レゲエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

レゲエ (reggae) は、1960年代後半ジャマイカで成立したポピュラー音楽

一般的には4分の4拍子の第2、第4拍目でオフビートを刻む、「スキャンク」などと称されるギター、「ワンドロップ」と称される各小節の3目にアクセントが置かれるドラムベースによるうねるようなベースラインなどの音楽的特徴によって定義付けられる。[1]

直接的には同じくジャマイカのポピュラー音楽であるスカロックステディから発展したが、ジャマイカの伝統音楽であるメントアメリカ合衆国発祥の黒人音楽であるリズムアンドブルーストリニダード・トバゴ発祥のポピュラー音楽カリプソラスタファリアンの音楽であるナイヤビンギ、コンゴ発祥の音楽クミナ、さらにはマーチなど多様な音楽の影響を受け成立した。[2]

目次

[編集] 呼称について

メイタルズのリードシンガー、トゥーツ・ヒバート

「レゲエ (reggae)」と言う呼称の語源には諸説あるが、1967年版のジャマイカ英語辞典によると「ぼろ、ぼろ布,または口げんか、口論」という意味を表すスラングとして紹介されている[3] 。このスラングが転じていつしか音楽のスタイルを表すようになったとされる説が有力である。「レゲエ」という言葉が最初にレコードとして世に出たのは1968年メイタルズによる楽曲「ドゥ・ザ・レゲエ (Do the Reggay)」である。[4]

語源にはいくつかの異説がある。 レゲエアーティストのデリック・モーガンは以下のように述べている

私たちは「ロックステディ」という名前が気に入ってなかったから「ファット・マン」の新しいヴァージョンを作ることにした。オルガンを使って地を這うようなビートに作り直すことにしたんだ。プロデューサーのバニー・リーはその変化を気に入ってくれた。そして彼はオルガンとリズムギターで「レゲッ、レゲッ」と聞こえるサウンドを創り出した。バニーはそれを「レゲエ、レゲエ、レゲエ」と呼び、他のミュージシャン達もそう呼ぶようになったのさ。 [5][6]

イギリスのレゲエ評論家、スティーブ・バロウはレゲエミュージシャン、クランシー・エクルズが使用した「女性と別れること」を意味するパトワのスラング「ストレゲエ (streggae)」が変化したという説を信頼に値するとしている。[6]しかし、メイタルズのリーダー、トゥーツ・ヒバート は以下のように反論している。

確かに当時ジャマイカで「ストレゲエ」という言葉はあった。例えば女の子が歩いているとき、誰かがその子を見ながら「なあ、あの子はストレゲエだな」なんて言ったりした。彼女はあまりお洒落じゃなくぼろっちいっていう意味さ。まあ、女の側も男達に対して同じ事を言っていたんだろうが。ある日の朝俺と友人達で遊んでいるとき俺はこう言ったんだ。「オーケー、レゲエをやろうぜ (Let's do the reggay)」って。それはただ単に口をついただけの意味のない言葉だったんだが、俺達はすぐに「ドゥ・ザ・レゲエ、ドゥ・ザ・レゲエ」と歌いだして、ビートも創作していった。人々は後になってそのサウンドと名前は神から与えられたものじゃないかって言ったね。それ以前にはそういうスタイルの音楽のことを「ブルー・ビート」とか色々な呼び方で呼んでいたんだがね。この話は今ではギネス・ワールド・レコーズにも載っているって訳だ。 [7][8]

また、ボブ・マーリーは「レゲエ」は「王の音楽」を意味するスペイン語であると主張していたとされる。 [9]さらに、2003年に発表されたゴスペル・レゲエのコンピレーション『トゥ・ザ・キング (To the King)』のライナー・ノーツには「レゲエ」という言葉は「王のために (to the king)」を意味するラテン語、「regis」に由来するという説が記載されている。[10]

[編集] 音楽的特徴

一般的には、リズムギターまたはキーボードが4分の4拍子の第2、第4拍目にアクセントを置き演奏されること(スキャンク、オフビート、バックビート、裏打ち)がレゲエの特徴とされる。しかしレゲエをより特徴づけているのはスキャンクよりも、むしろドラムとベースラインによって形作られるリズムである。

ボブ・マーリーの世界的ヒットなどを経て、レゲエのリズム様式はヨーロッパ各地、アフリカアジアなど世界中の様々なポピュラー音楽でもしばしば演奏されるようになった。また、ジャズロックヒップホップなど異なるジャンルとのクロスオーバーや、「レゲエ風」アレンジも多く見られる。

またレゲエのリズムのことをジャマイカ英語で「リディム」と言い、しばしば曲名だけではなくリディム自体にも名前がついている。

[編集] ドラムス

標準のドラムキットが一般的に使用されるが、スネアドラムはしばしばティンバレスのような非常に高い音にチューニングされる。スネアドラムにおけるリム・ショットは多用される。レゲエのドラムビートは、「ワンドロップ (One Drop)」、「ロッカーズ (Rockers)」、「ステッパーズ (Steppers)」など、いくつかのカテゴリーに分けることができる。

  • ワンドロップ
1拍目にアクセントがなく、3拍目のみがバスドラムと、リムショットによって強調される。カールトン・バレットが開発したとされるこのリズムは、レゲエの特徴づける特有の要素の一つである。代表的楽曲はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「ワン・ドロップ (One Drop)」など。
  • ロッカーズ
スネアドラムはマーチングバンド風なフレーズを叩く。その戦闘的とも取れるフレーズから「ミリタント・ビート」とも呼ばれている。チャンネル・ワン・レーベルの専属バンドだったレヴォリューショナリーズのドラマー、スライ・ダンバーによって開発された。代表的楽曲はマイティ・ダイアモンズ「アイ・ニード・ア・ルーフ (I Need A Roof)」(1976年)など。
  • ステッパーズ
バスドラムで4拍すべてに固い4つ打ちのビートを加える。「ステッパーズ・リディム」は、1970年代後期から1980年代初めのイギリス2トーンやレゲエのバンドでも好んで演奏された。代表的楽曲はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「エクソダス」など。この曲でカールトン・バレットは、4分の4拍子を刻む4つ打ちのバスドラムに8分の6拍子を刻むハイハットの3連打を絡めている。

レゲエドラムのその他の珍しい特徴としては、ロックやポップスなどと異なりシンバルを使ったフィルインが多用されないという点、しばしばハイハットでアクセントをつけず平板なビートを刻む点が挙げられる。

[編集] ベース

標準的なエレキベースが使用されるが、中音域を徹底的に下げ、極端に重低音を強調した音にチューニングされる。 レゲエにおいてベースはうねうねとした特徴的なベースラインを繰り返し、転調もないことが多い。奏者はしばしばエレキベースを腰より上に構える。

[編集] ギター

標準的なエレキギターが使われることが多いが、曲によってはアコースティックギターも使われる。 裏打ちをカッティングするリズムギターとブルース風やロック風のメロディを弾くリードギターがある。

[編集] パーカッション

パーカッションとしては、ボンゴカウベルシェイカー、ビンギ・ドラム、近年ではMPC等様々な楽器が使われる。

[編集] ボーカル

レゲエには非常に多彩なボーカルスタイルが存在する。ソロ・シンガーボーカル・デュオボーカル・トリオコーラスグループディージェイ(アルファベットによる表記はDJまたはdeejayだが、以下他ジャンルにおけるDJと区別するためトースティングをする者を「ディージェイ」と表記)、ボーカルとディージェイのコンビネーション、ディージェイ同士のコンビネーション等である。

なお、レゲエ特有の歌唱法としてはディージェイによるトースティング、ディージェイとシンガーの中間的歌唱法であるシングジェイ (singjay)、わざとキーを外す様に歌うアウト・オブ・キー (out of key) がある。

[編集] レゲエの歌詞

レゲエは「レベル・ミュージック (rebel music、反抗の音楽)」であるといわれる。その理由はレゲエの歌詞がしばしば社会政治物質主義植民地主義などへの批判を主題とするからである。これはラスタファリズムの影響が大きいが、全てのレゲエ・アーティストがラスタファリアンというわけではない。また、レゲエの歌詞の全てが反抗的というわけでもなく、ジャマイカの伝統音楽であるメントと同様のコミカルな歌詞や、フォークロアに基づく説話的歌詞、ゲットーの貧しい暮らしへの嘆き、男女の愛、人生の機微、音楽への陶酔など、レゲエにおける歌詞の主題は多岐に亘る。

以下、他のポピュラー音楽に比べて特に独自性の高い、いくつかの類型的なレゲエの歌詞の主題について補足する。

[編集] ラスタファリズム

ハイレ・セラシエ1世

詳細は「ラスタファリズム」を参照

レゲエの特徴的な歌詞の一つにエチオピア帝国皇帝ハイレ・セラシエ1世を「ジャー (Jah、現人神)」として称揚し、アフリカ回帰を主義とする宗教的運動であるラスタファリズムがある。作詞者はしばしば自らをラスタの戦士やライオン、またはイスラエル民族になぞらえ、バビロン (babylon、悪の象徴) と戦いこれを打ち破りザイオンに帰還する、と描写する。

[編集] 大麻

演奏するピーター・トッシュ(左)とロビー・シェイクスピア(右)1978年

ラスタファリズム」も参照

大麻」も参照

大麻はラスタファリズムがジャマイカに浸透した1960年代末以降、レゲエの歌詞の中で頻繁に取り上げられる主題の一つである。[11]ジャマイカにおける大麻は19世紀中葉以降プランテーションでの人手不足を補うため導入されたインド系移民によってもたらされた[12][13]。ジャマイカでは大麻は「ガンジャ (ganja)」、または「ハーブ (herb、薬草)」と呼称され、「ガンジャ・チューン (ganja tune)」等と称されるガンジャによる効能や瞑想、またはガンジャが非合法とされているが故の苦難をテーマとした楽曲も多い[11]1966年ドン・ドラモンドによるインスト曲「クール・スモーク (Cool Smoke)」が最早期のガンジャ・チューンである[11]が、ガンジャ=レゲエというイメージがジャマイカ以外の国々まで浸透したのは1972年にリリースされたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのメジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』においてボブがガンジャのジョイントをくゆらすジャケットが紹介されてからである。ピーター・トッシュも大麻合法化運動をしており、1976年には『リーガライズ・イット (Legalize It、邦題『解禁せよ』)』というアルバムをリリースしている。しかし一方で、ジャマイカには1913年より施行された危険薬物法 (Dangerous Drugs Law) があり[14][15]、大麻の所持、売買、喫煙にはそれぞれに応じた罰金刑、懲役刑が科されている[11]。ピーター・トッシュ、ブジュ・バントン、ニンジャマンらレゲエアーティストもこの法律を根拠に科刑された経験がある。

[編集] 反同性愛

また特に1990年代以降のダンスホールレゲエの楽曲を中心に、レゲエの歌詞には異性愛を尊重し、しばしば同性愛者を「バティボーイ (batty bwoy)」などと呼び[16]激しく批判するホモフォビア的内容のものも多い。[17]これら同性愛者批判はジャマイカ国民の大多数を占める保守的キリスト教信者やラスタファリアンが持つ信仰に基づく性倫理観の影響[18]、植民地時代が長らく続いたことによる母系社会化と相対的な男性の地位低下等のジャマイカ特有の社会的、歴史的事情の影響がある[19]。また、ジャマイカでは法律Offences Against the Person Act第76条、79条によって男性間の性交が違法とされており、違反者には最大で禁固10年、もしくは服役2年が課せられている。[20]

1990年代以降、ブジュ・バントン、エレファント・マン、ビーニ・マン、シズラ、ケイプルトンらがイギリスに本部を置くアウトレイジ! (Outrage!) 等の同性愛団体・人権団体から差別的発言について抗議を受けている[17]。同団体は2004年に「ストップ・マーダー・ミュージック (Stop Murder Music)」キャンペーン[21]を、2007年には「レゲエ思いやりの決意表明 (Reggae Compassionate Act)」キャンペーンを展開した[22]

日本では、2007年にMINMIが楽曲提供した化粧品のCMに、おネエキャラ(女装の男子)のIKKOが出演した事で、一部のレゲエファンの間で異論を呼び、その出演に反発した人たちがMINMIの公式ブログに中傷の書き込みを続け炎上が起きた。

[編集] 非一貫性/意識の二重性

レゲエはジャマイカの不良の音楽でもあり、「ルードボーイ (rude boy)」、「ラガマフィン (raggamuffin)」、「ギャングスタ (gangsta, gangster)」、「バッドマン (bad man)」など不良を意味する語が(不良たちの暴力をいさめる形でも)しばしば歌詞に現れる。ルードボーイとラスタは必ずしも対立する概念ではなく、実際には多くのアーティストがルードボーイであり同時にラスタでもあるが、そのような非一貫性はレゲエの歌詞に頻出する主題の一つである。

例えばジミー・クリフの楽曲「ザ・ハーダー・ゼイ・カム (The Harder They Come)」では、曲の前半で生ある内の救済を希求しながら、後半ではむしろ死による救済を願う内容になっている[23]。また、ボブ・マーリーはあらゆる人種間の平和を願う「ワン・ラブ (One Love)」と同じ黒人であってもラスタファリアンでないものを非難する「クレイジー・ボールド・ヘッド (Crazy Bold Head)」という相反する内容の楽曲を発表している。

しかしながら、アフリカン・ディアスポラと植民地時代の奴隷経験によって培われたこの非一貫性、二重性は必ずしもジャマイカ人の中で矛盾として受け取られておらず、レゲエの歌詞の特徴の一つとなっている。[24]

[編集] サウンド・チューン

後述するように、ジャマイカの音楽はサウンド・システムダブ・プレートというそのサウンド・システム独自のレコードをかけ、互いに競い合う文化がある。そのため自分のサウンドを称えたり、相手のサウンドをけなしたりする曲が古くはレゲエ以前の時代からリリースされていた。そのような曲のことを「サウンド・チューン (sound tune)」「サウンド・アンセム (sound anthem)」と呼ぶ。

記録に残っている最古のサウンド・チューンの一つは1951年アメリカ合衆国リズムアンドブルースグループ、ウィリス・ジャクソンと彼のオーケストラがリリースした「レイター・フォー・ザ・ゲイター (Later For the 'Gator)」である。コクソン・ドッドのサウンド・システム、ダウンビートは同楽曲を「コクソン・ホップ (Coxsone Hop)」と勝手に改名した上で島内で独占的にプレイし、1950年代の間人気を博していた[25]

[編集] レゲエの歴史

[編集] レゲエ以前

レゲエ誕生以前のジャマイカではカリブ地域の伝統音楽であるメント、カリプソやアメリカ合衆国のリズムアンドブルース、ジャズビーバップが親しまれていた。[26]

[編集] サウンド・システムの誕生

詳細は「サウンド・システム」を参照

キングストンのストリートダンス、パサパサに集う人々。左後方に大きなスピーカーが見える。2007年
VPレコーズ(ランディーズ)のダブ・プレート・カッティングマシーン

ジャマイカではDJが[27]前述のような音楽を「サウンド・システム (sound system)」と呼ばれる、移動式で巨大なスピーカーを積み上げた音響施設でプレイし、楽むことが1940年代以降ポピュラーになっていった。サウンド・システムは当時のキングストンの人々にとって娯楽の中心であり、出会いの場であり、情報交換の場であり、商売の場でもあった[28]

1950年代に入ると後述するようにキングストン市内にもレコーディングスタジオが開設されはじめる。以後ジャマイカ産のR&Bやジャズをプレイできるようになった各サウンド・システムは「ダブ・プレート」と呼ばれる独自のレコードを量産し、互いに激しく競い合うようになった。特にデューク・リードの「トロージャン (Trojan)」、コクソン・ドッドの「サー・コクソンズ・ダウンビート (Sir Coxsone's Downbeat)」はライバルとして1960年代~1970年代のジャマイカ音楽を牽引する存在となった。[29]

これらのサウンド・システムとそこに集まる観衆の音楽的嗜好は、スカ誕生からダンスホールレゲエ全盛期に亘る全てのジャマイカ音楽の変遷、流行に影響を与えている。また、その後サウンド・システム文化は移民によってイギリス、アメリカをはじめ海外にも持ち込まれていった。1967年にニューヨークブロンクス区へ移住したクール・ハークは当地でハーキュローズというサウンド・システムを立ち上げ、ヒップホップ音楽の誕生に大きな影響を与えた。[30]

[編集] レコーディングスタジオの開設

1951年にスタンレー・モッタ (Stanley Motta) がジャマイカ国内初のレコーディングスタジオMRS (Motta's Recording Studio) を[31]1957年にはケン・クーリ (Ken Khouri) が後にタフ・ゴング・スタジオとなるフェデラル・レコーディング・スタジオ (Federal Recording Studio) を設立した[32]。デューク・リードは1959年にトレジャー・アイル (Treasure Isle) を[33]、コクソン・ドッドは1963年スタジオ・ワンを設立[26]、その後ジャマイカには次々と新しいスタジオが誕生していった。

[編集] ラジオ局の開局

1939年ハム技師ジョン・グライナンは政府の認可を受けジャマイカ初のラジオ放送局VP5PZを開局した。VP5PZは第二次世界大戦勃発を受け、戦時放送局ZQIへと引き継がれた。終戦後、政府は民営放送を認可し1950年にはJBC (Jamaica Broadcasting Company) [34][35]が、1951年にはRJR (Radio Jamaica and the Re-diffusion Network) [36]が開局した。[37]しかしながら、レゲエを中心に放送するラジオ局は1990年のIRIE FMの開局を待たねばならなかった。[38]

[編集] ジャマイカ独立-スカの誕生

詳細は「スカ」を参照

 1959年ジャマイカは英連邦王国において完全自治権を獲得。さらに1962年には独立を果たす。この頃、ジャマイカのミュージシャンは独自の音楽を作り出すことを模索していった。そうした中で生まれたのがスカである。スカは、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどのアメリカ合衆国の音楽や、カリプソ、メント等のカリブ海の音楽に影響を受け誕生した。1小節の2拍目と4拍目にアクセントを置く裏打ちのリズムが特徴である。1959年、ヒッグス・アンド・ウィルソンの「マニー・オー (Manny Oh)」は2万5千枚を超えるヒットを記録し[39]プリンス・バスターがプロデュースしたフォークス・ブラザーズ「オー・キャロライナ (Oh Carolina)」はカウント・オジーによるナイヤビンギを取り入れ、ラスタの精神性をジャマイカ音楽に反映させた最初の曲となった[40]

プリンス・バスター 2008年

中国系ジャマイカ人バイロン・リーは1962年公開の映画『007 ドクター・ノオ』に出演し、スカをジャマイカの上流階級や海外に紹介する役割を担った[41]1964年、ジャマイカ国内ではドン・ドラモンド、ジャッキー・ミットゥらによってスカタライツが結成され[42]、国外に目を向けるとジャマイカ人女性シンガー、ミリー・スモールの歌った「マイ・ボーイ・ロリポップ (My Boy Lolipop)」が全世界で600万枚を売り上げ[43] スカ人気は頂点に達する。しかしスカ人気は短命に終わり、1966年後半にはより抑制の効いた新しいリズムに取って代わられることになった。[44]

[編集] ロックステディの誕生

詳細は「ロックステディ」を参照

1966年に発表されたホープトン・ルイスによる「テイク・イット・イージー (Take It Easy)」やアルトン・エリス「ロック・ステディ (Rock Steady)」などの楽曲を端緒にジャマイカではスカに代わりロックステディが流行する[45][46]。 ロックステディは「ワンドロップ」によるドラム、シンコペーションを重視したメロディアスなベースラインと、甘く滑らかなサウンドを特徴とする[45]。また、ロックステディのテンポはスカよりも遥かにゆったりとしたものに変化しているが、これは音楽的流行という説と、1966年夏ジャマイカを襲った熱波が影響したという説がある[45]

このロックステディ期にはインプレッションズなどのソウル・ミュージックに影響を受けウェイラーズ、ヘプトーンズ、テクニークス、パラゴンズをはじめとするトリオによるコーラスグループが流行した[45]。さらにジャマイカ国内の社会状況の悪化の影響からデリック・モーガン「タファー・ザン・タフ (Tougher Than Tough)」やプリンス・バスター「ジャッジ・ドレッド (Judge Dread)」などのルードボーイを主題とした歌詞が増えて行った。

しかしながらジャマイカ音楽史上におけるロックステディ時代も短命に終わり、流行のわずか2年後1968年にはレゲエに取って代わられることとなる。この変化の背景にはラスタファリズムや公民権運動の高まりがあり、より直接的要因としてはスカ、ロックステディの音作りを支えたミュージシャンであるリン・テイトリコ・ロドリゲス、ローレル・エイトキン、ジャッキー・ミットゥらが国外に移住したことや、各種エフェクターをはじめとする音響機材の進歩とそれに伴うリー・ペリーキング・タビー、バニー・リーら革新的な新興プロデューサー達の台頭があった[47]

[編集] ヴァージョンの発明

リディム」も参照

ジャマイカのシングルレコード。この盤にはヴァージョンではなくディージェイ、ジャーライオンによるパート・ツー・スタイルが録音されている。

なお、「パート・ツー・スタイル (part 2 style)」などと称される「同一のリディムを複数のシンガー、ディージェイによって使いまわす」という現在も続くレゲエ特有の手法は、1967年末、スパニッシュタウンのルディーズ (Ruddy's the Supreme Ruler of Sound) というサウンド・システムが偶然ボーカルを入れ忘れたパラゴンズの「オン・ザ・ビーチ (On the Beach)」のダブプレートをプレイしたところ、観衆に熱狂を持って受け入れられたことをその起源とする[48]

以来、曲を使いまわす事による経済性の高さも相俟って、ジャマイカ産のシングルB面には「ヴァージョン (version)」と呼ばれるA面の曲のカラオケを入れることが流行し、一般化した。[49]

[編集] レゲエの誕生

ロックステディは一世を風靡したが、短命に終わり、1968年にはレゲエに取って代わられることとなる。「レゲエ」という言葉が最初に用いられた曲は同年リリースされたメイタルズの「ドゥ・ザ・レゲエ」であるが、メント風のリズミカルなギターにブールーやクミナ風のパーカッションを取り入れたリー・ペリー「ピープル・ファニー・ボーイ (People Funny Boy)」や、電子オルガンディレイのかかったギターが特徴のラリー・マーシャル「ナニー・ゴート (Nanny Goat)」などもロックステディからレゲエへの変化が顕著に現れている作品である。[50]

上記のようなギターとオルガンの変化は即ドラムとベースの変化を促した。ゆったりしたワンドロップ・リズムこそロックステディ期と同一[50] だったものの、パーカッシブなベースラインとの対比による特徴的なアンサンブルが完成し、レゲエをそれ以前のジャマイカ音楽と決定的に異ならしめた。[51]

また、歌詞の内容もアビシニアンズ「サタ・マサガナ (Satta Masagana)」やエチオピアンズ「エブリシング・クラッシュ (Everything Crash)」をはじめとする黒人としての誇りや社会問題について歌うものが多くなっていった[52]が、その背景には1966年のハイレ・セラシエ1世ジャマイカ訪問や西インド大学講師ウォルター・ロドニーの思想運動の結果高まったラスタファリズム[53] や、同年独立を記念しジャマイカ政府によって創始された「フェスティバル・ソング・コンテスト」[54]による文化的ナショナリズムの高揚[55][56]、さらにジャマイカ労働党による経済政策の失策による景気・治安の悪化[52]、さらにはアメリカ合衆国で高まりを見せつつあった公民権運動やネイション・オブ・イスラムの流行などの様々な要因があった。

[編集] ディージェイ・スタイルの確立

「ディージェイ」というレゲエ特有の表現技法を開拓したU・ロイ

1960年代後半より従来サウンド・システムにおいて曲紹介等をするだけであったDJがレコーディングに参加し始める。1970年U・ロイはデューク・リードのプロデュースにより「ウェイク・ザ・タウン」、「ルール・ザ・ネイション」、「ウェア・ユー・トゥー・ザ・ボール」の3曲を立て続けにリリース。従来の曲紹介や合いの手的なトースティングではなく、ディージェイのメッセージを前面に押し出したこの3曲はサウンド・システムの観衆を熱狂させただけでなく、JBCとRJR両ラジオ局チャートのトップ3を独占した。[57] 以後、デニス・アルカポーン、I・ロイ、ビッグ・ユーツ、デリンジャーらディージェイが続々と登場し、ディージェイはレゲエにおけるスタイルの一つとして定着した。[57]

[編集] 1970年代-ルーツロックレゲエの隆盛

詳細は「ルーツロックレゲエ」を参照

1980年、スイス・チューリッヒで歌うボブ・マーリー

それまで様々な音楽の影響を受けて混沌としていたレゲエは、1970年代に入り、ルーツロックレゲエと呼ばれるスタイルを確立していく。またキング・タビーによるダブの発見、ディスコ音楽からの影響を受けた4つ打ちのリズムである「ステッパーズ・リディム」の登場などにより、主にクラブミュージックの分野で後世、大きな影響を与えることになる。またキングストンのゲットーを舞台にした映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』やボブ・マーリーの世界的な大ヒットにより、レゲエはカリブ海の一ポピュラー音楽の枠を超え、世界に広まった。

[編集] ダンスホールレゲエの誕生と発展

詳細は「ダンスホールレゲエ」を参照

1970年代後半に入っても良質なルーツ・ロック・レゲエの作品が次々と発表された。しかし、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズやジミー・クリフ、ブラック・ウフル、スライ・アンド・ロビーらの世界的ヒットは彼らの海外公演を増やすと同時に、ジャマイカ国内での活動を減らす結果に繋がった。[58]その音楽的空白を埋めるように登場したのが1978年に結成されたルーツ・ラディックス・バンドであり、同年ユーツ・プロモーションを立ち上げ、主宰したシンガーのシュガー・マイノットであり、1980年ヴォルケイノ・レーベルを設立したヘンリー・ジュンジョ・ローズらダンスホール期を代表する新興プロデューサー達であった。

また、人民国家党の失政により政治、経済がさらに混乱すると、ジャマイカではルーツ・ロック・レゲエの硬派なメッセージへの失望感が広がった。[59]さらに1981年5月にはボブ・マーリーが死去。そうした状況はレゲエからラスタ色を薄れさせ、「スラックネス (slackness)」と呼ばれる下ねたを中心とした歌詞や「ガントーク (gun talk)」と呼ばれる自分の銃や力を強調する歌詞などを流行させた。ダンスホールレゲエの誕生である。[60]

[編集] コンピュータライズド革命

E-mu systemsのドラムマシン、SP-1200。スティーリー&クリーヴィ使用機材として著名。

1984年、プリンス・ジャズボ制作のホレス・ファーガソン「センシ・アディクト (Sensi Addict)」や、スライ&ロビー制作のシュガー・マイノット「ハーブマン・ハスリング (Herbman Hustling)」などの楽曲からレゲエのデジタル化が始まる。[60][61]1985年ジャミーズからリリースされたウェイン・スミスの「アンダー・ミ・スレン・テン (Under Mi Sleng Teng)」はカシオトーンMT-40のみで製作されたにも関わらず大きなヒットとなった。[62]キング・タビーもすぐに打ち込みの技法を取り入れ「テンポ (Tempo)」リディムを制作しジャミーズに対抗した。以後、ダンスホールレゲエは急速にドラムマシンシンセサイザーを取り入れ、電子音楽化してゆく。この音楽的革新は「コンピューターライズド」と呼ばれた。

その後もキング・ジャミーをはじめ、元ルーツ・ラディックスのスティーリィ&クリーヴィや、ボビー・デジタル・ディクソンといったプロデューサー達がコンピュータライズドのトラックを大量生産し、ヒットを飛ばし続けた。

[編集] 1990年代以降-ダンスホールレゲエ全盛期へ

1990年代中ごろ、ジャマイカではルーツアンドカルチャーの標語の下、ガーネット・シルク等が中心となりラスタ復興の兆しが現れる。またテクノやエレクトロニカのアーティストのよる新たなレゲエの解釈やジャマイカのダンスホールとイギリスのニュールーツとの交流、ヒップホップとのクロスオーバーなど新たな動きが現れている。

[編集] イギリスにおけるレゲエ

[編集] 移民第一世代によるレゲエ

2005年のノッティング・ヒル・カーニバル。スティールバンドの演奏をサウンド・システムで再生している。

1950年代より1967年に英国政府が移民を制限するまで、ジャマイカからのイギリスへの移民の数は膨張し続けた。この移民の中にはミュージシャン、サウンドマンも存在し、1960年前後には小規模ながらもサウンド・システムが出現した[63]。また、1964年にはノッティング・ヒルで第一回ノッティング・ヒル・カーニバルが開催され[64]、レゲエ、カリプソをはじめとするカリブ海の音楽はサウンド・システム文化とともにその知名度と人気を広げていった。

[編集] 在英レーベルによるレゲエのポピュラー化

ユダヤ系アメリカ人のエミール・E・シャリットは、1960年にブルービート・レーベルを立ち上げ、積極的にジャマイカ産のR&Bやスカをリリースした。これを端緒として、イギリスにはカリブ海の音楽を取り扱うインディペンデント・レーベルが続々と設立された。中でもクリス・ブラックウェルが1962年8月のジャマイカ独立を機にジャマイカからイギリスに移転させたアイランド・レコードは、1964年、ミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ロリポップ (My Boy Lolipop)」を全世界で600万枚売ることに成功した[63]

さらに1967年、ブラックウェルはデューク・リードのトレジャー・アイルと契約し、トロージャン・レーベルを設立する。このレーベルはジャマイカ音楽をイギリスへ配給し続けた[63]。同レーベルからの楽曲群はとりわけモッズスキンヘッズたち若者に支持され、デイヴ・アンド・アンセル・コリンズの「ダブル・バレル (Double Barrel)」は1971年5月1日から2週間にわたってUKシングルチャート1位を獲得するヒットとなり[65]、また、ハリー・J・オールスターズの「リキデイター (Liquidator)」はウォルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCをはじめ、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCチェルシーFC応援歌に採用されていった。これらの楽曲群はスキンヘッド・レゲエと呼ばれ、その後の2トーン・ムーブメントに大きな影響を与えた。

アイランド・レコードは1972年にジミークリフ主演映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』のサントラ盤を、1973年4月13日にはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのメジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』をリリースする。さらに同年にリリースされたボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのシングル「アイ・ショット・ザ・シェリフ (I Shot the Sheriff)」はエリック・クラプトンによってカバーされ、1974年9月14日付のBillboard Hot 100チャート1位を獲得した[66]

その他のイギリスの代表的なレーベルにはパマ(1967年設立、1978年にジェットスターへと社名変更、2006年倒産)、グリーンスリーヴス(1975年設立、2008年VPレコーズによって吸収合併)がある。

[編集] イギリス独自のレゲエの発展

自身のバンド、マトゥンビと共に演奏するデニス・ボーヴェル(左)1978年

詳細は「ラヴァーズロック」を参照

詳細は「ダブ・ポエトリー」を参照

詳細は「ニュールーツ」を参照

1970年代中頃から、ジャマイカ移民二世を中心にしたイギリスの人々はイギリス独自のレゲエを模索し始めた。ルーツ色の濃いアスワドやスティール・パルス、白人のアリ・キャンベルがリード・ボーカルを務めるUB40などはその代表格である。また同時期に結成されたバンド、マトゥンビのデニス・ボーヴェルはイギリスにおけるレゲエとダブのみならず、ジャネット・ケイらをプロデュースしラヴァーズ・ロックというジャンルを開拓した。またボーヴェルはスリッツトンプソン・ツインズをもプロデュースし、パンク・ロックニュー・ウェイヴシーンにおいても重要な存在となった[63]

1978年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ卒業の詩人リントン・クエシ・ジョンソンはボーヴェルのプロデュースによりアルバム『ドレッド・ビート・アン・ブラッド (Dread Beat An' Blood)』をリリースする。以来ジョンソンはレゲエの伴奏に合わせて詩の朗読をするダブ・ポエトリーと呼ばれるジャンルの第一人者となった[63][67]

1970年代初頭よりイギリスでサウンド・システムを経営していたジャー・シャカは1980年代に入り本国ジャマイカがダンスホール全盛となる中で、コンピューターライズドによるルーツレゲエを表現した。このようなスタイルはニュールーツと呼ばれる[68]1981年にはマッド・プロフェッサーがアリワ・レーベルを立ち上げ、デジタルな音作りでラヴァーズロックとニュールーツ界に独自の地位を築いた。そうしたデジタル化したレゲエからジャングルドラムンベース等の音楽が生まれ、UKニュー・ウェイヴやテクノハウスといったクラブ系音楽にも影響を与えた。

[編集] レゲエのサブジャンル一覧

レゲエの細分類、派生、および相互または一方向に影響した音楽ジャンルには以下のものがある。

スカ - ロックステディ - ルーツロックレゲエ - ダブ - ダンスホールレゲエ - ジャングル - ラガマフィン - レゲトン - 2トーン - スカコア - ナイヤビンギ - ドラムンベース - メントレゲエ - ラヴァーズロック - スキンヘッドレゲエ - ダブ・ポエトリー - ニュールーツ - ダブステップ - ラガヒップホップ - ハワイアンレゲエ - スパニッシュレゲエ - ジャパニーズレゲエ - サンバヘギ(サンバレゲエ)- アフリカンレゲエ - バングラガ - セゲエ - ラガコア

[編集] 脚註

  1. ^ 牧野直也『レゲエ入門』音楽之友社、2005年
  2. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年
  3. ^ 1967 Dictionary of Jamaican English
  4. ^ Turner, Michael and Schoenfeld, Robert, Eds. "Roots Knotty Roots". Nighthawk Records
  5. ^ We didn't like the name rock steady, so I tried a different version of "Fat Man". It changed the beat again, it used the organ to creep. Bunny Lee, the producer, liked that. He created the sound with the organ and the rhythm guitar. It sounded like ‘reggae, reggae' and that name just took off. Bunny Lee started using the world [sic] and soon all the musicians were saying ‘reggae, reggae,reggae.
  6. ^ a b | History of Jamaican Music
  7. ^ There's a word we used to use in Jamaica called 'streggae'. If a girl is walking and the guys look at her and say 'Man, she's streggae' it means she don't dress well, she look raggedy. The girls would say that about the men too. This one morning me and my two friends were playing and I said, 'OK man, let's do the reggay.' It was just something that came out of my mouth. So we just start singing 'Do the reggay, do the reggay' and created a beat. People tell me later that we had given the sound it's [sic] name. Before that people had called it blue-beat and all kind of other things. Now it's in the Guinness World of Records.
  8. ^ interview in The Independent Jun 4, 2004; ※参照: ヒバートは近年多くの似たような証言をしている。しかし、より初期のインタビューではヒバートはレゲエのビート感が規則正しいことを引き合いに出し、英語の「レギュラー (regular)」からの派生語ではないかという見解を取っていた。
  9. ^ White, Timothy "Catch a Fire: The Life of Bob Marley"Henry Holt & Co,2006,p.16
  10. ^ amazon.co.jp
  11. ^ a b c d 鈴木慎一郎「Yard Livity part 5 ジャマイカのガンジャ文化」『レゲエ・マガジン』46号、株式会社タキオン、1995年、129-132ページ
  12. ^ 「ガンジャ (ganja)」、「チラム (chillum)」、「カリ (collie)」などはヒンディー語を語源とする。
  13. ^ 中央アフリカのコンゴ系奴隷から伝わったという異説もある。
  14. ^ 立法当初は万国阿片条約にて締結されたアヘンの取締りを主目的としていた。
  15. ^ Background to the Ganja Issue in Jamaica
  16. ^ その他の呼称としては「バティマン (batty man)」、「チチマン (chi chi man)」、「ソドマイト (sodomite)」、「ファゴット (faggot)」などがある。
  17. ^ a b 森本幸代『Yard Man Philosophy ジャマイカと同性愛、ダンスホールアーティストのバッシング』、『Rove Vol.21』JDメデューサ、2008年、109-114ページ
  18. ^ レビ記18-22 「女と寝るように男と寝る者は両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死刑に当たる」など。
  19. ^ 大西英之「ジャマイカにおける女性社会」2001年
  20. ^ ジャマイカ法務省
  21. ^ ストップ・マーダー・ミュージック公式サイト
  22. ^ petertatchell.net
  23. ^ 歌詞、対訳
  24. ^ 鈴木慎一郎著『レゲエ・トレイン ディアスポラの響き』青土社、2000年、20-35ページ
  25. ^ johnnyspencer.info
  26. ^ a b 石井EC志津男編『レゲエ・ディスク・ガイド』音楽之友社、1996年、16-17ページ
  27. ^ DJがレコーディング・アーティスト化していった1970年代以降は、他音楽ジャンルのDJのようにターンテーブルなどを使い曲を掛けるセレクター (selector)、曲に合わせてトースティングしたり歌ったりするディージェイ (deejay、DJ) の役割分担が生まれた。またターンテーブルを2台使用するようになった1980年代後半以降、セレクターのかける曲の説明などをして場を盛り上げる専門職としてのMCという役割が生まれた。
  28. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、14-16ページ
  29. ^ Clement Seymour Dodd Bio
  30. ^ Constantinides,John "The Sound System: Contributions to Jamaican Music and the Montreal Dancehall scene"
  31. ^ Pressure Sounds公式サイト
  32. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、55-57ページ
  33. ^ http://www.georgwa.demon.co.uk/duke_reid.htm DUKE REID BIO
  34. ^ JBCは1958年に国営化、1987年再び分割民営化され、ラジオ部門はRJRに吸収合併された。
  35. ^ [http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-3175.html Caribbean Islands Transportation and Communications]
  36. ^ ZQIが民営化
  37. ^ HISTORY OF RADIO JAMAICA LTD.
  38. ^ The History of IRIE FM
  39. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、62-63ページ
  40. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、70-73ページ
  41. ^ バイロン・リー公式サイト
  42. ^ Skatalites公式サイト
  43. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、160-163ページ
  44. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、119-122ページ
  45. ^ a b c d ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、166-187ページ
  46. ^ 石井“EC”志津男監修『Ruffn' Tuff ジャマイカン・ミュージックの創造者たち 』リットーミュージック、2006年
  47. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、182-213ページ
  48. ^ ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、333-335ページ
  49. ^ CD『VERSION DREAD・18DUB HITS FROM STUDIO ONE』ライナーノーツ、HEART BEAT、2006年
  50. ^ a b ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、208-215ページ
  51. ^ このころのレゲエ・ベース奏者の先駆者として、ウェイラーズのアストン・バレットがいるが、彼のアイドルはビートルズポール・マッカートニーでありポールのベース・ラインの影響を色濃く反映している。このようにレゲエは常にジャマイカ国外のポピュラー音楽に多くの影響を受けて成立したと言える。
  52. ^ a b ロイド・ブラッドリー著、高橋瑞穂訳『ベース・カルチャー』シンコーミュージック、2008年、270-295ページ
  53. ^ 鈴木慎一郎「Yard Livity part 3 ガーヴィー以降のガーヴィーズムとUNIA(1)-」『レゲエ・マガジン』44号、株式会社タキオン、1994年、126-129ページ
  54. ^ 独立記念行事である「フェスティバル」は独立の翌年1963年より開催
  55. ^ 鈴木慎一郎「Yard Livity part 12 国家のイデオロギーと音楽 -ジャマイカ・フェスティヴァルの歌について-」『レゲエ・マガジン』53号、株式会社タキオン、1996年、132-135ページ
  56. ^ 鈴木慎一郎「Yard Livity part 13 国家のイデオロギーと音楽 -ジャマイカ・フェスティヴァルの歌について(2)-」『レゲエ・マガジン』54号、株式会社タキオン、1996年、145-148ページ
  57. ^ a b 牧野直也『レゲエ入門』音楽之友社、2005年、149-154ページ
  58. ^ 牧野直也『レゲエ入門』音楽之友社、2005年、207-214ページ
  59. ^ BBC - The Story of Reggae - Dancehall
  60. ^ a b A Brief History of Dancehall Music
  61. ^ なお、初めてドラムマシンが使用されたレゲエの楽曲は1974年のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「ノー・ウーマン・ノー・クライ (No Woman No Cry)」である。「タフ・リディムの現在」『ミュージック・マガジン』1993年第4号
  62. ^ overheat.com ウェイン・スミス インタビュー
  63. ^ a b c d e 牧野直也『レゲエ入門』音楽之友社、2005年、215-235ページ
  64. ^ ノッティング・ヒル・カーニバル公式サイト
  65. ^ UKシングルチャート・データベース
  66. ^ Billboard Hot 100チャート・データベース
  67. ^ ただし「ダブ・ポエトリー」という呼称は1979年、ジャマイカの詩人オク・オヌオラによって名づけられた。 鈴木慎一郎著『レゲエ・トレイン ディアスポラの響き』青土社、2000年、90-92ページ
  68. ^ ジャー・シャカ公式サイト