陸上攻撃機

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陸上攻撃機(りくじょうこうげきき)とは日本海軍において、陸上基地から発進し、敵主力艦隊に対して魚雷攻撃を行うことを主たる目的として開発された航空機(雷撃機)。「陸攻」(りっこう)。日本海軍における機種記号は

概要[編集]

陸上基地から発進する雷撃機は諸外国に存在するが、それらの多くが沿岸警備を目的とするものであるのに対し、日本海軍の陸上攻撃機はあくまで艦隊決戦を前提とした漸減邀撃作戦(ぜんげんようげきさくせん)の一翼を担うものである点に特徴がある。

漸減邀撃作戦とは、優勢なアメリカ艦隊が太平洋を西進してくる間に潜水艦などによって徐々にその戦力を低下せしめ、日本近海に至って、互角の戦力となった主力艦隊同士の艦隊決戦で勝利を収めるとする日本海軍の対米戦基本計画であり、太平洋の島嶼の基地に展開した陸上攻撃機もその「漸減」の任務を負っていた。日本の潜水艦が諸外国に比べて異例の大きさと航続力を持つこと、陸上攻撃機がやはり大きな航続力を要求されたことはいずれもこの作戦計画に基づくものである。

その目的で用いるため、長大な航続力が陸攻の特徴である。諸外国、あるいは日本陸軍では大型(中型)爆撃機と称すべき機体であり、後述する通り世界初の戦略爆撃すら行っている。その反面、諸外国の同規模の爆撃機に対して搭載量が劣っており、防御においてはさらに著しく欠如しており、それが陸攻の戦歴に大きな影を投げかけている。

戦歴[編集]

ニッポン号と渡洋爆撃[編集]

日本の陸上攻撃機は九六式陸上攻撃機(通称「中攻」)でひとまずの完成を見る。九六式陸攻はひと世代前の戦闘機をしのぐ高速性能と、民間型の「ニッポン号」が1939年に毎日新聞社主催の世界一周飛行を果たしたほどの航続力を誇った。日中戦争では九州の基地から中国大陸への渡洋爆撃、さらには大陸沿海部から奥地重慶まで長駆の爆撃を行っており、これは世界初の戦略爆撃であった。反面、その長航続力実現のために搭載力がいささか犠牲になっており、後にアメリカが日本やドイツに対して行った、都市を壊滅させるような規模の爆撃は望むべくもなかった。さらには防弾を犠牲にせざるを得ず、制空権を持たない空域ではきわめて脆弱であった(その高速と長大な航続力は、護衛戦闘機の随伴が不可能という問題にもつながった)。そのため九六式陸攻中国軍戦闘機の機銃弾が数発当たっただけで簡単に落ちるほどの脆弱性を示し、被害は極めて甚大であった。しかしこの結果は顧みられる事がなく、後継である一式陸上攻撃機も長大な航続力のため防御力を犠牲にするという設計思想がそっくり受け継がれた。

マレー沖海戦[編集]

渡洋爆撃に続く陸攻の晴れ舞台は1941年12月10日、対米英開戦劈頭のマレー沖海戦におけるイギリス東洋艦隊の撃滅である。不沈艦と言われた新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦レパルス九六式陸攻一式陸攻の部隊が沈めたこの戦いは、航空機だけで作戦行動中の主力艦を沈めた初めての戦いとして世界を驚愕させたが、その大戦果は一方で、イギリス東洋艦隊に戦闘機の護衛が無かったことから注意をそらす結果ともなった。この時、大西洋で座礁し修理中であった航空母艦インドミタブルが予定どおり東洋艦隊に合流できていたら、おそらく陸攻隊の大戦果は無かったか、遥かに少ないものになっていただろう。余談だが第二次世界大戦において、日本軍が航空機で戦艦を撃沈したのはこれが最後であり、また作戦行動中の戦艦を航空機で撃沈したのもこれが最初で最後であった。

ソロモン諸島方面における消耗戦[編集]

ラバウルを初めとする南方方面の諸島への展開は陸攻にとっては本領発揮の場面だったはずだが、装備の万全なアメリカ軍と対決した結果はあまりに苛酷だった。1942年8月から本格化したソロモン方面の航空戦に参加した一式陸攻の部隊は6個航空隊に及ぶが、10月までの3ヶ月間に約100機(乗員にして約700名)を失うという大損害を喫した。ここに至ってようやく海軍当局も陸攻の防弾装備の充実に乗り出すが、すでに遅く、一定の防弾を備えた型が登場した時にはすでに対潜哨戒輸送特攻桜花の母機といった任務しか残っていなかった。

陸上攻撃機一覧[編集]

参考図書[編集]

  • 「世界の傑作機 一式陸上攻撃機」 文林堂 ISBN4-89319-056-3