岩本徹三
| 岩本 徹三 いわもと てつぞう |
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|---|---|
| 渾名 | 最強の零戦パイロット,零戦虎徹 |
| 生誕 | 1916年6月14日 樺太庁 |
| 死没 | 1955年5月20日 |
| 所属組織 | |
| 軍歴 | 1934-1945 |
| 最終階級 | 海軍中尉 |
岩本 徹三(いわもと てつぞう、1916年6月14日 - 1955年5月20日)は、日本海軍のエース・パイロット。「最強の零戦パイロット」、[1]「零戦虎徹」と謳われ、日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ最前線で戦い続けた。戦後、岩本の手記は「零戦撃墜王」の題名で出版され、撃墜数は202機と記録している。
目次 |
軍歴 [編集]
- 1934年6月1日 - 呉海兵団四等航空兵、同年11月15日三等航空兵。
- 1935年8月20日 - 三等整備兵、同年11月2日二等整備兵、同年12月26日第34期操縦練習生卒業、一等航空兵。
- 1937年6月1日 - 普通善行章一線付与。
- 1938年4月30日 - 漢口空襲につき所属部隊に感状授与、同年5月1日三等航空兵曹。
- 1939年11月1日 - 善行章第二線付与、二等航空兵曹。
- 1941年5月1日 - 海軍一等航空兵曹(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)、同年12月24日感状授与。
- 1942年8月1日 - 支那事変戦功により勲七等に叙され功五級金鵄勲章受章、感状も受与。同年11月1日上等飛行兵曹。
- 1943年4月1日 - 海軍飛行兵曹長 分隊士。同年12月15日感状受与。
- 1944年11月1日 - 海軍少尉。
- 1945年9月5日 - 海軍中尉、予備役編入。
経歴 [編集]
出生~搭乗員へ [編集]
1916年(大正5年)6月14日、警察官の父親の元に樺太国境近くに三男一女の兄弟の三男として生まれた[2]。父親は東京の警視庁勤務だったが危険な外地勤務を志願し、そのころは陸軍守備隊陣地に囲まれた樺太国境に勤務していた。父親が北海道札幌の署長に転勤した小学校時代は、札幌で過ごし昭和初期当時にスキーで小学校に通っていたこともある。13歳のとき父親の退官で父親の故郷の島根県益田へ引越し、高等科2年から県立益田農林学校に進んだ。数学と幾何は優で、学校のクラブ活動ではラッパ隊に入部して、趣味では読書、植物や花など育てる土いじりを好む。幼少時よりワンパクですばしっこく勉強より体を動かすことを好み、地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させたことがあると伝えられる。子供の頃は、魚突きをして捕らえる名手であったといわれる。
益田農林学校を18歳で卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(豫科練習生予定者)を受験し1934年(昭和9年)に呉海兵団に四等航空兵として入団した。
海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と岩本は、両親に告げたという。航空科として半年後第三一期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊、卒業して1935年(昭和10年)8月20日付けで航空母艦龍驤乗組み。次いで操縦員を志望し、難関を越えて入団から二年後、1936年(昭和11年)4月28日付けで第三四期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊し、その後も激しい競争を勝ち抜き1936年(昭和11年)12月26日付けで卒業して佐伯海軍航空隊勤務、翌年7月に大村航空隊勤務となった。操縦訓練生時代は射撃の成績が抜群であり、自習にも励み消灯のあとでも本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあったと伝えられる。霞ヶ浦友部分遣隊の操練生時代には、大宅秀平中尉(操練14期, 1943年夏にソロモン戦線ガダルカナル上空で戦死, 251空)、戦後に零戦搭乗員たちから尊敬された磯崎千利大尉(最終階級、操練19期)たちから教えを受けていた。
日中戦争 [編集]
日中戦争開始後の1938年2月第一三航空隊付となり、黒岩利雄一空曹に率いられて南京に着任した。同航空隊の田中國義は「あの頃はすごいパイロットがそろっていた。先任搭乗員黒岩利雄、次席が赤松貞明、3席が虎熊正。私や武藤金義、あとから来た岩本徹三なんか食卓番ですよ。この頃の古い人たちはそれぞれ操縦もうまく名人ぞろいだった。」と回想している。
初陣となる1938年2月25日南昌空襲では4機撃墜確実1機不確実という目覚しい戦果をあげた。支那事変においては最終的にわずか半年の間に日本軍最多数撃墜数(14機)を公認されている。
| 中隊/小隊 | 一番機 | 二番機 | 三番機 |
|---|---|---|---|
| 1中隊1小隊 | 大尉 田熊繁雄 (海兵58期:この日戦死) |
三空曹 鈴木清延 (操練28期) |
三空曹 大森茂高 (操練33期) |
| 1中隊3小隊 | 一空曹 黒岩利雄 (操練13期) |
二空曹 楠次郎吉 (乙飛1期) |
一空 岩本徹三 (操練34期) |
| 1中隊5小隊 | 一空曹 赤松貞明 (操練17期) |
二空曹 松山次男 (乙飛3期) |
|
| 12空派遣 | 二空曹 小泉藤一 (乙飛2期) |
一空 尾関行治 (操練32期) |
|
| 2中隊2小隊 | 中尉 四元淑雄 (海兵62期) |
三空曹 樫村寛一 (操練24期) |
一空 尾知寿男 (操練31期:この日戦死) |
| 2中隊4小隊 | 一空曹 新井友吉 (操練15期) |
三空曹 菊地 章 (操練31期) |
一空 松村百人 (操練29期) |
| 2中隊6小隊 | 一空曹 内藤正男 (操練20期) |
三空曹 藤原金次 (操練29期) |
- 海兵:海軍兵学校、操練:操縦練習生、乙飛:乙種飛行予科練習生
1940年(昭和15年)に支那事変の論功行賞で生存者金鵄勲章の最後となる叙勲申請の栄誉をうけ、1942年(昭和17年)夏に下士官としては異例の功5級金鵄勲章(下士官の生存者のうち武功抜群相当)を初回叙勲された。片翼帰還の国民的英雄、樫村寛一一飛曹も同様に功5級金鵄勲章を叙勲されている。
太平洋戦争開戦まで [編集]
1940年4月から日本海軍の中心である連合艦隊の第1艦隊所属の第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練を開始、予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての激しい母艦訓練を開始した。訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機での)による帰投などであった。
翌年、1941年(昭和16年)4月付で連合艦隊内の第1航空艦隊(1航艦)創設にともない、第1航空艦隊の第3航空戦隊となった「瑞鳳」戦闘機隊に配属になり、飛行学校を卒業したての若い後輩たちを迎え訓練を続行した。
同年秋に最新型の高速大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」が進水し、第5航空戦隊が創設された。 3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員たちは第5航戦創立メンバーとして二手に分かれて「瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。
1941年秋の出港まで、岩本たち1航艦の搭乗員はその理由を知らされず九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合して、当時世界3大海軍国の米国、英国を飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられていた。当時の第1航空艦隊には3人乗り雷撃隊、水平爆撃攻撃隊、2人乗り急降下爆撃隊、単座戦闘機隊合せて艦隊搭乗飛行士総数1,000名に満たず、その内に前年度からの熟練者はかなり少なかった。
岩本の回想録の記述には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた様子がところどころに描写記述され残されている。
当時の艦隊飛行隊搭乗員 [編集]
岩本が開戦前から所属した母艦戦闘機隊は新型航空母艦の登場と艦隊の陣容一新に伴い、編成が順次変更されていた。そのなかで岩本は貴重な中堅の熟練搭乗員の一人になった。
開戦直前の1941年の状況は、母艦搭乗員は全体数が不足し、他の各軽空母からも経験豊富な攻撃機、急降下爆撃機搭乗員ペアたちが引き抜かれ、第1航空艦隊の各航空戦隊に配属、充実が図られていた。
岩本が1940年に訓練勤務した当時の「龍驤」は、技量実力ともに最高潮に達する直前の「第1艦隊」の第1航空戦隊であって、「赤城」、「加賀」、「龍驤」と「鳳翔」でローテーションを組んで整備と前線配備を行っていた。
- 加賀は1933年10月~1935年11月まで休み、近代化大改装を行った。
- 赤城は1935年末~1938年9月まで休み、近代化大改装を行った。
- 加賀は1938年12月~1940年10月まで予備艦となり第2次改装を行った。
- 龍驤は1939年11月~1940年11月15日まで予備艦となり休み、整備した。
- 赤城は1940年10月~1941年4月まで予備艦となり休み、整備した。
1941年4月16日に連合艦隊は新たに「第1航空艦隊(1航艦)」を設立し、「赤城」、「加賀」は1航艦1航戦に編入され、「飛龍」、「蒼龍」は第2航空戦隊として編入された。このとき「龍驤」は「赤城」、「加賀」との長年のペアを解消し単艦で第4航空戦隊に転出し離れ、交代で、就役したばかりの新小型空母「瑞鳳」、および1941年末に完成予定の「祥鳳」が第3航空戦隊として1航艦に編入された。岩本たちは前年度からの母艦「龍驤」での訓練で選抜された中堅搭乗員として、3航戦の空母「瑞鳳」に配属される形で1航艦に編入された。その半年後、1941年9月、10月に最新最大の高速大型航空母艦の「翔鶴」、「瑞鶴」が進水、相次いで予定通り就役し、「瑞鶴」、「翔鶴」による第5航空戦隊が創設され、第1航空艦隊に編入された。交代で、3航戦は「瑞鳳」、「祥鳳」(就役前)とともに転出し、このとき3航戦だった岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員は、辞令上は10月4日付け、第5航空戦隊設立当初のメンバーとして、それぞれ二手に分かれて「瑞鶴」、「翔鶴」に着任し順調に戦力が整った。これと同時期に並行して「赤城」を初めとする第1航空戦隊、第2航空戦隊とも人員交流が行われ各科航空兵力の攻撃部隊集中とバランスが図られ補強され、さらに「龍驤」から「赤城」に雷撃隊を引き抜き、1941年秋に陣容が整った。
太平洋戦争開戦時は、第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員[3]で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかったが、その後母艦と共にインド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜し太平洋戦争における岩本の初撃墜の戦果を得た。その後珊瑚海海戦と転戦する。
珊瑚海海戦 [編集]
人類史上初の空母と空母による対決となった珊瑚海海戦では、「瑞鶴」上空直掩において「レキシントン」、「ヨークタウン」の数次攻撃を迎撃した。米軍邀撃機は空母レーダーから日本軍機の位置の指示を受けて時々刻々の対応ができたが、日本軍は母艦から簡単な敵情程度しか知らされなかった。その中で岩本は母艦「瑞鶴」をよく護ったと戦闘中に艦長と飛行長よりの賞賛を受けた。
1942年5月8日、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒に上がっていたものの、残りの13機は事前に偵察機から「敵三十機味方主力方向に向かう」との報告を受けながら至近距離までせまってから緊急発艦であった。しかも瑞鶴第2、第3小隊は先頭の住田剛飛曹長機が不調で発艦できず、その為に後続機の発艦も遅れ、艦隊の邀撃体勢は後手となった。
先行して上がっていた岩本小隊3機は、高度7500メートルで、30キロメートル先の米攻撃隊を発見し、優位の高度からウォーレス・C・ショート大尉率いる17機に攻撃をかけて米軍急降下爆撃を攻撃して投弾を妨害した。ショート大尉は「急降下前、急降下中、引き起こし後、いたるところで零戦の妨害にあった」と報告している。この攻撃で低空に下がった岩本小隊は、上昇中に瑞鶴後方で味方戦闘機を攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見し、これに対して攻撃を加え岩本は1機を撃墜した。岩本隊はこの戦闘後、敵の攻撃を避けるためスコールへ退避中で激しくゆれる瑞鶴に着艦し補給を行った。
米軍の第二次攻撃迎撃の為に他の小隊と共に発艦し、岩本隊他は概ね高度6500メートルまで上昇の後、母艦から4.50キロメートルの海域で、高度5000メートルを飛行中のレキシントンからのF4F戦闘機に護衛されたSBD爆撃機を補足した。このうち岩本らは空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃を加えた。岩本は追撃に熱中する列機に対し中止を命じ、後続する筈の敵雷撃機の攻撃を予想して、スコールの雨雲の上の指揮官機に集まるよう信号を送り、1,2中隊12機で上空哨戒についた。瑞鶴がスコールに退避して無事を確認したが、翔鶴は航行に支障はなかったが爆撃で飛行機の発着が不能となったことに岩本は気がついた。予想通りTBDデバステーターが現れ、岩本は空母10km先で気づき7kmの地点でTBD雷撃機を攻撃した。TBD機は遠距離から魚雷を投下したため両空母に被害はなかった。岩本は後にこの雷撃機に対して「日本機なら攻撃されても射点での攻撃を敢行しただろう」と回想している。追撃のチャンスだったが高度4000メートルで哨戒、10分後に味方戦闘機を高位より攻撃準備中の敵F4F戦闘機を発見し救援援護した。瑞鶴は相変わらずスコールに隠れていたが、翔鶴は集中攻撃を受けレキシントン隊オールト中佐のSBD4機が放った500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中した。
第二次攻撃隊が去ったと判断した岩本は、今はスコールの外を航行中の瑞鶴に燃料と弾薬の補給の許可を求めたが容れられず、暫く高度5000mで直衛哨戒を続けたが燃料切れ間近となったので母艦に着艦要請を出し翔鶴隊と共に着艦。岩本は補給後に指揮官として7機を指揮し上空直衛に上った。しばらく後に、米空母を攻撃した日本軍機が帰還し、翔鶴が着艦不能なために全て瑞鶴に収容されたが、その後も1時間ほど直衛についた。
被害の大きさから井上成美中将は日本空母部隊を撤退させたが、連合艦隊からの攻撃続行命令受けたために瑞鶴は反転した。しかし、その後両軍が再度会敵することはなく、現実的には瑞鶴の岩本戦闘機隊の収容が珊瑚海海戦の終了となった。母艦瑞鶴と岩本らの直衛隊は1名の戦死もなく無傷であった。しかし、攻撃隊は多くの搭乗員を失い「さびしい。涙がにじむ。このように一度に多数の戦友を失ったのははじめてだ。」「優秀な搭乗員を多数なくして、これからさき、いかにして闘ってゆくつもりだろう」と心境を後につづっている。
この時期、後輩に当たる堀建二2飛曹は岩本から次のような指導を受けたことを記憶している。「どんな場合でも、実戦で墜されるのは不注意による。まず第一は見張りだ。真剣に見張りをやって最初にこちらから敵を発見する。そして、その敵がかかってきたら、機銃弾の軸線を外す。そうすれば墜されることはまずない。地上砲火による場合。これは、どうにもならん。避けようがないからな。その場合は潔くあきらめるさ!」岩本はまた次の武士道的言葉を、常々自身に言い聞かせていたと言われる。「媚(こ)びず、諂(へつら)わず、とらわれず。」
ラバウル航空戦からトラック島転進まで [編集]
内地帰還後、ただちに消耗した搭乗員の補充・練成にあたった。6月15日より1か月、「瑞鶴」はアリューシャン攻撃部隊支援として出撃するが、悪天候のため戦闘機隊に活躍の場は無かった。8月岩本は、搭乗員の教育要員として大村空、その後横空に転属した。1943年(昭和18年)2月上旬に追浜空所属機に搭乗し、芦ノ湖上空で木村泰熊上整曹たちとともに快晴の富士山上空を飛翔する、標識番号「オヒ-101」の零戦21型の写真を残している。
1943年3月、岩本は281空の開隊とともに配属となった。4月には飛曹長に昇任し分隊士となる。5月に対アリューシャン方面の最前線である幌筵島武蔵基地に進出。幌莚時代には、勤務の間に同僚後輩を連れ立って遡上してきた鮭を大漁に捕らえ、酒宴を開いたとのエピソードがある[4]。
1943年11月、岩本ら281空の16名は一大航空戦が展開されていたラバウルに派遣され、第二〇一航空隊に編入後、第二〇四航空隊、さらに二五三空に異動となる[5]。 ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害を出さず7機を撃墜。隊全体で敵52機を撃墜する大戦果をあげた。また岩本が先行し部下がそれにならって3号爆弾で敵14機編隊を一度に撃墜したこともある[6]。 激しい戦いによりベテランパイロットが次々と戦死する中、生残りの数少ない実力派の搭乗士官(飛曹長=准士官)として空中指揮を担当した[7]。
彼はラバウル航空隊の誇りにかけて、死力を尽くして戦った。このころラバウルでは「ラバウルの空は岩本でもつ」と称えられた。ラバウル要塞と周辺空域は、米軍からドラゴンジョーズ(竜のアゴ)と呼ばれ恐れられていた。これは、ラバウルの地形が竜のアゴに似ていることと、侵攻すれば大損害を受けることを恐れてのあだ名であった。
ラバウルでは、迎撃戦のみならず対地攻撃でも多大な戦果を挙げている。特にブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務では、単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功し、20機以上の米軍機を銃撃で破壊した。飛行場手前で急上昇して、滑走路に並んだ列線に一撃、切り返してもう一撃、そのまま低空を突っ走って帰ってきた。そして、現地の陸軍からは「敵飛行場は火の海になっている。」との電報が入ってきた。このときの出撃は、先任飛曹長が出撃を拒絶してしまったため、その状況を見かねて岩本自らが志願したと述懐している。
12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で「爆撃機を1週間のべ1,000機平均(ニミッツの太平洋戦記)」、「陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリー・ボイントン)」という空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で連日行われた。日本軍は約20~30機の零戦で粘り強く対抗しつづけ、同僚・後輩にも多数機撃墜者を輩出している。実際はこの少数であった日本軍の兵力をアメリカ軍は過剰に見誤り、日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗していると考えていた。このためアメリカ本国に増援を求める報告を発信している。後述のラバウル航空隊69対0勝利の記録フィルム、日本ニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」はこの時期の撮影であり、地上員からも撃墜50機以上を数えたことが目撃されている。また1月7日の多数機撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞されたことが知られている。岩本の活躍は郷里の益田にもニュース映画を通して知られ、岩本が搭乗したゼロ戦のプロペラが益田小学校に展示されていた。この頃、ニュース映画を見て「益田の岩本さん」を知ったある女学生が、戦後岩本とお見合いで知り合い、岩本夫人となった。
岩本は編隊による優位位置からの一撃離脱戦法を多用していた。1943年末のラバウルはすでに4機編隊単位の編隊攻撃になっていたが、海軍戦闘機では希な、機上無線機のモールス電信を活用し連携を心がけ、基地司令部との交信で来襲情報を受信し、迎撃隊を有利な位置に導いて戦闘指揮した。岩本の空戦戦法は、常に先制攻撃、優位優速のうちに離脱する編隊戦法が主流であるが、格闘戦でも絶対的な自信を持っていた。ある日の空中戦では、岩本単機対F6F戦闘機4機で空戦に入り、そのことごとくを撃墜したことが地上監視所から報告されている。この頃の岩本は「5倍や10倍の敵など恐くはない。ただし、エンジントラブルだけはどうしようもない。」と戦場で活躍する零戦の現実を記している。
岩本と同年兵の原田要によれば、「非常に沢山の敵機を墜とした岩本徹三君は空戦になると、まず空戦圏外に離れて戦況を見て、戦闘が終わって帰ろうとしている敵機を狙うというそうです。そうすれば確かに二百何機も墜とせるのかもしれません。戦争にはスポーツと違ってルールがありません。西澤君が墜としたのは八十何機ですが、彼の方が撃墜王と言われていました。岩本君は撃墜の証として、自分で機体いっぱいに桜の花を描いたけれども、海軍では個人の撃墜記録を認めていなかったこともあり、その行為はあまり良くは思われていませんでした。それでも中国戦線を皮切りに数々の激戦を乗り越え、腕も良かったのは確かでしたので、最後の方では皆も認めていたようです。その岩本君とは佐伯の航空隊で一緒でした。撃墜王と呼ばれることとなった坂井君、岩本君、西澤君、彼らは皆とても賢明でした。いわゆる戦況を見る目が肥えていたのではないかと思います。」とのコメントがある。
昭和18年末から19年2月まで、岩本飛曹長の搭乗した253航空隊の102号機は零戦二二型で、撃墜数を表す桜のマークが60~70個も描かれており、遠目からは機体後部がピンク色に見えた。もちろん、この機体は上空でも敵の目を惹いたが、岩本は敵機をことごとく返り討ちにしていった。
当時のラバウルは、マッカーサーの南西太平洋方面軍のフィリッピンへの進路にあって米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中していた。岩本は1943年12月4日ラバウルで邀撃後基地に帰還時を狙って奇襲をかけて多くの日本軍戦闘機を撃墜したアメリカ軍機を、待ち伏せ攻撃で奇襲し撃墜したが、彼らを「送り狼」と呼んだ。このように、攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する「敵側の味方攻撃への直接的阻止」に目的を置かない「送り狼」戦法について、「我々の今やっている戦法は長い間の実戦の経験から体得されたもので、今来たばかりの部隊にはとうてい理解できないところがある」と岩本自身も述べている。
空中戦では常に一番に敵を発見していたが、視力検査をすると彼の視力は日本海軍パイロットとしては良い方ではなかった。敵機の索敵方法について教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃんせん、感じるもんです。」と言いつつ、戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知してゆく彼の索敵方法を教えていった。また、会敵までの敵距離の予測を、米軍機の機上電話(短波無線)を傍受しその強弱によって、敵との遠近を推測する彼独自の電子戦を実施していた。
1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため二五三空はラバウルより撤収しトラック島に移動。岩本も以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊はほとんど機材も人員も補充を受けることが出来ず[8]、テニアンの一航艦司令部からの三号爆弾の要領指導の派遣を「一名の余裕もなし」と断るまで余裕を失っていた。遂に飛行可能機が搭乗員の1/3となり1944年6月、機材を自力で補充するべく岩本ら空輸要員4名を内地に派遣帰還した。当然機材受領後にトラック島に復帰する予定だったが、帰還直後に米軍のサイパン侵攻が始まり、戻るための主要空路が遮断されてしまった。このため復帰は取り止めとなり、岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、8月、柴田武雄司令の岩国三三二空に異動となった。この時期までに飛行時間は8,000時間を超え、離着陸回数 13,400 回を超えた[9]。
重爆への背面垂直降下戦法と三号爆弾 [編集]
岩本らラバウル航空隊では、敵爆撃機の編隊に対して1000~2000m上空から敵の進行方向と正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3~5000m程度になった時に背面飛行に入り射撃角度を調整しながら急降下し、敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃を直上から爆撃機の操縦席を狙って1~2秒の間に発射し高速で下方向に離脱、再度上昇して反復攻撃する攻撃法を採用していた。岩本らは繰り返しこの戦法でB-24撃墜の戦果をあげていた。この戦法のメリットは敵編隊の機銃の数が制限されること、自機の機速と敵の機動により照準がつけにくいことであり、デメリットは高度な飛行テクニックと計算力、射撃能力が要求される。岩本は「この攻撃方法は1秒でも時間を誤れば失敗するが操作時期さえ良ければ十中八九成功する」が「若い搭乗員にはそんな難しい攻撃法はとても無理である」と述べている[10]。後に岩本は大隈半島上空でこの攻撃法によりB-29を一撃で撃墜した。
この攻撃方法を応用して、岩本飛曹長、小町定上飛曹、熊谷鉄太郎飛曹長らにより、三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃が行なわれた。背面で機銃攻撃に入る代わりに爆弾を投下して、敵編隊から降下速度を利用してその後方に抜ける戦法である。戦後の回想録および複数の目撃証言でその詳細が明らかにされた。三号弾は1942(昭和17)年後半に導入され、当初は飛行場襲撃に使用されていた。1943年12月9日の岩本らの小隊による試用攻撃で、帰途集結旋回中の編隊26機を一気に撃墜、その後機会があるごとに熟達し、一撃で艦爆14機、トラック基地B-24迎撃戦では余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。しかし、岩本自身は「(長年の経験による)カンで投弾したので、あれこれ口で説明するのはなかなか難しい」と最初の投弾についての報告について回想している。笠井智一上飛曹は「自分の飛行機のカウルフラップから敵の機影が見えたら、背面になって真っ逆さまに突っ込んでいって、三号爆弾を落とす。しかし、三号爆弾というのは難しい爆弾でね、あれは落としてから3秒後に爆発するようになっていて、爆発するとタコの足みたいにピューッと散弾が落ちて広がっていくわけです。これが編隊上空で爆発すれば、相当効果があったんだけども、それがなかなか難しい。」と三号爆弾を評している。
トラック島253空電信員加藤茂の回想では「丁度、敵機が真上をすぎたときである。電信員がかぶっているレシーバーから、 なにやら訳の分からない英語の叫び声が防空壕電信室一杯に響き渡った。あまりの近距離と、敵機の電信機の出力が大きいせいであろう。と、その時叫び声が泣き声のように変わる。明らかに絶望的な叫び声がつんざいた。これこそおそらくは我が零戦隊の岩本飛曹長らが投じた3号爆弾が敵編隊に命中したものであろう。壕から出て敵機を見ると、数条の白煙を吐いたB24がまさに夏島の山かげに消えて行くところであった。」
この頃僚機であった小町定は「三号爆弾を落とす時は、人によって、また場合によってやり方は異なりますが、約千㍍の高度差をもって敵編隊と同航し、その前方に出てちょうど自分の翼のつけ根の後ろあたりに敵が見えた時、切り返して背面ダイブで垂直になって突っ込むんです。しかし大型機はなかなか、ガソリンを引くことはあってもその場で落ちることは少なかったですね。岩本先輩とはラバウル、トラックでは私は腕を競い合う仲にありました。地上の運動は何をやってもできるし、空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていました。」と語っている。
内地への帰還 [編集]
内地では各航空隊を転々としつつ、教官兼指揮官として勤務した。日本軍が敗退を重ねる戦況にあっても岩本は戦果を重ねた。1944年(昭和19年)9月戦闘三一六飛行隊(二五二空)、台湾沖航空戦・フィリピン戦から戻った11月に少尉任官後、1944年11月戦闘三一一飛行隊(二五二空)、1945年(昭和20年)3月末に岡嶋清熊少佐の戦闘三〇三飛行隊(二〇三空)。1945年6月二〇三空補充部隊で教育任務を果たすこともあったが、激戦地での前線での戦闘にも多数参加しており、10月の台湾沖航空戦、フィリピン戦、初陣若年搭乗員らで構成された編隊による1945年2月16日関東地区迎撃戦での空戦での勝利、沖縄戦開始の米軍上陸地点を最初に確認した夜間単機強行偵察、4月~6月半ばまで数次にわたる特攻作戦の直掩、4月7日戦艦「大和」復仇戦、鹿屋基地上空でのB-29編隊単機撃墜など何度か死線を越えて引き続き戦果を挙げ続けた。
沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察では、岩本が単機で慶良間諸島で上陸作業中の米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えたことが、慶良間海洋文化館の記録と、岩本の手記とで一致している。日本軍守備隊があっけなく撃破され、島民が自決を選ぶ最中、勇敢な日本の飛行機がたった1機で米軍に挑む姿が、今なお記憶に留められている。
特攻 [編集]
岩本は特攻に対して「この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気は目に見えて衰えてきた。神ならぬ身、生きる道あってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。」と批判していた。特攻隊員募集の調査があり、賛否の意思表示を書類に記入するよう上官に命じられた際「死んでは戦争は終わりだ。われわれ戦闘機乗りはどこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き落としていくのが任務じゃないか。一度きりの体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」との自論を展開し[11]、特攻を推進する上官には「命ある限り戦ってこそ、戦闘機乗りです。」と反論した。岩本は「こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった[12]。」と回想している。
しかし「軍隊では命令は至上のものであり」、全軍的な特攻への流れにも抗する術もなかった。彼自身も教官として補充搭乗員の教育指導にあたったが、彼の指導を受けた者のうち多くが特攻配備となる運命であった。このうち第1御楯特別攻撃襲撃隊大村中尉以下の活躍について「短期訓練で、あれだけ困難な任務をよくもやりとげたもものだと、強い感銘を受けた」という。回想録では、近接護衛戦闘機として数十機の特攻機の突入を目の当たりにして、数刻前まで共に存在していた人々が消えてしまったことに「髪の毛が逆立つ思いであった。」「せめて彼らの最後と、その戦果を、詳細に見届けておこうと、私は何時までも上空を旋回していた」としている。戦争末期の飛行機の搭乗員に対して「訓練しては前線に送り、一作戦で全滅させて、またもや訓練の繰り返しである。実戦に役立つ戦力に達するには程遠い。しかし、前線では搭乗員が不足しているのだ」と葛藤を述べている。
岩本は、常軌を逸した命令に対してはたとえ上官であっても決然と筋を通そうとし、時々上官とも衝突を起した。しかし、岩本を理解する柴田武雄、中野忠二郎、福田太郎、八木勝利、岡本晴年、岡嶋清熊といった上官たちからは強い信頼を寄せられ、前線の戦闘員として以上に後方の教育任務に就くことが望まれた。岩本に指導を受けた後輩の印象では、「西沢広義飛曹長は長身で目つきが鋭くて眉も太い精悍な顔つきから、なるほどあれが撃墜数150機の撃墜王だと感じた。一方で、小柄の体でやさしい風貌の岩本少尉には、どこにそのような力があるのだろうかと感じた。」と述懐している。
撃墜王達の夜 [編集]
1944(昭和19)年9月、千葉県茂原基地で二五二空戦闘第三◯二飛行隊の角田和男少尉が謹慎していたとき、撃墜王たちが訪れた。二五二空から岩本徹三、斎藤三郎。二〇三空から西沢広義、長田延義、尾関行治。中でも西沢は岩本に並ぶ日本海軍トップエースだった。他にも斎藤が18機、尾関が14機、角田も10機といずれも戦隊のエース級である。彼らの話はやがてラバウルでの航空戦になり、皆は岩本と西沢の話に聞き入った。
岩本は「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。1回の空戦で5機まで落としたことあるな。」
西沢は「岩本さんそりゃずるいよ。私らが一生懸命ぐるぐる回りながらやっているのを見物してるなんて(岩本は1943年11月にラバウル着任、西沢は43年10月に内地帰還しているので実際にラバウルでこういう場面があったわけではない)。途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか。」と言った。
「でも、俺が落とさなくちゃ、奴ら基地まで帰るだろ?しかしいつもこうしてばかりもいられない。敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ。」と。
この夜から一ヶ月も経たないうちに西沢は輸送機に便乗移動中にミンドロ島で、尾関はルソン島上空で戦死、斎藤は負傷、長田も翌年沖縄沖で戦死した。岩本は「我々には伊達に特務の2字がついているんじゃない。日露戦争の杉野兵曹長の昔より、兵学校出の士官にもできない、下士官にもできないことをするのが我々特准なんだ。がんばろうぜ!」この時、謹慎中の角田を励ました。
本土防空戦そして敗戦 [編集]
岩本は、部下や訓練生、整備兵たちにも信頼され愛された人間であった。予科練出身の252空所属若年搭乗員の回想には「優しい人柄で決して乱暴はせず、むしろそれほどエライ方といった印象は受けなかった」と記述している。
土方敏夫中尉の沖縄戦での回想には岩本から受けた指導が残されている。上空からグラマンの不意打ちを食って全機が下方に避退したことについて「あんなときは、全機が降下するのではなく誰かが上昇するようでなければ駄目なんだ。これは責任感の問題だ。」と岩本がその日の空中戦について地上で話し合ったとき力説していたという。この日の空戦は岩本も足の指に負傷するほどの激戦で、着陸後しばらくの間、岩本は操縦席の中で動くことすらできなくなっていた。岩本は経験未熟な若年の土方敏夫中尉が配属されたとき「初陣で弾を撃ってはいけません。私がまず敵を落として見せるから離れずついてきて見ていればいいです。最初から敵を落とそうなどと考えては一人前になれません。もし着陸してから調べてみて弾が出ているようなら私は貴方を軽蔑しますよ。」と話した。しかし乱戦となり、自らの上官を見失い着陸後に再会して、上官に対して「申し訳なかった。」と泣いていた。また、岩本の戦いぶりを地上で見ていたときは「岩本さんは被弾して帰ってくることが多かった。あるときは、機体じゅうに被弾してよく墜ちなかったなあと思った。」という。土方中尉の編隊が場外飛行に向かう途中、天候不良で岩国に引き返してきたとき、岩本は土方中尉に「無理をしてはいけないですよ。よく引き返しましたね。」とその判断を褒め、褒められた土方中尉は「あの恐ろしいと思っていた岩本少尉が褒めてくれたのは、何よりも嬉しいことであった。」と感じたという。「岩本少尉は、救命胴衣の背面には通常は所属部隊と姓名官職を書くところ、救命胴衣の背中に「零戦虎徹」(「虎徹」の二文字は新選組局長・近藤勇の佩刀としても有名な刀工長曾彌虎徹興里になぞらえたもの)、「天下の浪人」など大書していました。この「天下の浪人虎徹」の文字はよく目立ち、名前を聞かずとも岩本少尉であるとすぐわかりました。岩本少尉の普段は、見たところ田舎のじいさんのような格好をしていましたが、一旦車輪をしまって飛び上がれば、向かうところ敵なしでたいてい撃墜して帰ってきました。」と回想している。
第203航空隊の安部正治上飛曹の手記によると、岩本先輩は支那事変からの古強者で、海兵団出身者には親しみを感じられていました。岩本先輩は小柄で物静かでしたが、強い殺気を感じさせるものがあり、さながら昔の剣客といった印象でした。彼の放った射弾は垂直降下中でも、どの方向からでも敵機に吸い込まれていきました。昭和20年5月4日、安部上飛曹は沖永良部上空で空戦に入り、F4Uを撃墜した。基地に帰投後岩本分隊士から「どうや?やったか?」と質問され「はい。1機やりました!」と答えると「うん。よっしゃ!よっしゃ!」と元気な声で戦果を集計された。その姿はピンピン跳ね返るような嬉しさに満ち、まさに撃墜が戦闘機乗りの最高の生きがいであると言わんばかりであった。岩本自身「この撃墜の瞬間の気持ちは、なんとも言えない。命をまとに闘っている戦闘機乗りにだけ許された至境であろう。」とラバウルでの戦闘で述べている[13]。
岩本はラバウル時代、単機夜間洋上超低空飛行によるブーゲンビル島タロキナ飛行場銃撃の経験があり、茂原二五二空では後にサイパン銃撃隊(第一御盾隊)隊員となる若年搭乗員達を訓練していた。いわゆる練成部隊で、実戦経験豊富な岩本にはうってつけの配置であった。最後はB-29への空対空特攻を主任務とする「天雷特別攻撃隊」教官として岩国の第二〇三航空隊で終戦を迎えるが、喪失感のあまり3日ほど抜け殻のようになったと述べている。終戦から数日後、搭乗員解散命令で、写真など全部の所持品を焼いて、ウイスキー1本を軍用自転車に積んで、岩国から益田まで帰郷した。終戦後の9月5日、海軍中尉に昇任した。
戦後の生活 [編集]
戦後は東京のGHQに2度呼び出されラバウルなどの戦闘の様子について尋問された。戦犯には問われなかったが、公職追放となった。岩本は日本開拓公社に入社し、昭和22年2月11日、同郷の幸子夫人と見合い結婚するが、結婚3日後に北海道の開拓に単身出発した。しかしながら1年半で心臓を病み帰郷。このとき夫人と再会した岩本は、夫人の顔を忘れていたようである。その後の生活は不遇であり、空の生活から地上の生活になじめず、また軍隊気分も抜けず、戦後の世相への適応も簡単ではなかった。そして次第に心のはけ口をアルコールに依存していった。しかし、近所の人たちには戦時中の話をして喜ばせ、隣家で結核患者が病死した際、感染を恐れて誰も遺体に近づかない状況をみかねて、岩本は鼻の穴に綿をつめて一人淡々と遺体を葬った、との逸話が残っている。 益田土木事務所をはじめ、畑仕事、鶏の飼育、駅前の菓子問屋などの職をかわった。2人の子を持つ父親としての岩本は、手先が器用だったので、子供のおもちゃは自分で作っていた。トタン、ブリキを買ってきては、自動車を作って色を塗り、時計、電蓄、バイク、自動車などよく自分で修理した。自動車は近所のポンコツでも立派に動きだすので夫人に感心されていた。1952年(昭和27年)、GHQ統治支配が終わり益田大和紡績会社に職を得てようやく落ち着いたが、1953年(昭和28年)、盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術すること3回、さらに入院中に戦傷を受けた背中が痛みだし4,5回の手術を行い、最後は麻酔をかけずに脇の下を30cmくらい切開して肋骨を2本取り出した。最後は敗血症により、原発の病名も不明のまま1955年(昭和30年)5月12日、7歳と5歳の男の子を残して逝去。享年38。病床にあっても「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と語っていた。戦後20年を経て、彼自身の詳細な回想録が世に出るに至り、その戦歴が明らかにされた。岩本の次男はその後航空自衛隊に入隊した。 彼の死後、上官だった柴田武雄は「岩本は、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男でした。」と語った。
写真についての情報 [編集]
岩本徹三には、当時戦った人たちの回想録に掲載された生前の写真や、動画フィルムが存在する。書籍では鹿児島基地で撮影の岩本徹三が最も多く掲載されている。体格は細身で身長は小柄な 150 cm 前後であり、当時の海軍では戦闘機向きとみなされた。岩本徹三の顔は、長い戦歴中に変わった。
- 1936年、操練生当時の少年の若々しい顔
- 1941年秋、瑞鶴の愛機 EII-102 垂直尾翼前に立つ細身の写真。
- 1941年12月7日、ハワイ攻撃前日の瑞鶴飛行甲板上、第1航空艦隊・第5航空戦隊・瑞鶴戦闘機隊の集合写真、幹部の座る第2列の右端で口ヒゲを生やし、やや丸くなった顔。
- 1944年2月20日、ラバウル・トベラ飛行場、トラックへ後退する日の253空戦闘機隊集合写真、すでに眼は落ちくぼみ頬はこけた。このとき同僚の小町定上飛曹はまだ元気で健康な顔。
- 1945年4月、鹿児島基地での有名な写真「鹿基ニテ 岩本少イ」、痩せて強い日差しにまぶしそうな顔。
- 1945年3月、「零戦かく戦えり」の阿部三郎の章およびその後の「予備学生の零戦搭乗員記」で掲載写真に選ばれた岩本徹三の写真は飛行帽・飛行服姿で笑って立っている姿。
- 1955年、『歴史街道』2009年8月号に掲載された入院中の写真。『零戦撃墜王』の原本となった手記を執筆、整理中のものと思われる姿。公表されている岩本の写真の中ではおそらく生前最後の写真。
動画フィルム映像についての情報 [編集]
日本ニュース194“南海決戦場”の後半、1944年1月に撮影されたラバウル基地上空の戦闘フィルムで、岩本の姿が大写しで撮影収録された。
彼の回想記には、トラック島基地に内地から岩本たちをラバウルで撮影したフィルムを持ってきた・・・最後に私が一人、スクリーンいっぱいに大写しになっているのにはびっくりした、と記述、幸子夫人の回想には、当時はのちに結婚するとも知らぬまま、彼がラバウル出陣していた頃に益田小学校の屋内体操場で「益田の岩本さん」のニュースが上映されたので大勢で見に行き、指揮所の上官に向かって戦果を報告するところが大写しになった、と記述した。
日本ニュース194“南海決戦場”後半に収録のラバウル戦闘の映像では、連合軍飛行機が次々と炎上、空から海上、地上に落ちてくる映像撮影のあと、東飛行場(ラクナイ)滑走路脇の平屋建て指揮所の様子が収録された。指揮所正面の屋根切妻の腰板が半分ほど吹き飛び、壁も一部壊れ向こうが明るく見えている指揮所の暗い壇上に司令長官や司令たちが立ち並んで報告を受け、その前庭の土の搭乗員整列場所に各中隊搭乗員が並んで集合。報告を終えた搭乗員たちは仲間どうし敬礼挨拶しあい解散。
白い半そで服、半ズボン夏服姿の難しい顔して草鹿任一中将らしい長官や他の上級士官たちが、帰りの遅れている搭乗員たちを心配し指揮所の前に出てきて待ち、指揮所前の階段わき、指揮所建物向かって下手側に立てかけた大きな黒板に戦闘報告記入している周囲に若い士官たちが左右に集まり指揮所の壇上の手すりから覗き込み見ているシーンが続く。
その次のシーンで、カボックと落下傘バンドを外し、搭乗員帽をかぶったまま搭乗員服に身をつつんだ小柄な実務・空中指揮官クラスの搭乗員(岩本)が、中腰で黒板に白墨で書いている斜め後ろ姿。横書き文字筆跡は、クセや固さ崩しのない整った横書き楷書、当日ラバウル東飛行場零戦隊の全体集計した戦果報告をそのまま最後まで書きつづけ、撃墜計69、被害 被弾8、全機帰着(最後の「全機帰着」の行に、嬉しく誇らしい勢いある動作でアンダーラインを2本書き込む)まで、収録された。
ニュースフィルムではこの直後、最後に、司令賞の一升の酒瓶を1本ずつ2本もらってきてみんなに囲まれて喜ぶ小高飛長と遠藤ニ飛曹たちの姿が続いて終わる。この日本ニュース194の動画映像フィルムからは実際には、潮書房、光人社、学研、デルタ出版など各誌に、出典記載のないラバウル戦闘中の零戦写真として多く焼き増しされ、掲載された。このフィルムに撮影された零戦の尾翼機番の部隊マークはすべて204空の「9-」で始まる。
- 日本ニュース第194号、南海決戦場、ニューギニア・ソロモンの戦い NHK戦争証言アーカイブス(2010年8月閲覧)
開戦時・瑞鶴戦闘機隊隊員23名のその後 [編集]
開戦時、第一航空艦隊・第5航空戦隊・瑞鶴戦闘機隊所属 23 名のその後
| 氏名・階級 | 卒業期 | 戦死年月日 | 戦死場所、戦死時所属隊 |
|---|---|---|---|
| 1列目 | |||
| 清末銀二 一飛曹 | 甲飛 2期 | 戦死、1944年 2月 7日 | ラバウル邀撃戦、2航戦・龍鳳戦闘機隊 |
| 不明 | *** | *** | *** |
| 倉田信高 一飛 | 操練 54期 | 戦死、1945年 4月 6日 | 九州邀撃戦、203空・戦闘303飛行隊 |
| 前七次郎 一飛 | 操練 54期 | 戦死、1944年 2月11日 | ラバウル邀撃戦、2航戦・隼鷹戦闘機隊 |
| 藤井孝一 一飛 | 操練 54期 | 戦死、1944年4月27日 | 内地訓練中僚機と空中接触、653空 |
| 松本達 一飛 | 操練 50期 | 戦死、1942年 4月 9日 | インド洋ツインコマリー、1航艦5航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
| 2列目 | |||
| 牧野茂 一飛曹 | 操練 27期 | 戦死、1942年 4月 9日 | インド洋ツインコマリー、1航艦5航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
| 塚本祐造 中尉 | 海兵 66期 | 終戦時生存 | |
| 牧野正敏 大尉 | 海兵 65期 | 戦死、1942年 4月 9日 | インド洋ツインコマリー、1航艦5航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
| 佐藤正夫大尉 | 海兵 63期 | 戦死、1943年11月 9日 | ラバウル「ろ」号作戦、3艦隊1航戦・瑞鳳戦闘機隊 |
| 児玉義美 飛曹長 | 乙飛 2期 | 戦死、1942年 6月 6日 | ミッドウェー海戦、1航艦2航戦・飛龍戦闘機隊 |
| 岩本徹三 一飛曹 | 操練 34期 | 終戦時生存 | |
| 3列目 | |||
| 不明 | *** | 戦死、*** | *** |
| 亀井富男 一飛曹 | 甲飛 2期 | 戦死、1942年10月26日 | 南太平洋海戦、3艦隊1航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
| 坂井田五郎 二飛曹 | 操練 43期 | 戦死、1942年 8月26日 | 第2次ソロモン海戦、3艦隊1航戦・瑞鶴戦闘機隊 |
| 加納慧 一飛曹 | 乙飛 6期 | 戦死、1944年10月16日 | 台湾沖航空戦、254空 |
| 伊藤純二郎 一飛曹 | 甲飛 1期 | 戦死、1944年10月12日 | 台湾沖航空戦、221空 |
| 不明 | *** | 戦死、*** | *** |
| 4列目 | |||
| 佃精一 一飛曹 | 甲飛 2期 | 終戦時生存 | |
| 二杉利次 一飛 | 操練 54期 | 戦死、1944年 6月24日 | 硫黄島・米機動部隊邀撃戦、横須賀空 |
| 中田重信 二飛曹 | 操練 40期 | 戦死、1945年 4月24日 | フィリピン・ルソン島、201空 |
| 黒木実徳 三飛曹 | 操練 42期 | 戦死、1944年 2月12日 | ラバウル邀撃戦、2航戦・飛鷹戦闘機隊 |
| 小見山賢太 二飛曹 | 乙飛 7期 | 戦死、1944年 6月19日 | マリアナ沖海戦、第1機動艦隊3艦隊2航戦・652空 |
- 海兵:海軍兵学校、操練:操縦練習生、甲飛:甲種飛行予科練習生、乙飛:乙種飛行予科練習生
- 清末(キヨスエ)は筆記文字の転載時、清水、清洲(キヨス)と誤記された書籍がある。
- 倉田は金田と誤記された書籍がある。
著書 [編集]
- 遺稿の空戦ノート(未公開の大学ノート3冊)
- 零戦撃墜王初出版(今日の話題社, ISBN なし)昭和47年7月10日発行
- 零戦撃墜王新装版(今日の話題社, ISBN 4-87565-121-X)昭和61年2月25日発行
- 零戦撃墜王 (光人社NF文庫, ISBN 476982050X)
遺稿空戦ノート(零戦撃墜王新装版の巻末に掲載されたオリジナルノート沖縄戦1ページ写真より)
- 原文は横書き、各行約40~42文字程度にそろえ、1ページ28行である。
- 空戦機種、機数は文章中に直接は記入されていない、別欄に分けられている。
- 空中指揮官(准士官以上)の現認証明、行動調書に似た記述形式で、論文のように読まれることを意識した、細かいが各行大きさを揃えた読みやすい字で丁寧にびっしりと、詳細な戦況報告図とともに書きこまれている。
- 精神的にきちんとした真面目な性格の人の筆跡、文体である。小説家原稿のようなかきなぐった荒れた字体や修正はない。
「ラバウルで142機」は遺稿ノート中の各戦闘結果集計(「零戦撃墜王」新装版・今日の話題社に一部掲載)に基づくものである。戦後暫くして判明した事実に基づく内容の擦り合わせ修正はなく、日付を1ヶ月程ずらした(陰暦日付に近い)個所が数ヶ所あるが、搭乗員の日記は防諜のため日付を隠して書くことは他にも例があり、また戦後はGHQの統治支配が昭和27年春まで続き多数戦犯の外地拘置所や処刑、シベリア抑留も続いていた時代であり、どのような理由によるかは今日では確かめようがない。なお、光人社NF文庫では細部に修正あり、写真のコメント文は強い口調になった。
夫人たちの活動 [編集]
夫人は、未公開の回想録を後世に伝えた功労者の一人。彼がラバウルで活躍していた頃は郷里の女学生であり日本海軍のエースパイロットとして報道映画で紹介された彼を見たのが初めてであった。戦後山陰の郷里にもどった彼と平凡な見合い結婚で結婚し、生き残って苦しい生活の続いた彼を助けた。彼は不運にも早世してしまい、海軍時代を詳細に記した大学ノート3冊の回想録は日の目をみることなく死後10数年間夫人の下に保管されたままになっていた。
今日の話題社の中村正利はこの遺稿の存在を知り、原文を極力尊重して書き写し、戦史研究の秦郁彦が監修協力し「零戦撃墜王」と題し出版された。単行本の出版に際し、戦記画家の高荷義之が挿画・装丁図、新装本ではさらに零戦の武装系統図と動作解説を追加、全面的に担当した。
脚注 [編集]
- ^ 世界の最強撃墜王バイブル
- ^ p.24 - p.26, 押尾一彦・野原茂, 『日本陸海軍航空英雄列伝』, 光人社
- ^ ハワイ攻撃前日の瑞鶴甲板上で撮影した上官戦友後輩たちの集合写真をずっと大切に持っていた。
- ^ p.315, (亡夫岩本徹三の思い出), 『零戦撃墜王』(ハードカバー本), 今日の話題社刊
- ^ 消耗により二〇一空が解散したため。尚、二〇四空は翌1944年(昭和19年)1月にトラック島へ後退したが、その際搭乗員と機材は第二五三航空隊に引き継いだので、岩本も以後二五三空に所属した。
- ^ ゼロ戦の秘密 驚異の性能から伝説の名勝負までp.210
- ^ 当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直交代勤務に就くことが多かったが、岩本は直長として編隊指揮を執った。機数は可動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40機前後だった。なお、よく知られるドイツ空軍の東部戦線などの実力制と異なり、日本海軍の空中指揮は実力者ではなく階級に依存したため、搭乗員の練度が低下した大戦中盤~終盤において、有資格者に実力が伴うか否かは死活問題だった。
- ^ 1944年4月末のトラック第2次大空襲直後に内地から一度補充(雑誌『丸』「B24狩りの覇者 零戦五二型 戦闘100日詳報 253空 中山飛曹長」に詳しい)、ラバウルから復元零戦数機を引き抜き一度補充。
- ^ 大戦後期の日本海軍航空隊搭乗員の飛行時間は、哨戒パトロールを務める偵察機・多発機では、最古参搭乗者でようやく1万時間~7,000時間、空戦・格闘戦訓練が主務の戦闘機操縦者では、最古参で実質6,000時間~4,000時間、20代前半で活躍中のベテランで実質約2,000時間近くであった。戦闘機パイロットの実飛行時間を3倍換算するルールが定義・実施されたのは戦後の米軍・自衛隊から。岩本徹三の実飛行時間は多い。
- ^ 岩本徹三 「零戦撃墜王-空戦八年の記録」 光人社NF文庫 P.379~381
- ^ 角田和男『修羅の翼』光人社NF文庫、2008年 ISBN 978-4769825852 P.344
- ^ 岩本徹三 「零戦撃墜王-空戦八年の記録」 光人社NF文庫 p.333
- ^ 岩本徹三「零戦撃墜王」光人社NF文庫 p. 180
参考文献 [編集]
- 伊沢保穂・秦 郁彦 「エース列伝」『日本海軍戦闘機隊』 酣燈社、東京, 日本、1971年。
- 零戦搭乗員会 『海軍戦闘機隊史』 原書房、東京, 日本、1987年。ISBN。
- 岩本徹三 『零戦撃墜王』 光人社 NF 文庫、東京, 日本、2004年。ISBN 4-7698-2050-X。
- 石川清治 「ポートモレスビー空爆行」『雑誌 丸』 潮書房、東京, 日本、1971年。ISBN。
- キングE.J., 米海軍元帥 「日本殲滅戦争・作戦報告」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- 富岡定俊, 海軍少将・軍令部作戦部長 「日米作戦の比較・キング報告を読んで」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- シャーマンR.C., 艦長・海軍大佐 「空母「レキシントン」最後の日」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- ハルゼイW.F., 海軍大将 「太平洋の刺青提督」『特集文藝春秋 ニッポンと戦った五年間 -連合軍戦記-』 文藝春秋、東京, 日本、1956年。ISBN。
- 角田和男 『修羅の翼』 光人社、東京, 日本、2002年。ISBN 4-7698-1041-5。
- 奥宮正武 『ラバウル海軍航空隊』 朝日ソノラマ、1998年。ISBN。
- 宮崎勇 『帰ってきた紫電改』 光人社。ISBN。
- 守屋清 「p.178, ラバウルも敵の空に」『回想のラバウル航空隊(海軍短現主計科士官の太平洋戦争)』 光人社、2002年10月。ISBN 4-7698-1073-3。
- 磯崎千利 「直衛戦闘機隊ソロモンに果てるとも」『雑誌 丸』 潮書房、1986年。ISBN。
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- 第204海軍航空隊 「プロローグ 69対0」『ラバウル空戦記, 学研M文庫』 学習研究社、東京, 日本。ISBN 4-05-901070-7。
- 草鹿龍之介 「ソロモンの死闘: 日々、烈しい空中戦, 二百機対三十機の苦戦, 飛行機の増援を懇請」『聯合艦隊(草鹿元参謀長の回想)』 毎日新聞社、東京, 日本、1952年4月。ISBN。
- 佐薙毅 「ラバウル航空魂未だ健在なり」『雑誌 丸』 潮書房、東京, 日本、1973年。ISBN。
- 横山保 「零戦隊空戦始末記」『あゝ零戦一代』 光人社 NF 文庫、東京, 日本、1978年。ISBN 4-7698-2040-2。
- 柴山積善 「ソロモンに死闘する零戦隊」『雑誌 丸』 潮書房、東京, 日本、1969年。ISBN。
- 佐藤弘正 『ニューギニア兵隊戦記』 光人社 NF 文庫、東京, 日本、2000年。ISBN 4-7698-2278-2。
- ボイントン, グレゴリー; 申橋 昭 訳. “第9章 ラバウル攻撃”. 海兵隊コルセア空戦記 (BAA BAA BLACKSHEEP). 東京, 日本: 光人社. ISBN 4-7698-1169-1.
- サカイダヘンリー・碇 義朗 「4章 パイロットは悲し」『最後のゼロファイター (Rabaul's LastEagles)』 光人社、1995年7月。ISBN。
- サカイダヘンリー・小林 昇 訳 『日本海軍航空隊のエース 1937 - 1945』 オスプレイ社。ISBN。
- Tillmann, Barrett. Hellcat Aces of World War 2. Ospray. ISBN.
- 米国戦略爆撃調査団; 大谷内 一夫 訳. JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡. 光人社. ISBN.
- 「No.626 特集・ラバウル航空隊の戦闘機」『モデルアート』 モデルアート社、東京, 日本、2003年2月。ISBN。
- 土方敏夫 「p.248, 第八章 ニ○三航空隊戦闘三○三飛行隊 - 菊水七号作戦」『海軍予備学生 零戦空戦記』 光人社、東京、日本、2004年9月。ISBN 4-7698-1208-6。
- 零戦搭乗員会 「敗戦の日、スピットファイア撃墜記(阿部三郎) - 歴戦の岩本少尉」『零戦、かく戦えり!(文春ネスコ)』 文藝春秋、東京、日本、2004年6月。ISBN 4-89036-203-7。
- 潮書房編集部 「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三》岩本分隊士との出会い (安部正治)」『丸 12月別冊 戦争と人物 6, 全特集 撃墜王と空戦』 潮書房、東京、日本、1993年12月。
- 安部正治 「零戦五二型空戦記(撃墜王 岩本少尉の苦戦)」『世界の傑作機 No.53 零式艦上戦闘機52~63型』 文林堂、東京、日本、1973年7月。
- 神立尚紀 「宮崎勇の回想:特攻を希望しない者は前へでろ」『零戦最後の証言』 光人社、東京、日本、1999年10月。ISBN 4-7698-0938-7。
- 御田重宝 「p.132, 第二章 神風たちの周辺, 正攻法のニ航艦も特攻を決意, p.224, 第四章 さまざまな曲がり角「特攻は、統率の外道」と大西長官」『特攻』 講談社、東京、日本、1988年11月。ISBN 4-06-204181-2。