一式戦闘機

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中島 キ43 一式戦闘機 「隼」

1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース・大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号「15」を垂直尾翼に描いている

1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色赤色帯と、機体番号「15」を垂直尾翼に描いている

一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍戦闘機キ番号(試作名称)はキ43愛称(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦一戦ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機[注 1]

四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争大東亜戦争)における主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位[注 2]

開発[編集]

一式戦一型(キ43-I)の三面図

1937年(昭和12年)に制式採用された全金属製低翼単葉機九七式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的なドッグファイト向けの戦闘機だった。しかしながら、同年の欧州では引込脚のBf109ドイツ)とスピットファイアイギリス)が出現しており、九七戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになる[1]。同年12月、陸軍からキ43試作内示が行われ[2]1939年(昭和14年)末の完成を目指して開発が始まった[3]。軍の要求は、固定機関銃2挺、行動半径300kmを標準として余裕飛行時間30分、同時に製作が決まった重単座戦闘機(重戦)キ44に比べて格闘戦を重視、というものである[4]。中島飛行機では設計主務者として小山悌課長を中心とする設計課が開発に取り組み、研究課空力班からは戦後に国産ロケット開発で大きな足跡を残すことになる糸川英夫技師が設計に協力した。設計陣の一員だった青木邦弘は、陸軍の要求は「九七戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目し、キ43は重戦指向であったと述べている[5]

引込脚以外の基本構造を前作の九七戦から踏襲したことから開発は比較的順調に進み、翌1938年(昭和13年)12月に試作1号機が完成、同月12日に初飛行している。ところが試験飛行の結果、ノモンハン事件で活躍した九七戦に比べ航続距離は長いものの、最高速度の向上がわずかな上に旋回性能も劣ることが判明する。そこで軽単座戦闘機(軽戦)派、重戦派の双方から中途半端とみなされたキ43試作機型をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジンに換装して高速化を図った改良型(キ43-II)の開発を進めることが決定された[6]

飛翔する一式戦一型(キ43-I)

キ43の開発・改良が続けられる間にも、日本と欧米諸国の関係は悪化の一途を辿った。参謀本部は、南進計画に伴い南方作戦にて遠隔地まで爆撃機を護衛可能、および制空することが出来る航続距離の長い戦闘機を要求。アメリカ軍イギリス軍の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ44(二式戦闘機「鍾馗」)の配備が間に合わないことと[注 3]飛行実験部実験隊長・今川一策大佐の進言もあり、1941年(昭和16年、皇紀2601年)に、一転してキ43試作機型に最低限の改修を施した機体が一式戦闘機として制式採用されることになった。

このため、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は飛行第59戦隊飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であったが、南方作戦においてこれらの一式戦は陸軍が想像していた以上の華々しい戦果を挙げた(#南方作戦)。1942年(昭和17年)後半以降は旧式化した九七戦に替わり改編が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊(陸軍航空隊)の主力戦闘機となっている。一式戦は一〇〇式司令部偵察機「新司偵」とともに、西はインドカルカッタ)、南はオーストラリアダーウィン)、東はソロモン諸島、北は千島列島とほぼ全ての戦域に投入された。

特筆に価する点として、一式戦は南方作戦といった大戦初期に限らず、ビルマミャンマー)やその南東、中国の戦線では大戦後期・末期である1944年(昭和19年)後半においても連合軍戦闘機と空戦において互角ないしそれ以上の戦果を(#ビルマ航空戦#中国航空戦)、またP-38P-47P-51・スピットファイアといった新鋭戦闘機との戦闘でも互角の結果を残していることが挙げられる(中でもP-38・P-47・P-51はビルマ航空戦において一式戦との初交戦で一方的に撃墜された)。これらは日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付けも取れている史実である(#実戦[7]1945年(昭和20年)3月15日には、バンコク付近にて飛行第30戦隊の一式戦2機がP-51D 4機(当初は8機)と交戦、この一式戦2機は空中退避中にP-51D編隊の奇襲攻撃を受けた劣勢下にも関わらず、超低空での攻撃回避運動を行いつつ反撃し1機(第1戦闘飛行隊第4小隊モダイン大尉機)を撃墜したという記録が残っている[8]

ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体があまり知られておらず、また当時の陸軍機は胴体に国籍標識ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍機操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空中戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年中頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。また、外見が類似していることから、交戦相手の連合軍機操縦者から海軍の零戦と誤認される事例が多く、いわゆる零戦の戦果とされているものの少なからずは一式戦の戦果である。またビルマ方面のイギリス空軍からは「ゼロ・ファイター(零戦)」に類似した「ワン・ファイター(一式戦)」ということで「ゼロワン」と、それ以前にフライング・タイガース(AVG)によって「ニュー・ゼロ」と呼ばれたことも一時期あったという。

愛称[編集]

映画『加藤隼戦闘隊』の劇場ポスター

戦前中の日本では主に軍内部やマスメディア上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊、航空機から空中勤務者などの比喩表現として「(荒鷲・陸鷲)」「」「隼」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており、それに呼応するように一般国民に対する宣伝のため、陸軍航空本部発表の正式な愛称として一式戦は「」と命名され(発案者は航本報道官西原勝少佐)、太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。

太平洋戦争中には戦況を報じる新聞・ラジオ放送ニュース映画雑誌戦記本絵本軍歌戦時歌謡)などといった各種メディアのみならず、加藤隼戦闘隊こと第64戦隊の戦隊長として南方作戦で活躍し軍神と称された加藤建夫少将[9]、「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐に代表されるエース・パイロットの活躍、映画翼の凱歌』(1942年10月公開)・映画『愛機南へ飛ぶ』・記録映画『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(共に1943年(昭和18年)公開)・映画『加藤隼戦闘隊』(1944年3月公開)といった実機の一式戦が出演する映画作品を通じ、一式戦「隼」は太平洋戦争中、最も有名な日本軍の戦闘機として日本国民に広く親しまれることとなった。

機体の特徴[編集]

飛行性能[編集]

最高速度・上昇力[編集]

一式戦一型丙(キ43-I丙)のハ25。環状冷却器が特徴

ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型(キ43-I)の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ25は二一型以前の零戦に搭載された栄一二型とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタン価の燃料を使用していたことや2翅プロペラだったことが零戦との最高速度の違い(主翼改修前の零戦二一型の最高速度は509km/h)となって表れたと考えられる。エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装し、3翅プロペラ(直径は2.90から2.80mに短くなっている)を装備した二型(キ43-II)試作機の最高速度は515km/h/6,000mに向上、主翼を短縮し増速効果のある推力式単排気管を装備した二型後期生産型ではこれより30km/h以上高速だったとされる。更に高出力なハ115-IIに換装した三型(キ43-III)では、最高速度が560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。

このような改良にも関わらず、最高速度は連合軍の新鋭戦闘機と比較すると劣速であった。また連合軍は大戦中期以降は初期の戦訓から一式戦の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法を駆使するようになった。大戦中後期、物量に勝る連合軍と、基礎工業力・補給能力の低さにより必要な機体数や補充操縦者、高品質潤滑油・高オクタン価燃料・交換部品といった物資を十分に揃えられなかった日本軍との戦力差は開く一方であり、日本軍機は多くの場合寡勢を強いられた。一式戦二型でニューギニアの戦いに従軍した第59戦隊飛行隊長南郷大尉は、1943年12月16日の戦爆連合40機(一式戦16機・三式戦闘機「飛燕」18機・一〇〇式重爆撃機「呑龍」6機)のマーカス岬上陸連合軍攻撃任務においてP-38 15機と交戦したが、高空から急降下一撃離脱を行うP-38に5機の一〇〇式重爆が撃墜されたことに対し「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず」と日記にしたためている(なお、この空戦の2日後には再度マーカス岬に南郷機ら一式戦と三式戦の計30機が出動し16機のP-38と交戦、機数に勝る戦闘とはいえその運動性を活かし2機を撃墜し日本側損失は1機であった)[10]

加速性能[編集]

最高速度では連合軍の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽い、プロペラの直径が比較的小さい(効率は低いが加速に有利)等々の理由で加速性能に優れていた。その加速性能はP-47やP-51といった新鋭機にも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離された、という事例が報告されている。ただしその軽さと脆弱性が災いし、特に一型では急降下時の加速に対する機体剛性に劣り、これが大きな弱点ともなっていた。

運動性能[編集]

一式戦二型(キ43-II)ないし三型(キ43-III)

一式戦は1,000馬力級エンジン装備戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最高速度が九七戦とさほど差がなかったことから、旋回性能についても九七戦と同等以上の確保が要求されたため、キ44用に開発された蝶型フラップ(空力班として、これらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。このフラップは空戦フラップとしても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったが扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったとされている。なお、九七戦との比較については、のちに空戦フラップを使用しなくとも、水平方向でなく上昇力と速度を生かした垂直方向の格闘戦に持ち込むことで圧倒可能と判断されている。これはノモンハン事件におけるソ連軍戦闘機I-16の戦法を参考にしたものだという[11]。一式戦一型の翼面荷重は102kg/m²、二型は117kg/m²、二式戦一型は171kg/m²、Bf109-Eは170kg/m²であり、一式戦の数値は群を抜いている[12]。なお零戦二一型は107.89 kg/m²、F4Fは115kg/m²、スピットファイア Mk. IXeは149 kg/m²であり、各国戦闘機の設計思想がうかがえる[13]

武装[編集]

一式戦は「運用目的を対戦闘機戦闘に絞ることで、武装の限定等の軽量化を可能とし、低出力エンジンでも一定の性能を確保する」という思想の元で開発されたため、当初はドイツ製のMG17 7.92mm機関銃の国産型が予定され、実際に試作1~3号機に2挺ずつ搭載されていた。この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新型で、九八式固定機関銃の名で仮制式となった。ところが、使用するバネの国産化が上手くいかずプロペラ同調に狂いが生じたため、4号機以降の増加試作機や最初期の量産型である一型甲(キ43-I甲)には従来の八九式固定機関銃(口径7.7mm)が機首に2挺装備された。

ホ103 一式十二・七粍固定機関砲

1939年(昭和14年)、陸軍はより威力の大きい口径12.7mmの機関砲の搭載を模索し、ホ101ホ102ホ103ホ104の4種類の試作が始まった。ホ102はイ式重爆撃機としてイタリアより輸入したBR.20爆撃機搭載のブレダSAFAT 12.7mm機関銃の国産型で、増加試作機の7号機と10号機に搭載して試験が行われた。ホ103は、アメリカブローニングM2 12.7mm重機関銃の航空機関銃型であるAN/M2(MG53-2)を参考に、ブレダSAFATの弾薬筒規格(もともとはイギリスのヴィッカーズ12.7mm×81SR弾。AN/M2 12.7mmは12.7mm×99弾を使用)に変更・開発されたものであり、これは一式十二・七粍固定機関砲の名称で制式採用され、のちの陸軍主力航空機関砲となっている。

一式戦は開発中だったホ103の生産にめどがついたことから機首左側の八九式をホ103へ換装することになり、これは順次施され一型乙(キ43-I乙)と呼称された。太平洋戦争開戦時までには全ての第一線機が最低でも機首右側に八九式を1挺、左側にホ103を1門装備となっている。なお八九式とホ103の交換は容易に可能であるが、初期のこの混成装備の主な理由はホ103は新鋭兵器であるゆえに信頼性(故障)を考慮したためとされる[14]。一方で、太平洋戦争開戦前に一式戦を受領し錬成中であった第64戦隊長加藤建夫少佐は「自分がまず試し、いずれ全機を機関砲2門にしたい」と陸軍航空本部に上申し、戦隊長機たる自身の搭乗機にホ103を2門装備させている[15]。のちの一型丙(キ43-I丙)からは機首2門ともホ103装備となった。

ホ103は発射速度も良好で、またモデルとなったAN/M2 12.7mmにはない炸裂弾(榴弾。マ103)が使用可能かつ、より小型軽量という長所がある一方で、軽量弱装弾のため威力や有効射程に劣るという短所もあった。また初期はマ103の機械式信管の不具合により、弾丸が砲身内で破裂して機体を破損するケース(腔発)が多発した。このため、初期には砲身に鉄板を巻くことで腔発時の被害を少しでも軽減する措置がとられた。しかしながら、ホ103・マ103の量産と並行してこれらの不具合も徐々に改良されていき、また1943年後半には新型マ103(新型マ弾)が実用化され同年末から早急に実戦配備されている。この新型マ103は陸軍で新開発された空気式信管を使用することにより暴発事故は激減、かつ生産効率が(従来の複雑な機械式信管と比べ)8倍に上がり、さらに信管機構が単純化されたことにより弾丸にスペースができ炸薬が増量されたため火力が増している。新型マ103を装備する一式戦と交戦したアメリカ軍機の乗員は、その破壊力からよく「20mm弾が命中した」と報告している。なお、1943年12月1日にラングーンに飛来したアメリカ軍戦爆連合82機を第64戦隊を中心とする陸軍戦闘機隊が迎撃し、第7爆撃航空群第493爆撃飛行隊指揮官・プランマー中佐機や第308爆撃航空群指揮官・オブライエン少佐機を筆頭に6機のB-24を撃墜した。さらに第530戦闘爆撃飛行隊の1機のP-51Aが撃墜されている。日本側の損失は2機被撃墜(戦死1名)、5機が被弾損傷あるいは不時着した。同空戦が初陣となったのちのエース・池沢十四三伍長は、この頃から新型マ103を使用し始めたと証言している[16]

一式戦が搭載するホ103の装弾数は1門につき計270発で、弾種は基本的に一式曳光徹甲弾・マ102[注 4]・マ103の3種類を各割合1で使用していた。

「B-24撃墜王」の通り名を持ち第25戦隊で活躍した第2中隊長たるエース、尾崎中和大尉の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号「71」を垂直尾翼に、さらに「中隊長標識」として白縁の赤帯を胴体後部に描いている

「空の狙撃兵」と呼ばれた九七戦譲りの高い射撃安定性を持つ一式戦は、武装搭載数の割には命中率がよかったと言われる。しかし、ラバウルやニューギニア、ビルマでB-17やB-24の4発大型爆撃機の迎撃にあたっては、防弾装備の質の高さやハリネズミと形容された旋回機関銃の優秀な防御砲火により苦戦を強いられるなど、設計時に想定していない大型爆撃機迎撃に用いるには火力不足であった。第64戦隊の加藤中佐の一式戦が撃墜されたのも、火力不足を補うためにイギリス空軍のブレニム爆撃機に接近しすぎ、機体引起し時に腹部を晒したことが原因の一つだったとされている。緒戦である南方作戦中の1942年2月19日に第59戦隊・第64戦隊の一式戦が協同でB-17E 1機を撃墜しているが、防御砲火により2機が撃墜されている。

連合軍機との火力差を埋めようにも、主翼が翼銃・翼砲搭載に向かない三桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を再設計して変更せざるを得ず、新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。また中島においては、より高速で12.7mm40mmの翼砲を持つ二式戦や、後続機となる四式戦の開発・配備が進んでいたためか、一式戦への翼銃・翼砲の装備は見送られた。手っ取り早い武装強化として主翼下へのガンポッド装備も検討されたが、飛行性能が低下することからこれも見送られている。また、ホ103の拡大型であり四式戦などに装備されていた口径20mmのホ5 二式二十粍固定機関砲を搭載したキ43-III乙も試作されたが制式には至らなかった。

ただし、一式戦の火力は大型爆撃機に対し無力だったというわけではなく、日本軍航空部隊自体が爆撃機攻撃に慣れ、歩みだした効果的な戦法である「対進攻撃」を実施するようになると着実に撃墜戦果を挙げており、一例として(両軍の損害報告からの数字)、飛行第25戦隊飛行第33戦隊の一式戦は1943年8月の漢口の迎撃戦などで、アメリカ陸軍航空軍第425爆撃飛行隊のB-24に対し前上方・前下方からの反航攻撃を試み、1ヶ月に満たぬ期間で損失2機に対し10機を撃墜[17]、1943年末以降は上述の通り新型マ103が配備されているため、信頼性とともに一式戦の火力は従来より増していることとなる。また末期にはB-17・B-24を凌駕する最新鋭のB-29に対しても一式戦は戦果を残しており、例として1944年11月5日、シンガポールのセレター軍港に飛来した53機のB-29を第1野戦補充飛行隊第17錬成飛行隊の一式戦15機が迎撃、損失1機に対し第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機1機を撃墜した[18]。なお誤認による事故であるが、一式戦は防弾装備が皆無である海軍の九六式陸上攻撃機の右エンジンに短い連射を浴びせただけで空中爆発させ、撃墜してしまった「実績」もある[19]

防弾装備[編集]

最初の量産型である一型では、生産当初から被弾時の燃料漏れによる火災を防ぐため、外装積層フェルト式の防漏燃料タンク(防漏タンク・防弾タンク、7.7mm弾対応)を装備。二型ではさらに防火性に優れた外装積層ゴム式(セルフシーリング)に換装、かつ大口径の12.7mm弾対応にしたほか、1943年6月よりの量産型からは操縦席背面(操縦者の頭部と上半身を保護)に13mm厚装甲(12.7mm弾対応)の防弾鋼板(防楯鋼板)を追加装備している。

陸軍はソ連軍を相手としたノモンハン事件の戦訓および、欧米機情勢の研究によって防弾装備の重要性を痛感しており、一式戦や二式戦といった次期主力戦闘機のみならず、九七式重爆撃機(キ21、1939年の初期量産型時点から防漏燃料タンク・防漏潤滑油タンクを装備。1943年中頃からはさらに防弾鋼板・防弾ガラスを追加装備)や、九九式襲撃機(キ51、1939年の試作時点からエンジン下面・操縦席下面・背面・胴体下面・中央翼下面に6mm厚の防弾鋼板ならびに、防漏燃料タンクを装備)といった主力重爆撃機・襲撃機攻撃機)などでも相応の防弾装備を要求している(九七戦も太平洋戦争開戦時には防漏燃料タンクに換装済)。

戦闘爆撃機[編集]

駆逐艦「パスファインダー」

一式戦は両翼下に最大250kg爆弾を1発ずつ懸架ないし落下タンクとの併用が可能であった(ただし大型爆弾を搭載した場合飛行性能は大幅に低下し、また脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要)。主に大戦中期以降には飛行分科「戦闘」の部隊において、一式戦(一式戦に限らず三式戦・四式戦・二式複戦)といった陸軍戦闘機は通常爆弾やタ弾を搭載した「戦闘爆撃機」として対地および対艦攻撃に積極的に使用されている。

さらに飛行第31戦隊飛行第65戦隊などの飛行分科「襲撃」の部隊は「爆装一式戦」に機種改編し爆撃(襲撃)任務に投入されている。特に沖縄戦従軍下の第65戦隊は整備隊が考案したチャフ散布装置を各機に装備させる、超低空飛行を行うなどし沖縄近海の連合軍艦船に対し通常攻撃で戦果を挙げた。

第64戦隊の対艦攻撃戦果の一例として、1945年2月11日、ラムリー島の戦いにおいてイギリス海軍艦艇攻撃に出撃した爆装一式戦12機のうち、池沢軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機が2,200t級駆逐艦パスファインダー」に急降下爆撃を敢行、艦尾に2発の直撃弾を与え大破させている[20]。「パスファインダー」は戦線を離脱しイギリス本国に曳航されたものの、損傷激しく戦後廃艦となっているため事実上の撃沈であった。

連合軍エースとの空戦[編集]

連合軍のトップクラスのエースを相手とした一式戦による戦果としては主に以下の事例が存在する。

  • 1945年1月7日、フィリピン戦線において、飛行第54戦隊杉本明准尉操縦の一式戦と飛行第71戦隊福田瑞則軍曹操縦の四式戦が、38機撃墜を誇るアメリカ全軍第2位のエースであるトーマス・マクガイア少佐操縦のP-38Lおよび、僚機でベテランのジャック・リットメイヤー中尉のP-38Jを協同撃墜。
    • 不意の遭遇戦で4機のP-38に遭遇し最初に劣位から応戦した杉本准尉機はP-38 1機を撃墜するも被弾、不時着するも地上でゲリラに射殺された。杉本機の空戦を目撃し現場に駆けつけた福田軍曹機は対進戦でP-38 1機を撃墜。先に撃墜されたマクガイア少佐ないしリットメイヤー中尉の僚機であったP-38 2機(エド・ウィーバー大尉機・ダグ・スロップ中尉機)の追撃を回避し生還。なお、福田軍曹は空戦時はマラリアの高熱により意識朦朧状態であり、かつ落下タンクと100kg爆弾を搭載したままであった。本空戦は特に乱戦であったため、一式戦(杉本)と四式戦(福田)のどちらがマクガイア機・リットーメイヤー機を撃墜したのか詳細は不明である[22]

実戦[編集]

南方作戦[編集]

1942年初頭、第64戦隊のピスト(空中勤務者の控所を意味するフランス語由来の陸軍用語)にて第3中隊長安間克巳大尉らとくつろぐ戦隊長加藤建夫中佐

太平洋戦争開戦前の支那事変中、1941年6月から8月にかけて一式戦に全機機種改編した第59戦隊所属の9機が、漢口から明楽武世大尉[注 5]に率いられ重慶までの長距離進攻に参加、これが一式戦の初陣となる。同進攻戦では迎撃機が現れず空戦は起こらなかったが一式戦の長距離航続性能を実証した。同年8月末から日本内地の福生飛行場にて機種改編を開始した第64戦隊は、12月3日に旧駐屯地の広東から35機全機を加藤戦隊長が率い、1機の落伍もなしに2千数百kmを一気に飛翔し仏印フコク島ズォンドンに進出。7日夕刻からマレー半島コタバル上陸のため、海上を航行中の第25軍司令官山下奉文中将)部隊を乗せた輸送船団の上空掩護を夜間かつ荒天の悪条件のなか成し遂げ、8日の太平洋戦争開戦を迎える(マレー作戦)。以降、一式戦は南方戦線(マレー・シンガポールパレンバンジャワビルマといった各地の航空撃滅戦など)で大いに活躍することとなる。

特に蘭印作戦中の1942年2月14日には、スマトラ島パレンバンに奇襲落下傘降下する第1挺進団挺進第2連隊(「空の神兵」)の挺進兵を乗せた一〇〇式輸送機(キ57)とロ式貨物輸送機、物料傘投下用の九七式重爆群を加藤少佐の指揮のもと第64戦隊・第59戦隊が空中掩護。一式戦はハリケーン15機と応戦した結果、第64戦隊機がマクナマラ少尉機とマッカロック少尉機を撃墜した(うち1機は加藤少佐の戦果とされている)[23]。この空戦における日本軍側喪失機は飛行場高射砲によって撃墜された物料傘投下用の九七式重爆1機のみで、挺進飛行戦隊輸送機と一式戦に損害はなく、一式戦と「空の神兵」の活躍で空挺作戦は成功し太平洋戦争の戦略的最重要攻略目標であるパレンバン油田・製油所および飛行場は占領確保された(パレンバン空挺作戦)。

以下一連の一式戦の戦果は、戦史家梅本弘が日本軍の戦果記録を連合軍の損害記録たる一次史料と照会した「確認が出来た最小限で確実な数字たる戦果」である[24]。一式戦は緒戦の空戦において約4倍の数を、対戦闘機戦では約3倍の数の敵機を撃墜した。

  • 1941年12月8日の開戦(マレー作戦開始)から1942年3月9日(蘭印作戦終了)の期間中
    • 第59戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機61機撃墜(第59戦隊30機、第64戦隊27機、両戦隊協同4機)
      • 撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機43機
      • さらに蘭印作戦中にバタビア沖上空にて1機のB-17E(フランクリン機長、41-2503号機)を撃墜 [25]
    • 日本軍側の空戦による損害は第59戦隊・第64戦隊計16機喪失(戦死11名・生還5名)

なお、これら一式戦の緒戦において第64戦隊の加藤少佐が特に有名であるが、第59戦隊においても飛行隊長牟田弘國少佐が相当の活躍と技量の高さを見せている。牟田少佐とその僚機からなる通称「牟田編隊」は上記の期間中、損害1機に対して13機を撃墜した(牟田少佐の戦果報告は連合軍の損害記録と毎回完全に一致)[26]。なお、牟田少佐は第100飛行団長たる中佐で敗戦を迎え、戦後は航空自衛隊に入隊し第6代航空幕僚長、さらには空自出身者初となる第4代統合幕僚会議議長自衛隊制服組の頂点に登り詰めている。

ビルマ航空戦[編集]

1943年、不時着大破した第50戦隊第2中隊所属の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして機体後部側面に大きく「電光」を、また部隊マーク・スピナー・カウリング先端を第2中隊の中隊色である「黄色」で描いている。垂直尾翼の「孝」の文字は本機を愛機とする操縦者が考案・記入した個別愛称(第50戦隊にて流行した行為)

各地を制圧した第64戦隊は1942年3月21日からビルマ戦線(「ビルマ航空戦」)に参戦。イギリス空軍およびアメリカ軍のフライング・タイガース(AVG)と交戦し、同年6月4日までの空戦で最低でも連合軍機9機撃墜、さらに1機のB-17E(第436爆撃飛行隊シャープ大尉機)を第77戦隊の九七戦と協同撃墜した。損害は11機喪失[27]

このビルマ航空戦にはその活躍で有名な第64戦隊が長期間従軍しまたエースを多数輩出、一式戦を主力とし大戦末期に至るまで連合軍空軍と互角の戦いを繰り広げた戦域である[28]

「白色電光戦闘穴吹」の通り名を持ち第50戦隊で活躍した陸軍トップ・エース、穴吹智曹長。1944年12月、曹長任官記念として明野陸軍飛行学校助教時代に撮影された1枚で、後方は同校所属の一式戦二型(キ43-II)

1942年4月、フィリピン攻略戦などを経て日本に帰国した飛行第50戦隊から手初めに、旧式化した九七戦を運用する部隊は順次機種改編され(機種改編した後のエース部隊となる第50戦隊はビルマ戦線に合流)、以降一式戦は陸軍主力戦闘機となった。

ビルマ戦線では雨季の期間中は航空作戦が不能になるため、雨季を除く1942年9月9日から1943年5月29日にかけて第50戦隊・第64戦隊の一式戦は連合軍機62機撃墜、対して一式戦の空戦損害は36機喪失であった。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機44機に上り、このほか5機のB-24、1機のP-38偵察機型などもある[29]

太平洋戦争中後期の1943年7月2日から1944年7月30日の期間には、一式戦は連合軍機135機撃墜に対し空戦損害83機喪失を記録。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機70機爆撃機等32機輸送機等33機に上り、戦闘機の詳細はハリケーン24機・スピットファイア18機・P-51 15機・P-38 8機・P-40 4機・P-47 1機となる(雨季明けの1943年末より連合軍(イギリス空軍・アメリカ陸軍航空軍)はスピットファイア・P-38・P-47・P-51といった新鋭機を矢継ぎ早に投入している)。この当時のビルマ航空戦全体で日本軍戦闘機は計142機を撃墜、連合軍戦闘機は計127機を撃墜、単純に撃墜戦果のみの比較で(日本軍劣勢の大戦後期たる1944年半ばにおいても)ビルマで帝国陸軍航空部隊は連合軍空軍と互角の勝負をしており[30]、主力となる一式戦に至っては幾度も勝利を収めていた。

1944年8月、第64戦隊は一式戦三型(キ43-III)、第50戦隊は少数の一式戦を残しつつも四式戦へと改編。第64戦隊はこの頃拉孟・騰越守備隊に対する支援攻撃や物料投下を行っている。10月19日、インド洋上で第1野戦補充飛行隊の一式戦二型(キ43-II)9機がイギリス海軍空母機動部隊艦載機と交戦。F4U編隊(空母ヴィクトリアス」艦載機)とF6F編隊(空母「インドミタブル」)との間で30分の空戦を行い、日本側4機喪失に対しイギリス側3機撃墜(F4U 2機・F6F 1機)を記録している[31]。10月22日、第64戦隊は第493爆撃飛行隊のB-24を迎撃し飛行隊長ブランドフォード少佐機以下3機を撃墜[32]。11月19日、第50戦隊の一式戦1機がP-38 8機と交戦するも2機を撃墜(フィックリン少尉機・バウマイスター中尉機)[33]

1945年2月26日、メイクテーラで第64戦隊は第6戦闘飛行隊のP-47と交戦し1機を喪失するも2機を撃墜(デイヴスン少尉機および第1特任航空群指揮官ゲイティ大佐機)、さらにベンガル湾上空でB-29 1機(第44爆撃飛行隊リヨン大尉機)を撃墜。[34]。4月24日、第50戦隊・第64戦隊の一式戦および四式戦計15機は第17飛行隊のスピットファイアと交戦、このうち第64戦隊の一式戦2機がクロフォード軍曹機を撃墜し、第64戦隊はビルマ航空戦における最後の撃墜戦果を記録した[35]

地上の緬甸方面軍イラワジ会戦メイクテーラ攻防戦に完敗、さらに5月2日にはラングーンが陥落しビルマ航空戦は事実上終了した。第3航空軍各飛行部隊はインドシナ、マレー、インドネシア方面に後退し防空戦を行い、のちの敗戦を迎えることとなる(#インドシナ、マレー、インドネシア方面)。

インドシナ、マレー、インドネシア方面[編集]

1944年11月5日、シンガポールに飛来したB-29 53機を第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦15機が迎撃し、1機を喪失するも指揮官機たる1機を撃墜(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)、一式戦によるB-29初撃墜を記録した[36]

1月24日・29日、スマトラ島パレンバンにイギリス海軍第63空母機動部隊艦載機が来襲。パレンバン防空は主力となる飛行第87戦隊(二式戦装備)のほか、飛行第26戦隊・第33戦隊(一式戦装備、第33戦隊は装備2機のみ)、飛行第21戦隊(二式複戦装備)が担当しており、2日間の空戦では日本軍は20機を喪失、イギリス軍は16機(さらに帰途不時着水11機・着艦事故14機を合わせると計41機に上る)を喪失している[37]

同時期、本方面スンバワ島ビワにて本来は教育部隊である第17錬成飛行隊の飛行隊長・教官・助教・隊員(特別操縦見習士官第1期)からなる臨時防空戦闘隊(一式戦12機)を編成。4月6日、ニューギニア方面から撤退する地上部隊将兵1,800名を満載した軽巡洋艦五十鈴」および水雷艇」・掃海艇2隻を攻撃するため飛来した、第一波の第18飛行隊・第2飛行隊B-25 20機を臨時防空戦闘隊の一式戦2機が迎撃、爆撃を妨害し艦艇損害無し。20分後には第二波として第21飛行隊・第24飛行隊のB-24 9機が飛来するも同戦闘隊からも増援の一式戦2機が到着し交戦、マクドナルド大尉機・フォード中尉機を撃墜し艦艇損害は至近弾2発・不発弾直撃1発のみ。さらに撃墜機乗員の救助に来たカタリナ1機を補給のため基地に帰還したのち再度飛来した一式戦1機が撃墜(第112海難救助飛行隊バルマン大尉機)。のちに掃海艇1籍が潜水艦の雷撃により沈没するも、「五十鈴」は無事にビマに入港し将兵を揚陸した。この空戦で一式戦は3機を撃墜するも損害は1機被弾のみ[38]。臨時防空戦闘隊は7月半ばにかけて10機を喪失(このうち空戦被撃墜は4機、敵機衝突1機)するも7機を撃墜(B-24 5機・PB4Y-1 1機・カタリナ1機)、予想を上回る敢闘を見せた[39]

8月13日、スンダ海峡にて翔忠戦闘隊(6月22日に廃止された第33戦隊を飛行師団直轄の部隊としたもの)の一式戦がB-24 1機を撃墜(第203飛行隊テットロック中尉機)、これが一式戦が挙げた最後の戦果となる[40]

末期となる1944年8月18日から敗戦間際の1945年8月13日にかけて、ビルマを初めとする東南アジア方面(ビルマ・フランス領インドシナ・マレー・インドネシアタイ[注 6])を担当する第3航空軍戦域において、一式戦は連合軍機63機撃墜(このほか一式戦が撃墜した可能性がある未帰還9機が存在し、それを含めた場合は連合軍機72機撃墜)に対し空戦損害61機喪失を記録。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機14機18機ないし19機)・爆撃機等32機36機ないし37機)・輸送機等17機に上り、戦闘機の詳細はP-47 4機・スピットファイア3機・P-38 2機・F4U 2機・P-51D 1機・F6F 1機・ハリケーン1機、爆撃機等の詳細はB-24 15機・ボーファイター5機・モスキート4機・B-29 3機・PB4Y-1 3機・PB4Y-2 1機・B-25 1機となる(先述の一式戦が撃墜した可能性がある連合軍未帰還機の内訳は、戦闘機等がハリケーン3機・F4U 1機、爆撃機等がB-29 2機・PB4Y-1 1機・B-24 1機、さらにアベンジャーまたはファイアフライ1機)。一式戦61機喪失のうち連合軍戦闘機によって撃墜されたものは47機で、残り14機は爆撃機の防御砲火によるものである。

なお、日本軍・連合軍の一次史料や証言をもって以上の一式戦の戦果調査を行った戦史家梅本弘は自著において「隼の損害、戦果ともに筆者の調査で確認できたものだけで、実際にはもっと多いはずだ。調査には限界があり、完全ではないが、昭和19年の後半から終戦まで、日本陸海軍の航空部隊が各地で目を覆いたくなるような惨敗を喫していた中で、主戦場から外れたビルマとさらに南東の辺境では、最後の最後まで、隼が信じられないような健闘をつづけていたのは確かである」と結んでいる[41]

中国航空戦[編集]

1942年半ば、一式戦を装備する飛行第24戦隊および独立飛行第10中隊中国戦線に投入された。7月30日、第24戦隊27機・独飛10中12機の計39機の一式戦は広東を出撃し衡陽の飛行場を攻撃、10機のP-40Eと交戦するも戦果は無く1機を喪失、以降31日・8月5日・8日の空戦の結果は、P-40E 1機撃墜(第75戦闘飛行隊マイナー少尉機)に対し一式戦6機喪失と完敗に終わった(この一式戦喪失6機のうち3機は急降下追撃中の無理な引き起こしによって生じた空中分解事故によるものである)。また、現地アメリカ陸軍のP-40はフライング・タイガース(AVG)時代から、日本軍機が得意とする格闘戦には応じなかったことも要因であった[注 7][42]

第25戦隊の新品の一式戦二型(キ43-II)

南方に移動した第24戦隊に替わり9月10日、第33戦隊(一式戦装備)が広東に進出。アメリカ陸軍の活動が低調なため久しぶりの空戦となった10月25日、香港に飛来したB-25 12機・P-40 7機と第33戦隊の一式戦が交戦、喪失無しでB-25 1機(第22爆撃飛行隊オーラーズ大尉機)・P-40 1機(第76戦闘飛行隊シアー中尉機)を、さらに28日には哨戒中の一式戦2機が爆装P-40 10機を攻撃し1機(第75飛行隊オコンネル大尉機)を撃墜[43]、第33戦隊は損害無しで一方的に3機を撃墜し第24戦隊初戦の雪辱を果たした。また、独飛10中はこの頃第25戦隊に改編されている。

以降、中国航空戦ではアメリカ陸軍のみならず国民革命軍中国空軍)とも戦火を交えており、1943年5月23日の重慶を爆撃する飛行第58戦隊の九七重爆を第25戦隊・第33戦隊の一式戦が掩護した空戦では、対空監視網からの情報により有利な位置で待ち伏せしていた中国空軍第4大隊・第11大隊の戦闘機と交戦し、九七重爆1機を喪失するも4機を撃墜(P-66 2機・P-40またはP-43 2機)[44]。また、大型重爆であるアメリカ陸軍のB-24に対してはビルマ航空戦を戦った第50戦隊から伝授された「対進攻撃」を行い戦果を挙げた[45]

10月30日、九江揚子江の港)の日本軍船舶を目標に来襲した9機の爆装P-38を第25戦隊が迎撃した空戦では、日本軍は対空監視哨と超短波警戒機乙(陸軍の実用レーダー)の早期警戒により待ち伏せをしていたため、喪失1機に対し4機を撃墜している(第449戦闘飛行隊)[46]

1943年8月21日から1944年5月6日の期間中、一式戦および二式戦からなる中国戦線の帝国陸軍航空部隊は最低でも連合軍機44機撃墜に対し空戦損害10機喪失。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機33機爆撃機11機に上り、戦闘機の詳細はP-38 12機・P-40 10機・P-66 5機・P-51 3機・P-43 3機、爆撃機の詳細はB-24 11機(さらにP-51の内訳はP-51A 2機・P-51B 1機)、日本軍側喪失の詳細は一式戦8機・二式戦2機である。ビルマ航空戦とともに、大戦中後期においても中国航空戦で陸軍戦闘隊は米中空中部隊に対して度重なる勝利を収めた[47]

1944年5月、支那派遣軍は大規模攻勢となる大陸打通作戦こと一号作戦を実施、第5航空軍もこれに呼応し航空撃滅戦を展開。また、関東軍満洲からは飛行第48戦隊(一式戦装備)が、のちの8月には日本内地より新鋭機四式戦を装備する飛行第22戦隊が進出している。なお第22戦隊は8月28日から戦闘に参加し始めているが、この日を境に二式戦装備の第85戦隊のみならず一式戦装備の古参第25戦隊にも少しずつ四式戦が配備されている[48]

しかし一号作戦で日本軍は各アメリカ軍飛行場や要地、京漢鉄道を占領制圧し戦術的には勝利を収めたが戦略的には不十分な結果を残し、「最後の敢闘」[49]を本作戦で一式戦は見せたものの第5航空軍各飛行部隊は消耗しのちの敗戦を迎えた。

ソロモン、ニューギニア航空戦[編集]

飛行第11戦隊の一式戦一型丙(キ43-I丙)。本機は実際に第11戦隊がラバウルにて使用、終戦後に現地の密林に遺棄されていたものであり、世界で唯一機体エンジンともにオリジナル(可能状態)である一式戦として現在はポール・アレン私設航空博物館が収蔵・展示中(#現存機

1942年末、ソロモン諸島およびニューギニア方面はアメリカ軍の反抗により非常な苦戦を強いられていた。この方面はもとはラバウル航空隊等で知られる海軍航空部隊の専任の担当地域であったが、その苦戦により海軍上層部は陸軍航空部隊に対し陸軍戦闘隊の増援を嘆願、陸軍はこれを了承しラバウル第12飛行団(隷下2個飛行戦隊)の一式戦約100機派遣を決定し同年12月18日にはその第一陣として一式戦一型(キ43-I)57機を装備する飛行第11戦隊がラバウルに進出した。第11戦隊は部隊マーク稲妻を描きノモンハン航空戦で活躍した「稲妻部隊」として知られる名門部隊であった。

現地の海軍航空部隊は零戦で苦戦していたB-17をさして「零戦の20mmで落ちないものが、(一式戦の)13mmで落ちるはずがない」と冷笑していたが、1943年1月5日に第11戦隊第2中隊の一式戦は日本軍船団攻撃に飛来した第43・第90爆撃航空群のB-17 6機とB-24 6機と交戦、2機を喪失(1名生還・1名戦死)するも1機のB-17Fを確実に撃墜、さらに第11戦隊は第五八二海軍航空隊の零戦2機との協同戦果としてさらに1機のB-17Fを撃墜している(第43爆撃航空群ジャック大尉機・リンドバーグ少佐機[注 8][50]

1月9日には頭号戦隊である飛行第1戦隊もラバウルに進出。

1月27日、第11戦隊と第1戦隊の一式戦69機は末期ガダルカナル島の戦いにおいて完全撤退中(ケ号作戦)の地上部隊を支援するため、飛行第45戦隊の九九双軽9機とともにガダルカナル島を攻撃。この空戦においてアメリカ陸軍および海兵隊戦闘機24機と交戦、一式戦は6機を喪失するも7機を撃墜した(戦果内訳はP-38 2機・P-40 2機・F4F 3機、第339戦闘飛行隊および第112海兵戦闘飛行隊)。なお、この2日前の25日に海軍の零戦72機が一式陸上攻撃機12機とともにガ島を攻撃しているが、5機を喪失し撃墜戦果無しと一方的な敗北を喫している[51]。31日、第11戦隊の一式戦は第112海兵戦闘飛行隊のF4F 8機と交戦し2機を撃墜、2機を喪失。

ケ号作戦成功に大きく貢献するなど活躍を見せた一式戦ではあったが、2月6日、九九双軽を援護しニューギニアのワウ飛行場攻撃中に一式戦4機・九九双軽3機を喪失し戦隊長杉浦勝次少佐も戦死した(戦果はA-20 1機・C-47 1機撃墜、ワラウェイ1機在地破壊)[52]。なお、3月2・3日には ラバウルからラエ第15師団を送る八十一号作戦が行われたが、海軍の零戦41機が直掩を行うも輸送船8隻・駆逐艦4隻が撃沈され大勢の将兵が戦死した物資も喪失したビスマルク海海戦(「ダンピール海峡の悲劇」)が起きている。同月には第1戦隊長沢田貢少佐もまたラエ上空で戦死した。

憔悴した第11戦隊に代わり第24戦隊(一式戦装備)がニューギニアに派遣され、また緒戦の南方作戦において第64戦隊とともに活躍した第59戦隊も同地に進出した。6月20日、オーストラリアのダーウィンに対し第7飛行師団隷下の一式戦22機(第59戦隊)、一〇〇式重爆18機(飛行第61戦隊)、九九双軽9機(飛行第75戦隊)の3個飛行戦隊計49機(また、これとは別に敵情把握を受け持つ独立飛行第70中隊一〇〇式司令部偵察機「新司偵」2機も出撃)が攻撃を行った(日本のオーストラリア空襲)。対するオーストラリア空軍はレーダーからの報告を受け、指揮官コールドウェル中佐以下3個飛行隊計46機のスピットファイアが迎撃。空戦において日本軍側は一〇〇式重爆1機を喪失するも[注 9]、スピットファイア2機を撃墜した。なお、本戦でもまたしてもスピットファイアは格闘戦に終始しており、これには第59戦隊第1中隊長が訝しむほどであった[53]

1944年5月、ホーランジアに遺棄された一式戦二型(キ43-II)

ニューギニア航空戦で一式戦装備部隊として主に第24戦隊・第59戦隊および飛行第13戦隊(二式複戦を消耗し一式戦を装備)が従軍していたが、連合軍の猛攻のみならず補給の断絶により消耗、また栄養不足かつ過労状態の操縦者の多くは熱帯特有の疫病にも侵されていた[54]。10月31日にはフィリピンにて戦力を回復した第59戦隊(一式戦23機)が合流、11月2日には新編の飛行第248戦隊(一式戦30機)も進出し一時的に戦力は強化されたが[55]、質と量で勝る連合軍に対し苦戦を強いられていることは変わらず、南郷少佐が「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず」と日記にしたためているのはこの頃である。

1944年1月13日には後退予定の第59戦隊に替わり飛行第63戦隊(一式戦装備)が進出[56]

1月23日、一式戦・三式戦からなるウエワクの日本軍戦闘隊はアメリカ軍戦爆連合70機(うちB-24 35機)を迎撃、戦闘機4機を撃墜するも7機を喪失、「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われたエース第59戦隊飛行隊長南郷少佐も戦死した。なお、本空戦で撃墜された1機のP-40N(第7戦闘飛行隊クローリー中尉機)は南郷少佐の最後の戦果とされている[57]。2月22日・28日、第33戦隊・第77戦隊(一式戦装備)が進出。3月5日には第77戦隊の一式戦がアメリカ陸軍のエース、ニール・カービィ大佐のP-47を撃墜した(#連合軍エースとの空戦

3月半ば、ニューギニア方面を担当する第4航空軍はウエワク放棄を決定しホーランジアへ撤退開始。19日には撤退船団に対し戦爆連合が飛来し、第248戦隊の一式戦4機が交戦するも1機を喪失。さらにホーランジアへ移転予定の超短波警戒機乙(陸軍の実用レーダー)を搭載した輸送船が沈められたため、のちのホーランジア防空戦ではレーダーによる早期警戒を行えず30日に奇襲攻撃を許し約120機が在地損傷[58]。一方で4月11日、ハンサ湾・ウエワクに来襲した戦爆連合を残った一式戦・三式戦稼動全機20機あまりで迎撃し、損害無しで第311戦闘飛行隊のP-47 3機ないし4機を撃墜している。一方的な勝利となったこの空戦はニューギニア航空戦最後の栄光となった[59]

4月25日、ホーランジア自体に連合軍が上陸(ホーランジアの戦い)、日本軍のニューギニア航空戦は事実上終了し第4航空軍各飛行部隊は後退するが、後退手段の無くなった一部の飛行部隊の地上勤務者・空中勤務者の多くは地上戦に巻き込まれ戦死した。

フィリピン航空戦[編集]

1944年後期、マリアナ沖海戦に勝利しサイパンを攻略したアメリカ軍は、フィリピン奪回のため同年10月にレイテ島に上陸(レイテ島の戦いレイテ沖海戦)。ここに「比島決戦」と称され陸海空の大兵力が投入されることになるフィリピンの戦いが勃発し、またルソン島ビサヤ諸島ネグロス島等)には日本陸海軍航空部隊が集結していたことからレイテを中心に苛烈な航空戦が繰り広げられた(フィリピン航空戦)。この大規模航空戦に陸軍は第16飛行団を筆頭に四式戦を本格的に大量投入(ほか三式戦も投入)、また海軍機多数も従軍、さらにアメリカ軍も陸海軍機が入り交じる混戦であるため戦果損害の照合特定は困難となる。なおこのフィリピン航空戦では、海軍は10月下旬、陸軍は11月12日の時点で特別攻撃隊を初実戦投入し、以降数々の特攻隊を編成し敵艦船攻撃に運用している。

1945年、ルソン島クラーク飛行場に遺棄された一式戦三型(キ43-III)。「稲妻」の部隊マークを描くも所属部隊は不明

フィリピン戦において日本軍は当初ルソン島での決戦を意図していたが、台湾沖航空戦とレイテ沖海戦の虚構の戦果に影響され急遽レイテ島での決戦に変更。そのため10月末よりルソン島に配置していた地上部隊多数を船団輸送によりレイテ島に移送する多号作戦が開始され、日本軍航空部隊はその上空掩護にあたっていた。11月1日、マニラからのその増援たる第1師団を乗せた船団はオルモックに到着、人員物資を揚陸中の翌2日に第49戦闘航空群のP-38が飛来し直掩の第33戦隊・第26戦隊・第20戦隊の一式戦および飛行第52戦隊の四式戦が交戦、断続的に続いたこの空戦で6機(一式戦4機・四式戦2機)を喪失するも5機(P-38 5機、第8戦闘飛行隊・第9戦闘飛行隊)を撃墜し[60]、この防空戦により第1師団のレイテ上陸は成功に終わった(多号作戦#第2次輸送部隊)。

船団上空掩護の一方で、日本軍航空部隊はアメリカ軍上陸船団の輸送船やレイテ島のアメリカ軍飛行場に対し撃滅戦を重点的に行っており、4日未明には戦闘機および九九式襲撃機数機・九九双軽7機がタクロバンの飛行場と沖に停泊中の輸送船を攻撃。この攻撃によってP-38 2機を地上破壊、その他39機が損傷を受け第345爆撃航空群の要員100名以上が戦死した。一式戦はクラスター爆弾であるタ弾を搭載し、タクロバン飛行場に対し少数機で夜間・未明の低空爆撃を繰り返して大きな戦果を挙げている(#戦闘爆撃機[61]

1945年、クラーク飛行場にてアメリカ軍に鹵獲され、同軍の国籍標識が描かれた一式戦二型(キ43-II)

しかし4日・6日には一式戦が配備されていたネグロス島ファブリカ飛行場が攻撃を受け壊滅、第20戦隊・第33戦隊は機体受領のためマニラへ後退した[62]

10日には北方方面たる千島列島から第54戦隊(一式戦装備)が進出。翌11日、船団掩護のため出撃した第54戦隊の一式戦8機がP-38 2機と交戦し、P-38J 1機(第12戦闘飛行隊ラッセル中尉機)を撃墜。しかしオルモック湾上空の船団直掩ではアメリカ海軍のSBDを護衛するF6Fを相手とする低位戦により、戦隊長以下5名が戦死した。同日、第20戦隊の一式戦3機がF6F 2機(空母「ワスプ」艦載機)と交戦、1機を撃墜(第81海軍戦闘機隊)[63]

一連のレイテ航空戦で日本軍航空部隊は急速に消耗するも、1945年1月7日には第54戦隊の一式戦1機および飛行第71戦隊の四式戦1機が、アメリカ全軍第2位のエースであるトーマス・マクガイア少佐のP-38Lないし、その僚機のジャック・リットメイヤー中尉のP-38Jを協同撃墜している(一式戦1機喪失、P-38 2機撃墜、#連合軍エースとの空戦)。

9日にはルソン島にアメリカ軍が上陸(ルソン島の戦い)。陸軍は1月下旬までは戦闘機を補充し空戦を行っていたものの同月末には作戦可能機は十数機にまで落ち込み[64]、フィリピン航空戦は一方的な敗北に終わった。壊滅した第4航空軍各飛行部隊は後退が進められたが、ニューギニア航空戦と同様に後退手段が無くなった飛行部隊の地上勤務者・空中勤務者の多くは地上戦に巻き込まれ戦死、担当戦域が無くなった第4航空軍自体も2月28日に廃止された。

後期[編集]

終戦直後の一式戦(右列。所属不明)他。左列は四式戦郡(手前、部隊マーク「片矢印」の飛行第85戦隊、左奥数機、部隊マーク「菊水紋」の第22戦隊。両戦隊ともに在朝鮮部隊)、右奥は一式双発高等練習機

カタログスペックから見て太平洋戦争後期には完全に旧式化した一式戦だが、1945年まで生産が続けられた。そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もあるが、二式戦は重戦型で運動性能に優れた機体に慣れたベテラン操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がおり、三式戦闘機「飛燕」(キ61)はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、1944年より「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦は、そのバランスの取れた高性能と実戦での活躍によりアメリカ軍から「日本軍最優秀戦闘機」と評されたものの、ハ45の不具合や高品質潤滑油・高オクタン価燃料・交換部品の不良不足によりこちらも信頼性に難があった。一式戦は全期間を通じて安定した性能を維持しており比較的信頼性も高く、また新人操縦者にも扱い易く、その運動性の高さを武器に最後まで使用は継続された。そういった大戦後期の一式戦の特性を「落とせないが、落とされない」と評されることもある[65]

1943年11月27日の迎撃戦では、88機のP-38・P-51・B-24・B-25戦爆連合に対し第64戦隊の黒江保彦大尉は一式戦8機・二式戦1機を率い迎撃[注 10]、のちに遅れて第21戦隊の二式複戦「屠龍」(キ45改)8機が迎撃に参戦するが、戦闘はほとんど第64戦隊の9機によって行われ、むしろ遅れてやってきた二式複戦がP-51に追い立てられて黒江大尉の一式戦に助けられるなど戦力になっていなかった。結果としてB-24撃墜3機と撃破4機、P-38撃墜2機(2名戦死)、P-51撃墜4機(3名戦死、1名捕虜)と撃破1機の戦果を挙げ、損害は一式戦被撃墜1機(操縦者生存)と被撃破1機、二式戦被撃墜1機(1名戦死)、二式複戦被撃墜1機(操縦者と同乗者2名戦死)というものだった。この日、第21戦隊はB-24の撃墜を1機報告しているのみであるから、殆どが一式戦の戦果と思われる。またこの日報告された64戦隊側の戦果報告はB-24撃墜2機、P-38撃墜2機、P-51撃墜4機としており、5倍や10倍の戦果誤認が多い空中戦にも関わらず実戦果と一致させている。撃墜認定の厳しい64戦隊では少なからずこのような事態が発生している事も特筆される[66]


諸元[編集]

両翼下に落下タンクを搭載した一式戦二型(キ43-II)
制式名称 一式戦闘機二型
試作名称 キ43-II
全幅 10.837m
全長 8.92m
全高 3.085m
翼面積 22m²
翼面荷重 117.7 kg/m²
自重 1,975kg
正規全備重量 2,590kg
発動機 ハ115(離昇1,150馬力)
プロペラ 住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m
最高速度 初期型:515km/h/6,000m
前期型:536km/h/6,000m
後期型:548km/h/6,000m
上昇力 高度5,000mまで4分48秒
降下制限速度 600km/h[67]
航続距離 3,000km(落下タンク有)/1,620km(正規)
武装 機首12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各270発)
爆装 翼下30kg~250kg爆弾2発

各種形式[編集]

一式戦一型(キ43-I)
一型(キ43-I)
ハ25を装備した最初の生産型。武装は増加試作機や極初期量産型は7.7mm機関銃2挺(一型甲キ43-I甲)だが、開戦前に7.7mm機関銃1挺+12.7mm機関砲1門に強化(一型乙キ43-I乙)し、また更に12.7mm機関砲2門に換装(一型丙キ43-I丙)された。生産当初から7.7mm弾対応の防漏タンク(防弾タンク)を装備。1941年4月から量産され6月より部隊配備された。1943年中に大半の実戦部隊では二型(キ43-II)に改編され第一線を退き、1944年末頃まで標的曳航機や訓練機として運用された。いきすぎた軽量化のために機体強度に問題があり、例として1942年7月31日の中国における空戦では、第24戦隊の3機の一型が急降下するP-40追尾中の引き起こしの際に両翼が折れ空中分解している。


明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)
二型(キ43-II)
不完全であった一型(キ43-I)の欠陥を改善、機体構造が強化され降下制限速度が500km/hから600km/hにまで引き上げられた他、エンジンをハ115に換装、これに伴いカウリングも抵抗の少ない丸みを帯びた形に変更され、一型ではカウリング内に環状式に装備されていた潤滑油冷却器がカウリング下に移され、プロペラは2翅から3翅になる。さらに左右主翼端を30cmずつ短くし、照準器は眼鏡式(八九式照準眼鏡)から光像式(一〇〇式射撃照準器)に、操縦席の天蓋(キャノピー)も平面構成から枠が少ないよりスマートな曲面構成となった。武装は一型丙(キ43-I丙)と同様の12.7mm機関砲2門。防漏タンクは12.7mm弾対応に強化されたほか、1943年6月生産の第5580号機から操縦席背面に厚さ13mmの12.7mm弾対応防弾鋼板(防楯鋼板)を追加装備している。1942年2月にキ43-II試作1号機が完成し同年11月から量産開始、1943年1月より実戦配備された。一式戦各型のうち最多生産型。
前期生産型では一型と同様の集合排気管であったが、排気のロケット効果を利用して速度を向上させるため、後期生産型では推力式集合排気管に変更し最高速度が536km/hに向上、さらに効果の高い推力式単排気管を採用し最高速度を548km/hまで向上させた。この排気管は二型を三型に改造する現地改修用キットが末期生産型の二型に転用されたものであった。便宜的に二型改(キ43-II改)や二型後期型と呼称される。


1945年4月、250kg爆弾を搭載し特攻に出撃する第20振武隊穴沢利夫少尉の一式戦三型(キ43-III)
三型(キ43-III)
三型キ43-III)はエンジンを水メタノール噴射装置付きのハ115-IIに換装した最終生産型。武装や防弾は二型後期生産型と同様。四式戦の生産のために中島は試作のみを行い、量産は全て立川で行われた。1944年7月から量産が開始されたが、フィリピン航空戦への実戦配備当初は水メタノール噴射装置の不具合や整備兵の不慣れにより稼働率が一時低下している。武装を20mm機関砲2門に強化したキ43-III乙は試作のみ。
三型(二型後期含む)になると、当初の「軽戦」のイメージが薄れ、かなり無理がきく機体になっていた。


キ43-IV
計画のみに終わった型式で、幾つかの異なるプランが存在した。
(1) - エンジンを陸軍側の提案でハ45に換装した機体で、多くの文献にも記述が見られるが、三型の開発主務者であった大島賢一技師が異議を唱え、中島も四式戦の開発に専念するために中止となったもの。
(2) - エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ112-II(海軍の金星六二型とほぼ同じ)に換装し、機体の一部を木製化した機体。
このほかにも、生産が立川に移管されたのち、余剰になっていたハ33-42(海軍の金星四二型とほぼ同じ)を使用した機体を計画したが、出力がハ25程度でしかないためか、陸軍航空本部の指示で中止しており、実現していれば四型を名乗った可能性がある。

日本国外での運用[編集]

一式戦は日本軍以外の軍隊で最も運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満洲国軍タイ王国軍に供与され、両軍では連合軍機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイ王国軍は一式戦に国籍標識として「白」を垂直尾翼に描き、中村三郎大尉ほか第64戦隊員により運用の指導が行われ(それらの模様は1944年4月27日の日本ニュース第204号『タイ空軍「隼」戦闘機で訓練』に収録)、バンコク空襲では日本軍機とともに迎撃戦に参戦している。第二次大戦後も数年間、アメリカ製戦闘機が配備されるまで使用されていた。

また、外地で終戦を迎えた一式戦はフランス軍インドネシア軍中華民国軍国民革命軍国民党軍)、中国人民解放軍紅軍共産党軍)、朝鮮人民軍に接収された上で使用されている。フランス第一次インドシナ戦争において二つの部隊で二型を対ゲリラ戦に、インドネシアではインドネシア独立戦争において二型を対イギリス軍・オランダ軍に実戦投入している。これら各国では、敗戦により武装解除を受け捕虜となった日本軍操縦者により操縦方法を伝授されていた。中国では共産党軍が関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊の日本軍人らによる東北民主連軍航空学校での指導の下に、国共内戦において使用。一方の国民党軍においても自軍の国籍標識を付けた機体が複数存在したが、アメリカからの全面的な支援を受けていた国民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。朝鮮人民軍では戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機が配備されるまで使用された。


現存機[編集]

型名 機体写真   国名   保存施設/管理者 公開状況   状態   備考
一型丙
2008年9月撮影
アメリカ Flying Heritage Collection(ポール・アレン)[68] 公開 飛行可能 

1943年(昭和18年)1月にトラック島に配備された第1戦隊ないし第11戦隊の一式戦一型(キ43-I、第750号機)。その後パプアニューギニアラバウルに配備。終戦直後にラバウルブナカナウ飛行場から4マイルほどの密林で発見された。着陸時の事故で破損していた機首部分を、日本兵が複数の一式戦から回収した部品で修理した経緯がある。

ニュージーランドのアルパイン・ファイター・コレクションによって飛行可能状態にまでレストアされた。機体・エンジンともにほぼオリジナル[69]

二型 アメリカ ピマ航空宇宙博物館[70] 公開 静態展示  スミソニアン国立航空宇宙博物館[71]所有の機体でピマ航空宇宙博物館に貸与されているもの。本機は複数の一式戦を元に再生したもので天蓋は一型を流用している。

塗装とマーキングは、1944年(昭和19年)ニューギニアHollandia(旧称:現Jayapura)を拠点としていた第63戦隊のもの [72]

二型
AURI Oscar.JPG
インドネシア インドネシア空軍中央博物館[73] 公開  静態展示  インドネシア軍で戦後に使用されていた機体。天蓋がオリジナルの二型とは異なるなど手が加えられている。
二型
左はIl-4
ロシア 大祖国戦争中央博物館 公開  静態展示  テキサス・エアプレーン・ファクトリーおよびゴスホーク・アンリミテッド[74]が、占守島付近で発見された一式戦闘機(飛行第54戦隊機)の残骸を元にリバースエンジニアリングによって復元した4機のうちの1機。
三型
Nakajima Ki-43-IIb Oscar RSide TAM 3Feb2010 (14630249585).jpg
アメリカ ティラムック航空博物館[75] 公開  飛行可能 

テキサス・エアプレーン・ファクトリー[76]が復元した4機の一式戦のうちの1機。千島列島から回収された4機の一式戦の残骸から取得した部材と新造した部品で復元された。現用品のP&R R-1830-92 エンジンを使用するなどして飛行可能となった。塗装とマーキングは飛行第54戦隊第3中隊所属の製造番号15344号機を模している。

ワシントン州在住の Jack A. Erickson が本機を購入。2008年6月11日に連邦航空局の認可を獲得し NX43JE として登録。同氏の依頼によりゴスホーク・アンリミテッド[77]が主脚を修理した[78]

三型
2015年4月撮影
アメリカ ミュージアム・オブ・フライト[79] 公開  飛行可能 

テキサス・エアプレーン・ファクトリー[80]が復元した4機の一式戦のうちの1機。本機は著名な軍用機コレクターである Doug Champlin が千島列島の占守島から回収した4機の一式戦の残骸から取得した部材に新造した部品を加えて1990年代に復元されたものとされている。P&R R-1830-92 エンジンなど現用品を使用するなどして飛行可能となった。

その後 GossHawk Unlimited [81]が、2008年にレストアを完了した。[82]塗装とマーキングは飛行第54戦隊第3中隊所属の製造番号15267号機を模している[83]

エース[編集]

以下は主に一式戦をもって戦果を挙げた主要エース。階級は原則、最終階級を表記(戦死者は特進後最終階級)。

登場作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 二型の量産時点から立川でも生産されており、さらに三型(キ43-III)の全ては立川で移管生産された。また立川陸軍航空工廠でも少数機が生産されている。
  2. ^ 総生産機数日本軍第3位、陸軍機第2位は大戦後期の主力機である四式戦。
  3. ^ 制式制定前に新鋭機の実戦テストも兼ね、開戦と共に増加試作機装備の1個独立飛行中隊独立飛行第47中隊)が参戦。
  4. ^ マ103と同じマ弾であり焼夷弾
  5. ^ のちに少佐となり第64戦隊長として1943年2月25日戦死。
  6. ^ ニューギニアフィリピン第4航空軍担当。なお第4航空軍はニューギニアおよびフィリピンの事実上の陥落を受け1945年2月に廃止
  7. ^ 同月3日にはフライング・タイガース(AVG)は解散し中国空軍機動部隊(CATF)に編入されている。
  8. ^ リンドバーグ少佐機には第5爆撃航空団指揮官ウォーカー准将が搭乗しており、ウォーカー准将は落下傘降下し捕虜となったとされている。
  9. ^ このほか一式戦1機が行方不明となっているが、これは戦闘前の巡航中に理由不明の編隊離脱を行った機体であり被撃墜ではない。
  10. ^ この時ビルマ方面陸軍航空部隊主力は龍一号作戦(カルカッタ爆撃)の準備で後方にいたため戦力は少なかった。黒江大尉は鈴木京参謀から増援を送ろうかと言われたが断っている。
  11. ^ 戦果は主にニューギニア航空戦を三式戦にて。

脚注[編集]

  1. ^ #青木回想104、107頁
  2. ^ #青木回想106頁、#作戦上要望p.2
  3. ^ #作戦望p.3
  4. ^ #作戦上要望p.5
  5. ^ #青木回想108頁
  6. ^ #青木回想110-11頁
  7. ^ 梅本 (2010ab)等
  8. ^ 梅本 (2010a), p.118
  9. ^ 「写真週報 232号」p.2
  10. ^ 梅本 (2010a), p.92
  11. ^ #青木回想108頁
  12. ^ #青木回想123頁
  13. ^ #青木回想118頁
  14. ^ 梅本 (2010a), p.7
  15. ^ 梅本 (2010a), p.7
  16. ^ 梅本 (2010a), p.63
  17. ^ 梅本弘『陸軍戦闘隊撃墜戦記1』
  18. ^ 梅本 (2010a), p.113
  19. ^ 渡辺洋二著『重い飛行機雲』「さいはて邀撃戦」
  20. ^ 梅本 (2010a), p.118
  21. ^ 梅本 (2010a), p.95
  22. ^ 秦郁彦 『太平洋戦争航空史話』 中央公論社、1980年
  23. ^ 梅本 (2010a), p.20
  24. ^ 梅本 (2010a), p.23
  25. ^ 梅本 (2010a), p.21
  26. ^ 梅本 (2010a), p.17
  27. ^ 梅本 (2010a), p.27
  28. ^ 梅本 (2010a), p.77
  29. ^ 梅本 (2010a), p.39
  30. ^ 梅本 (2010a), p.77
  31. ^ 梅本 (2010a), pp.112・113
  32. ^ 梅本 (2010a), p.113
  33. ^ 梅本 (2010a), p.114
  34. ^ 梅本 (2010a), p.118
  35. ^ 梅本 (2010a), p.118
  36. ^ 梅本 (2010a), p.113
  37. ^ 梅本 (2010a), p.116
  38. ^ 梅本 (2010a), p.120
  39. ^ 梅本 (2010a), p.123
  40. ^ 梅本 (2010a), p.124
  41. ^ 梅本 (2010a), p.124
  42. ^ 梅本 (2010a), p.41
  43. ^ 梅本 (2010a), p.42
  44. ^ 梅本 (2010a), p.44
  45. ^ 梅本 (2010a), pp.43・44・45
  46. ^ 梅本 (2010a), p.45
  47. ^ 梅本 (2010a), p.48
  48. ^ 梅本 (2010a), p.102
  49. ^ 梅本 (2010a), p.45
  50. ^ 梅本 (2010a), p.80
  51. ^ 梅本 (2010a), p.81
  52. ^ 梅本 (2010a), pp.81・82
  53. ^ 渡辺洋二 『異なる爆音』 光人社、2012年、p.47~51
  54. ^ 梅本 (2010a), p.89
  55. ^ 梅本 (2010a), p.90
  56. ^ 梅本 (2010a), p.93
  57. ^ 梅本 (2010a), p.94
  58. ^ 梅本 (2010a), p.96
  59. ^ 梅本 (2010a), p.97
  60. ^ 梅本 (2010a), p.106
  61. ^ 梅本 (2010a), p.106
  62. ^ 梅本 (2010a), p.107
  63. ^ 梅本 (2010a), p.108
  64. ^ 梅本 (2010a), p.109
  65. ^ 梅本 (2010a), p.110
  66. ^ 梅本弘『ビルマ航空戦(上・下)』
  67. ^ データは陸軍航空本部作製「一式戦(二型)取扱法」より引用。
  68. ^ Flying Heritage Collection
  69. ^ Flying Heritage Collection 一式戦闘機 一型丙
  70. ^ ピマ・エア・アンド・スペース・ミュージアム
  71. ^ NASM
  72. ^ Pima Air & Space Museum 一式戦闘機 二型
  73. ^ Museum Dirgantara Mandala Yogyakarta Indonesia
  74. ^ GossHawk Unlimited
  75. ^ ティラムック・エア・ミュージアム
  76. ^ Texas Airplane Factory
  77. ^ Gosshawk Unlimited
  78. ^ PacificWrecks.com Ki-43-IIIa
  79. ^ ミュージアム・オブ・フライト
  80. ^ Texas Airplane Factory
  81. ^ GossHawk Unlimited
  82. ^ Museum of Flight Ki-43-IIIa
  83. ^ PacificWrecks.com Ki-43-IIIa

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A06031082700「写真週報 232号」(昭和17年8月5日)「嗚ゝ軍神 加藤建夫少将」
    • Ref.A06031083300「写真週報 238号」(昭和17年9月16日)「隼 敵空軍恐怖の的」
    • Ref.C01004421000 『次期飛行機の性能等に関する作戦上要望の件』。
  • 『世界の傑作機 No.13・No.65 陸軍1式戦闘機「隼」』 文林堂、1988年11月・1997年7月
  • 青木邦弘中島飛行機陸軍機設計技師/キ-115「剣」主任設計者 『中島戦闘機設計者の回想 戦闘機から「剣」へ-航空技術の闘い』 光人社、1999年ISBN 4-7698-0888-7
  • 『図解・軍用機シリーズ12 隼/鍾馗/九七戦』 『』編集部編 光人社 2000年8月
  • 『一式戦闘機「隼」』 学習研究社、2005年11月
  • 梅本弘 (2010a),『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月
  • 梅本弘 (2010b),『捨身必殺 飛行第64戦隊と中村三郎大尉』 大日本絵画、2010年10月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]