号作戦でラバウルにきた一航戦の戦闘機隊は、撃墜マークも桜の花や星マーク、思い思いに記しており[66]、204空でも機体個体の撃墜記録として、前任者の記録に自らの戦果を追加記入してもらい[67]、気持ちを高めていた。

1943年11月 1日 米軍、ブーゲンビル島中部西海岸へ上陸、タロキナ飛行場建設開始1943年11月 5日 ブーゲンビル島南端ショートランド水上機基地人員は徒歩で北端ブカへ退却[68]。1943年11月 8日夜、日本陸軍第十七軍(主力第六師団)、タロキナ第一回目地上総攻撃。第一次 - 第六次ブーゲンビル島沖航空戦、1航戦の大半は第三次まで参加[69]

東飛行場の戦闘機隊下士官兵の搭乗員宿舎は1943年(昭和18年)11月までは飛行場南西の市街地側の低地にあった。同年12月に夜間空襲が10数機で一晩に数度と増えてきたために、准士官(飛曹長)以上の搭乗員が使っていた飛行場から10kmほど離れ夜涼しく過ごしやすい官邸山頂上の士官宿舎のそばに下士官兵の搭乗員宿舎も移転し、傍らに大きな防空壕が作られた[70]

ラバウル航空戦[編集]

空襲を受けるラバウル航空隊

1943年(昭和18年)晩秋まで続いたラバウルからの航空進攻作戦は、11月にブーゲンビル島西岸のタロキナに連合軍の大航空基地が建設されてからはラバウルを中心とする南東方面制空権争奪戦に変わり、1943年(昭和18年)12月17日0900 から1944年(昭和19年)2月末まで2ヶ月間休みなく続く、日本航空作戦史上に「ラバウル航空決戦」として伝えられるラバウル零戦隊の烈しい邀撃戦闘が始まった[71]。1943年末にはラバウル司令部は焦燥の色濃く、数ヶ月前にもっていた快活さを失ってしまった[72]

1943年11月14日 281空分遣隊ラバウル着任、201空へ編入[73]。12月15日 201空消耗により幹部後退決定、残存201空搭乗員の大半は204空へ転属[74]。1943年12月15日 ニューブリテン島西南端グロスター岬に連合軍上陸、ラバウル海軍戦闘機爆撃攻撃[75]。12月21日 陸軍68戦隊三式戦闘機と軽爆の戦爆連合ウエワクから海峡を渡りマーカス岬(米呼称:アラウエ)攻撃[76]。1943年12月20日 ブーゲンビル島北端のブカ水上基地隊、駆逐艦でラバウル湾東南岸の松島基地へ後退[77]。12月23日-27日 ニューブリテン島南端ガスマタへ連合軍上陸、戦闘機による爆撃攻撃。

201空・204空・253空による邀撃戦、連日数百機の敵戦爆連合が押し寄せ、1月~2月は一日数波、激化[78]

201空が1944年(昭和19年)1月4日にサイパンに後退したあと、邀撃する零戦隊はラバウル東飛行場の204空とトベラ飛行場の253空の2隊のみの状態にかかわらず、彼らラバウル零戦隊の搭乗員たちは、ラバウルの制空権を死守していた。[79]。少数機で多数機に対抗することが極めて困難なことは、英国が発表した航空戦の戦略理論 N2乗法則(N square Low) [80]の示すとおりである。

日本側はセント・ジョージ岬レーダー基地からの警報により敵来襲を30分前に事前予測し、第26航空戦隊所属の数十機のラバウル零戦隊全機は一斉離陸を5分で完了、高々度で待機して邀撃し、来襲する連合軍戦爆連合大編隊との間に大空中戦が展開された[81]。邀撃する零戦隊は、来襲する護衛戦闘機陣をかわして爆撃機編隊先頭に突進、攻撃して編隊を小さく分散させた後で、周囲から執拗な攻撃を繰り返した。これに対し連合軍各国の混成航空隊(米軍の陸・海・海兵隊所属の各航空隊、英連邦豪州空軍、英連邦ニュージーランド州空軍)は直掩戦闘機隊と爆撃隊の緊密な十字砲火による協同連携防御でこれを阻止した。ラバウル在地の陸海軍高射砲陣からの烈しい対空射撃で空一面は弾幕で覆われた。彼我ともに知略を尽くす緊迫した連日の空中戦闘で、零戦隊の戦果は少ない日は6機、多い日は87機、平均で20数機以上を報告していた。1月17日にはラバウル上空邀撃戦で大戦果を報告、翌日東京で上奏、御嘉賞される[82]。この戦闘はSBD29機、TBF18機、および戦闘機F4UF6FP-3870機、計117機[83]を零戦計79機が迎撃[84]、損害は被弾8機だけで撃墜69機(内、不確実17機)の大勝利を報告したもの[85]。戦後明らかになったところによればこの時の米軍の被撃墜数は12機にすぎなかったが[86][* 1]、佐薙毅によれば実際に来襲する大編隊に毎回大きな損害を与え[87]、ラバウル守備隊は毎週、連合軍側生存搭乗員を多く捕虜にしていた。地上基地員たちも爆撃終了後は人力に加えラバウルのトベラに持ち込んだスチームエンジンローラー、英軍鹵獲ブルドーザも整地に使い滑走路を速やかに修復、復旧させた。ラバウル航空戦の激戦の現実を証明するニュース動画映像(1944年1月17日付)が1本、日本側にあり、当日最大の戦闘は飛行場の真上遥か高空で大型4発機大編隊に第4中隊の零戦数機がとりつき一撃でB-24が2機続けて炎上し落ちた。この事実は戦後の戦史研究家らの調査にはないが、当日日本側の先頭で離陸し第1中隊指揮官として邀撃した戦闘機搭乗員の回想録には遺された。[88]内地から日映ニュース班来訪し連合軍/日本軍に唯一存在するラバウル空戦の実写フィルム「南海決戦場」邀撃戦 69対0 を撮影[89]

ラバウル26航空戦隊の邀撃戦では、緊急発進した零戦は中隊長、小隊長、列機区別なく、先に飛び上がったものを中心に次々と編隊を組み、集結していった。これは、1943年(昭和18年)秋『ろ』号作戦でラバウルに進出した一航戦戦闘機隊の邀撃戦で示された『一斉離陸』が範となり戦訓となった[90]。空中戦では敵機より優位をとる必要があり、緊急の邀撃戦では素早く離陸した者が戦果を上げやすいため、一斉離陸をし、その様子は先陣争いだった。後に離陸した者が列機となり編隊につく。顔がわからなくても互いによろしく、と編隊を組んだ最初に風防ごしに挨拶しておけばよく、階級の上下など後からとやかく言う者はいなかった[91]。狭いトベラ基地に移ってからの邀撃戦では列線にならぶ零戦の近くで待機し早めに離陸した[92]。若年搭乗員たちは目をつけた実力者、慕う者の後にすばやくついた[93]。邀撃戦の編成表[94]は後で作成された。

1944年1月24日204空消耗により幹部トラック島へ後退、生存204空搭乗員の大半は253空へ転属[95]。1月25日 ラバウル南東方面 草鹿司令長官の要請で第2航戦ラバウル着任、1ヶ月後1/3に消耗[96]

1944年 2月17日-18日 トラック島全島、米機動部隊の大空襲をうける。ラバウル向け補給用200機地上破壊され、航空機全滅。湾内の艦船沈没多数。[97]1944年2月20日253空と2航戦の全機(戦闘機約30機・陸攻数機)トラック島へ後退[98]2月17日の米機動部隊大空襲を受けたトラック島の壊滅的被害を補うため第11航空艦隊および2航戦所属の全飛行隊はトラック島へ後退となり、2月20日ラバウル航空隊は実質的にその幕を閉じた。

連合国軍のラバウル迂回方針[編集]

連合軍はラバウル攻略を意図して空襲による猛攻と、スルミグロスター岬へと上陸作戦を繰り返し、ラバウルに対する艦砲射撃も3度行われた[99]が、連合軍はラバウルへの本格攻略を回避、迂回して2月29日にアドミラルティ諸島に上陸、占領し米機動部隊北上作戦の拠点泊地を構築した。

連合軍空軍力の全力による1943年(昭和18年)12月17日から3ヶ月のラバウルへの空襲総攻撃は、海軍のリア少将の上申をうけた米海軍第3艦隊司令官ハルゼー中将から米陸軍の南西太平洋方面の連合国最高司令官マッカーサー将軍の全面的協力をえて連日激戦がくりかえされていた[100]

他方、ちょうどこれに重なる時期、1944年(昭和19年)に入り米陸海軍内部では太平洋方面作戦でラバウルの迂回方針が検討された。1943年(昭和18年)11月の米海兵隊ブーゲンビル島タロキナ上陸直後の危機的状況は米空母2隻(サラトガ、プリンストン)と基地航空隊協同のラバウル強襲により無事回避したが、ハルゼーはこのあと1943年(昭和18年)12月23日から26日までハワイでニミッツと打ち合わせ、アメリカ西海岸カリフォルニアの自宅で家族に会ったあと、1944年(昭和19年)年明け - 1月末まで米国政府のあるアメリカ東海岸のワシントンに滞在し、米海軍最高指揮官のキング海軍大将(合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長)に「ラバウルとカビエンの占領は不要」と自説を上申した。それは、ラバウルの真東の洋上にありセント・ジョージ岬 - ブーゲンビル島の間をラバウルから北東へぬける海路を中央で阻むグリーン諸島、ラバウルの北隣ニューアイルランド島カビエンの北側を洋上で阻むセント・マシアス群島の南東小島のエミラウ島、ラバウルの西方洋上に位置しラバウルからトラック島への北西海路をエミラウ島との間で挟むアドミラルティ諸島マヌス島を占領しラバウルを包囲遮断すれば南太平洋方面での日本軍の作戦は成立しなくなる、という予測を説明した。[101]

1月末、ハルゼーはこの方針に米海軍のニミッツ大将(中部太平洋方面の連合国最高司令官)と米陸軍のマッカーサー将軍(南西太平洋方面の連合国最高司令官、元大将)の了解をえるため、ニミッツのいるハワイ真珠湾へ向かい会議に参加した。真珠湾での米陸海軍司令部幕僚、参謀が集合した作戦会議では、この方針に基づき、当時攻略中のグリーン島を1944年(昭和19年)2月19日に占領、マヌス島は同年2月29日から攻略する日程が決定された。米陸軍マッカーサー司令部側はカビエンの同年4月1日攻略計画を主張した。3月には、米陸軍所轄の攻撃目標だったマヌス島までも米海軍が占領した。マヌス島には東端から北側を巨大な弓状に湾曲して伸び囲むロスネグロス島が天然の良港を形成し大艦隊を収容できるロレンゴー湾があって、米海軍は根拠地としてアドミラルティ泊地を構築した。これに対し豪州オーストラリアのブリスベーンに滞在して指揮していた米陸軍のマッカーサーは強く憤ったため、ブリスベーンで双方の和解と調整が図られた。カビエン攻略は3月14日に中止決定されその北のエミラウ島が代わりの攻略目標になった。[102][103]

ラバウル迂回以降の対日作戦の攻撃方針は、ウルシー環礁、フィリピンを基地として硫黄島、沖縄、日本本州を攻撃する方針にはなっていたが、1944年(昭和19年)5月のサンフランシスコでの作戦会議では、米海軍最高指揮官のキングはフィリピンを攻撃で破壊しないように台湾攻略を主張、スプルーアンス中将は中国上海の南方上山湾攻略を主張、その他、最終段階の1945年(昭和20年)春、九州攻撃までは様々な意見が出続け揺れた。この後の米海軍は新建造の大型高速空母を多数就役、訓練し実戦配備完了した大艦隊を擁し、1943年(昭和18年)11月から1944年(昭和19年)7月まではスプルーアンス中将の第5艦隊司令部が指揮してギルバート・マーシャル、サイパン、マリアナ群島を順次攻略し、そのあと1944年(昭和19年)8月から1945年(昭和20年)1月まではハルゼー中将の第3艦隊司令部がこの大艦隊の指揮を引き継ぎ台湾沖、レイテ、フィリピンを攻略していった。[104]

孤立化[編集]

1944年2月20日以降、日本の劣勢でラバウルとの連絡が困難となり、連合国も迂回方針を取ったため、ラバウル航空隊は自活と基地技術者と残存航空隊員たちによる復元機での偵察・拠点爆撃作戦が行われた。

1944年 3月上旬 零戦数機を修理復元[105]3月15日 水上機隊、ブーゲンビル島ブインへ再進出[106]。現地残存201空・204空・582空残留員で再編成される。

ブーゲンビル島南端旧ブイン基地に残留した第八艦隊司令部、第一根拠地隊司令部、佐世保鎮守府第六特別陸戦隊は水偵機をジャングルの隠れた入江・川に引き込み、隠密作戦続行[107]。1944年 3月8日~25日、日本陸軍第十七軍、タロキナ飛行場へ総攻撃。ラバウル航空隊、陸軍百武中将の要請に応じ爆装零戦によるタロキナ飛行場夜間爆撃を行い失敗[108]

1944年 6月 新たにラバウルにて105空開隊、復元零戦で構成、アドミラルティ泊地偵察[109]1944年10月 ラバウル陸軍独立飛行83中隊、復元100式司偵完成、トラック島へキニーネ受領往復[110]。1944年10月 105空、復元零戦でアドミラルティ泊地偵察再開1944年10月-1945年8月まで、海軍105空零戦と陸軍独立飛行83中隊100式司偵、アドミラルティ泊地黎明偵察継続、海軍958空零式三座水偵は補給と偵察続行[111]。フィリピン方面出動準備中の米艦隊動向を後方から隠密偵察活動、情報を内地へ報告。

1944年11月9日 零戦3機(60キロ爆弾2発装備、一番機は復座改造型)にてアドミラルティのハイン飛行場を爆撃[112]。1944年末 ブイン水上基地の938空解散、ブーゲンビル島内で第85警備隊になる。1945年 ニューブリテン島島内前線拠点で地上戦続行中、小守備隊の玉砕相次ぐ。1945年4月28日 ラバウル、復元97式艦上攻撃機2機でアドミラルティ泊地夜間雷撃[113]。1945年 7月中旬 ブーゲンビル島南端旧ブイン基地員、復元零戦22型1機密林の中で完成[114]

1945年 8月15日 終戦。終戦時に残存していたの攻撃機1機、戦闘機2機、水上機2機であった[115]。敗戦により飛行可能状態の復元零戦21型と復元100式司令部偵察機は豪州軍に、ブインの復元零戦22型はニュージーランド空軍に接収された。

評価[編集]

赤道近く南緯4度にあるラバウルは、大型艦船が停泊できる天然の良港を備え第一次大戦の後も委任統治府が置かれ、この地域における要衝であった。大戦前に海外留学経験のある古い海軍士官らからはラボールと呼ばれていた[116]

ハルゼー(アメリカ軍)は息子が米空母のラバウル空襲の際戦死するのではないか不安だったと戦後の回想録に書かれている。ラバウルでの戦死率の高さから、アメリカ軍搭乗員からはラバウルはドラゴンジョーズ(竜の顎)と恐れられた。これはラバウルの地形が竜の顎のような入り組んだ湾であることと同時に、侵攻すれば大損害を被ることを指していた。

戦後に胸襟を開き直接対談した日米軍要人たちの回想レビューでは、米国側にとって熱帯多雨のソロモン戦線で有利だったのはレーダーしかなく、陰惨で前途の見込みが判断つかない精神的、肉体的に苦しい戦争で、太平洋戦線での各局面では情報収集と判断に非常に苦労していた。航空戦も峠をこえる時期までは機数・技量・性能も伯仲していたので、連合軍側も損害は非常に大きく何度も挫折寸前だった。しかし、日本軍側はガダルカナル争奪戦、ソロモン争奪戦で航空兵力、駆逐艦兵力を多く喪失した。後期には米軍側と日本軍側との海軍航空隊の人員・機材の優勢/劣勢が逆転した。連合軍側は搭乗員たち、機材の戦闘機空戦能力が優勢になった。日本側は教官の欠乏、訓練期間短縮、訓練用燃料不足のために新規搭乗員たちの技量は低下した。洋上を高速で自在に移動する点のような攻撃目標の艦隊を、飛行隊を組み海上を遠距離飛行して発見捕捉し攻撃作戦していた当時最高級の航空技量を持つ日本側搭乗員たちは殆どいなくなった。日本陸軍側が要塞化し集中堅持守備する各地要衝に対し、連合軍側は空白の密林地帯に巨大な土木機械力で大航空基地を1週間で建設して孤立化させていった。双方のバランスが崩れ、日本軍側は海と空を防衛する海上航空兵力を実質的にうしない、連合軍側にとっては激戦の沖縄戦を迎えるまでは追撃戦になった[117]

熱帯風土病に繰り返し罹患することにより現地住民の寿命は短かった。疫病媒介昆虫の蚊殺虫剤DDTが世界に普及する以前の時代、悪性種類のマラリア原虫による重度の熱帯マラリア、強いウイルスの悪性デング熱があり、予防薬キニーネの常用と治療薬アブダミンの備えは必須、傷口は熱帯性潰瘍にかかりやすく、熱帯アメーバ赤痢を予防するため水は飲料用に煮沸が必要であった[118]。気候は地形(山の上側と平地側)によって暮らしやすさが大きく異なり、熱帯の夜の暑さは湿気を含んだ毛布とともに健康を害する元となっていた。搭乗員・基地員の3割は病気にかかり深刻な戦力問題および保健衛生問題となっていた[119]。また降伏後、マラリアの予防薬、治療薬を豪州軍に取り上げられたため、ラバウル将兵にマラリア・デング熱で死ぬものが戦後になって多かったことが知られている[120]。この海域では、南太平洋と北太平洋から貿易風が常に吹き寄せ、上昇気流到達する成層圏高度も高いため、上昇気流によって積乱雲が飛行機の飛び越えられない10000m以上の高空まで数時間で急激に発達、悪天候となり搭乗員たちの航空作戦遂行をしばしば妨げた[121]

ラバウル航空隊の戦果については戦後の戦史研究者らに数の重複や過大報告などを指摘されることがあるが、佐薙毅によれば来襲する大編隊に毎回大きな損害は与えていたという[122]

参加戦力[編集]

  • 1空(752空)(1942年2月-)
  • 2空(582空)(1942年8月-)
  • 3空(202空)(1942年11月-)
  • 4空(1942年2月-1943年12月)
  • 6空(204空)(1942年8月-1944年1月)
  • 鹿屋空戦闘機隊(253空)(1942年11月-1944年2月)
  • 252空(1942年11月-1944年1月)
  • 台南空(251空)(1942年4月-1944年2月)

脚注[編集]

  1. ^ 一方の米軍も、1機も撃墜していないにもかかわらず、撃墜32、うち不確実12機と報告していた。

出典[編集]

  1. ^ 零戦 最後の証言 志賀淑雄
  2. ^ 零戦撃墜王、 雑誌 丸、ポートモレスビー空爆行(千歳空分遣隊)
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参考文献[編集]

(およそラバウル戦参戦順)

書籍[編集]

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  • 杉野計雄 「海軍戦闘機隊エースの回想, (1航艦、253空)」『撃墜王の素顔』 光人社 NF 文庫、2002年ISBN 4-7698-2355-X
  • 第204海軍航空隊 「プロローグ 69対0, (204空)」『ラバウル空戦記』 学研M文庫。ISBN 4-05-901070-7
  • 佐薙毅 「ラバウル航空魂未だ健在なり, (ラバウル司令部)」『雑誌 丸』 潮書房、1973年。ISBN。
  • 横山保 「零戦隊空戦始末記, (204空)」『あゝ零戦一代』 光人社 NF 文庫、1978年ISBN 4-7698-2040-2
  • 山田竜人 「夜襲部隊九三八航空隊の奮戦, (938空水偵隊)」『雑誌 丸』 潮書房、1973年。ISBN。
  • 柴山積善 「ソロモンに死闘する零戦隊, (253空)」『雑誌 丸』 潮書房、1969年。ISBN。
  • 佐藤弘正 『ニューギニア兵隊戦記』 光人社 NF 文庫、2000年ISBN 4-7698-2278-2
  • 奥宮正武 『翼なき操縦士』 日本出版共同、1951年。ISBN。
  • 森山康平 『米軍が記録したニューギニアの戦い』 草思社、1995年。ISBN。
  • ボイントン, グレゴリー; 申橋 昭 訳. “(VMF-214)”. 海兵隊コルセア空戦記 (BAA BAA BLACKSHEEP). 光人社. ISBN. 
  • サカイダヘンリー・碇 義朗 「(105空)」『最後のゼロファイター (Rabaul's LastEagles)』 光人社。ISBN。
  • 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ 太平洋戦争海戦全史』 学研。ISBN。
  • 橋本廣 「艦隊司令部信号員の太平洋海戦記」『機動部隊の栄光』 光人社、2005年ISBN 4-7698-2468-8
  • サカイダヘンリー・小林 昇 訳 『日本海軍航空隊のエース 1937 - 1945』 オスプレイ社。ISBN。
  • サカイダヘンリー・梅本 弘 訳 『日本陸軍航空隊のエース 1937 - 1945』 オスプレイ社。ISBN。
  • Tillmann, Barrett. Hellcat Aces of World War 2. Ospray. ISBN. 
  • 米国戦略爆撃調査団; 大谷内 一夫 訳. JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡. 光人社. ISBN. 
  • 酣燈社航空情報編集部・木村 秀政・郡 竜彦 「三式戦闘機「飛燕」(土井武夫・大和田信)」『航空情報 No.99 臨時増刊 日本傑作機物語 恵美号から彩雲まで』 酣燈社、1959年4月。ISBN。
  • 「No.626 特集・ラバウル航空隊の戦闘機」『モデルアート』 モデルアート社、2003年2月。ISBN。
  • 渡辺, 洋二 (2002), “ラバウル上空の完全勝利”, 遙かなる俊翼, ISBN 4-16-724911-1  - この部分の初出は『大空の攻防戦』(1992)

関連項目[編集]