翔鶴 (空母)

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竣工直後の1941年8月23日に横須賀にて撮影
艦歴
計画 1937年マル3計画
起工 1937年12月12日
進水 1939年6月1日
竣工 1941年8月8日
沈没 1944年6月19日
位置 北緯11度40分 東経137度40分 / 北緯11.667度 東経137.667度 / 11.667; 137.667 (沈没地点)
除籍 1945年8月31日
性能諸元
排水量 基準:25,675t
公試:29,800t
満載:32,105t
全長 257.5m
水線幅 26.0m
平均吃水 8.87m(公試状態)
飛行甲板 長さ:242.2m × 幅:29.0m
主缶 ロ号艦本式専焼缶8基
主機 艦本式タービン4基4軸 160,000hp
速力 34.2kt(34.0ktの資料もある)
航続距離 18ノットで9,700海里
乗員 士官、兵員1,660名
兵装
(新造時)
40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃12基
搭載機 常用72機、補用12機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機27機
九七式艦上攻撃機:27機
着艦識別文字

翔鶴(しょうかく/しゃうかく)は、旧日本海軍航空母艦(空母)

概要[編集]

軍艦 翔鶴翔鶴型航空母艦の1番艦である。大和型戦艦大和」と共にマル3計画にて建造され、ほぼ同時期に竣工。アメリカエセックス級イギリスイラストリアス級と同様、ワシントン海軍軍縮条約終了後に設計建造されたため、必要かつ十分な装備を持つ大型空母として完成した。第五航空戦隊として翔鶴型空母2番艦「瑞鶴」との作戦行動時には、決まって本艦が損害を受けることが多かった[1]。日本海軍機動部隊の主力艦として活躍し、1944年(昭和19年)6月マリアナ沖海戦で米潜水艦の雷撃により沈没した。

構造[編集]

日本海軍の軍艦としては、初めて球状艦首(バルバス・バウ)を採用し最大速力34kt の高速性を得た。機関出力は16万馬力で、大和型戦艦をも上回る。防御能力についても、機関部や弾薬庫などの艦主要部は巡洋艦の砲撃に十分耐えられるよう装甲が施され、炸薬量450kg の魚雷にも耐えうる水雷防御が施されるなど充実した性能を持つ。しかし、英空母や次級の大鳳型航空母艦のように飛行甲板の装甲は有しておらず、500kg爆弾が命中すると航空機の運用ができなくなる。また、ダメージコントロール分野に関しても同時期の米英空母に見劣りする面があり[要出典]ミッドウェー海戦での4空母損失の教訓から、可燃物の撤去や可燃性の塗料などを使用しないなどの運用上の工夫でカバーされていた。

基本的には「瑞鶴」と同様であるが、「翔鶴」は計画時には艦橋を左舷中央に配置する予定であった。左舷中央配置は空母「赤城」、「飛龍」で採用されたが用兵側から不具合が指摘されている。「飛龍」の場合は、建造開始後に「赤城」での左舷中央配置艦橋の問題が判明した。しかし「飛龍」の建造が進んでいたため、左舷中央配置艦橋のまま配置された。だが「翔鶴」はこの問題が浮上したのが設計段階であったため、右舷前方配置艦橋への設計変更が可能であった。

戦歴[編集]

軍艦「翔鶴」は1937年(昭和12年)に発表された第三次艦船補充計画(通称マル3計画)によって、大和型戦艦陽炎型駆逐艦と共に計画され、同年12月12日に横須賀工廠にて建造が始まった。同計画1号艦が戦艦「大和」、2号艦が「武蔵」、3号艦が「翔鶴」、4号艦が「瑞鶴」、5号艦が水上機母艦日進」である。1939年(昭和14年)5月16日、「翔鶴(シャウカク)」と命名[2]。同年6月1日伏見宮博恭王立会いの元で進水[3]、記念絵葉書と硝子製翔鶴艦型文鎮が配られている[4]1941年(昭和16年)8月8日竣工。横須賀鎮守府[5]

真珠湾攻撃[編集]

真珠湾攻撃へ向かう翔鶴艦載機

竣工後は直ちに連合艦隊に所属し、姉妹艦「瑞鶴」と共に第五航空戦隊を編成し、第一航空艦隊(南雲機動部隊)に所属して真珠湾攻撃に参加した。 艦上攻撃機隊48機が宇佐基地艦上爆撃機隊54機が大分基地艦上戦闘機隊36機は、佐世保基地)を基地として[6]、離発着訓練や錦江湾志布志湾佐伯湾での訓練を行い、11月16日佐世保基地にいた「加賀」以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。

その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は豊後水道を他艦とは逆に北上して別府湾で停止した。 そして日付が19日になった午前0時に再び動き出して、艦隊が最終集結する千島列島択捉島単冠湾を目指し、艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入る。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日南雲機動部隊は単冠湾を出港し艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。

翔鶴からの真珠湾攻撃参加機
第一次攻撃隊
99艦爆26機=指揮官:飛行隊長高橋赫一少佐零戦5機=指揮官:分隊長兼子正大尉
第二次攻撃隊
97艦攻27機=指揮官:分隊長市原辰雄大尉

しかし真珠湾攻撃作戦から帰投すると、1942年1月1日付で「翔鶴」搭載の常用機定数は「瑞鶴」ともども艦上戦闘機艦上爆撃機艦上攻撃機各18機に削減されて「蒼龍」「飛龍」と同じとなり、投射重量は3分の2となった。1月5日、日本を出撃して1月17日にトラック泊地に進出、1月20日にはラバウルを空襲するなど、南方方面で活動した[7]。1月29日、トラック島を出港して2月3日、横須賀に到着した[8]

セイロン沖海戦[編集]

3月7日、横須賀を出撃してセレベス島へ向かう途中、米軍機動部隊出現の急報により日本東方海面に進出したが会敵せず、3月16日、横須賀に戻った[9]。翌日出港、3月24日にセレベス島スターリング湾に到着、南雲機動部隊に合流した[10]。3月27日、スターリング湾を出港してインド洋に進出し、4月5日にはセイロン島コロンボ港を空襲している。

南雲機動部隊のインド洋進出に伴って生起したセイロン沖海戦では、「翔鶴」を含む日本艦隊は空母「ハーミーズ」、重巡洋艦コーンウォール」、「ドーセットシャー」などを撃沈した。だが索敵網の薄さから英軍東洋艦隊主隊を発見できず、大戦果を収める機会を逃がしている。

珊瑚海海戦[編集]

5月実行予定であったポートモレスビー攻略作戦には当初インド洋作戦に参加していなかった加賀のみが投入される予定であったが、第四艦隊からの空母増加要求を受けて加賀の代わりに第五航空戦隊が投入されることとなった[11]。これにより、インド洋から帰投途中であった4月12日に南洋部隊編入が発令された[12]。それを受けて第五航空戦隊は4月14日にシンガポール沖で他の空母と別れ、駆逐艦3隻とともに台湾の馬公に向かった[13]。馬公には4月18日に到着したが、この日ドーリットル空襲があったため補給後翌日第27駆逐隊とともに出港して北上した[14]。だが、同日中に元の部署への復帰命令があったためトラックへと向かい、4月25日に到着した[15]。そして第五航空戦隊や第五戦隊などでMO機動部隊が編成された[15]。5月1日、MO機動部隊はトラックを出撃し南下した[16]。作戦開始時点での翔鶴の搭載機は艦戦17機、艦爆21機、艦攻16機であった[17]。日本軍の作戦を暗号解読で察知した米軍は、フランク・J・フレッチャー少将が指揮する第17任務部隊(レキシントン、ヨークタウン)を迎撃に向かわせた。

5月7日、翔鶴索敵機は米油槽艦「ネオショー」を米空母と誤認して報告、日本軍攻撃隊は「ネオショー」と「シムス」を撃沈したが、この間に軽空母「祥鳳」が米軍機の攻撃で沈んだ[18]。翔鶴索敵機の偵察員は補欠予備員で、正規偵察員は腹痛のため出撃できなかったという[19]原忠一少将は薄暮攻撃隊(翔鶴:艦爆6、艦攻6、瑞鶴:艦爆6、艦攻9)を出撃させたが、米軍戦闘機に襲撃されて大損害を受けた[20]。高橋翔鶴艦爆隊隊長は、爆弾を捨てて帰投中に艦載機を収容中の米空母に着艦しかけるなど、5月7日は「翔鶴」にとって不運の日となった[21]

5月8日の海戦では、翔鶴索敵機(機長:菅野兼蔵飛行兵曹長、操縦:後藤継男、電信員:岸田清次郎)が燃料切れを覚悟で日本軍攻撃隊を誘導し、死後二階級特進・金鵄勲章を授与されている[22]。日本軍は空母「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」大破という戦果をあげた。しかし第17任務部隊も撃破される前に攻撃隊を発進させており、米軍攻撃隊はスコールに隠れた「瑞鶴」を見逃し、「翔鶴」に殺到した[23]。雷撃機が投下した魚雷は全て回避したものの、午前9時40分、計3発の爆弾が命中[24]。最初の1発は、艦首前甲板左舷に命中して両舷主錨を吹き飛ばし、前部エレベーターは陥没して停止、飛行甲板前部も損傷、さらに前甲板右舷下方の航空用ガソリン庫に引火し、大火災が発生した[25]。2発目は後部短艇甲板に命中し、短艇が火災を起こした[26]。3発目は、艦橋後方の信号マスト付近に命中、艦橋勤務兵や付近の機銃要員に多数の死傷者が出た[27]。炎上して黒煙に包まれた「翔鶴」を見た「瑞鶴」見張員が「翔鶴沈没!」と報告したほどだったが[28]、機関は無事だったため、「翔鶴」は駆逐艦「夕暮」と共に戦場を離脱した[29]。「瑞鶴」の護衛にあたった駆逐艦「」(第七駆逐隊司令艦)の士官は[30]、損傷した「翔鶴」が40ノット以上を発揮していたと述べている[31]。「夕暮」は「潮」に『翔鶴ハ何処ヘ向ヒシヤ、翔鶴ニ着イテ行ク必要ナキヤ』と発信した[32]

5月17日、戦死者107名、負傷者128名を出して「翔鶴」は呉に戻った[33]。母港は横須賀だが、ドックが満杯だった為に呉に回航されたのである[34]。同艦の被害を検分した山本五十六連合艦隊司令長官は福地周夫翔鶴運用長を戦艦「大和」に呼び、空母被弾時の戦訓について講話を行わせた[35]。福地は搭載飛行機が格納庫内になかったことが消火成功の最大要因と説明したが、結果として南雲機動部隊司令部は「翔鶴」の戦訓を生かさなかった[36]。また、飛行甲板の損傷の修理に際して素人の工兵が熟練工を監督するという体制で作業が行われた(しかも兵隊の態度が悪かった)ため、能率が上がらなかったという事情もあった。ちなみに同様に珊瑚海海戦で損傷した米空母ヨークタウンは大工の指導の下工兵が作業を行うという体制で短期間に修理を完了している。[要出典]。さらに呉到着時は日曜日であり、錨を失っていた「翔鶴」は小用港沖の浮標に繋がれて暫く待機することになった[37]

南太平洋海戦[編集]

ミッドウェー海戦で主力空母4隻(赤城加賀飛龍蒼龍)が沈没すると、「翔鶴」は「瑞鶴」とともに航空艦隊の中核となった。それに伴い、ミッドウェー海戦の戦訓から、搭載機の編制も艦戦27、艦爆27、艦攻18に改められ、レーダーの設置、防火対策の徹底・消火ポンプの増設、艦の前後に三連装機銃の増設等の改装を行っている[38]。修理を終えた「翔鶴」は第三艦隊第一航空戦隊旗艦となり、南雲忠一中将、草鹿龍之介参謀長、有馬正文翔鶴艦長が着任した。有馬は福地に「翔鶴が沈む時は総員退艦の号令はかけない。全員が運命を共にする覚悟で戦え」と訓示している[39]

8月7日、米軍はガダルカナル島フロリダ諸島に来襲、第一次ソロモン海戦が勃発した。8月14日、「翔鶴」は第三艦隊を率いて日本を出撃、ソロモン諸島へ向かう[40]。8月24日の第二次ソロモン海戦では、SBDドーントレス急降下爆撃機2機に奇襲され、爆弾命中こそなかったが、飛行甲板上の零式艦上戦闘機と整備兵6名が転落・行方不明となった[41]。戦闘では空母「エンタープライズ」を大破させたが、艦載機29機を失い、帰途途中でブカ島に零戦15機を派遣している。9月4日、5機を失って10機に減少した零戦隊が「翔鶴」に帰艦した[42]。翌日、南雲機動部隊はトラックに到着した。9月10日、補給を終えた「翔鶴」以下日本軍機動部隊は出撃してソロモン海域の警戒にあたる。米軍は空母「ワスプ」が日本軍潜水艦の雷撃で撃沈されるなど積極的な行動を起こせず、大きな戦闘が起きないまま「翔鶴」は9月23日にトラック島に戻った[43]

「翔鶴」がソロモン海域で活動する間にもガダルカナル島の日本軍は劣勢に陥り、日本軍は10月25日を予定して陸海軍の総攻撃実施を決定する。10月11日、「翔鶴」はトラック島を出撃し、ソロモン海域に進出した[44]。10月26日午前6時50分、翔鶴索敵機が米軍機動部隊を発見、村田重治少佐率いる九七式艦上攻撃機20、高橋定大尉率いる九九式艦上爆撃機21、零戦8機の第一次攻撃隊が発進する[45]。続いて第二次攻撃隊の発進が開始されたが、「瑞鶴」の艦攻発進が遅れたため、「翔鶴」艦爆隊(関衛少佐、九九艦爆19・零戦5)は瑞鶴隊を待たずに米軍機動部隊へ向かった[46]。「翔鶴」は「瑞鶴」と20kmも離れたため、珊瑚海海戦に続いて米軍機の集中攻撃を受けることになる[47]。爆弾4発(飛行甲板後部左舷3発、右舷後部に1発)が命中、高角砲弾の一部誘爆はあったが致命傷にはならず、「翔鶴」の機関は健在だった[48]。「翔鶴」が攻撃を受けていたころ、日本軍攻撃隊も米軍機動部隊を空襲し、 第二航空戦隊空母「隼鷹」や第二艦隊と共同で空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」大破という戦果をあげている。その一方、村田少佐を含む艦攻10機、高橋少佐を含む艦爆22機、零戦12機を失った[49]。午後5時、南雲司令部は駆逐艦「」(有賀幸作大佐:第四駆逐隊司令艦)に移乗して「翔鶴」を離れた[50]。なお、有馬艦長は大破した「翔鶴」で逃走する米軍機動部隊を追撃することを主張したが、普段語気を荒げることのない草鹿龍之介参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と一喝されている[51]

戦死者144名を出して大破した「翔鶴」は10月28日トラックに帰港した。日本に帰還後横須賀で修理を行うが、この間、東条英機首相が視察に訪れている[52]。日本海軍は、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・南太平洋海戦における「翔鶴」の奮戦に対し3回の感状を授与した[53]。また二度の大海戦における「翔鶴」と「瑞鶴」の被害の差から、「瑞鶴」は幸運艦と呼ばれた[54]

1943年航空戦[編集]

南太平洋海戦後、第三艦隊の司令長官は南雲中将から小沢治三郎中将に代わり、消耗した翔鶴航空隊も定数を満たした。だがい号作戦をはじめとした1943年の航空戦で母艦航空隊が転用されてしまい、「翔鶴」と「瑞鶴」が米艦隊と直接交戦することはなかった。

沈没[編集]

日本の敗色が濃くなった1944年3月1日、日本海軍は第一機動艦隊を編成し、「翔鶴」は旗艦となった[55]。3月10日、飛行甲板に装甲を施した新鋭空母「大鳳」が第一航空戦隊に編入、4月15日に旗艦任務は「大鳳」に移った[56]

6月、米軍のサイパン島襲来に伴い、日米両軍の間でマリアナ沖海戦が生起、「翔鶴」も参加する。「翔鶴」の航空戦力は、零式艦上戦闘機34、天山艦上攻撃機12(3機は偵察機)、彗星艦上爆撃機18、二式艦上偵察機10、九九式艦上爆撃機3、計77機だったという[57]。6月19日11時20分、飛行機発進中に米ガトー級潜水艦「カヴァラ」(USS Cavalla, SS-244)が発射した魚雷4本が右舷に命中する[58]。魚雷によって3軸運転となり速力が低下した。また左舷への注水作業によって傾斜の復旧作業が実施されたが、注水のしすぎによって、逆に左舷に傾斜してしまう。また前部に命中した魚雷によって艦首が著しく沈下した。その後、魚雷被弾時に気化した航空燃料が艦内に充満し、それに引火し大火災を起こす。14時1分、沈没。1,272名の乗組員が戦死した[59]。艦長を含む脱出者は軽巡洋艦矢矧」や駆逐艦「秋月」に救助された[60]。艦歴は2年10ヶ月であった[61]。 翔鶴の喪失により、日本の空母戦力は、機動部隊として艦隊運用できる隻数、搭載機、乗員の確保が困難となり、事実上、空母機動部隊として作戦運用できる能力を失った。

艦歴[編集]

瑞鶴との違い[編集]

「翔鶴」と「瑞鶴」は識別が困難(搭乗員でさえ着艦を間違えた)であるが、艦橋直後のメインマストの中途に拡声器(スピーカー)を備えているのが瑞鶴である。但し、真珠湾攻撃時には双方ともメインマストの中途にスピーカーを備えており、昭和17年末には瑞鶴がこのスピーカーを艦橋左壁に移設しているため、艦橋直後のメインマストのスピーカーの有無を両艦の識別点にできるのは、ごく短期間のことである。尚、飛行甲板前部上に対空識別記号として,カタカナで、「翔鶴」は“シ”、「瑞鶴」は“ス”と記載されていた。

「翔鶴」の武勲を仰ぎ、海上自衛隊舞鶴基地では、舞鶴と羽ばたく鶴(翔鶴)を掛け合わせて舞鶴翔鶴太鼓を結成し、広報活動に従事している。

歴代艦長[編集]

艤装員長[編集]

艦長[編集]

同型艦[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ #続・海軍くろしお178頁
  2. ^ #5月(昭和14年達完)p.11『達第七十號 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ航空母艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十四年五月十六日 海軍大臣米内光政/航空母艦 翔鶴(シヤウカク)』
  3. ^ #海軍美談46頁
  4. ^ #海軍美談48頁
  5. ^ #艦艇特務艦艇籍一覧表p.1
  6. ^ 面白いほどよくわかる太平洋戦争 日本文芸社 p.37
  7. ^ #続・海軍くろしお182頁
  8. ^ #続・海軍くろしお183頁
  9. ^ #続・海軍くろしお184頁
  10. ^ #続・海軍くろしお185頁
  11. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、165、167ページ
  12. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、167ページ
  13. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、187ページ
  14. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、187-188ページ
  15. ^ a b 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、188ページ
  16. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、228ページ
  17. ^ 戦史叢書 南東方面海軍作戦1、189ページ
  18. ^ #第7駆逐隊詳報p.3
  19. ^ #続・海軍くろしお187頁
  20. ^ #第7駆逐隊詳報p.3、#続・海軍くろしお187-188頁
  21. ^ #続・海軍くろしお189頁
  22. ^ #続・海軍くろしお190-191頁
  23. ^ #続・海軍くろしお198頁
  24. ^ #第7駆逐隊詳報p.4、#続・海軍くろしお226頁
  25. ^ #海軍美談110頁、#続・海軍くろしお198-199頁
  26. ^ #海軍美談111頁、#続・海軍くろしお199-200頁
  27. ^ #海軍美談112-113頁、#続・海軍くろしお200-201頁
  28. ^ #海軍美談114頁、#続・海軍くろしお202頁
  29. ^ #第7駆逐隊詳報p.35
  30. ^ #第7駆逐隊詳報pp.31
  31. ^ #第七駆逐隊249頁
  32. ^ #第7駆逐隊詳報pp.32
  33. ^ #海軍美談115頁、#続・海軍くろしお210頁
  34. ^ #海軍美談118頁
  35. ^ #海軍美談120頁、#続・海軍くろしお207頁
  36. ^ #続・海軍くろしお207-208頁
  37. ^ #海軍美談119頁
  38. ^ #続・海軍くろしお214頁
  39. ^ #続・海軍くろしお213頁
  40. ^ #続・海軍くろしお215頁
  41. ^ #続・海軍くろしお217頁
  42. ^ #続・海軍くろしお217-218頁
  43. ^ #海軍美談138頁、#続・海軍くろしお218頁
  44. ^ #続・海軍くろしお219頁
  45. ^ #海軍美談149頁、#続・海軍くろしお220頁
  46. ^ #海軍美談150頁、#続・海軍くろしお221頁
  47. ^ #続・海軍くろしお225頁
  48. ^ #海軍美談167-168頁、#続・海軍くろしお228頁
  49. ^ #海軍美談152-153頁
  50. ^ #続・海軍くろしお231頁
  51. ^ #草鹿回想176頁
  52. ^ #海軍美談172頁
  53. ^ #続・海軍くろしお213頁
  54. ^ #続・海軍くろしお229頁
  55. ^ #第1機動部隊日誌p.3
  56. ^ #第1機動部隊日誌p.4
  57. ^ #あ号作戦翔鶴詳報p.3
  58. ^ #あ号作戦詳報(1)p.30
  59. ^ #国見 軍医156頁
  60. ^ #国見 軍医174頁
  61. ^ #続・海軍くろしお236頁

  

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070105000 『5月(昭和14年達完)』。
    • Ref.C08011233600 『艦艇特務艦艇籍一覧表』。
    • Ref.C08030770300「昭和16年12月8日 布哇空中攻撃隊 戦闘詳報」
    • Ref.C08030770600「昭和17年1月20日 ラボウル空中攻撃隊 戦闘詳報(戦闘詳報 第03)」
    • Ref.C08030770900「昭和17年1月21日 特別空襲隊 「サラモア」空中攻撃隊 戦闘詳報(戦闘詳報 第04)」
    • Ref.C08030771200「昭和17年1月21日 特別空襲隊 「マダン」空中攻撃隊 戦闘詳報(戦闘詳報 第04)」
    • Ref.C08051577100「昭和16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(1)」
    • Ref.C08051577200「昭和16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(2)」
    • Ref.C08051577300「昭和16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(3)」
    • Ref.C08030728400 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030728500 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030728600 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030727700 『昭和17年5月8日 第7駆逐隊戦闘詳報.珊瑚海海戦』。
    • Ref.C08030036200 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。   
    • Ref.C08030711900 『昭和19年6月15日~昭和19年6月20日 あ号作戦 軍艦翔鶴(除1部飛行隊)戦闘詳報』。
    • Ref.C08030039800 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030039900 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030040000 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(3)』。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 南東方面海軍作戦1 ガ島奪回作戦開始まで』、朝雲新聞社、1971年
  • 草鹿龍之介 『連合艦隊参謀長の回想』 光和堂、1979年ISBN 4-87538-039-9
  • 福地周夫 『続・海軍くろしお物語』 光人社、1982年ISBN 4-7698-0179-3
    福地(海軍少佐)は翔鶴運用長。1941年8月20日着任、1942年11月「陸奥」に転勤。
  • 福地周夫 『海軍美談よもやま物語』 光人社、1985年ISBN 4-4698-0287-0
  • 国見寿彦著・河原崎勇監修 『海軍軍医の太平洋戦争 防空駆逐艦秋月』 近代文藝社、1992年ISBN 4-7733-1675-6
  • 歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.13『翔鶴型空母』学習研究社、1996年 ISBN 4-05-601426-4
  • 牧島貞一 『炎の海 報道カメラマン空母と共に』 光人社NF文庫、2001年ISBN 4-7698-2328-2
    牧島は日映カメラマン。空母「翔鶴」に乗艦し、南太平洋海戦に参加する。
  • 橋本廣 『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』 光人社、2001年ISBN 4-7698-1028-8
    橋本は南雲司令部の一員(信号兵)として「翔鶴」艦橋勤務。
  • 大高勇治 『第七駆逐隊海戦記 生粋の駆逐艦乗りたちの戦い』 光人社NF文庫、2010年ISBN 978-4-7698-2646-0

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