軍歌

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軍歌(ぐんか)とは、広義には主に軍隊内で士気を高めるために作られたのこと。歴史的な出来事を扱ったものから、戦死した犠牲者を悼むことを目的とするものまで内容は様々である。

世界の軍歌[編集]

世界的に有名な軍歌として、フランス国歌である「ラ・マルセイエーズ(「ライン軍のための軍歌」・「ライン軍軍歌」)」[1]などがある。このように一部の軍歌および軍楽は国歌としてそのまま、もしくは(メロディ)を使用されることもある。これら国歌として歌われているもののほとんどは革命歌であり、他国との戦争時に歌われたものでないことが多い。

世界の代表的な軍歌[編集]

日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
オーストリアの旗 オーストリア
  • 我は皇帝たらん K.539(Ich möchte wohl dem Kaiser sein, モーツァルト作曲の軍歌)
ハンガリーの旗 ハンガリー
ポーランドの旗 ポーランド
アイルランド共和国の旗 アイルランド
トルコの旗 トルコ
ドイツの旗 ドイツ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦/ロシアの旗 ロシア
中華民国の旗 中華民国
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
韓国の旗 韓国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
ベトナムの旗 ベトナム
 南ベトナム
  • 名もなき戦士(Chiến Sĩ Vô Danh)
  • 我祖国に二心無し(Thề Không Phản Bội Quê Hương)
  • 銃火の中で(Trên Đầu Súng)
  • 祖国に報いよ(Đáp Lời Sông Núi)
フィンランドの旗 フィンランド
ギリシャの旗 ギリシャ
イタリアの旗 イタリア
サウジアラビアの旗 サウジアラビア

日本の軍歌[編集]

日本では、厳密(狭義)には軍隊によって作られた歌を軍歌とするが、一般的(広義)には戦時歌謡(軍国歌謡・国民歌謡、一部の唱歌)や軍楽など、軍隊・軍人兵器・戦争・国体・国策などを題材とする歌や曲をまとめて軍歌と通称とする。

軍歌の分類[編集]

  • 軍歌
    • 部隊歌
      • 連隊歌や歌など、各部隊ごとに作られた歌。
        • (例、「飛行第六十四戦隊歌(加藤隼戦闘隊)」、「関東軍軍歌」等)
    • 兵隊ソング(軍隊小唄、兵隊フォーク)
      • 主に軍人将兵兵隊)の間で愛唱された俗謡。
        • (例、「ほんとにほんとにご苦労ね」、「海軍小唄(ズンドコ節)」、「可愛いスーちゃん」、「同期の桜」等)
    • 軍楽
      • 行進曲に代表される器楽曲。
        • (例、「陸軍分列行進曲」、「軍艦行進曲」、「連合艦隊行進曲」等)
    • 愛国歌・時局歌(戦時歌謡との戦後名あり)
      • 民間が制作した流行歌。映画主題歌なども含む。
        • (例、「露営の歌」、「燃ゆる大空」、「空の神兵」、「暁に祈る」、「出征兵士を送る歌」、「麦と兵隊」等)
    • 国民歌謡
      • 日本放送協会新聞社マスメディア)、政府機関などが主導して制作した流行歌。戦時歌謡に含める場合もある。
        • (例、「愛国行進曲」、「紀元二千六百年」、「日の丸行進曲」、「爆弾三勇士」、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」等)

このほか、戦地で愛唱された一般の歌謡曲(流行歌)や唱歌の一部も軍歌と称する場合もある。

日本の代表的な軍歌[編集]

明治初年〜日清戦争[編集]

明治維新を迎えた明治時代初期の大日本帝国の軍歌は、古来からの長い古風な歌詞と、西洋風の旋律が組み合わさった古雅なものが多い。また日清戦争以前の古い曲の中には、唱歌童謡と同じように、欧米の曲を流用して歌詞をつけた例もまま見られる。

戊辰戦争の際、有栖川宮熾仁親王錦の御旗を先立てて進軍する様子を歌ったもの。1868年(明治元年、慶応4年)作と伝え、事実上の日本初の近代軍歌である。
西南戦争田原坂の戦いにおける警視庁抜刀隊の活躍を歌ったもの。新体詩で有名な外山の歌詞に、当時のお雇い外国人であるルルーが曲をつけたもので、日本初の洋式音楽と言われる。また完成度が高く庶民の間でも広く愛唱され、明治天皇も御前演奏にて大変気に入っていた事でも有名である。後には扶桑歌の曲を合体させた行進曲陸軍分列行進曲」に編曲され、帝国陸軍の正式行進曲として採用された。現在も陸上自衛隊と日本警察の公式行進曲として使用されている。
陸軍教導団に勤務していた石黒が1891年(明治24年)に作った曲。歌詞には未だ意味が完全に解析されていない部分がある。本来の曲は永井作曲のものだが、三善和気作曲の「凱旋」の曲を流用したもののほうがよく歌われた。
外国の曲を流用して作られた軍歌(戦闘歌)の一例。曲は童謡「むすんでひらいて」と同一である。同メロディーの曲として「進撃追撃行進曲」という行進曲もある。
1886年(明治19年)発表の八章の新体詩から、作曲者が三章を選び出し曲をつけた。抜刀隊(陸軍分列行進曲)とともに明治を代表する軍歌、陸海軍双方で第二次世界大戦終戦時(1945年(昭和20年)8月15日)まで長く歌われた(大本営陸海軍部発表時に使用されている)。旧制中学校以来の歴史の古い高校などでは、今でも応援歌として使用しているところがいくつかある。
  • 元寇 作詞・作曲:永井建子
日清戦争前の1892年(明治25年)に、国民鼓舞の目的から元寇撃退を記念する運動が起こった際作られた曲。日清戦争を戦った将兵の士気の大きな原動力ともなり、内地の国民の間でも幅広く愛唱された。
国歌の君が代(1870年(明治3年)は放映する)を行進曲に編曲したもの。重厚ともすれば鈍重とも取られがちな君が代を、軽快に威厳を損なわずまとめあげている。トリオ部分には軍歌の「来たれや来たれ」が流用されているが、歌が稚拙で古すぎたのとこの行進曲にあまりに自然に組み込まれているため、今では元の曲自体が忘れ去られ「君が代行進曲」の一部分としてのみ認知されている。

日清戦争後[編集]

軍歌としての目的以外に、一般国民に対する戦況報道も兼ねていたため叙事詩的なものが多い。曲も洋式音楽が煮詰まってきた時期であり、後世に歌い継がれる秀逸なものが増えてきた。

黄海海戦時に巡洋艦松島艦上で戦死した三浦虎次郎三等水兵の壮烈な最期の模様を歌った曲。軍民問わず大変広く愛唱された。1929年(昭和4年)に作詞者の手で歌詞が改訂されている。漫画のらくろの「のらくろの歌」の曲としても使用された。
黄海海戦時の砲艦赤城と、艦長坂元八郎太少佐の奮戦の模様を歌ったもの。なお、作家内田百間が気に入っていた歌であり、冒頭の一節は「けぶりか浪か」という随筆集の題にも引用されている。
軍歌作詞の趣味もあった明治天皇の手になる作品。極めて長い一連の叙事詩。
読売新聞誌上に載った歌詞に曲をつけたもので、作詞者の「佐戦児」は投稿した軍人のペンネームであり、誰であるかは不明。威海衛襲撃をテーマに取った勇ましい歌詞と、水雷艇襲撃を思わせるスピード感ある曲で知られる。のちの太平洋戦争時には、海軍予備学生の間で特に人気があった。
日清戦争時、第2軍司令部軍楽隊員として従軍した永井建子がその己の体験を元に作った歌。厭戦(えんせん)歌そのもののような、軍歌としては異色の歌詞が特徴。長らく将兵[2]に愛唱されていたが「勇壮でない」とされ、昭和に入り歌詞が一部改訂(「どうせ生かして還さぬ積り」が「どうせ生きては還らぬ積り」にされた)され、さらに太平洋戦争中には歌唱禁止となったがあくまで建前であるため終戦まで歌唱された。八甲田雪中行軍遭難事件を題材とした戦後の映画『八甲田山』の劇中歌としても使用された。
1893年(明治26年)に小学唱歌として発表された歌詞に、1897年(明治30年)、瀬戸口が曲をつけさらに1900年(明治33年)に行進曲に改められたもの。一般には通称「軍艦マーチ」として親しまれている。海軍の公式行進曲で、海軍はもとより民間でも愛唱された、現在は海上自衛隊の公式行進曲である。完成度・知名度が高く日本国内ではしばしば「世界三大行進曲のひとつ」と見なされることがあるが、世界三大事物そのものがそうであるようにこれには明確な根拠は無く、主に日本国内を中心に出回っている風説である。
赤十字社従軍看護婦を歌った世界的にも珍しい異色な歌。作詞者がで戦地に出陣する看護婦の姿を見て感動し、一晩で一気に書き上げたもの。赤十字の精神についても言及がある。
鉄道唱歌の作詞者として有名で、のちに多数の軍歌を手がけることになる大和田の作詞。出征兵士の壮行歌や凱旋歌としても多用された。当時の陸軍の兵科憲兵を除き兵科でなく各部である衛生部を含む)や兵種を歌詞で謳っている。昭和に入り、メロディーはそのままに戦車兵(機甲兵)機関銃隊爆撃隊航空兵)など新時代に合わせて藤田まさとが新たに歌詞を数番付け足した派生歌である「新日本陸軍」が存在する。
  • 日本海軍 作詞:大和田建樹 作曲:小山作之助
上の日本陸軍と対になる作品。日露戦争直前の全軍艦名を歌い込んであり(その為やや歌詞に無理がある)、あまりに歌詞が長いため、発表このかた一度も全歌詞を録音されたことがない。また、北朝鮮では「日本海軍」の曲を流用[3]した「朝鮮人民革命軍」という軍歌がある。

日露戦争後[編集]

こちらも叙事詩的な性格のものが多いが、同時に将兵に対する訓戒のような軍歌も増えてきた。全体的にさらに曲が洗練され、七五調文語体の長大優美な歌詞のものが多い。なお、海軍省は佐佐木信綱や大和田建樹などに制式海軍軍歌の制作依頼を出しており、このため一連の海軍軍歌の制作年代は明治末であるが、軍歌集による公布は大正時代初めとなっている。

本来は、一人の兵士が出征後負傷して凱旋し、村長となるまでを歌った一連の極めて長い「戦績」という唱歌の中の「戦友」という一篇であった。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲とで長く歌い継がれた。日本軍歌一の名軍歌とも言われ、広く愛唱されている。昭和に入り歌詞にある軍紀を無視する箇所が不適当と該当箇所が差し替えられ、さらに太平洋戦争中は歌唱禁止にされたが、「雪の進軍」と同じく将兵に広く歌い継がれた。
  • 決死隊 作詞:佐佐木信綱 作曲:上真行
第1回目の旅順港閉塞作戦を歌った叙事詩。淡々とした曲と、情感豊かな歌詞とで悲壮ながらも軽快な曲となっている。戦い前の将兵の心境とよくマッチしたと見え、のちの太平洋戦争時の開戦前夜や、重大な決戦前には必ずと言ってよいほど歌われた。
  • 広瀬中佐 作詞:大和田建樹 作曲:納所弁次郎
旅順港閉塞作戦で戦死し、軍神として称揚された広瀬武夫海軍中佐を讃える曲。大正時代成立の同名の有名な唱歌とは別の曲であり、海軍内ではこちらが歌われたが、一般に幅広く歌われ親しまれたのは唱歌のほうであった。
  • 橘中佐 作詞:鍵谷徳三郎 作曲:安田俊高
陸の軍神である橘周太陸軍中佐の壮烈な戦いぶりを描き、讃える曲。上が19番に下が13番と非常に長い歌詞であり、上と下にそれぞれ別の曲がついている。のちに静岡歩兵第34連隊の部隊歌となった。
海軍省の依頼で作られた制式海軍軍歌の一つ。日本海海戦を経過順に歌いこんであり、鉄道唱歌の流れをくむ軽快なものに仕上がっている。主に海軍内で歌われ、一般には同名の唱歌の方が親しまれた。一番の歌詞に「寄こせし敵こそ健気なれ」という敵を讃美する部分があり、当時の日本の世情を表している。瀬戸口の手により行進曲に作り変えられた「日本海海戦記念行進曲」もあり、気ヲ著ケ(きをつけ)の喇叭の出だしと、トリオ部分に君が代を使用するなど、独創的に仕上がっている。
  • 艦船勤務 作詞:大和田建樹 作曲:瀬戸口藤吉
海軍軍人の心構えを示した曲で、海軍制式軍歌の一つ。歌いやすく明るい単調な歌詞と曲で、海軍内で終戦まで歌い継がれ「海軍といえばこの曲」というほどに定着した。
もとは陸軍中央幼年学校(のちの陸軍予科士官学校)において、卒業の100日前頃にこれを祝うために行われる百日祭において発表された軍歌。秀作であったため、のちに陸軍全体のみならず民間にも波及した。

大正時代[編集]

日独戦争第一次世界大戦)を迎えるものの、大正時代の日本は全体的に平和な時代であり、この時期作られた軍歌は少ない。兵科ごとの曲や、軍学校校歌寮歌の類が目立つ。

ナッチョラン節とも。1914年(大正3年)、青島に派遣された兵士を歌ったもので、いわゆる兵隊ソングに分類される。
1921年(大正10年)、開校記念日を6月10日に移すに際し制定された。詩は当時の在学生からの公募で、36期生の寺西多美弥が選ばれた。翌年歌詞に大幅な改訂がなされ、後にも陸士の所在地が変更されるたびに何度か変更がなされた。

昭和初期[編集]

中国大陸での紛争・戦争が始まったため、軍歌が急速に作られるようになってきた。時代に合わせて口語体のものも多少出てきており、また曲は歌謡曲に近いものになってきている。戦局の泥沼化を反映してか、後期には悲壮な曲調のものが多い。レコード大衆への普及に伴いヒット曲となる速度が非常に速くなっており、数十万枚単位で売れるベストセラー作がいくつも誕生している。

1928年(昭和3年)5月、昭和天皇の即位大典を記念し、教育総監部が陸軍内で「全国軍ニ普及スヘキ軍歌」として歌詞を募集・選定したもの。一位に入選したのは当時秩父宮御附武官中佐で、後に「バターン死の行進」で知られる本間雅晴
1930年(昭和5年)に作られた、昭和維新を題材とした革命歌。作者の三上卓は五・一五事件の反乱海軍将校の一人。二・二六事件後は「反乱をあおる危険な歌」とされ歌唱が禁止されたが、歌自体の完成度の高さもあり当時から現代まで愛唱されている。
「勝ってくるぞと勇ましく」の歌詞で始まる、まさにこの時期を体現するような曲。泥沼化を反映した悲壮極まりない曲であり、将兵や民間人の心情に訴えかけわずか半年間で60万枚を売り、出征兵士の歓送会でも盛んに使用された。レコードのA面は「進軍の歌」というものであったが、B面であったこちらのほうがはるかに人気があった。昭和を代表する軍歌(戦時歌謡)のひとつに数えられる。
1932年(昭和7年)2月、第一次上海事変において、攻めあぐねていた中国国民党軍陣地に対し、あらかじめ点火した破壊筒を抱き合い鉄条網に突入、爆破し自らも爆死をとげた、久留米第24旅団・久留米工兵第18連隊の江下武二、北川丞、作江伊之助工兵一等兵らの武功を讃えた歌。当時、この爆弾三勇士の武功を謳った歌を毎日報知朝日の3新聞社がそれぞれ公募・発表したが、毎日によるものがもっともヒットした(朝日による公募歌は「肉弾三勇士」という)。なお、毎日が歌詞を懸賞募集したところ与謝野鉄幹が応募してきたため、選者の北原白秋が困り果てて一等当選にしたという余談もある。
1937年(昭和12年)12月に内閣情報部によって詞曲ともに公募・選定・発表された。作曲者は「軍艦行進曲」を作曲した瀬戸口藤吉。レコードは各社から様々な形で吹き込まれて発売され、売り上げは累計すると100万枚を超える。行進曲の名手の作であり曲は非常に評判が良かったが、歌詞は「一般国民が歌うのに難解すぎる」と、一部の文壇国文学者などからの評判は芳しくなかった。また、歌詞選定を行った北原白秋と佐佐木信綱が、歌詞の手直しをめぐって論争から大喧嘩になり、両者とも死ぬまで口を利かなかったという逸話もある。
大伴家持の古歌に曲をつけたもの。本来は士気を鼓舞するための曲だったが、大本営発表などで玉砕を発表する時に使用され、すっかりそちらのイメージで有名になった。現在でも鎮魂歌として使われることが多い。荘重な古歌に上質な曲を組み合わせたもので、非常に格調高く仕上がっている。マッカーサーアメリカ極東陸軍(米比軍)軍事顧問時代、この歌詞から日本軍の戦闘心理を理解したという逸話がある。
後に太平洋戦争末期の硫黄島の戦いにおける最高指揮官として有名になる、騎兵出身の栗林忠道陸軍大将がかかわった事で有名。歌詞コンクールをして一等入選だったものに曲をつけた。軽快な曲と、軍馬に対する愛情がにじみ出ているようなこれぞ騎兵といった歌詞で人気を博した。
1940年(昭和15年)の松竹映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」の主題歌として作られた。これは陸軍省馬政課が軍馬に対する認識を喚起するためにバックアップした映画だったが、歌詞中で馬をうたった部分が少なく曲調も哀愁漂う旋律だったため、父や兄弟を戦場へ送り出した家族や望郷の思いにかられる兵士達に受け入れられ、映画を離れて広く長く支持された。
大日本雄弁会講談社(後の講談社)が公募・選定した曲。作詞者が駅に日参して歌詞を作ったとされる。極めて勇壮な歌詞とメロディーに作曲者でもある林伊佐緒の豪快な歌唱も相まり、戦後吹き込み版(キングレコードの林伊佐緒・ボニー・ジャックス)は街宣右翼が好んで使用しているなど、一般での知名度も高い。完成度の高さから日本軍歌を代表する曲の一つである。
戦線の将兵たちの心情をうたった歌。後に「いやじゃありませんか軍隊は」ではじまる同じメロディーの替え歌「軍隊小唄」としてうたわれ、戦後はザ・ドリフターズがこの替え歌を歌っていた。
火野葦平原作の同名の映画の主題歌。広く愛唱された。
関東軍参謀部が選定・発表した歌。作曲者及び創唱歌手は「我等のテナー」として、当時から日本を代表する有名なオペラ歌手藤原義江。支那戦線匪賊討伐にあたる将兵の姿を描いている。雪の進軍と同じくまるで厭戦・反戦歌のような歌詞・曲調であるが、民間製作の多くの戦時歌謡とは異なり、討匪行は軍制定の純粋な軍歌である。軍民双方で愛唱された。食事も補給もなく愛馬も倒れ、時には空を仰ぎながら涙を流し、戦友と生きて再会出来た喜びに歓喜しながらも黙々と泥濘の道を往く様子や、敵の死体に花を手向けて弔うなど前線を実感的に表している。
支那事変における帝国陸軍航空部隊の戦闘隊・爆撃隊の活躍を描いた、同名の日本初の航空映画の主題歌。航空部隊を描写した軽快なメロディと歌詞により、主題歌の枠を超えて大ヒットした。
  • 加藤隼戦闘隊(飛行第六十四戦隊歌) 作詞:田中林平 旭六郎 作曲:森屋五郎 原田喜一 岡野正幸
空の軍神となった加藤建夫陸軍少将が、戦隊長として率いた一式戦「隼」装備の陸軍航空部隊の精鋭、飛行第64戦隊の部隊歌。1941年(昭和16年)公開のニュース映画や、1944年(昭和19年)公開の同名の映画『加藤隼戦闘隊』の大ヒットによって軍のみならず民間でも広く愛唱された。曲自体の成立は1940年(昭和15年)頃で、南支派遣軍軍楽隊が作曲、64戦隊員らが作詞を担当した。全体に勇壮な歌詞と曲であるが、5番まであるうち4番のみ旋律が変わり、悲壮な心情をふと窺わせたような曲調となっている。

太平洋戦争期[編集]

太平洋戦争開戦とともにさらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた。支那事変時とは打って変わり、明るく軽快もしくは勇壮な歌詞・曲のものも多い。ただし、優秀な曲が多く生まれたと同時に、時局に合わせただけの粗製濫造の曲も非常に多く、その多くは歌い継がれることなく消滅していった。また、「勇壮でない」と睨らまれた曲はたとえ軍歌でも弾圧を受け、明治以来の優秀な軍歌がいくつも歌詞改訂・歌唱禁止にされるなど、暗い面も残している。

玉砕や特攻を連想させる題名や歌詞から、大戦最末期の曲と誤解されることもあるが、開戦とほぼ同時に製作された。国民の憤激や戦意高揚を歌った歌。作詞は大政翼賛会。
海の男の手で日本の軍艦が太平洋を進む様を海軍中佐高橋俊策が作詞、海軍軍楽隊出身の江口源吾(江口夜詩)が作曲した。1940年(昭和15年)11月に内田栄一の歌でポリドールレコードから発売され、広く国民の間に親しまれた。若山彰伊藤久男の吹き込み版もある。別名「艦隊勤務」[4]
陸軍落下傘部隊(陸軍空挺部隊)である、挺進連隊(挺進団)の隊員らの訓練模様を記録した同名のドキュメンタリー映画『空の神兵』の主題歌。パレンバン空挺作戦の大戦果と相まって大ヒットした。日本の軍歌としては珍しくピョンコ節を離れアウフタクトを多用した軽快な旋律、美しい歌詞ゆえに現在でも人気が高い。帝国陸軍から陸上自衛隊の第1空挺団にも受け継がれている。
海軍飛行予科練習生募集のための映画『決戦の大空へ』の挿入歌として作られた。曲は2つの候補から練習生に直接選んでもらい、歌詞は作詞者が直接予科練を見学して作ったという。悲壮ながらも飛行兵への希望と意欲を湧かせ、大ヒットを記録した。今なお愛唱され続けており、前述の映画の作中にも登場した土浦第一高等学校では応援歌の一つだった事もある。
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、少女倶楽部1938年(昭和13年)1月号に発表された西條の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在する。時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず大いに流行した。
  • ラバウル小唄 作詞:若杉雄三郎 作曲:島口駒夫
南洋航路」という歌謡曲が原曲である。
  • ラバウル海軍航空隊 作詞:佐伯孝夫 作曲:古関裕而
佐伯孝夫と灰田勝彦はビクターレコードの、古関裕而はコロムビアレコードの専属であったが放送用の曲であったため制作が実現した。後にビクターがコロムビアに対し信時潔の曲を提供するという条件で、1944年(昭和19年)1月にビクターレコードより発売された。南方の前線航空基地を彷彿とさせる軽快な歌詞と曲で流行したが、その時期には皮肉にもラバウルから海軍航空部隊が撤退した時期であった。
大本営海軍部発表にて台湾沖航空戦で大勝利(実際は虚構)を収めたと発表されたのを記念して作られた。当時の戦況を打開できる目処がついた明るい調子に仕上がっている。ニッチク(日本コロムビア)が戦前実質的に販売した最後のレコード。
  • 比島決戦の歌 作詞:西條八十 作曲:古関裕而
読売新聞が軍の依頼を受けて西條と古関に依頼した。フィリピン戦を目前にして国民の士気を煽る必要から、敵将ニミッツとマッカーサーの名前を入れるように要望があった。しかし打ち合わせで西條がそれを断ると出席していた陸軍報道部親泊朝省中佐がその場で「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」と代筆してこの曲が出来上がった。1944年(昭和19年)12月17日に発表会が行われ、同年12月26日に酒井弘朝倉春子、ニッチク合唱団によってレコーディングされた。フィリピン戦が行われている間は連日ラジオで放送していたが、現在までにレコードは1枚も発見されていない。レコードの発売予定は物資欠乏が深刻化した1945年(昭和20年)3月。同時期発売のレコードも一切発見されていない所を見ると、発売は中止されたようである。
「敗戦と共に楽譜は全て廃棄された」(楽譜に関しては古関裕而記念館に展示されている他、「昭和二万日の全記録⑥太平洋戦争」(講談社)のグラビアページに楽譜とレーベル原稿の写真が掲載されていることから、少なくとも完全な「廃棄」は誤りと言える)、「西條と古関が戦犯指名される」との噂も飛び交ったが、当のマッカーサーは全く関心をもたずに何も起こらなかった。後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、許諾のため古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。なお、本作は古関の死後に戦後50周年企画として新たに吹き込まれている(この際、江口夜詩の息子で作曲家の江口浩司が編曲している)他、藍川由美小沢昭一がその前後にレコーディングをしている。

軍歌の終焉[編集]

1945年(昭和20年)8月15日の終戦、その年の11月30日をもって、明治以来の大日本帝国陸海軍は解体・消滅。軍歌が新たに作られることは少なくなった。しかし、戦前中の歌に慣れ親しんだ国民により引き続き歌唱され、パチンコ店で軍艦行進曲が流されるなど軍歌自体の寿命はまだまだ続いていた。

終戦直後、将兵の気持ちを静める目的で軍楽隊によって作られた。
1946年(昭和21年)、戦犯としてシンガポールに行かねばならなくなった元帥寺内寿一陸軍大将を見送る際に作られた曲。軍楽隊による最後の軍歌であり、これ以降、狭義の意味での軍歌軍楽は作られていない。
シベリアに抑留された将兵たちによって収容所で歌われていた曲。戦後の1948年(昭和23年)、ある一人の復員兵がNHKのど自慢で歌い、一挙に大評判となった。作曲者は当初不明のままレコード化されたが、のちに吉田正元陸軍伍長が引き揚げてきて、原曲となった「大興安嶺突破演習の歌(今日も昨日も)」の作曲者だと判明した。シベリアでの辛抱を表すような哀切極まる歌詞と曲で、いまだ元将兵の心をつかんでいる。1949年(昭和24年)には、全国高等学校野球選手権大会の入場行進曲にも選ばれた。
B/C級戦犯として捕縛され、フィリピンモンテンルパのニュービリビット刑務所に収監されていた元将校の代田と伊東によって作詞作曲され、収容されていた日本軍将兵によって歌われていた曲。1952年(昭和27年)1月、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから同刑務所に収容されている日本軍将兵がいることを聞いた歌手渡辺はま子が、オルゴールを差入れとして贈ったところ、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が渡辺のもとに送られ、これを受けてビクターより渡辺と宇都美清のデュエットでレコード化され新東宝により映画化もされた。
  • ハバロフスク小唄 作詞:野村俊夫 作曲:島田逸平
1940年(昭和15年)に林伊佐緒によって歌われた「東京パレード」の替え歌で、シベリアでの抑留生活を歌った曲。原曲よりも近江俊郎が歌った「ハバロフスク小唄」の方が有名になった。軽快な曲調が逆に抑留生活の悲哀を感じさせる。ちなみに、曲名は「ハバロフスク」だが曲中では「ハバロスク」と歌われることが多い。

日本の軍歌は、その支配権から独立した韓国、北朝鮮、ミャンマーなどの軍歌のルーツになったとする見方もある。朝鮮人民軍は日本統治時代の旧日本軍出身者が多く、軍歌の作り方もそれに沿ったものであったとされている。また、前述の「日本海軍」や「鉄道唱歌」などから曲を流用している例も散見される。

自衛隊歌[編集]

憲法上で軍隊の保有が禁止されている事から、公式には自衛隊は軍隊ではないとされるため、戦後新たに自衛隊及び部隊内で作られた歌も軍歌ではなく、正式には隊歌と呼ばれる。

しかしながら、「陸軍分列行進曲」「軍艦行進曲」を筆頭に公式に旧軍時代の軍歌軍楽がそのまま使用されたり、軍歌の詞を自衛隊仕様に変えたものが歌唱されることは多い。自衛隊音楽隊により公式の場(行事式典等)にて「敵は幾万」「愛馬進軍歌」「月月火水木金金」他様々な軍歌が演奏されている。特に職種によっては軍歌を受け継いでいることが多く、普通科の「歩兵の本領」,野戦特科の「砲兵の歌・襟には映える山吹き色の」、空挺の「空の神兵」は有名である。

  • 海上自衛隊
    • 海をゆく 作詞:旧版・佐久間正門 現行版・松瀬節夫 作曲:古関裕而
      海上警備隊時代から愛唱されていたが、時代にそぐわなくなった歌詞のみを50周年の節目に公募の形で新しく改められた。一部の教育隊では1、2番両方共を入隊式での新隊員全員での合唱のため、完全に暗唱の形で上官に叩き込まれる。海自を代表する隊歌。
  • 航空自衛隊
    • 蒼空遠く 作詞:海老根達 作曲:高山実
      格調の高い詞と、覚えやすく上品な旋律で、空自を代表する隊歌である。
    • 空の精鋭 作曲:矢部政男
      創隊40周年を記念して作られた航空自衛隊公式行進曲。陸海と異なり戦後オリジナルであり軍歌色は薄く、現代的な行進曲である。


その他各部隊が独自にシンボルとして制作した歌も隊歌として斉唱されている[5]

主な軍歌作者[編集]

軍歌研究者[編集]

  • 辻田真佐憲 軍歌趣味サイト「西洋軍歌蒐集館」管理人。著書に『世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代』(2011年、社会評論社)がある。


著名な軍楽隊、合唱団[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 元が軍歌であるため内容が過激であるという指摘もある。冬季オリンピック開会式にて少女に歌わせた際、フランス国内から過激すぎるとの批判も出るなど、国歌を変更しようとする論争にもなることがあった。
  2. ^ 元帥大山巌陸軍大将(第2軍の司令官が大山)もその1人で、病床に付いてもなお臨終の最期まで枕元でこの歌を聴いていたという逸話もある。
  3. ^ なお金日成作曲と偽っている。
  4. ^ JASRACデータベースでは「月月火水木金金」が正式の題名、「艦隊勤務」は副題である
  5. ^ 各方面隊・師団・旅団・団・隊・連隊等にそれぞれ方面隊歌や師団歌・連隊歌等として朝礼や創立記念等で歌われている例がある他、公式HPやYouTube等において有志により公表されている

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