山本五十六

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山本 五十六
Isoroku Yamamoto.jpg
生誕 1884年4月4日
大日本帝国の旗 大日本帝国 新潟県長岡市
死没 1943年4月18日(満59歳没)
ソロモン諸島ブーゲンビル島上空
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1901年 - 1943年
最終階級 元帥海軍大将
(戦死後に元帥府に列せらる)
墓所 靖国神社多磨霊園長興寺
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山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)は、日本海軍軍人。第26、27代連合艦隊司令長官旧名聯合艦隊指令長官。海軍兵学校32期生。最終階級元帥海軍大将栄典正三位大勲位功一級1943年に前線視察の際、ブーゲンビル島上空で海軍甲事件により戦死。旧姓は高野。

生涯[編集]

明治[編集]

1905年撮影

1884年明治17年)4月4日新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市東坂之上町3丁目付近)[1]で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる[2]。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。軍で名前の由来を聞かれると不機嫌そうになった[3]。母親も45歳と高齢だった。[4]。子供の頃から負けず嫌いで、小学生時代「何でも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べだした[5]

長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業。中学生時代に10歳年長の甥である高野力が病死、両親の「五十六が高野力に代わって(立派な武士すなわち軍人になって)くれれば」という発言が五十六のトラウマとなった[6]。ゆえに軍人を目指し、既に「武士の家の子は武士になる」と語っていた[7]。五十六の兵学校志望は、父の妹が嫁いだ野村貞海軍少将から海軍の話をたびたび聞いていたのと、兵学校を目指したものの病弱では無理と諦め結局病没した高野力の影響が指摘される[8]1901年(明治34年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入校(これに留年した生徒が15名加わり、215名で教育開始)[9]。同期生に塩沢幸一吉田善吾嶋田繁太郎堀悌吉など[10]。在学中に堀悌吉と親友になった[11]日露戦争中の1904年(明治37年)11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業(兵32期)。[12]卒業時に教官より「もっと喋れ」と注意され、自身でも「温にして直」と戒めている。少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する[13]

1905年(明治38年)1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦日進」配属となり、5月27日の日本海海戦に参加する[14]。この海戦において、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。原因は、公式記録や五十六本人の手紙によれば「敵砲弾の炸裂」[15]、旧海軍関係者間からは「日進」の前部砲塔における砲身内早発である可能性が指摘されている[16]。負傷時に着用していた軍服は、太平洋戦争勃発直前に山本から故郷の博物館に寄贈された[17]。左腕切断の可能性もあったが回復した[18]。その後防護巡洋艦須磨」に5ヶ月、戦艦鹿島」に5ヶ月、海防艦見島」に4ヶ月、駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と、各艦に勤務する[19]。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けた[20]。卒業後、駆逐艦「春雨」、装甲巡洋艦阿蘇」乗組みを経て三等巡洋艦(練習艦)「宗谷」に配属となる[21]。「宗谷」では37期少尉候補生訓練を行い、井上成美草鹿任一小沢治三郎鮫島具重を指導した[22]1909年(明治42年)にアメリカに駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる[23]井上成美(生徒)によれば兵器学講座担当であったという[24]

大正[編集]

1913年大正2年)、両親が死去。五十六は夏季休暇を利用して母を看病している[25]。同年12月、海軍大学校に入学する[26]。在学中の1915年(大正4年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する[27]。高野五十六から山本五十六となった。

1916年(大正5年)12月、海軍大学校を卒業。大正6年1月腸チフスにかかり、療養中に発症した虫垂炎のため生命の危険に陥る[28]。大手術の末に回復し、故郷長岡で翌年6月頃まで休養した[29]。姪で看護師の高野京が看病をした[30]1917年(大正6年)7月、海軍省軍務局員を務めたのち、海軍教育本部第一勤務となった。この頃、友人から紹介された三橋礼子に一目惚れし、見合いを経て[31]8月31日に結婚した[32]

1920年代後半、米国滞在中の山本。右はカーティス・ウィルバー

1919年(大正8年)4月5日にアメリカに駐在、ハーバード大学留学した(~1921年5月5日)。米国の油田や自動車産業、飛行機産業に強い印象を受けている[33]。日本では専売指定されていた砂糖がともにプラントで大量生産され市場で大量消費されていることをワシントンの喫茶店で身をもって知り、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受ける。後に軍縮会議出席のため渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけ(仮想敵である)アメリカの物資を使ってやるんだ」と冗談で答えている。駐米海軍武官上田良武大佐(海軍航空開発の第一人者)の指導と影響が、航空機に着目するきっかけになった可能性がある[34]

1921年(大正10年)7月19日に帰国後、軽巡洋艦北上」副長、続いて海軍大学校教官(軍政学担当)に転じる[35]。1年後、海軍大学校教頭に山本英輔が着任し山本五十六の航空機観に影響を与えた[36]1922年(大正11年)、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察した[37]。ロンドン滞在中に関東大震災が発生すると、山本は動揺する周囲に対し「日本人は偉大な民族であり、前より立派に復興する」と励ましている[38]

海軍省副官あるいは元帥副官の話が持ち込まれていたが、山本五十六の自身の希望と、山本英輔海軍中将の推薦により、砲術から航空へ転科し[39]1924年(大正13年)9月、霞ヶ浦航空隊付、12月に教頭兼副長に補された[40]。山本は三和義勇(副長付)から航空機の操縦を学び、後に日本海軍の航空発展に深く関与するようになった[41]

山本はまず教頭兼副長を副長兼教頭に改め、三和に「当隊の軍紀風紀を刷新し遅刻、脱営者を皆無にするから補助しろ」と言った。また壇上で「下士官、兵にして頭髪を伸ばしている者はみんな切れ一週間の猶予をやる」と指示した[42]。三和義勇によれば山本は脱営者の見回りのため自身で率先して巡検していたという[43]1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再び米国に滞在する[44]。山本の航空隊在任は1年3ヶ月であったが、「天洋丸」に乗船して米国に向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った[45]

昭和[編集]

航空本部[編集]

1928年昭和3年)3月に帰国後、8月から軽巡洋艦五十鈴」艦長を務め[46]、水雷学校での講義で将来の海軍は航空主兵となること、対米作戦では積極作戦をとりハワイを攻めるべきと発言している[47]。4ヵ月後に多段式空母赤城」艦長[48]。着艦に失敗しそうになった飛行機に山本艦長自ら飛びつき、山口多聞中佐らと共に飛行甲板から落ちるのを防ぐなど航空に全力を注いだ[49]

1929年(昭和4年)11月、海軍少将に進級すると共にロンドン軍縮会議に次席随員として参加した[50]。海軍随員であった山本と山口多聞中佐は軍縮案に強硬に反対、日本側代表は混乱した[51]。一方で最も強硬に対米7割を主張して若槻禮次郎全権を困らせた。大蔵省から派遣された賀屋興宣が、財政面から軍備の大きい負担には堪えられないという旨の意見を言おうとした際に「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」等と怒鳴りつけ、青褪めた賀屋が慌てて言葉を飲み込んだ[52]。軍縮条約を巡って海軍内に艦隊派条約派という派閥争いが生じ、山本を含めた海軍の人事に大きな影響を与え[53]、この一件が、山本が艦隊派から同志であると受け止められた一因となり、山本出世のきっかけにもなった[54]。結局、外交団代表は山本の意に反して軍縮条約に調印。海軍士官学校同期生(第32期)クラス会では、適任ではなかったと予備交渉における苦悩を語っている[55]。失意の山本が海軍を辞めるという噂さえ流れた[56]。だが山本は立ち直り、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言した[57]

1930年(昭和5年)12月、海軍航空本部技術部長につくと航空主兵を強力に推し進めると同時に、未熟だった日本海軍航空機の発展に尽力した[58]。外国機の輸入と研究に積極的であったが「外国機の輸入は我航空科学技術の恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学の試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣に終わったら、欧米科学に降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利は日本科学の上に輝いたと思え」と技術者達を激励している[59]。1932年山本は海軍航空機の条件として、国産、全金属、単葉機の3つを掲げた[60]。 複葉機から単葉機への移行中に単葉機の速度が増え着艦距離が延びることが問題になったが、山本は母艦発着甲板の方を長くせよと指導した[61]

1933年(昭和8年)夏、横空研究会において、日高実保(大尉、海兵50期)が雷撃訓練に対空砲火や敵戦闘機の妨害の概念を取り入れるよう主張[62]。遠距離での発射を見越した高々度高速発射砲や魚雷の改善を求めた[63]。続いて柴田武雄が戦闘機の機銃の射程延長と・照準器や兵器弾薬の発明必要を訴えると、山本(海軍航空本部技術部長)が立ち上がり2人の意見を言語道断と否定。「そもそも帝国海軍のこんにちあるは、肉迫必中の伝統的精神にある。今後、1メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは絶対に許さん」と叱責した[64]

1934年(昭和9年)赤城の第一航空戦隊研究会で横空分隊長源田実大尉は、敵の航空母艦を先制制圧する為に急降下爆撃機を善用すること、航続距離の延伸、操縦性の軽快さ、戦闘機としての流用等を考慮した「単座急降下爆撃機」を考案して、戦闘機と攻撃機の半数づつをこれと入れ替える意見を出した際、山本は源田の言うように飛行機は攻撃に使用すべきであるとしつつ、航法上の安全性からやはり二座になると却下した[65]

1933年(昭和8年)10月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」(塚原二四三艦長)に座乗した[66]。故郷長岡の希望者22名を「赤城」に招き、山本自ら艦内を案内したこともある[67]

1934年(昭和9年)9月「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで真珠湾マニラを空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの戦争はやって見せる」と斉藤博駐米大使に語った[68]

1934年(昭和9年)9月20日、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表として日本を離れた[69]。対米強硬派の加藤寛治軍事参議官は「…見送盛也、但シ山本少シク上ボセ気味、大ニ托スルニ不足…」と日記に書いている[70]。山本は政府の意を受けて「戦艦・空母の全廃、兵力量の各国共通制限設定」を主張し[71]、列強交渉団と互角に渡り合う[72]。但し、「戦艦・空母の全廃」は会議の決裂を日本政府が意図したものであり、山本が出発する直前の9月7日にワシントン海軍軍縮条約の破棄が決定している[73]。このような状況の元で欧米と交渉中、同期親友堀悌吉中将が予備役に編入される大角人事があって山本は気力を失い[74]、又米国も条約締結について冷淡であり、結局予備交渉は中断した[75]。堀への手紙で山本は日本の対外強硬論への不満と苛立ちを語り[76]、又愛人への手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境を明かしている[77]

1935年(昭和10年)2月、シベリア経由で日本に帰国、東京駅に降りた山本を大角岑生海軍大臣、広田弘毅外務大臣等が出迎えた[78]。山本は海軍を辞める意思を持ったが、堀に慰留された[79]。山本はしばし故郷長岡で休養し、母校の学生達と交流する。第二次ロンドン海軍軍縮会議に赴く永野修身軍事参議官から随行するよう要請されたが、先の予備交渉で懲りた山本は固辞した[80]

1935年(昭和10年)4月に故郷長岡の阪之上小学校で演説を行い、日本人として重要な恩を「天皇の恩、親の恩、師の恩」を挙げ、「世の中に立って、国の為に尽くすことが、先生に対する生徒の、第一の恩返しになる」と語っている[81]

1935年12月、海軍航空本部長に任命される[82]横山大観から絵の呈上の申し出があった際には、全力で勤務にあたるため芸術にひたる余裕なしと述べて断っている[83]。空軍独立論について、山本は日本陸軍が主導権を握ることを懸念して強硬に反対した[84]。のちに太平洋戦争の島嶼戦において、陸海軍航空隊の指揮権を統一する提案が出た際も、一貫して反対している[85]海軍航空本部総務部長を務めていた時、直接の部下だった草鹿龍之介が山本のための機密費・接待費の捻出に苦労している事を知ると、山本は自ら海軍省と交渉に乗り出して金500円(当時価格)を獲得し、草鹿に渡している[86]。航空本部長時代、手相骨相鑑定家の水野義人を海軍航空本部嘱託に採用し[87]、山本は航空搭乗員採用試験の際に応募者の手相・骨相を鑑定させ、採用・不採用の参考としている[88]

この頃、欧米列強は新世代戦艦(ポスト条約型戦艦)の開発・建艦を一斉に開始し、日本も大和型戦艦の建造計画をたてる。山本は大西瀧治郎航空本部教育部長と共に反対論を唱え、艦政本部と対立した。山本の航空主兵論と中村良三(大将/艦政本部長)の大艦巨砲主義論の対立は結論が出ず、伏見宮博恭王軍令部総長の仲裁で1936年(昭和11年)7月に高等技術会議で大和型2隻の建造が決定され[89]、同時にマル3計画において3万トン級正規空母翔鶴型航空母艦2隻の建造も決定している。

1936年2月の二・二六事件では、反乱に賛同する海軍青年士官を一喝して追い返し、重傷を負った鈴木貫太郎侍従長のために医者を手配している[90]岡田啓介総理大臣の救出にも米内光政横須賀鎮守府長官と共に関わった[91]。二・二六事件における米内の対応を山本は高く評価し、後日永野修身海軍大臣が辞任する際、山本(海軍次官)は米内を後任海軍大臣として推薦している[92]

1936年11月の長岡での講演会では、海軍を辞めたのち長岡で青年の教育を行う夢を語っている[93]

海軍次官[編集]

1930年代末、米内光政と山本

1936年(昭和11年)11月25日日独防共協定が締結、翌月12月1日に海軍次官に就任[94]。海軍次官時代から新聞記者に人気があり、海軍省記者クラブ「黒潮会」に山本目当てで入会する者が多く、次官室会見で座れない記者が出るほどであった[95]。山本は海軍担当新聞記者の家庭についても把握して話題にしていた[96]。会議のあと米内海軍大臣が会見を行わず山本次官の会見だけで終わることもあった[95]。次官就任は山本の政治手腕を買っていた永野修身海軍大臣の熱望によるものだったが、山本自身はあくまで航空本部長の職を天職だと考えており、続投を望んでいた[97]。ただ、天真爛漫な性格の永野と性格の起伏が激しい山本の仲がしっくりいかない事は、新聞記者達の間では周知の事実だったという[98]。2ヶ月後広田弘毅総理大臣が辞職して廣田内閣は崩壊、林銑十郎総理による林内閣が成立し、山本は米内光政海軍大臣のもとで林内閣・第1次近衛内閣平沼内閣と留任する[99]。米内の海軍大臣就任は永野の最大の功績の一つとされ、艦隊派としてワシントン海軍軍縮条約に反対・統帥権でも問題を起こしていた末次信正軍事参議官の大臣就任阻止と加藤寛治海軍大将の影響力を抑えるという一面もあった[100]

この間、盧溝橋事件が発生して支那事変日中戦争)に拡大[101]第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入された[102]。山本は外交問題の処理に携わり、1937年(昭和12年)8月にナッチボルー・ヒューゲッセン駐華大使が日本軍機の誤爆で負傷した事件、12月に海軍航空隊が米砲艦を誤爆したパナイ号事件の解決に奔走する[103]。山本はジョセフ・グルー駐日大使に謝罪、同時に綿密な検証によって米国の誤解を解き、事件の余波を最小限に抑えている[104]。だが1938年(昭和13年)11月25日、米内海軍大臣は南シナ海海南島を占領する計画を五相会議で提案、閣議了承される。海軍軍令部(古賀峯一次長、宇垣纏第一部長、草鹿龍之介第一部第一(作戦)課長)も賛同し、1939年(昭和14年)2月に海南島を軍事占領した。山本は米英の反発を招く事を懸念して反対したが、伏見宮軍令部総長の賛成により制止できなかった[105]。草鹿によれば日本の南方進出を見込んだ布石であったが、東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった[106]。3月、米国で客死した斎藤博・前駐米大使の遺骨が米巡洋艦アストリア」(USS Astoria, CA-34)で礼送され、横浜港にて山本が受け取ったという[107]。4月、航空本部長を兼務した。

山本は日独伊三国同盟の締結に対し、米内海軍大臣、海軍省軍務局井上成美らとともに最後まで反対した人物である[108]。この事から海軍条約派三羽烏(海軍左派)とも言われているが[109]、日本陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出す等積極的姿勢を見せることはなかった[110]。山本達の反対理由は主に「米英との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる」「日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない」「条約で日本が損をする項目があるのではないか」「軍事同盟締結によりドイツ・イタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある」であった[111]。山本は榎本書記官に「世間ではオレを三国同盟反対の親玉のようにいうが、根源は井上なんだぞ」と不機嫌そうに語ったこともある[112]

三国同盟賛成派は山本のイメージを悪化させるプロパガンダを展開し、また暗殺の風評を流した[113]。山本は表面的には鷹揚に行動したが[114]、ひそかに遺書も書いている[115]。私服の憲兵が護衛についた他、自宅に機関銃が備えられたこともあった[116]。山本は、三国同盟賛成と反英国・米国世論の盛り上がりは日本陸軍と内務省の合議による組織的なものと報告した[117]。政治も世論も同盟締結に傾き、山本達は孤立していく。ところがノモンハン事件が起きて日本とソ連が軍事衝突を起こす中、8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結[118]。平沼内閣は『欧州情勢は複雑怪奇なり』の言葉を残して総辞職、日独伊三国同盟第一次交渉は頓挫した[119]。山本達は「(同盟締結の)芽だけを摘んで根元を刈り取らなかった」という指摘もある[120]

1939年(昭和14年)水から石油が採れると主張した科学者に海軍共済組合で実験させた[121]。一宮義之(海軍省先任副官)らは反対したが、山本海軍次官は「君達のように浅薄な科学知識ではわからない。深遠な科学というものはそうではない」とたしなめた[122]。しかし詐欺だった[123]

第26代連合艦隊長官[編集]

1939年(昭和14年)8月20日阿部内閣の発足時、8月30日山本(中将/海軍次官)は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する[124]。山本は連合艦隊司令長官に任官されることを拒み、吉田善吾海軍大将が海軍大臣に内定された際、吉田の下で次官として留まり日米開戦を回避出来るように補佐する事を要望して、米内海軍大臣に人事の撤回を強く要求したが認められなかった[125]。連合艦隊司令長官就任は采配・指揮能力を買われたものではなく、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性を当時の米内海軍大臣が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざけ、軍艦長門へ避難させるためにこの人事を行った[126]。山本は後任の住山次官について「海軍がだれが大臣、次官になろうと、根本政策、方針に変わりなく微動だにしない。住山が来たって同じで、その見本を示すためだ」と周囲に語っていた[127]。また山本は自宅で新聞記者を前に普段飲まない酒を飲み、最善の御奉公をするつもりだと連合艦隊司令長官としての決意と覚悟を語っている[128]。山本はアメリカとの戦争は無謀と知りつつ海軍軍人・連合艦隊司令官としてアメリカを仮想敵とした戦略を練り、福留繁聨合艦隊参謀長にハワイ奇襲作戦について語っていた[129]。また山本は米国と戦うためには航空機増産しかないとの信念に従って、当時最新鋭の零式艦上戦闘機一式陸上攻撃機各1000機増産を求めるが、軍令部第一部長宇垣纏少将に拒否された[130]。当時連合艦隊参謀長だった福留繁少将によれば、大和型戦艦3・4番艦(信濃111号艦)の建造を中止させて航空機優先の生産体制をつくるため、連合艦隊参謀長に伊藤整一少将を、福留を軍令部第一部長にする人事が行われた[131]。水平爆撃の命中精度が著しく悪いため水平爆撃廃止論が圧倒的に有力であったが、山本は自分が長官である限り中止はないと指導した[132]

1940年(昭和15年)、第二次世界大戦緒戦でナチスドイツはフランスを含めヨーロッパ全域を掌握する。同年2月下旬の手紙で山本は三国同盟について「唯あんな同盟を作って有頂天になった連中がいざと云う時自主的に何処迄頑張り得るものか問題と存じ候。当方重要人事異動の匂いあり唯中央改善と艦隊強化も得失に迷いあり候」と懸念していた[133]。山本の憂慮とは裏腹に日本はドイツへの接近を強め、日本海軍も親独傾向を強めていた[134]

幾度かの駐在経験からアメリカとの国力の違いを認識しており、1940年(昭和15年)4月11日の故郷・長岡中学校の講演で「伸びきったゴムは役に立たない。今の日本は上から下まで、全国の老人から子供までが、余りにも緊張し伸びきって、それで良いのか」と語りかけ、日本がアジアの真のリーダーとなるには20-30年かかると述べている[135]

海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定した[136]。会議直前、山本は及川古志郎海軍大臣から機先を制されて賛成するよう説得され、会議では殆ど発言しなかったので、司会役の豊田貞次郎海軍次官により『海軍は三国同盟賛成に決定する』が正式な結論となる[137]。山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった[138]。山本は堀に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客顛倒もはなはだしい」と言い残して東京を去った[139]。2ヶ月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印した[140]。山本はこれを受け、友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦長門の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る。」と語った[141]

三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本と米国・英国の関係は急速に悪化していった[142]。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している[143]井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている[144]。山本は嶋田繁太郎海軍大将に宛てた手紙で近衛との面会について「随分と人を馬鹿にしたる如き口吻にて現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万にして誠に 陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候御参考迄」と論じている[145]。同時期、山本を訪問した反町英一に、秋には引退して故郷に戻りたいと語っている[146]。11月10日の宮城で行われた紀元二千六百年記念行事には、蒋介石率いる中国軍から宮城を空爆されるのを防ぐとの理由で参加しなかった[147]

1941年(昭和16年)1月7日、及川古志郎海軍大臣への書簡「戦備ニ関スル意見」にて『(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す』とあり山本はすでに真珠湾攻撃を検討していた[148]。また山本は及川への書簡で自分を第一航空艦隊司令長官に格下げして直接指揮させてほしいと希望し、空母喪失と引き換えに戦争を一日で終える気構えも示し、連合艦隊司令長官には米内光政を期待している[149]。書状には「大臣一人限御含迄」とあり、伏見宮軍令部総長には伏せていた[150]。堀への手紙によれば及川は米内連合艦隊長官人事に同意したが、井上成美の反対で潰されたという[151]

1941年1月14日ごろ山本は第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎少将へ手紙を送り、1月26日、27日ごろ大西が長門の山本を訪ねてきた。[152]大西への手紙の要旨は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった[153]。大西は源田実第一航空戦隊参謀に作戦計画案を早急に作るように依頼してそれに大西が手を加えて作案し3月初旬ごろ山本のもとへ提出された。[154]山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし不可能ではないと判断されたため戦艦に対し水平爆撃と雷撃を併用する案になった[155]

1月24日、笹川良一衆議院議員に『日米開戦に至らば己が目ざすところ、素よりグアム・フィリピンに非ず、はたまたハワイ・サンフランシスコに非ず、実にワシントン・ホワイトハウスの思ならざるべからず。当路の為政家果たして此本腰の覚悟と自信ありや』と語った[156]。4月、地方長官会議で東京に集まった全国道府県長官・知事を旗艦「長門」に招き、「イザ戦う時には水平線の彼方に敵艦隊の煙が見える前に、撃滅してしまう決心である」「私はつねに艦隊の最先頭の旗艦の艦橋にあって指揮する。これは日本海軍の伝統なのです」と演説し、国民に向けた最後の言葉となった[157]。6月、自らを「昭和の相模太郎(北条時宗)」になぞらえ、「雄大なるドイツの大作戦、ああ壮なる哉」と賞賛する[158]。9月12日、再び近衛首相に日米戦の見通しについて語り、前年9月の会見と同様内容を答申しつつ、戦争になった場合は山本自らが飛行機や潜水艦に乗って1年から1年半は存分に暴れてみせると述べた[159]

第27代連合艦隊長官[編集]

南方作戦[編集]

1941年8月11日第27代連合艦隊司令長官。

連合艦隊の各艦隊長官の人事は海軍大臣と連合艦隊司令長官の意向が反映され、山本は第一航空艦隊の司令官として南雲(兵学校36期)と小沢治三郎(兵学校37期)を候補にかけ、小沢より扱いやすい南雲を選び、水雷戦術専門の南雲の補佐として航空専門家の草鹿龍之介や源田実を補佐としてつけた[160]。しかし山本は、同期の親友堀悌吉中将を予備役に軍令部で追いやった南雲忠一中将に対して好印象を持っておらず、南雲が第一航空艦隊司令長官に任命された時には「南雲の水雷屋が」と悪態をついた[161]1941年(昭和16年)10月22日第一航空艦隊から長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介を更迭し小沢治三郎を任命するように宇垣から進言があり山本は同意したが、実現はされていない。[162]

南雲機動部隊参謀長の任についていた草鹿龍之介は真珠湾攻撃に反対の立場だった。そこで大西瀧治郎少将と相談の上、戦艦長門」にいた山本長官を訪れて反対論を展開した[163]。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した[164]。大西は「草鹿君、長官がああまで仰るなら、一つまかせてみようじゃないか」と前言を翻し、唖然とする草鹿を横目に、大西と山本はポーカーを始めた[165]。山本は草鹿を「長門」の舷門まで見送り、「真珠湾攻撃は、最高指揮官たる私の信念だ。どうか私の信念を実現することに全力を尽くしてくれ」とを草鹿の肩を叩いた[166]

1941年9月に海軍大学校で行われた真珠湾攻撃図上演習では、南雲機動部隊は大戦果をあげると同時に空母3隻が沈没・1隻が大破、山本は南雲の肩を叩いて「ああいうことは人によっていろいろ意見があるからね、かならず起るということはないよ」と語った[167]。宇垣連合艦隊参謀長によって撃沈判定は取り消され演習を続けた[168]

10月12日、近衛首相私邸で荻外荘会談が行われ、及川と海軍首脳は優柔不断な応答に終始、山本は「乃公が当局者であったら、海軍は正直に米国に対し最後の勝利はないというネ」と批判した[169]。10月19日、山本は軍令部に黒島亀人連合艦隊先任参謀を派遣し「真珠湾攻撃が認可されなければ、連合艦隊長官を辞任する」と主張し、作戦を認可させた[170]。また嶋田繁太郎海軍大臣に対する10月24日の書簡で「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に斬り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」と述べ、山本の決意を知った嶋田はハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している[171]黒島亀人ら幕僚によれば山本はこの作戦採用なければ長官の職責を遂行する自信ないから辞任する、この作戦に失敗すれば戦争は終わりだと漏らしていたという[172]

しかし、南方での持久作戦を推奨する軍令部や、伝統的な洋上艦隊決戦を重視する多くの海軍軍人と山本の間には溝があった[173]。また山本の心中は、故郷長岡で余生を過ごしたいという思いと、戦争になれば活躍して『さすがは五十サダテガンニ』と言われる事はしたいという思いに揺れていた[174]。11月下旬から12月旬にかけて、家族や親しい人々にそれとなく別れを告げた[175]。11月3日に嶋田海軍大臣と面会、「長門」に戻ったあと宇垣らを連れて7日から11日まで再び東京へ出張し、軍令部や陸軍と作戦の打ち合わせを行う[176]。13日、呉にて各艦隊指揮官に大海令第一号を伝え、X時が12月8日であることを明かす[177]。1941年12月2日上京した際に山本は軍令部に事前の宣戦布告を確認した[178]。12月3日、天皇に拝謁して勅語を賜り[179]城英一郎侍従武官が山本の奉答文を届けると、天皇は三度読み返し御満足の様子に拝した[179]

山本はハワイ空襲と関連しハワイ攻略を相談したこともあり、ハワイには米海軍軍人の半数が存在したため捕虜にすれば勢力回復が困難と見ていたが、実行はしていない[180]。真珠湾攻撃の目標決定は山本の意図である敵の主力機動部隊を緒戦で壊滅させ戦意をくじく心理的効果と敵の機動力の喪失にあった[181]。原田艦長より真珠湾攻撃での甲標的の使用を具申され一死奉公の奇襲案に感激するも攻撃後の収容が困難なため不採用としたが何度も陳情があり採用となる[182]。真珠湾攻撃に赴く特殊潜航艇搭乗員10名と対面した際には、山本直筆の揮毫を渡している[183]

1941年頃

真珠湾攻撃は戦艦4隻が大破着底[注釈 1]、戦艦2隻が大・中破するなど、米太平洋艦隊を行動不能する大戦果をあげた。攻撃後、連合艦隊司令部では実行部隊である南雲艦隊による反復攻撃を訴える声があったが、山本は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と言った。宇垣纏参謀長からは今から下令しても時機を失し攻撃は翌朝になると反対があった[184]

並行して行われたマレー沖海戦も成功し英戦艦プリンスオブウェールズ、レパルスを撃沈する。連合艦隊旗艦戦艦「長門」で、山本は「レパルスは撃沈できるが、プリンス・オブ・ウェールズは大破だろう」と言うと、三和義勇作戦参謀が2隻とも沈めると反論し、山本はビール10ダースを賭け、三和は1ダース賭けていた[185]。12月10日夜、戦艦「長門」の艦橋にいた山本の元に天皇からマレー沖海戦の勝利を褒賞する感状が届いた[186]。坂田涓三航海長によれば、帽子を取って皇居の方向に最敬礼した山本が、椅子に座るなり艦橋の柵の上にうつぶせになり号泣したという[186]

開戦の翌日1941年12月9日、山本は幕僚にハワイ攻略、セイロン島攻略の研究を命じた。セイロン島攻略の目的はインド洋の英艦隊を誘いだし撃滅することが目的であった。またセイロン島を確保することで西方の態勢を整えインド独立、敵補給路遮断という狙いもあった。渡辺安次連合艦隊戦務参謀によれば山本は豪州の攻略はあまりに迂遠すぎると言っていたという[187]

山本は1942年1月18-19日にかけて旗艦を臨時に 大和型戦艦大和」に移したあと[188]、2月12日正式に旗艦を「大和」に変更した[189]。近江従兵長によれば、山本が「大和」について語ったことはなかったという[190]。1942年3月30日、戦艦「大和」の射撃訓練に立ち合った際、46cm主砲が目標を大きく外れて着弾したため[191]山本は大和砲術長を厳しく叱責したが、すぐ「射撃の失敗を喜んでいる。今回命中したら大和の射撃はそれまでだ。しかしこの失敗あって日本海軍砲術の明日がある」と諭した[192]

ミッドウェー攻略作戦[編集]

真珠湾攻撃、マレー沖海戦に始まる南方作戦(第一段作戦)で大本営の要望通りの成功を収めると、山本は第二段作戦に取り掛かった。

山本は真珠湾攻撃前に対米最後通告が遅れないように中央に対し確認していたが、結果的に遅れていた。山本は騙し打ちの声はアメリカの宣伝とはじめ考えていたが、1942年2、3月ごろから本当に遅れたのではと考え始めていた。このため山本は積極作戦で立ち直りを困難して早急に敵の戦意喪失が必要と考えた[193]。真珠湾攻撃が宣戦布告なしで行われ、米国民が激昂したことに山本は心を痛め「僕が死んだら、陛下と日本国民には、連合艦隊には決して初めからそういう計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えて欲しい」と周囲に語っている[194]

山本は艦隊決戦(機動部隊決戦)で勝利すれば、講和の機会が訪れる以上の考えはなかった[195]。山本は桑原虎雄少将に対し日本大幅譲歩による講和への希望を語ったが「結局、斬り死にするほかなかろう」と政治への失望も語っている[196]。軍令部は米豪分断作戦を、山本の連合艦隊司令部は当初インド洋作戦を主張し、軍令部に却下されるとハワイ攻略作戦へと重点を移す[197]

1942年4月4日の誕生日に、勲一等功二の勲章が送られた。山本は「こんなもの貰って良いのかな」「自分は米砲艦を南京近くで沈めた以外何もしてはおらん。軍令部総長功一級の関係からか」と恥ずかしがっていた[198]

山本ら連合艦隊司令部で山本の望むハワイ攻略をにらんだミッドウェー島攻略作戦を独自に作成し、早く認めさせるため大本営の望むFS作戦を組み入れ4月1日までに幕僚にまとめさせた。連戦連勝の驕りから成功を前提にスケジュールが組まれ、敵勢力を事前に調べることもしなかった。4月3日に軍令部に持ち込まれたがFS作戦を進めたい軍令部作戦課はこれに反対した。これに対し渡辺安次連合艦隊参謀からミッドウェー攻略作戦が認められなければ山本は職を辞すと伝えられた。しかし軍令部作戦課は反対の意思を変えなかった。4月5日渡辺は伊藤軍令部次長から理解を得て、永野軍令部総長まで伝えられ福留部長が召致され協議の末、FS作戦に修正を加えて連合艦隊案が採決された。軍令部によれば決め手は「山本が十分な自信があると言うから」であったという[199]。首席参謀の黒島亀人によれば、ミッドウェー作戦における山本の辞職示唆は脅しではなく決意していたという[200]。これらを第二段作戦の骨子とした。

1942年(昭和17年)4月18日、米軍はドーリットル空襲により日本本土初空襲に成功、山本に国民から非難の投書があった。山本は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、一層ミッドウェー攻略作戦の必要を感じた[201]

1942年5月8日、珊瑚海海戦で日本軍は失敗し、ポートモレスビー作戦は延期になり日本進攻が初めて止められた。山本司令部では徹底して追撃せず北上退避した第4艦隊司令長官井上成美を臆病風、攻撃精神の欠如と非難した[202]。山本は「珊瑚海でもはじめは相当苦戦しましたが結局は実力に物を云はせて押切つたわけでした」と知人に語っている[203]

ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とするミッドウェー作戦が6月7日決行予定で計画される。4月22日帰還したばかりの実行部隊である第一航空艦隊に知らされると、山口多聞源田実から戦力を一度立て直すべき、準備も間に合わず時期尚早と激しい反対があったが山本ら連合艦隊司令部はすでに決まったことであるとその声を黙殺した[204]。近藤第2艦隊長官からも、アメリカの空母はほぼ無傷で存在し、ミッドウェー基地にも敵部隊がいる。ミッドウェー作戦をやめアメリカとオーストラリア遮断に集中すべきと意見があったが山本は奇襲できれば負けないと答えた。またミッドウェーの保持、補給には考えがなく、宇垣参謀長は保持不可能なら守備隊は施設破壊して撤退すると答えている[205]。山本は戦訓研究会で「長期持久的守勢を取ることは、連合艦隊司令長官としてできぬ。海軍は必ず一方に攻勢をとり、敵に手痛い打撃を与える要あり。敵の軍備力は我の5~10倍なり。これに対し次々に叩いてゆかなければ、いかにして長期戦ができようか。常に敵の手痛いところに向かって、猛烈な攻勢を加えねばならぬ。しからざれば不敗の態勢など保つことはできぬ。これに対してわが海軍軍備は一段の工夫を要す。従来のゆき方とは全然異ならなければならぬ。軍備を重点主義によって整備し、これだけは敗けぬ備えをなす要あり。わが海軍航空威力が敵を圧倒することが絶対必要なり。」と発言[206]。5月1日から4日までの図上演習ではミッドウェー攻略中に敵空母部隊出現で日本空母部隊が大被害を受ける結果が出るが、宇垣参謀長から「実際の作戦ではこのようなことにならないよう指導する」と判定のやり直し、被害下方修正が行われた[207]。また戦訓研究会、図上演習でも各部隊から延期が求められ、攻略を目的とする空襲と敵機動部隊迎撃のどちらが主目的なのか、山本の乗る戦艦大和をはじめとする主部隊がなぜ支援の届かないはるか後方からついてくるのかといった疑問も出た[208]。またこのころ連戦連勝から軍全体として気が緩み機密保持が保たれておらず取り締まるべき山本連合艦隊司令部も同様であった[209]。作戦準備も遅れ延期の要望が相次ぎ軍令部も2~3週間遅らせることを勧めたが聞かず、5月25日最後の図上演習では攻略作戦成功後の検討だけであった。最終的に機材が間に合わずミッドウェー作戦は1日遅らせることを認めたが、攻略日の変更はなかった[210]。戦艦群(特に低速の伊勢型戦艦扶桑型戦艦)が作戦に加わったことについて、山本は事前の作戦会議で「情だよ」と答えている[211]

ミッドウェー海戦直前の5月14日、山本は眼鏡をかけマスクをして変装すると、呉駅で河合千代子と落ち合った[212]。山本は病み上がりだった河合を背負って人力車まで運んだ[213]。河合が呉を去る時は、列車の窓越しに強く握り合って別れを惜しんでいる[212]。直後の手紙には『私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、国家のため、最後の御奉公に精魂を傾ける。終わったら世の中から逃れて二人きりになりたい。5月29日には私も出撃して三週間洋上に出るが、あまり面白いことはないと思う』という趣旨の手紙を送った[214]

ミッドウェー作戦前の山本の「大和」航海中における生活は以下のようなものだった[注釈 2]。まず午前6時ごろ艦橋に姿を現すと、無言で長官専用椅子に座る[215]。当時の大和艦長高柳儀八大佐、宇垣纏参謀長と言葉をかわすこともなく、広い大和艦橋は沈黙に包まれたという[215]。朝食後の作戦会議では、幕僚全員が発言するよう促した[216]。朝夕30分の入浴習慣は、平時、戦時、停泊中、航海中とも変わることがなかった[217]。午後8時になると艦橋作戦室で渡辺安次参謀と将棋に興じ、4時間以上指すこともあった[218]。このため午後8時以降の先任参謀は宇垣や黒島ではなく、渡辺と思われるほどであった[218]

山本ら連合艦隊はミッドウェー作戦で敵機動部隊を誘い出し撃滅することを主目的として説明したが、軍令部はミッドウェー島攻略支援を主目的として示した。そのため実行部隊に連合艦隊の意図は徹底されなかった[219]。山本ら連合艦隊司令部は南雲司令部に対し、命令には書きくわえなかったが、攻撃隊半数を待機させ敵機動部隊による側面からの攻撃に備えるように指導した。しかし連合艦隊司令部も敵機動部隊はハワイにおり、出現はミッドウェー作戦成功後でしか想定せず図上演習もしなかった。白石萬隆によれば、連合艦隊は若干企図が暴露しても敵艦隊を誘いだそうとしている節があったという[220]。真珠湾にいるはずである敵機動部隊の動向の情報を南雲艦隊から機を逸せず知らせてほしいと出撃前に頼まれ、作戦の転換は連合艦隊から知らせることになっていたが、山本ら連合艦隊司令部は敵機動部隊が真珠湾を出たらしいことを察知したにもかかわらず南雲艦隊へ伝えることを怠った[221]。山本司令部は5月中旬より敵通信増加を気に止めなかったが、6月3日までに入手した情報から我が動静偵知し活発に動いている、警戒すべきも好ましいと考えていた[222]。4日ごろには敵機動部隊が存在する兆候をつかみ、山本は「南雲艦隊に知らせるか?」と幕僚に相談したが、黒島参謀は攻撃隊の半数を迎撃に備えているはず、向こうも兆候つかんでいるだろうし、無線封止のためやめておくべきという進言で一航艦へは伝わらなかった[223]。また連合艦隊は全部隊へ東京からの甘い状況判断を流し続けたままであった[224]。そのため南雲艦隊は周囲に敵機動部隊はいないものとして行動しており、攻略のための攻撃が不十分と知ると待機を指示された攻撃隊を使用した。草鹿参謀長によれば「山本の望みは 南雲も幕僚もよくわかっており、状況が許す限りそうしたが、ミッドウェー基地から航空攻撃があり、敵空母の発見ない状況で半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官としては耐えられない。後で問題だったとしても当時の状況では南雲の決定は正しかった」という[225]

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦において、日本軍はミッドウェー島攻撃中に敵機動部隊から攻撃を受け、南雲機動部隊の主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する。山本は完成したばかりの戦艦「大和」に座乗して機動部隊後方を航海し、米軍とは全く交戦しなかった[226]。空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和」作戦室で渡辺と将棋を指している時に受け取ったが[227]、「うむ」「ほう、またやられたか」の一言だけをつぶやき、将棋はやめなかった[228]。また、日本の主力空母4隻が撃沈された際には「南雲は帰ってくるだろう」と述べた[229]。翌日昼ミッドウェー島を砲撃する案を渡辺が提案し黒島が同意するが山本はそれを却下した[230]。山本は幕僚に敗因責任は私にある一航艦を責めてはいかんと言い、草鹿第一航空艦隊参謀長に批判的な黒島参謀に対しても「南雲、草鹿を責めるな」とくぎを刺した。

大敗後、帰還した実行部隊の草鹿龍之介第一航空艦隊参謀長の「責任を取るべきところではあるが雪辱の機会を与えて欲しい」という言葉に、山本は「今回のことで誰か腹を切らねばならぬとしたらそれは私だ」と答え[231]、再編された空母機動部隊(第三艦隊)の指揮を引き続き南雲長官と草鹿参謀長にとらせた[232]。山本は南雲忠一第一航空艦隊長官に『今次の戦果に関しては同憂の次第なるも、貴隊既往赫々たる戦績に比すれば、なお失うところ大なりとはせず。幸に貴長官再起復讐の決意烈々たるを拝聞し、君国のため真に感激に堪えず、願わくば最善をつくして貴艦隊の再編成を完了し、過去の神技に加ふるに、今次の教訓を加え、一挙敵を覆滅するの大策に邁進せられんことを。切に貴官のご勇健を祈る』との手紙を送っている[233]

日本へ帰還後の作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった[234]。7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという[235]。ミッドウェー海戦大敗北後、南雲機動部隊将兵に緘口令がしかれたが、山本は名刺に近況を書き愛人河合に送っている[236]

ガダルカナル島の戦い[編集]

1942年8月、米軍はガダルカナル島に来襲して日本軍の飛行場を占領、ガダルカナル島の戦いがはじまる[237]。8月17日、「大和」に座乗する山本は『あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候』と故郷へ手紙を送り日本を出撃した[238]

8月28日、前線拠点トラック島に進出し、連合艦隊司令部にて作戦立案と指導を行う。山本は「大和」の甲板から最前線へ向う駆逐艦や潜水艦を見送ったことに、乗組員達には感激[239]の反面、厳しい戦いの中でトラック泊地から動かない「大和」や「武蔵」は「大和ホテル」「武蔵屋御殿」と揶揄した[240]大西瀧治郎少将も、この頃には「大和」から動かない山本を批判するようになっていた[241]

ガダルカナル島の戦い苦戦の一因となったガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を破壊すべく、山本は戦艦「大和」「陸奥」を率いて最前線に赴くことを検討し[242]辻政信陸軍大本営参謀にも同様の返答をしたが[243]、結局取りやめている[244]。親友の堀には『当方一向面白からず。敵には困らぬが味方には困る』と訴えるなど、日本海軍と日本陸軍の対立、中央政府の楽観的な姿勢に悩んでいた[245]。また新潟県出身兵で構成された第二師団新発田歩兵第十六連隊がガダルカナル島で全滅した時には『十六連隊の事は残念至極、連隊長大隊長の補充に行く者郷里より来信あり。会稽の恥を雪げと鞭撻し置きたるが恐らく生還はなし得まい。自分もガ島が奪還できなければ郷里へ帰れぬ。宜敷頼む』と宇垣纏に笑いながら語ったが、宇垣には山本の本心と感じられた[246]。今田以武生(連合艦隊軍医長)が「大和」を退艦する際いつ日本で会えるかと聞くと、山本は「来年五月」と明言していた[247]

1942年11月中旬、第三次ソロモン海戦で連合艦隊は戦艦比叡」「霧島」を喪失し山本は精神的に追いつめられた[248]

海軍甲事件[編集]
山本長官生前最後の写真

連合艦隊司令部の元旦は、鯛の尾頭付きを飾って祝うことが慣例だった[249]。戦死する1943年元旦、山本の膳の鯛だけ頭が右・尾が左(正式は頭が左)になっており、山本は「年が変わると魚の向きもかわるのか」と述べた[250]。同月、親しい料亭の女将(古川敏子)に、愛人河合千代子と南洋で暮らしたいという希望を込めた手紙を送っている[251]

1943年(昭和18年)1月、大本営はガダルカナル島からの撤退方針を決定する。山本は「動ける駆逐艦全てを投入、半数を失うかもしれぬ」という覚悟でガダルカナル撤退作戦(ケ号作戦)に臨み、駆逐艦1隻沈没、数隻損傷と引き換えに兵士1万600名余の撤退に成功した[252]

1943年2月12日、山本は「戦艦大和」から姉妹艦の「戦艦武蔵」に連合艦隊旗艦を変更する[253]。武蔵では、休憩時間に甲板上で幕僚らとビールを賭けて輪投げに興じていたが、山本が一番強く、下士官兵とも輪投げに興じ、負けて水兵にデコピンされたという話も残っている[254]

1943年3月中旬、ソロモン及び東部ニューギニアの敵船団、航空兵力を撃破しその反攻企図を妨げること、同地域の急迫する補給輸送を促進し、戦力の充実を図り部隊の強化を実現することを目的として[255]、連合艦隊は1943年4月7日ソロモン、ニューギニア方面に対する海軍航空兵力による「い号作戦」を開始、満足すべき結果を得て16日に終了した[256]い号作戦は連合艦隊が独自に立案、実行したものであり[257]、また第三艦隊作戦参謀長井純隆によれば、第三艦隊母艦機を南東方面に使うことについて連合艦隊とそれに反対する第三艦隊司令部幕僚との間で相当の論争があったが、司令部上層に及んだ論議は聞かないので「おそらく山本長官自ら発案し、小澤第三艦隊司令長官に直接了解を得られたものと思う」という[258]

い号作戦の間、山本は、トラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を直接指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた[259]。この前線指揮に関して、山本は、ガダルカナル島を視察し米兵を激励しハワイで指揮するチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官を引き合いに出し、後方の戦艦「武蔵」で指揮をとることを望んだが、宇垣纏連合艦隊参謀長に説得された[260]高松宮宣仁親王や作家司馬遼太郎は、山本は決死の覚悟で前線に赴いたのではないかという見解を示している[261]。また、第三艦隊司令官小沢治三郎中将と南東方面艦隊司令官草鹿任一中将の統一指揮問題や、日本陸軍との面子や主導権争いが絡んでいたという指摘もある[262]

ラバウルに到着すると山本到着の噂はたちまち広がり、甥の高野五郎(陸軍少将、軍医)は海軍司令部を訪問して山本と面会した[263]。4月13日の巡視計画電報に対して城島高次第十一航空戦隊司令官は「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」と憤慨したという[264]

い号作戦終了後、山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウルからブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てた。その前線視察計画は、艦隊司令部から関係方面に打電された[265]。小沢第三艦隊長官は、山本機と宇垣機の護衛戦闘機が少ないことを危惧し、黒島亀人先任参謀に護衛機を50機増やす事を宇垣に伝えるよう託した[266]。黒島はデング熱で体調が悪かった宇垣参謀長に伝えなかった[267]

アメリカ海軍情報局は、4月17日に「武蔵」から発信された電文を暗号解読してこの前線視察の情報を暴いた[268]。この視察を知ったアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツは、山本暗殺の議論で後にもっと優秀な司令官が出てくる心配をしたが、太平洋艦隊情報参謀エドウィン・レイトンから「山本長官は、日本で最優秀の司令官である。どの海軍提督より頭一つ抜きん出ており、山本より優れた司令官が登場する恐れは無い」という答えがあり[269]、また、山本が戦死すれば日本の士気が大きく低下すること、山本がきわめて時間に正確な男で今度も予定を守るだろうということを理由に山本の暗殺を決断した。南太平洋方面軍司令官ウィリアム・ハルゼーに対する命令書を作成した[270]

4月18日午前6時、山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した[271]。山本は1号機、宇垣は2号機に搭乗する。零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され戦死した。この事件は後に海軍甲事件と呼称された。59歳没。戦死時に着用していた第三種軍装(陸戦用服装)は、太平洋戦争に突入してから山本が初めて着用したものだった[272]

戦死時、偶然一式陸攻の墜落を目撃した日本陸軍第六師団第二十三連隊連隊長、浜之上俊秋大佐は、山本機とは知らず、蜷川親博軍医と中村常男(見習士官)に捜索と救助命令を出した[273]。墜落当日は発見に失敗した。歩兵砲中隊・浜砂少尉の部隊も、墜落機から煙草や食料を入手すべく、山本機とは知らずに捜索を開始した[274]。中村隊と同様に墜落当日は到達できず、翌日になって山本機と山本の遺体を発見した[275]。佐世保鎮守府第六特別陸戦隊、第一中隊長第一章隊長・吉田雅維少尉は、最初から山本機と知らされて捜索に赴いた[276]。墜落当日は発見できず、19日午前中に浜砂隊と遭遇、浜砂隊に遅れて現場に到着した[277]。最初に現場に到着した浜砂によれば、山本は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然と戦死していた[278]。すぐ左によりそうように高田軍医長の遺体があった[279]。連合艦隊司令部から現場に赴いた渡辺安次参謀と藤井上等水兵が受けた警備隊からの報告では、山本は墜落現場から4-5m離れた場所に一式陸上攻撃機の座席の布団に座って長剣を握ったまま倒れ、高田軍医長は山本と飛行機の間に倒れていたという[280]

浜砂によれば、衣服を脱がせていないので断言できないが、右前頭部に擦過傷があったが、外見上さしたる傷はなかったという[281]。直後に中村隊も現場に到着した。渡辺安次連合艦隊参謀の証言では、遺体発見時に胸部と頭部に貫通銃創があったとしている[282]。田渕義三郎軍医の遺体検死記録によると「死因は戦闘機機銃弾がこめかみから下アゴを貫通した事、背中を貫通した事」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと結論づけている[283]。一方で山本の遺体を清めた安部茂元大尉らから、顔面に銃創がなかったという[284]。浜砂隊が遺体を動かしていたが、吉田は山本は即死ではないと判断している[285]。山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38ライトニング戦闘機の武装はイスパノ・スイザ HS.404(口径20 mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、『小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム』という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである[286]。また田渕軍医は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない[287]。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている[288]。実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺安次参謀が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した[289]

公式には機上で即死したと記録されているが異論もある[290]。熱帯地方では死体に猛烈ながわくが、浜砂や中村は19日午後の段階で山本の遺体にウジ虫を認めていない[291]。この事から、山本は機上での戦死ではなく死亡時刻は19日午前6時ごろと推測する見解もある[292]。20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していた[293]

最初に山本の検死を行った蜷川親博陸軍軍医は、山本遺体に顎の外傷や口胞内出血を認めず、全身打撲か内臓破裂によるショック死という結論をメモに残している[294]。蜷川の実弟である蜷川親正医学博士は、山本の死体の傷は渡辺安次参謀と大久保信(南東方面艦隊軍医長)による死後損壊と述べ[295]、山本は当初生存していたものの、全身打撲もしくは内臓破裂により、19日夜明けごろ絶息したと結論づけている[296]

山本搭乗機を撃墜したP-38の搭乗者については戦後も長らく論争が続いた[297]。トム・ランフィア陸軍大尉とレックス・バーバー陸軍中尉で争われた[298]。実際にP-38を飛行させて検証した1990年(平成2年)の実験では、バーバー中尉が撃墜した可能性が高いという結果が出た[299]。しかしアメリカ空軍省は実験結果を認めず、ランフィアとバーバーの共同撃墜という立場をとっている[300]。戦後のトム・ランフィアへのインタビューでは、「一式陸上攻撃機を射程内に捉えたとき、機銃がうまく働くかどうか試し撃ちをしたところ、それが偶然命中した。相手の後ろにくっつこうとしながら試し撃ちをしていたところ右のエンジンが火を噴き、ジャングルの中へ落ちていった。」と語っている。[301]

渡辺安次参謀は、黒島亀人先任参謀、藤井茂渉外参謀、磯部太郎機関参謀、近江兵治郎従兵長だけが参加した戦艦「武蔵」での通夜で「同乗者達は長官を火災から守るため、機内で自ら盾になった。長官は無事脱出したが、捕虜になることを恐れて拳銃で自決した」と語っている[302]。遺体はラバウルで火葬に臥され、木箱の底にパパイヤの葉を敷いた骨箱におさめられた[303]。遺骨はトラック諸島に一旦運ばれて、その後内地に帰還する戦艦「武蔵」によって日本本土に運ばれた。遺族には4月20日夕刻に嶋田繁太郎海軍大臣と秘書官麻生孝雄少佐が戦死を告げている[304]。山本の遺体を火葬した際の灰は、ブイン基地の滑走路隅に埋められ、パパイヤの木が植えられた[305]。公式には、遺骨は郷里長岡と多摩墓地に分骨されているが、河合千代子の元にも分骨されて内輪だけの告別式を行っている[306]

山本の国葬

戦死後、藤井茂参謀と近江従兵長が遺品を整理するため「武蔵」長官室に入った。すると山本の机には封筒に入れた封印無しの遺書(永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣、堀中将、玲子夫人、反町栄一宛)、さらに遺髪が一人分ずつ紙に包まれていた[307]。山本の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日大本営発表並びに内閣告示第8号[308]で公になった[309]。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けている[310]

5月27日付でナチスドイツより剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。この勲章の受章者は160名しかおらず、山本は唯一の外国人受章者である。

昭和天皇は山本の国葬が決定された際、侍従武官山縣有光陸軍大佐に「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したが、6月5日日比谷公園国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政が務めた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例である。朝日新聞社は『元帥山本五十六傳』を刊行、斉藤茂吉佐藤春夫を始め多くの詩人が追悼の詩歌を寄せ、7万部を刷った[311]

「海軍の相次ぐ大敗北を見ずに戦死してかえって幸せだった」とする意見もある[312]中沢佑中将や河合千代子も、山本が戦死した事を「ある意味で幸せ」と表現し、もし健在ならば東京裁判で戦犯として裁かれていた可能性を指摘している[313]。なお、山本は歴代の連合艦隊司令長官で唯一の戦死者(山本の後任長官の古賀峯一大将は殉職扱い)である。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。東京都府中市多磨霊園7番特別区に埋葬された。墓石は茨城県産出の真壁小目で建立されている。右には東郷平八郎元帥の墓、左には古賀大将の墓が並び、墓石の文字は米内が書いた[314]。その後、遺骨は新潟県長岡市の長興寺に改葬されているが、山本を偲ぶ廟は多摩霊園に現存している。

人物[編集]

昭和17年ごろ

身長は1m60cm、体重65kgで、小肥の立派な体格だった[315]高木惣吉によればロンドン軍縮会議後に会った山本は『実物は五尺二寸ばかりの小男で、いかめしくもなければ、颯爽たる男振りというのでもない。舟乗りに似合わず低い声で、ひげのないやゝ長めの顔の特徴といえば眼が細く、口が大きくて意思的に締まっていること位であった』と述べている[316]。奥宮正武によれば山本は酒を飲まずゲームごとが好きでトランプに優れた。日露戦争で人差し指、中指が左手にない。内外問わず老若男女を差別せず接する人々を温かく受け入れた。手紙や書、和歌を多く書いた[317]。三和義和によれば、とっつきにくい人だったが、はかり知れぬ深さのある人で2,3ヶ月もすればたいていの人は尊敬しなついた[318]。任務に忠実、自らに厳しく他人には寛大、エチケット、表現しづらい多くの要素」が一体となって山本の人格を形成し、太平洋戦争当時の日本海軍の中では最高の指揮官だったと話している[319]

米内光政は山本の性格を「茶目」と表現し[320]、また「山本は政治に興味をもっていた」と話した[321]。愛人の河合千代子によれば「姿勢が良く、柔軟性があり、一旦決めると考えを変えない。社交にたけ、国際感覚に富んでいた」という[322]賀屋興宣(大蔵省)は山本について「聞き上手で話やすい人。真に度胸のある、正しい素直な人。いつ論じ合っても後味の悪い事がない」と評している[323]中杉清治は「我々のような凡庸な人間が考えつかない遠くを見ていた、底のしれない人だった」と述べている[324]角田求人は「山本は傑出した人物」と述べ、山本の研究に長岡藩はかかせないと語った[325]源田実大佐は、亀井宏が戦後電話で取材を試みると「(山本の)偉さについて語るにも時間が要る」と直接取材に来るように求めている[326]堀悌吉は山本戦死の報を受けて「一将一友を失いしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、再びこの人なし」と高木惣吉海軍少将に話した[327]ダグラス・マッカーサーは山本を「連合国との戦争に反対し、開戦となると真珠湾攻撃で大成功をおさめた。ソロモン群島での日本側の作戦を全般的に指揮し、日本海軍のおこなった戦争努力の戦略的頭脳と一般にみなされていた」と評している[328]井上成美は、海軍大学校教官時代の山本が軍政と軍備の関係について着目・研究したことを航空重視の姿勢と合わせて「実に卓見と申すべく」と高く評価している[329]。井上の格付けによれば、一等大将に山本権兵衛加藤友三郎、山本と米内は条件付きの一等大将である[330]。公刊戦史は、政治家的資質を持った先見性のある人物と評している[331]草鹿龍之介は、山本を「上司・人間として立派で情実があった」としつつ、「ゼスチュアが大きすぎる。戦術家よりも軍政家向きの資質だった」と評している[332]松田千秋(戦艦大和艦長)によれば、山本は「連合艦隊司令長官より海軍大臣になりたい」と語ったという[333]。松田は「情誼に厚い立派な人で、先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。しかし、作戦は感心できるようなものがほとんどなかった」と評している[333]亀井宏の取材にも「真珠湾攻撃はバクチがあたって上手くいったが、ミッドウェー海戦ではあの通りになってしまった」と答えた[334]三代辰吉は「今でも山本を尊敬している。だがあれだけの人物でも、やはり生身の人間で、盲点があった」と話す[335]。森田貫一(連合艦隊機関参謀)は、山本に半年仕えれば、一体感を持つようになる、仮に山本が危険に晒されたら反射的に命を捨てて守るだろうと語っている[336]吉田俊雄(軍令部参謀)は「太平洋戦争は山本五十六自身の戦争だった」と表現している[337]。藤井茂参謀によれば、山本に中央に戻って軍政で活躍して欲しいとの熱望が諸方面から寄せられており、藤井も山本の資質を軍政向きと見ていたが、実現することはなかった[338]横山一郎少将の『統率は申し分なく立派。作戦は落第』という山本を評価している[339]

戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、場合によっては自ら墓参に訪れることもあった。空母「赤城」艦長時代、艦載機1機が行方不明となった時は食事も通らず涙をこぼし、搭乗員が漁船に救助されて戻ってくると涙を流して喜んだ[340]。戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していた[341]。この手帳は生前宇垣纏に見せたことがあり、山本戦死後、宇垣纏の秘書を務めた蝦名賢造少尉が整理した[342]。蝦名によれば万葉集明治天皇大正天皇昭和天皇の詩歌や山本の自作詩がぎっしりと書き込まれており、戦死者への賛美と死への決意で満ちていたという[343]

戦艦扶桑」の高角砲分隊長を務めていた千早正隆は、1938年の「長門」後甲板上の天幕の下で行われた対空射撃研究会で高級将校は最前列のケンバス椅子に、一般士官は食卓用木製長椅子に座っていたが、研究発表中に入ってきた海軍次官山本五十六中将はオブザーバーという立場から後方の長椅子に座ったため[344]、公私のけじめを明確にしていたという[345]。旗艦乗り組みの下士官兵の間では、艦内で出会った際に敬礼すると、ほとんど同時に正確な挙手の答礼を返してくる、と言われていた。新米士官の斉藤一好は、言葉をかわしたこともない山本から「任官おめでとう」と声をかけられたという[346]。戦艦「武蔵」で勤務した蝦名賢造(海軍少尉、連合艦隊司令部通信士官)は、山本の敬礼の美しさに感激している[347]。 連合艦隊司令長官は山本の本望ではなく、後の兵学校同期生会で「仮に手柄をたてて賞められるようなことがあっても、それは次官当時、油をためた手柄に勝ることはなかろう」と話している[55]

指導者[編集]

太平洋戦争に関しては勝機の少ない戦いに反対しながら戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官として幕末長岡藩河井継之助同様の立場にあった[348]。戦後発見された山本から友人に宛てた手紙等により、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にした上で、自身は海軍中央へ戻り軍政面で米内を支え、日米開戦の火消し役をしようと考えていたらしく、自らの実戦指揮能力に疑問を抱いていたとも言われている。 連合艦隊司令長官の人事は「結果からみれば、情に流れた甘い人事は、米内の失点であった」という意見もある[349]

宇垣によれば、山本の内心は「全責任は自分にある」「下手の所ありたらば今一度使えば必ず立派に仕遂げるべし」だったという[350]。山本五十六の「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」の「男の修行」は経営者や指導者のための格言になっている。また警察予備隊保安隊自衛隊の教育方針として引き継がれている。「やってみせて…」は上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」から影響を受けているとされる。

美保関事件軽巡洋艦神通」艦長水城圭次(同期)が自決した際、駐米武官伊藤整一が「死んでは意味がない」と述べたところ、山本は「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ。」と叱りつけている[351]。山本が書くべき考課表を部下達自らに書かせ「大尉にもなって自分の長所短所が判然と分らぬようでどう修養するつもりか。真実なら自分のことは自分が一番よく知っているはずだ」と諭した[352]海軍兵学校監事長大西新蔵中将は、1945年(昭和20年)8月15日玉音放送後、全校生徒を前に「ミッドウェー海戦で負けた時、Y元帥は当然腹を切るべきだった」と断言し、温情主義と情報の隠蔽が敗戦を招いたと指摘した[353]

千早正隆は、山本が補佐役たる参謀を使い方を誤らなければ、戦争の展開は随分違っただろうと述べている[354]吉田俊雄は山本を情の厚い人物だったが、人物を己の好き嫌いで分ける傾向があった[355]。好きな人物には肝胆相照らす親密さを見せるが、嫌いな人物には必要最低限の事しか喋らず、それが公務にも及んだと話す[356]。一方、次官時代の山本に三年間接した松島慶三(海軍報道部部員)によれば、山本が私怨をさしはさむほどの小人物ではないという[357]

真珠湾攻撃直前、米内を連合艦隊司令長官にして山本は機動部隊長官になる人事を手紙で要請したことがあるが、また新聞記者に山本が海軍大臣だった場合の連合艦隊司令長官人事を問われ「米内さんだヨ。あのひと一人だネ」と答えたこともある[358]第三次ソロモン海戦戦艦比叡」が沈没した際、生還した西田正雄艦長は予備役に編入された。山本は西田を将来の戦艦「大和」艦長にしようと考るほど西田を評価しており、嶋田繁太郎海軍大臣に人事撤回を求めたが拒絶されている[359]

山本は黒島亀人(連合艦隊先任参謀)を重用し宇垣纏(連合艦隊参謀長)を軽んじるといった部下の扱いが公平でないところがあった[360]。山本は黒島先任参謀を重用していたため宇垣参謀長は連合艦隊司令部の中で孤立していた[361]。着任挨拶に訪れた松田千秋大和艦長に宇垣は「おれは参謀長だけどね、ここではただぼんやりしているだけだ。戦は山本さんと黒島でやっているんだよ」とわびしげに答えている[362]。1942年2月3日、宇垣纏参謀長が広島湾で撃ち落とした20羽で山本や幕僚は水鳥鍋を楽しんだ[363]。就任直後は上手くかみ合っていなかった山本と宇垣だが、この時だけは双方心から楽しんでいた[364]。宇垣はこの後も木更津(3月13日)やトラック島でも鳥撃ちを行い、獲物を持ち帰って山本を喜ばせた[365]。焼鳥会では山本もビールを片手に上機嫌だった[366]。山本は1941年8月に連合艦隊参謀長に着任した宇垣纏を毛嫌いしていたが、その関係は次第に変化していった。ミッドウェー海戦敗北から4ヶ月がたった1942年10月1日、山本は初めて「大和」の宇垣私室を訪れ、雑談をかわした[367]。宇垣は戦藻録に「夜長官来談、時余に及ぶ。打ち解けたる雑談共に楽し」と記述し、単純に喜んでいる[368]

山本の黒島評は「黒島は人の考えが及ばぬところ気づかぬところに着眼して深く研究する。奇想天外なところもあるしかもそれを直言してはばからない美点がある。こういう人がいなければ天下の大事なせぬ。だから手放さない」と言っていた[369]。山本は他の参謀・幕僚とは違う観点から意見をのべる黒島を重用・寵愛し、自身の戦死の寸前の頃まで4年間も黒島を手元に置いた[370]。山本の黒島重用を懸念する意見は当時からあった。「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」との忠告に山本は「黒島は独創的なアイデアを出すので手放せない」「黒島は俺の言ったことに反対する奴だ」と断り[371]

千早正隆は、山本が宇垣参謀長を経由せず直接黒島に指示することで司令部の命令系統が崩壊し、黒島と渡辺安次(もう一人の寵児)が専横することになったと指摘している[372]中沢佑海軍中将も、信頼すべき人物を誤ったと指摘している[373]。ただし、山本もミッドウェーの大敗北以降は黒島の作戦立案能力を疑問に持ったようで、彼への寵愛が冷めたと思わせる行動を戦死の直前には取っていた。実際に「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と密かに小沢治三郎草鹿任一に相談していた[374]。小沢は宮崎俊男大佐を推薦したが[375]、黒島への未練はあったようで、山本はあまり乗り気ではなかったという[376]

ミッドウェー海戦の敗北は山本の責任も大きいため、南雲達の責任をあいまいにすることで自らの責任を回避したという厳しい批判も存在する[377]。適材人事改革の不備や賞罰の不徹底の例として、ミッドウェーの南雲忠一草鹿龍之介の待遇が上げられる事がある[378]。山本は幕僚から第一航空艦隊長官からの南雲の交替を要望も「それでは南雲が悪者になってしまう」と答えた[379]

戦略[編集]

1940年頃、作戦検討中の山本と幕僚
(左から宇垣纏参謀長、山本、藤井茂、渡辺安次)

海軍航空技術部長・本部長時代の航空隊育成、海軍次官時代の対米英強硬論、日独伊三国軍事同盟への反対といった先見性を持っていた[380]大艦巨砲主義が趨勢の中、いち早く航空機に着目し、陸上機爆撃機を加えた海軍航空隊の育成に尽力した。日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した現実的な作戦計画を実施しようとした。

横山一郎少将(海軍次官当時の副官)は「山本のブリッジはブラフ(はったり)が多い。堅実にやったら必ず勝てた。山本のブラフと僕の合理的な方法なら、僕が勝つ」と述べている[381]柴田武雄は、上に山本のようなわけのわからないのがいると必ず負ける、歴史を無視した精神偏重で、戦闘機や技術開発に努めるべきだったのに山本には能力も英知も欠けていたと批判している。[382]淵田美津雄大佐は、山本が戦艦「大和」を安全な戦線後方に温存し遊兵化したこと[383]、「い号作戦」で圧倒的物量を持つ米軍相手に航空消耗戦を挑み、再建したばかりの空母機動部隊搭乗員をさらに消耗させたことを批判して山本五十六は凡将だったと語っている[384]中島親孝(連合艦隊情報参謀)は、山本が戦艦を後方に置いたことに対して比較的高速の「大和」と金剛型戦艦を先頭に立たせれば戦艦の価値を発揮できたと批判し、空母機動部隊の価値も、米軍のそれを見せつけられるまで、ほんとうには悟れなかったのではないかと述べた[385]

米軍の侵攻への防衛戦となってからは戦況推移に沿った指揮ではなく、真珠湾攻撃後の南雲機動部隊を西太平洋・インド洋方面に転用したことで、米軍に衝撃から立ち直る時間を与えてしまった[386]。ニミッツはこの時間が最大の助けになったと語っている[386]

空母鳳翔に対し優秀なものを回すとする意見に山本はそんな母艦はいらない、大多数が使えねばならないので中級者を回し訓練を改善し努力いかんによるべきとした[387]

ロンドン海軍軍縮会議で米:英:日の海軍力が5:5:3比に決定すると、航空兵器で差を埋めることを主張し、航空本技術部長として研究を重ねた[388]。山本は「頭の固い鉄砲屋の考えを変えるのには、航空が実績をあげてみせるほか方法はないから、諸君は更に一層訓練や研究に努めるべきだ」と航空主兵論を励ます一方、横須賀航空隊で「金持ちの家の床の間には立派な置物がある。そのものには実用的の価値はないが、これあるが故に金持ちとして無形的な種々の利益を受けていることが多い。戦艦は、なるほど実用的価値は低下してきたが、まだ 世界的には戦艦主兵の思想が強く、国際的には海軍力の象徴として大きな影響力がある。だから諸君は、戦艦を床の間の置物だと考え、あまり廃止廃止と主張するな」と訓示もした[389]

軍令部は開戦後の航空部隊の活躍、資材や工業力の見通しから改訂を研究し、また連合艦隊の意見を求めて、1942年4月下旬には一案を作った。これは当時の航空関係生産力拡大可能の見通しから決めたものであったが、連合艦隊側は、なお航空に重点を集中すべきだとして、山本は、思い切った重点主義を採り、艦艇戦備を減らしても航空生産力を急増するよう、工業力の配分を大きく改めるべきだと口にしていた[390]。山本は、従来から航空主兵の思想であり、昭和9年には、既に戦艦の実用的価値は少なくなったと述べていた。1942年4月末の連合艦隊の戦訓研究会において、中央からの出席者を前にして、「軍備は重点主義に徹底して、これだけは敗けぬという備えをなす要がある。これがためには、わが海軍航空の戚力が敵を圧倒することが絶対に必要である」旨を述べていた[391]

航空本部長時代は、46cm砲を搭載した大和型戦艦の建造に「砲戦が行われる前に飛行機の攻撃により撃破せられるから、今後の戦闘には戦艦は無用の長物になる」と発言して反対した。大和型戦艦建造に携わった福田啓二によれば、山本は福田の肩に手を置き「どうも水を差すようですまんがね、君たちは一生建命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなると思う」と語った[392]。福田は不沈艦は無理でも沈みにくい船を作ると反論した[393]。1941年9月、連合艦隊航空参謀佐々木影中佐に「戦艦は2隻あればいい。戦力としてではなく、連合艦隊の旗艦と、その予備艦としてだ。通信施設と居住施設はよくしなければいかん」と語ったこともある[394]

山本の航空主兵論は、戦艦建艦競争となった場合、圧倒的工業力を持つ米国に対抗できないという事情も加味されている[395]。山本の予想は的中し、日本海軍の「大和」「武蔵」戦艦2隻に対し、米国はノースカロライナ級戦艦を筆頭に新世代戦艦10隻(アラスカ級を含めると12隻)を完成させ、さらに真珠湾攻撃で沈没した戦艦を浮揚・再投入している。

山本の機材・人材の補給継続の困難な航空機を主体とする攻勢作戦の長期化は国力の限界を超えるものとなった[396]吉田俊雄は防弾能力を軽視した日本軍航空機の設計など山本ら航空要職者は航空戦の本質を知らず、バランス感覚もなかったとしている[397]。航空本部に勤務していたときには、九六式陸上攻撃機の量産化を始めるなどの業績をあげている。だが大西瀧治郎と共に戦闘機無用論を押し進めた[398]

艦隊勤務の経験が浅かった故に、海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、航空戦を重視する主張を行い得たとする意見がある。だがその航空戦では搭乗員の消耗が続くと、日本海軍航空隊は惨敗続きであり、山本と日本海軍が航空機の運用を真に理解していたかについて、疑問もある[399]

交際関係[編集]

大柄で重厚な米内光政とは容姿・性格双方で対照的だったが、親友となった[400]。 海軍砲術学校教官時代、同室の二人が退屈しのぎに短剣投げ競争を始めた頃から関係が深まった[401]東条英機をよく思っておらずニュースで名前を聞くと、よく皮肉の対象にしていた[216]

三国同盟を巡る厳しい情勢下、部下だった南郷茂章大尉が戦死した際は遺族の元を訪れ[402]、父親から話を聞くと、山本は卒倒するほど慟哭し、周囲から助け起こされるほどだった[403]

1937年12月に高松宮宣仁親王(海軍少佐)が軍令部に着任する際、海軍省の正面玄関で職員全員が皇族を出迎える計画だったところ、山本は予定を取り消させ、高松宮は一少佐として到着した。山本は自ら親王の部屋に出向いて挨拶している[404]伏見宮博恭王(軍令部総長)と将棋をさした時には一方的に勝ち、伏見宮の付き人に手加減するよう耳打ちされると「同僚や部下には戯れで負けることもあるが、大事な目上の方には誠心誠意相手をする」と答えた[405]

「大和」の山本私室に、交流があった岩井尊人海軍主計大尉の娘、岩井照子が描いた軍艦のクレヨン画を飾っていた。[406]岩井は1940年に逝去しており、山本は「大和」から照子を励ます手紙を送っている[407]。同郷の反町栄一とは共に旅を楽しむほど家族ぐるみのつきあいだった[408]新潟から名産品が届けてくれることを喜んでいる[409]

1918年(大正7年)頃、少佐だった山本は佐世保で18歳の鶴島正子(鶴島ツルとも)と愛人関係になった[410]。後に関係が薄れても交流が途切れることはなく、鶴島は山本の手紙をスーツケースが一杯になるほど持つことになった[411]

新橋に梅龍と名乗る愛人、河合千代子をかこっており、1930年(昭和5年)のロンドン軍縮会議直前(山本は日本側代表)に深い関係になった[412]。河合によれば、宴会の席で威張っていて無口だった山本を誘惑しようとしたが、逆に彼女の方が参ってしまったという[413]。河合と山本は互いの事を「お兄さん」「妹」と呼んでいる[414]。山本は多くの手紙を河合に書き、1941年12月4日、山本はバラの花束を河合に与え翌日の手紙で「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている[415]真珠湾攻撃は4日後の12月8日だった。河合が肋膜炎を病むと頻繁に手紙を送り、12月28日には『方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか』と書いている[416]。寵児だった渡辺安次参謀を代理として見舞わせたこともある[416]。河合の家には、宇垣纏を始めとする連合艦隊参謀が度々訪れて世話になっていた事が、山本から河合への手紙で判明している[417]。山本戦死後、河合千代子は海軍省から自決をせまられたが拒否、だが60通ほどの手紙を提出し、山本から与えられた恩賜の銀時計も没収された[418]。河合は平成元年に死去し、山本の遺髪と共に葬られた[419]

またフリーメイソンの元香港ロッジ・グランドマスター、グスタフ・スワンソン氏の証言によれば、山本はあるフランス人女性とも愛人関係にあったとされ、その女性とのあいだにできた子供とアメリカンスクール時代に同級生だったという[420]

逸話[編集]

手書きで住所が書き込まれた昭和7年頃の名刺
  • 山本は博打が好きで腕もよく、特にポーカーブリッジに強かった。山本曰く「博打は一ドルなら一ドル出して自分の言葉に責任をもつこと」「博打をしないような男はろくな者じゃない」「2年ほどヨーロッパで遊べば、戦艦1-2隻の金はつくれる」「私欲を挟まない。科学的数学的でなければならない。冷静に観察し、計測すれば必ず勝つ機会が判る」という[421]。山本は「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語ったという。しかしモナコではカジノ協会からあまりに勝ちすぎるため出入り禁止令を受けたという[422]。山本の博打好きは、今村均によれば、山本とは中佐・少佐時代に友人の家でトランプ遊びをした時に知己となる[423]。毎週末に山本、今村、安達二十三らの家でポーカーが開かれていたという。戦前1933年(昭和8年)発行「非常時国民全集・海軍篇」(中央公論社)でも第一航空戦隊司令官山本五十六少将の博打好きが紹介された[424]
  • 戦前、山本は「支那の夜」(渡辺はま子)という流行曲を気に入り、昼食時の軍楽隊に演奏させていた[425]
  • ワシントン海軍軍縮条約八八艦隊計画により建造されていた長門型戦艦二番艦「陸奥」が問題となり、それに対抗して建造されたアメリカのコロラド級戦艦三隻、イギリスがネルソン級戦艦二隻建造したことに関して「陸奥一隻のためにアメリカとイギリスを強くしすぎた」と皮肉を言っている。
  • 「大和」を旗艦としていた頃、機関科の乗員に依頼して、軍用の小銃の実包を自分の猟銃に使用できるよう違法改造させたという話があるが[426]、実際はスラバヤ攻略部隊から献上された英国製連装猟銃で、宇垣纏参謀長が参謀長室に飾っていたものである[427]
  • 乃木希典陸軍大将を尊敬していた[428]。山本も友人の歌人から「乃木将軍を 稍々口悪く 素気無く描けば そこに山本がいる」と冗談めかして評されている[428]
  • 東郷平八郎に対しては、自身の同志や友人を海軍から追放した経緯から否定的な感情を抱いていた。東郷神社が建立された際、「面倒臭いこと(軍縮条約締結)をやって貰って神様になったのだから、拝めば何か御利益があるだろうよ」と周囲に皮肉交じりに語った。その為か、真珠湾攻撃の成功により海軍内で自らが軍神の如く神聖化されて扱われる事に対し、「俺は神様でも何でもないんだ」と不満そうに言った。昭和18年の自らの戦死後、周囲が“山本神社”を建立しようと動いた際、山本の遺志を知る人々がその動きを止めた[429]
  • 長岡空襲は、山本の故郷という理由で行われた。TVで米国マスコミ取材に当時の軍関係者が、山本五十六の故郷だから国民の戦意喪失のために空襲をしたと語っている。但し、当時の長岡市には、理化学研究所(理研)の研究施設があり、この理研の施設を攻撃することが目的であったとも言われている。
  • 「長門」や「大和」の山本宛に大量の手紙が届いたが、「連合艦隊司令長官様」は公文書、「山本五十六様」は私信で、私信は山本自ら返信を書いた[430]。1日30通の郵便を出したが、ほとんど私信への返信である[431]。山本五十六は連合艦隊司令長官就任直後には渓口康麿(海兵51期。礼子関係親戚)に宛てた手紙の中で、5歳の長男に差出人を「56」と書いた[432]。海軍兵学校時代は、姪の高野京と交流が深く、多くの手紙を書いた[433]
  • 山本はキリスト教に対する理解が深く、海軍兵学校時代は座右に聖書を置いていた[434]。実子山本義正によれば、少年時代の山本は米国宣教師の元で聖書の勉強をしたことがあるという[435]
  • 佐官時代は愛煙家だったが、空母「赤城」艦長時代、航空機搭乗員が禁煙を宣告されたが無視していると、山本艦長は「私も煙草は好きだが、日本の為だ。君ばかりに止めてはおかぬ」として禁煙を宣言した[436]。それ以来、山本は煙草を吸わなかった[437]。海軍次官時代、松平恒雄英国大使が葉巻を山本に贈ろうとしたところ、支那事変解決までは吸わないとしたが戦死し預けたままとなった[438]
  • 米国駐在武官時代、部下の伊藤整一に「エイブラハム・リンカーンが好きだ。米国人といわず人間として偉い男と思う」と語った[439]
  • 山本は逆立ちが得意で「アメリカ行きの船の中で催されたパーティーで、階段の手摺の上で逆立ちを披露した。続いて皿回しを披露して乗客を唸らせた」「妙義山頂の岩の上や加治川急流下りの舟の舳先などで逆立ちを行い、皆がハラハラする様を楽しんだ」といった話が伝えられている[440]。このエピソードは映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」でも紹介されている。
  • 山本は酒を飲まなかったが甘いものが好物で[441]、夜食に汁粉が出ると喜んだ[442]。副官は「虎屋の羊羹を切らさぬように」と近江に注意をしている[443]。山本の同期生嶋田繁太郎大将も「長門」を訪れた際に大量の「虎屋の羊羹」を土産に持参した[444]。あめ最中も好物としており、新潟市白山駅の「渡辺あめや」には礼状が飾ってある。日本では、南方ではパパイヤを好物とし、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていた[445]。水饅頭が大好物であった。ただしこれはくず粉を用いて作った透明の生地で餡を包んだ夏季の生菓子の水饅頭ではなく、酒饅頭を冷水で浸したものに砂糖を掛けたものであった[446]。このエピソードは映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2011年)で紹介されている。
  • アメリカ留学時代、留学生小熊信一郎と互いに意地を張った結果26時間連続で将棋を指した[447]。100番予定だったが双方疲労の末、75番で切り上げた[448]。連合艦隊司令長官になっても将棋をやめることはなく、浴衣に着替えると渡辺安次参謀、藤井茂参謀と日課のように将棋を指し、藤井には苦戦した[449]。普段無口な山本だが、将棋を指す時には冗談を交えつつ参謀をからかっている[450]。真珠湾攻撃の前日にも渡辺と指し[451]、ミッドウェー海戦でも空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和」作戦室で渡辺と将棋を指している時に受け取った[452]
  • 山本は、米国駐在(ハーバード大学留学)の前年の1918年(大正7年)当時、ナショナルジオグラフィックを購読していた。長男山本義正は、米国から日本に戻った1928年(昭和3年)以降のこととして「(山本が米国から帰国してから1930年(昭和5年)まで住んだ)鎌倉・材木座の自宅には、ナショナルジオグラフィックが米国から毎月届きました。当時小学生だった私は、父より先に封筒から取り出して良く見たものです」「(山本の)本棚の半分は米国の歴史に関する本で、他に黄色い背表紙のナショナルジオグラフィックがたくさん並んでいました。付録地図もケースの中に大切にとってありました。父は米国を知るためのあらゆる勉強をしていました」と語った。[453]
  • 海軍次官時代、執務室に「百戦百勝不如一忍 玄峰」の掛軸を飾っていた[454]。他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いている[455]。この言葉は、自らの故郷旧長岡藩の藩是である。「号」は「兜城」(長岡城の別名)、のちに「長稜」(長岡の雅名)を使った[456]
  • 女性に対して細やかな気配りを見せ、得意の逆立ちで宴席の場を盛り上げる等、花柳界ではかなりの人気者だった。その一方で山本は下戸であり、一説によると彼の徳利には番茶が入っていた[457]。連合艦隊旗艦「長門」艦長大西新蔵は、宴会で専用の徳利から酌をされる山本を目撃している[458]。海軍将校間の宴会では無口だった山本だが、拳骨の腹に徳利を吸いつけて酌をする隠し芸を披露した[459]
  • 非常にお洒落な人物であり、大切にしていた特製のサージの軍服は、逆光で青色に光ったという[460]。毎日5足以上の靴を磨かせて並べて履き替えていたが、靴の中が熱くなるのを嫌っていたからであった[461]。従兵長達が山本のために精一杯豪華な食事を用意し続けたため窮屈な軍艦内部の生活が原因で運動不足になり、高血圧脚気になった可能性がある[462]。山本は1942年末-1943年にかけて手足のしびれ・むくみを訴えたため古賀峯一大将が心配している[463]

栄典[編集]

家系[編集]

系譜[編集]

家紋は「左三つ巴」である。

  • 父: 高野貞吉(高野家の婿養子)
  • 母: 高野峯子(貞通の実娘)
  • 養父: 山本帯刀 
兄弟
  • 長兄: 高野譲(高野力)
  • 次兄: 高野登
  • 三兄: 高野大三
  • 四兄: 高野留吉
  • 五兄: 高野季八
姉妹
  • 長姉: 高野加壽
義姉
  • 山本初路
  • 山本玉路
  • 正妻: 山本礼子
  • 妾: 河合千代子
  • 長男: 山本義正
  • 次男: 山本忠夫
  • 長女: 山本澄子
  • 次女: 山本正子
親戚

山本氏[編集]

詳細は越後長岡藩の家臣団及び、山本帯刀を参照。

1915年(大正4年)、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男であった高野五十六が海軍大学を修了して、海軍で佐官以上の地位が約束されたとき、牧野忠篤子爵が31歳になる五十六の将来を見込んで、彼が断絶した山本氏を相続するかたちでの家名を再興した[468]

山本氏は源満政を祖とする清和源氏の一流であり、戦国時代には三河小豪族として成長したが、桶狭間の戦い後に徳川家康岡崎に自立して三河を平定していくなかで、永禄8年(1565年)牧野家山本家は共に家康に臣従、直参旗本となった。天正年間、山本成行のときに、家康直参のまま上州大胡藩の藩主となっていた牧野康成に与力し、その後そのまま牧野家の家臣となった。元和4年(1616年)に牧野家が越後長岡藩主に加増移封されると、山本家は上席家老連綿(上席家老職を世襲する家)1100〜1300石の家格に定着した。

大政奉還後の越後長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わって北越戦争官軍と交戦し敗北、新政府から戦争責任の追及で藩主牧野家は筆頭家老河井継之助と上席家老山本帯刀を反乱の首謀者として報告し両家はともに家名断絶となった。このため維新後牧野家では、家祖の代から深いつながりがある山本家の家名再興を使命として尽力することになる。山本家は戸籍の上では1884年(明治17年)にいったん再興されたが、戸籍内に男子がない「女戸」でその女子も死亡して以来、山本氏は廃家となっていた。

山本氏の後継に選ばれた五十六の高野家は元々信濃上田藩の家臣であったが、慶安元年(1648年)高野七左衛門のときに牧野家に再仕官し、40石の馬廻り衆(中級藩士)となり、延享年間に高野秀右衛門が家老・山本勘右衛門の補佐をしたことを機に、以後代々高野家は山本家と深い関係を持っており、家格も100〜150石の大組(上級藩士)として郡奉行・勘定方支配・取次格などを務めるまでになっていた。しかし山本家廃絶の明治2年には、首脳部から外れて8等官・計司となっていた。

史跡[編集]

  • 山本の映像は戦死直前にラバウルで撮影されたものと、海軍病院船氷川丸を訪問した時のものが残っている。前者は日本ニュースで紹介され、後者は記録映画「海軍病院船」で見ることが出来る。
  • 肉声はロンドン海軍軍縮会議1934年(昭和9年)の第二次軍縮予備交渉)の代表を務めた際に、当時開設されたばかりの日英間無線電話(国際電話)を介して録音されたものが残っている。国葬当日の夜に特別番組「在りし日の山本元帥」の一つとして放送された他、旧海軍軍楽隊メンバーが集まって録音した行進曲集のレコードCDにも収録されている。内容は、前半では交渉団が日本を出発した翌日(1934年(昭和9年)9月21日)に襲来した室戸台風の被害にあった人々への見舞いの言葉と復興を願うコメント、後半では山本ら関係者が総力を集めて交渉成立に向けて全力を注いでいる、といったものである。なお、録音の中で山本は「海軍少将」と言っているが、渡英中に海軍中将に昇進していた。
  • 山本の墓は多磨霊園と故郷・長岡の長興寺 にあるが、後者にある墓は2004年(平成16年)10月23日新潟県中越地震で倒壊し、2005年(平成17年)4月に復旧した。また、山本が長岡に帰省するたびに立ち寄っていた曹洞宗の禅寺・堅正寺も倒壊。この寺は1964年(昭和39年)の新潟地震でも被害を受け、「もう一度地震が来たら倒れる」と言われていた。
  • 山本の生家は長岡空襲で焼失し、現在は山本記念公園となっている。
    • 山本が戦死した後、ここに“山本神社”を建立して元帥の遺徳を称えようという関係者の動きがあったが、米内光政井上成美堀悌吉などが「山本は自分が神様にされるのを一番嫌っていた。そんなこと(神社建立)をしても山本は喜びません」と言って猛烈に反対した為、山本神社建立話は沙汰止みになった[469]
    • 公園には復元された生家や胸像が建っている。この胸像はもともと全身像で、かつては霞ヶ浦にあった海軍航空隊にあったものであったが、終戦後の1948年(昭和23年)に進駐軍による取り壊しを避けるために、密かに霞ヶ浦に投げ込んで湖底に隠され、後に引き上げた際胸部のみを長岡の山本元帥景仰会が貰い受け、ブロンズ像に鋳直したものである。
    • 公園の向かい側には山本五十六記念館があり、家族や親友に宛てた手紙や軍服などの遺品、ブーゲンビル島上空で戦死した時に搭乗していた一式陸攻の左翼などが展示されている。
  • 長男・義正が、府立一中を受験するに当たって、居宅を鎌倉材木座から青山南町に移している(後に一中父兄会の理事に就任した)。なお、青山南町の居宅は東京大空襲で焼失した。

年譜[編集]

  • 1904年(明治37年)11月14日 - 海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生。
  • 1905年(明治38年)
  • 1907年(明治40年)
    • 8月5日 - 海軍砲術学校普通科学生。
    • 9月28日 - 任海軍中尉
    • 12月16日 - 海軍水雷学校普通科学生。
  • 1909年(明治42年)
    • 10月1日 - 練習艦「宗谷」分隊長心得。
    • 10月11日 - 任海軍大尉。「宗谷」分隊長。
  • 1910年(明治43年)
    • 2月1日 - 37期少尉候補生訓練のため豪州へ遠洋航海に出発。7月2日、日本に戻る。
    • 12月1日 - 海軍大学校乙種学生。
  • 1911年(明治44年)
    • 5月22日 - 海軍大学校乙種学生教程卒業。海軍砲術学校高等科学生。
    • 12月1日 - 海軍砲術学校高等科学生卒業。海軍砲術学校教官兼分隊長、海軍経理学校教官。
  • 1912年(明治45年/大正元年)- 佐世保予備艦隊参謀→軍艦「新高」砲術長
  • 1914年(大正3年)
    • 5月27日 - 横須賀鎮守府副官兼参謀
    • 12月1日 - 海軍大学甲種学生。
  • 1915年(大正4年) - 牧野忠篤子爵の口添えがあり山本家を相続(→「山本家の相続」の節を参照)。
  • 1916年(大正5年)
    • 9月20日 - 山本と改姓の旨届出
    • 12月1日 - 第二艦隊参謀。
  • 1917年(大正6年)
    • 7月21日 - 海軍省軍務局々員
    • 7月27日 - 海軍教育本部々員、海軍技術本部技術会議々員
  • 1918年(大正7年)8月 - 結婚願届出、認可。
  • 1919年(大正8年)
  • 1921年(大正10年)
    • 5月5日 - 帰国を命ず。7月19日、横浜着。
    • 8月10日 - 軍艦「北上」副長。
    • 12月1日 - 海軍大学校教官。
  • 1923年(大正12年)
    • 6月20日 - 欧米各国へ出張を命ず。30日、海軍軍令部出仕。
    • 12月1日 - 任海軍大佐
  • 1924年(大正13年)
    • 3月31日 - 横浜帰着。
    • 6月17日 - 特務艦「富士」勤務[注釈 3]
    • 9月1日 - 霞ヶ浦海軍航空隊附。
    • 12月1日 - 霞ヶ浦海軍航空隊副長。
  • 1925年(大正14年)
  • 1927年(昭和2年)
    • 7月28日 - ワシントン国際無線電信会議に参加。
    • 11月15日 - 帰国を命ぜられ、翌年3月5日帰朝。
  • 1928年(昭和3年)
  • 1929年(昭和4年)
    • 10月8日 - 海軍軍令部出仕、兼海軍省出仕、海軍省軍務局勤務
    • 11月12日 - ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加。
    • 11月30日 - 任海軍少将
  • 1930年(昭和5年)
    • 9月1日 - 海軍航空本部出仕。
    • 12月1日 - 海軍航空本部技術部長、兼海軍技術会議々員
  • 1933年(昭和8年)10月3日 - 第一航空戦隊司令官。
  • 1934年(昭和9年)
  • 1935年(昭和10年)
  • 1936年(昭和11年)12月1日 - 永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢される。
  • 1937年(昭和12年) - 米内光政海相のもとで次官留任。
  • 1938年(昭和13年)4月25日 - 11月15日 海軍航空本部長(海軍次官兼任)。
  • 1939年(昭和14年)8月30日 - 連合艦隊司令長官第一艦隊司令長官兼任)に親補される。
  • 1940年(昭和15年)11月15日 - 任海軍大将
  • 1941年(昭和16年)
    • 1月7日 - 及川古志郎海相に対米戦に対する作戦(真珠湾作戦)を提出する。
    • 8月11日 - 第一艦隊司令長官、高須四郎中将に替わる。
    • 12月8日 - 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦。真珠湾攻撃は山本の発案と言われている。
  • 1942年(昭和17年)
    • 4月4日 - 勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章
  • 1943年(昭和18年)

演じた俳優[編集]

注釈[編集]

  1. ^ アリゾナオクラホマ完全破壊。ウェストバージニアカリフォルニアは復帰。
  2. ^ 戦争前、停泊中の生活は、近江従兵長の著作に詳しい。
  3. ^ 反町著では艦長。実際は運用研究。

脚注[編集]

  1. ^ 山本五十六人物紹介(山本五十六記念館HP)
  2. ^ #人物叢書山本(新装)1頁、#半藤、2011(平凡社)13頁
  3. ^ #海軍生活放談202頁、#人間・山本213頁、安保清種(海軍大将)談。
  4. ^ #海燃ゆ15頁
  5. ^ #人間・山本517頁
  6. ^ #海燃ゆ34-36頁
  7. ^ #人間・山本121頁
  8. ^ #人物叢書山本(新装)8-9頁
  9. ^ #人間・山本127頁、#人物叢書山本(新装)15頁
  10. ^ #人間・山本127頁、#海燃ゆ41頁
  11. ^ #人物叢書山本(新装)21頁
  12. ^ #人物叢書山本(新装)22頁
  13. ^ #人間・山本140頁、#人物叢書山本(新装)23頁
  14. ^ #人物叢書山本(新装)25頁
  15. ^ 傷痍軍人徽章第一号(水交会編『回想の日本海軍』原書房P330)、#海燃ゆ51頁、#人間・山本145-149頁
  16. ^ #世界史・山本五十六211頁、野村實『山本五十六再考』中公文庫159-167頁
  17. ^ #人間・山本152-153頁
  18. ^ #人間・山本153-157頁、#海燃ゆ55-56頁
  19. ^ #人物叢書山本(新装)31頁
  20. ^ #人物叢書山本(新装)32頁
  21. ^ #海軍兵学校物語105頁、#人物叢書山本(新装)33頁
  22. ^ #人間・山本188-189頁、#人物叢書山本(新装)33頁
  23. ^ #人間・山本192頁、#海燃ゆ59頁
  24. ^ #海軍兵学校物語109頁
  25. ^ #人物叢書山本(新装)36頁
  26. ^ #人間・山本200頁、#海燃ゆ62頁
  27. ^ #人間・山本205頁、#海燃ゆ68-70頁
  28. ^ #人物叢書山本(新装)38頁
  29. ^ #人間・山本209-211頁、#海燃ゆ70-73頁
  30. ^ #人間・山本209-211頁
  31. ^ #海燃ゆ83-84頁
  32. ^ #人物叢書山本(新装)40頁、#海燃ゆ86-87頁
  33. ^ #海燃ゆ102頁、#世界史・山本五十六25頁
  34. ^ #人物叢書山本(新装)74頁
  35. ^ #人物叢書山本(新装)77頁、#海軍兵学校物語110頁
  36. ^ #人物叢書山本(新装)78頁
  37. ^ #人物叢書山本(新装)80頁、#海燃ゆ110頁
  38. ^ #人間・山本248頁
  39. ^ #人物叢書山本(新装)85頁
  40. ^ #人間・山本251頁、#人物叢書山本(新装)84頁
  41. ^ #人間・山本252-253頁、#人物叢書山本(新装)94-95頁
  42. ^ 丸『山本五十六と連合艦隊司令部―悲劇の提督の生と死』光人社NF文庫10-11頁
  43. ^ #人間・山本255-256頁
  44. ^ #世界史・山本五十六26頁
  45. ^ #人物叢書山本(新装)102頁
  46. ^ #人物叢書山本(新装)108頁
  47. ^ #人物叢書山本(新装)188頁、#世界史・山本五十六27頁
  48. ^ #人間・山本273頁、#人物叢書山本(新装)109頁
  49. ^ #人間・山本274頁
  50. ^ #人間・山本300頁、#人物叢書山本(新装)54.112頁、#海軍の昭和史49頁
  51. ^ #人物叢書山本(新装)56頁
  52. ^ #人間・山本302頁、#山本の大罪91頁、#人物叢書山本(新装)57頁
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文献[編集]

  • 五峯録堀悌吉著) - 現代の山本五十六観のすべての原本とされている

山本五十六を描いた作品[編集]

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.A06031086900「写真週報 274号」(1943年6月2日)「一億山本元帥の後に続かん」
    • Ref.A06031050700「週報第345号」(昭和18年5月26日)「山本司令長官を悼む」
    • Ref.A10110842000「故元帥海軍大将正一位、大勲位、功一級山本五十六国葬写真帖」
    • Ref.C10100875800「8年5月8日 出発届の件」(アメリカ駐在海軍少佐山本五十六)
    • Ref.C10100876700「10年3月1日 視察報告提出の件 米戦艦『テネシー』」(山本五十六海軍中佐提出)
  • 反町英一 『人間 山本五十六 元帥の生涯』 光和堂、1964年9月。
  • 蝦名賢造山本五十六と宇垣纏 死に往く長官 上巻』 西田書店、1989年3月。ISBN 4-88866-083-2
  • 蝦名賢造 『山本五十六と宇垣纏 死に往く長官 下巻』 西田書店、1989年3月。ISBN 4-88866-084-0
  • 望月良夫 『山本五十六の恋文』 考古堂書店、1992年ISBN 4-87499-179-3
  • 山室英男、緒方徹 『検証・山本五十六長官の戦死』 日本放送出版協会、1992年ISBN 4-14-080037-2
  • 豊田穣 『世界史の中の山本五十六 歴史を動かした英雄たちの研究』、1992年12月。ISBN 4-7698-0642-6
  • 蜷川親正 『山本五十六の最期』 光人社NF文庫、1996年ISBN 4-7698-2132-8
    著者は山本の検死を行った蜷川親博(軍医大尉)の弟。医学博士。
  • 生出寿 『勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六』 徳間文庫、1997年7月。ISBN 4-19-890714-5
  • 生出寿 『ニミッツと山本五十六』 徳間文庫、2000年ISBN 4-19-891368-4
  • 元連合艦隊司令部従兵長近江兵治郎 『連合艦隊司令長官山本五十六とその参謀たち』 テイ・アイ・エス、2000年7月。ISBN 4-88618-240-2 近江は1940年、連合艦隊司令長官付。山本の戦死まで仕えた。
  • 三村文男 『米内光政と山本五十六は愚将だった「海軍善玉論」の虚妄を糺す』 株式会社テーミス、2002年ISBN 4-901331-06-x
  • 高澤豊治 『山本五十六の誤算』 文芸社、2002年ISBN 4-8355-3426-3
  • 工藤美代子 『海燃ゆ 山本五十六の生涯』 光人社、2004年6月。ISBN 4-06-212339-8
  • 中川八洋 『山本五十六の大罪』 弓立社、2008年ISBN 978-4-89667-803-1
  • 田中宏巳人物叢書 山本五十六』 吉川弘文館、2010年6月。ISBN 978-4-642-05257-3
  • 鳥居民 『山本五十六の乾坤一擲』 文藝春秋、2010年7月。ISBN 978-4-16-372860-5
  • 半藤一利平凡社ライブラリー739 山本五十六』 平凡社、2011年7月。ISBN 978-4-582-76739-1
  • 山本義正 『父山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉』 恒文社、新版2007年
  • 松島慶三 『悲劇の南雲中将 真珠湾からサイパンまで徳間書店、1967年3月。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
  • 戦艦大和初代砲術長、元横須賀海軍砲術学校教頭黛治夫 『海軍砲戦史談』 原書房、1972年8月。
  • 草鹿龍之介 『一海軍士官の半生記』 光和堂、1973年ISBN 4-87538-019-4
  • 柴田武雄 『源田実論』 思兼書房、1975年1月。
  • 草鹿龍之介 『連合艦隊参謀長の回想』 光和堂、1979年
  • 大西新蔵 『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。
  • 鎌田芳朗 『海軍兵学校物語』 原書房、1979年7月。
  • 豊田穣 『波まくらいくたびぞ 悲劇の提督・南雲忠一中将』 講談社、1980年ISBN 0193-316345-2253。
  • 相良俊輔 『怒りの海 戦艦比叡・西田艦長の悲劇』 光人社、1985年5月。ISBN 4-7698-0039-8
  • 杉本健 『海軍の昭和史 提督と新聞記者』 文藝春秋、1985年8月。ISBN 4-16-739301-8 杉本は朝日新聞記者で、海軍省担当。山本、米内光政、井上成美と交流があり、阿川弘之の山本伝記執筆にあたって井上と石川信吾を紹介した。
  • 福地周夫 『海軍美談よもやま物語』 光人社、1985年ISBN 4-4698-0287-0
  • 島田四郎ほか 『見えざる日本の支配者フリーメイソン』 徳間書店。ISBN 4-19-906093-9
  • 千早正隆 『日本海軍の驕り症候群』 プレジデント社、1990年ISBN 4-8334-1385-x
  • 千早正隆ほか 『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』 プレジデント社、1994年ISBN 4-8334-1530-5
  • 亀井宏 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7
  • 千早正隆 『元連合艦隊参謀の太平洋戦争 千早正隆インタビュー 東京ブックレット17』 東京新聞出版局、1995年8月。ISBN 4-8083-0544-5
  • 生出寿 『航空作戦参謀 源田実』 徳間書店、1995年8月。ISBN 4-19-890357-3
  • 生出寿 『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』 光人社NF文庫、1996年
  • 小林久三 『連合艦隊作戦参謀 黒島亀人 一国の命運を分けた山本五十六と黒島亀人』 光人社NF文庫、1996年5月。ISBN 4-7698-2121-2
  • 吉田俊雄 『良い参謀、良くない参謀 8人の海軍サブリーダーを斬る!』 光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0786-4
  • 吉田俊雄(元大本営海軍参謀) 『良い指揮官 良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』 光人社、1996年ISBN 4-7698-0746-5
  • 石渡幸二 『太平洋戦争の提督たち』 中央公論社、1997年12月。ISBN 4-12-203014-5
  • 生出寿 『海軍人事の失敗の研究 太平洋戦争・誤断の開戦と完敗の主因』 光人社、1999年6月。ISBN 4-7698-0909-3
  • 蝦名賢造 『最後の特攻機 覆面の総指揮官 宇垣纏』 中央公論新社、2000年7月。ISBN 4-12-203677-1
  • 吉田俊雄 『日本海軍のこころ』 文藝春秋、2000年12月。ISBN 4-16-356900-6
  • 斉藤一好 『一海軍士官の太平洋戦争 等身大で語る戦争の真実』 高文研、2001年ISBN 4-87498-272-7
  • 吉田俊雄 『大和と武蔵 その歴史的意味を問い直す』 PHP研究所、2004年8月。ISBN 4-569-63462-1
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳 『ミッドウェーの奇跡 上巻』 原書房、2005年ISBN 4-562-03874-8
  • ゴードン・ウィリアム・プランゲ著、千早正隆訳 『ミッドウェーの奇跡 下巻』 原書房、2005年ISBN 4-562-03875-6
  • 平間洋一 『第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から』 錦正社、2007年5月。ISBN 978-4-7646-0320-2
  • 淵田美津雄 『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』 講談社、2007年12月。ISBN 978-4-06-214402-5
  • 中村悌次 『生涯海軍士官 戦後日本と海上自衛隊』 中央公論社、2009年ISBN 978-4-12-004006-1
  • ヤコブ・モルガン著、忍野昭太郎訳 『山本五十六は生きていた』 第一企画出版、1995年ISBN 4-88719-023-9

外部リンク[編集]

公職
先代:
長谷川清
海軍次官
第15代:1936年12月1日 - 1939年8月30日
次代:
住山徳太郎
軍職
先代:
吉田善吾
連合艦隊司令長官
第26・27代:1939年8月30日 - 1943年4月18日
次代:
古賀峯一