フィリピンの戦い (1941-1942年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
フィリピンの戦い
Manila declared open city.jpg
1941年12月26日にオープンシティを宣言したマニラ
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1941年12月8日 - 1942年5月10日
場所フィリピン
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フィリピンの旗 フィリピン・コモンウェルス
指揮官
十六条旭日旗の旗 本間雅晴中将 アメリカ合衆国の旗 ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗 ジョナサン・ウェインライト
フィリピンの旗 マヌエル・ケソン
戦力
43,110[1] アメリカ陸軍 31,095
フィリピン軍 120,000
アメリカ海兵隊1440
損害
戦死 4,130
行方不明 287
戦傷 6,808
戦死 25,000
戦傷 21,000
捕虜 83,631
南方作戦

1941年から1942年のフィリピンの戦い(フィリピンのたたかい, Battle of the Philippines, 比島作戦, 日本側作戦名「M作戦」, 1941年12月8日 - 1942年5月10日[2])は、太平洋戦争大東亜戦争)緒戦における日本軍フィリピン進攻作戦である。

本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍ダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

背景[編集]

フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。日本は1923年に帝国国防方針を改定してアメリカを仮想敵国の第一位としており、対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた。

アメリカも、想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた。だが計画には根本的な限界があった。マニラ湾の港には大艦隊を支援できる能力はないので、海軍基地は5,000マイル離れた真珠湾を使うしかない。日本の基地はフィリピンから1,500マイルしかなく、日本は短期間に大兵力を送り込むことができる。このような実情に合わせて、1936年に改定されたオレンジ計画(WPO-3)では、フィリピン全土の防衛は断念して兵力をマニラ湾周辺に集中する案が採用された。

だがダグラス・マッカーサー司令官はこの案に不満であった。マッカーサーは1935年にアメリカ陸軍参謀総長を退任し、マニュエル・ケソンの要請でフィリピン軍新設のための軍事顧問に就任していた。その後1937年にアメリカ陸軍を退役していたが、1941年7月にフランクリン・ルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍の司令官となっていた。マッカーサーは、10個師団にまで育て上げたフィリピン軍と、アメリカ軍の最新鋭機の戦力をもってすれば、フィリピンの防衛が可能であると考えていた。1941年10月にオレンジ計画を引き継いでレインボー計画が改定(RAINBOW 5)されたとき、マッカーサーは見直しを要求し、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換した[3]

日本では、1941年11月5日、御前会議で対英米蘭戦争が決定され、6日に南方作戦部隊の戦闘序列が下令された。シンガポール攻略を重視する陸軍はマレーに重点を向け、アメリカ主力艦隊の迎撃を重視する海軍はフィリピンに重点を向けることになった。シンガポール攻略に開戦後100日を要すると考えられたのに対して、フィリピンは45日で主要部を攻略できると判断された。フィリピン作戦を担当する部隊として第14軍が編成され、司令官に本間雅晴中将が任命された。

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

リンガエン湾に上陸する本間中将
マニラへ向けて進撃する日本軍戦車隊
ウェーンライト少将(左)とマッカーサー司令官
アメリカ陸軍スカウト部隊

第14軍の開戦時兵力は軍主力34,856名、船舶部隊4,633名、第5飛行集団3,621名であった[4]。軍の主力を担うのは第48師団(台湾)であった。同師団は1940年に台湾混成旅団から改編された自動車編成の機械化師団で、兵士は主に九州出身であった。ただし同師団はフィリピン作戦の終了後直ちに蘭印作戦に転用される予定となっていた。第16師団(京都)はフィリピン各地に分散上陸し補助的な役割を担ったが、戦力としては一流の野戦師団であった。第65旅団は中国・四国地方で編成された部隊であった。占領地守備を目的としていた部隊であり、編成や装備は野戦師団に比べて著しく劣っていた。

2月以降、増援部隊として第4師団、第1砲兵隊、永野支隊(第21師団の一部)が投入された。またビサヤミンダナオ方面の攻略のために川口支隊(第18師団の一部)と河村支隊(第5師団の一部)が投入された。

アメリカ軍・フィリピン軍[編集]

  • アメリカ極東陸軍 - 司令官:ダグラス・マッカーサー(少将待遇)
    • アメリカ陸軍極東派遣部隊 - 司令官:ジョージ・グルナート少将
      • 北部ルソン部隊 - 司令官:ジョナサン・ウェインライト少将、第26騎兵連隊(PS)、第45歩兵大隊(PS)、2個重砲兵大隊(PS)、1個山砲大隊(PS)、フィリピン第11、第21、第31歩兵師団、フィリピン第71歩兵師団(実際には極東陸軍司令部直轄)
      • 南部ルソン部隊 - 司令官:ジョージ・パーカー准将、フィリピン第41、第51歩兵師団
      • ビサヤ・ミンダナオ部隊 - 司令官:ウィリアム・シャープ准将、フィリピン第61、第81、第101歩兵師団
      • 予備部隊(マニラ北方に配置)、フィリピン師団en:U.S. Philippine Division、フィリピン唯一のアメリカ軍正規師団であるが、人員の8割はPS)、第86野戦砲兵連隊(PS)、フィリピン第91歩兵師団、極東空軍、フィリピン軍司令部、アメリカ極東軍司令部
      • 港湾守備部隊(コレヒドール島などのマニラ湾入口を守備)、5個沿岸砲兵連隊
    • アメリカ極東航空軍(en:Far East Air Force) - 司令官:ルイス・ブレリートンen)少将
      • 作戦機249機(B-17爆撃機35、P-40戦闘機107、P-35戦闘機52、P-26戦闘機16、B-18爆撃機18、A-27攻撃機9、B-10爆撃機12)

1941年12月当時、アメリカ軍とフィリピン軍は合わせて約15万の兵力を有していた。フィリピン軍はマッカーサーの指導の下で名目上は10個師団(定数は各7500人)にまで増強されていたが、編成途上・訓練未了の部隊も多かった。アメリカ陸軍極東派遣部隊の兵力は31,095名で[5]、フィリピン人部隊(「フィリピン・スカウト」(PS、en:Philippine Scouts))11,957名。アメリカ本国の兵士も8,500名が加わっていた。アメリカ極東航空軍は当時アメリカ国外駐屯の航空部隊としては最大の規模であり、特に最新鋭のB-17爆撃機は日本軍にとって大きな脅威になると予想された。

経過[編集]

クラーク飛行場空襲[編集]

フィリピンの戦いの推移
フィリピンの戦いにおける日本軍の銀輪部隊

12月8日早朝、日本軍の真珠湾攻撃のニュースがフィリピンにも入ってきた。極東航空軍を率いるブレリトン少将は台湾の日本軍基地への先制攻撃を具申したが、上層部はこれを却下した。アメリカ軍上層部は、日本軍がフィリピンへ進攻してくるか否か判断しかねていたのである。それでも日本軍機の襲来に備え、朝から戦闘機隊が発進して上空を警戒していた。

そのころ台湾は濃霧に覆われていた。第11航空艦隊の攻撃機群は濃霧に遮られ、出撃は9時過ぎになってしまう。だがこれは結果から見れば天佑ともいえる幸運であった。昼過ぎ、アメリカ軍機は給油のため次々と基地へ降り立ったが、日本軍機がフィリピン上空へ飛来したのはこのタイミングであった。戦闘機34機、陸攻53機がクラーク飛行場を、戦闘機51機、陸攻53機がイバ飛行場を襲い、B-17は地上に翼を並べたまま撃破された。この日、アメリカ軍はB-17 18機、P-40 53機、P-35 3機、その他25ないし30機を喪失し、多数が損傷を受けた。日本軍の損害は陸攻1機に過ぎなかった。アメリカ極東航空軍は開戦初日で兵力の過半を失った。

10日には日本軍航空部隊はマニラ湾内のキャビテ軍港および在泊艦隊を空襲して大きな損害を与えた。これらの航空撃滅戦の結果、制空権制海権は日本軍のものとなった。

マニラ陥落[編集]

第14軍の一部は12月8日に離島のバタン島、10日にルソン島北端のアパリビガン、12日にルソン島南端のレガスピーに上陸し、現地の飛行場を確保して航空部隊を前進させた。第14軍主力(第48師団および第16師団上島支隊)は22日にリンガエン湾に、第16師団主力は24日に東岸のラモン湾に上陸した。リンガエン湾では天候が急変して高さ2メートル以上の波浪を生じ、米比軍北部ルソン部隊の一部による抵抗もあって上陸作戦は難航したが、先にビガンに上陸していた田中支隊による側面攻撃が間に合い、米比軍は撤退した。ラモン湾の上陸戦闘ではベルリンオリンピック棒高跳大江季雄が戦死している。

そのころマッカーサー司令官は、古いオレンジ計画に立ち戻り、マニラ湾を挟んでマニラと向かい側のバターン半島コレヒドール島に立てこもる決断をしていた。22日にジョージ・マーシャル参謀総長へ至急電を送って許可を要請し、マーシャルも撤退を了承した。23日、マッカーサーは配下の各部隊長に方針を伝達し、アメリカ極東軍司令部とフィリピン政府もバターン半島への移動を開始した。

日本軍ではマニラ平野の東側を第48師団、西側を上島支隊が進撃し、東海岸からも第16師団が首都マニラを目指した。自動車編成の第48師団に対して、上島支隊も自転車を調達し銀輪部隊となってこれに負けないスピードで進撃を続けた。だが30日、上島支隊はフィリピン第21師団と対戦してこれを撃破したものの、連隊長上島良雄大佐は流れ弾を受けて戦死する。

日本軍は南北からマニラへ迫り、同市は26日に無防備都市宣言をした。1942年1月2日午後、マニラは第14軍のリンガエン湾上陸からわずか11日で陥落した。

第14軍司令官本間雅晴中将はマニラ入場にあたり将校800名を集めて1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」違反したものは厳罰に処すと訓示を行い、将校は各部隊に戻ると兵に軍司令官の訓示を伝えた[6]

第14軍の主計将校がマニラ陥落後に東京の陸軍省に報告に来た際、マニラ陥落直後に日本軍の幹部将校たちがマニラ大学の女子学生たちを強姦したことを自慢げに報告していたと、当時陸軍省勤務だった鹿内信隆は証言している。[7]

第一次バターン半島の戦い[編集]

1942年1月8日のバターン半島の状況

米比軍はマニラを捨ててバターン半島へ至る道路を死守し、周辺にあった全部隊の半島への撤退を成功させていた。日本軍でもバターン半島へ向けて多数の米比軍が移動しつつあることは確認していたが、所詮は敗残兵で、兵力は40,000ないし45,000程度であろうと見込んでいた。蘭印作戦の日程が繰り上げとなったこともあり、バターン半島を軽視すべきでないという異論もあったものの[8]南方軍は第48師団と第5飛行集団の大部分に蘭印・ビルマ方面への転進を命じた。バターン半島の攻略には、歩兵第9連隊と、二線級部隊の第65旅団とを差し向ければ十分というのが南方軍と大本営の判断であった。

第65旅団は第二次輸送部隊として1月1日にリンガエン湾に到着していた。9日、第65旅団(歩兵第9連隊を臨時に配属)はバターン半島入り口のナチブ山周辺の米比軍防衛線へ攻撃を開始した。だが米比軍の陣地は数線にわたって巧妙に配置されており、アメリカ軍フィリピン師団が有効な反撃を加え日本軍には死傷者が続出した。バターン半島は米比軍がオレンジ計画に基づいて構築していた堅固な防衛線であり、ナチブ山周辺の第一線の後方にも、バガックからピラーに至る第二線、マリベレス山周辺の第三線が控えていたのである。

16日以降、日本軍は半島西海岸に第16師団木村支隊(歩兵第20連隊基幹、兵力5,000)を投入したが、やはり米比軍の頑強な抵抗に遭う。22日夜には恒広大隊を舟艇機動させ米比軍の背後に上陸させる奇襲作戦を試みたが、逆に米比軍に包囲され全滅させられてしまった。第65旅団は粘り強く攻撃を続け、26日までに米比軍を第二線へ後退させたが、第二線は最も強化された防衛線であった。ここに攻めかかった第65旅団は兵力の3分の2を失い、幹部も多数が戦死した。2月8日に本間中将は攻撃停止を指示し、日本軍の攻勢は中断に至った。

第二次バターン半島の戦い[編集]

バターン半島を制圧した日本軍

バターン半島の戦線が膠着したことで、犠牲を払ってでもこれを攻略すべきか、あるいは封鎖するにとどめるべきか、第14軍、南方軍、大本営のいずれにあっても議論が分かれた。アメリカ軍主力艦隊は真珠湾で痛手を受けており、当面はバターン半島救援は不可能である。封鎖を続けていれば遠からず食糧弾薬が底をつくことは明らかであった。しかし日本軍には攻略を急がざるを得ない理由もあった。日本軍は満州ソ連軍と対峙し、中国大陸から東南アジアに至る広大な地域で作戦を展開中で、長期にわたって封鎖を続ける兵力の余裕はなかった。また、有力な米比軍をマニラの目の前に残したままではフィリピンでの軍政は困難であると判断された[9]

日本軍の方針は十分な兵力を集結しての再攻勢実施に決定した。中支から第4師団(大阪)と永野支隊、香港から香港攻略戦を終えた第一砲兵隊がバターン半島へ集結し、航空部隊は飛行第60、第62、第16戦隊が増強された。このときバターン半島に投入された日本軍の兵力は以下の通りである。

  • 16師団(一部欠)
  • 第65旅団(一部欠)
  • 第4師団
  • 永野支隊(第21師団の一部、歩兵第62連隊基幹)
  • 第一砲兵隊(重砲兵第1連隊他)
  • 飛行第60戦隊(重爆35機)、第62戦隊(重爆25機)、第16戦隊(軽爆32機)

3月24日以降、日本軍の攻撃機は連日爆撃を行った。地上部隊による総攻撃は4月3日に開始された。第一砲兵隊の重砲群がサマット山麓の米比軍陣地に砲撃を加え、前進を開始した第4師団と第65旅団は初日から予定よりも長い距離を突破した。ここまで米比軍の防御の中核を担ってきたフィリピン師団も、長きにわたった戦いの中で反撃の余力は尽きていた。

日本軍は第二線、第三線の防御線を相次いで突破し前進した。4月9日、バターン半島総司令官のエドワード・キング少将が降伏を申し入れ、残余の部隊も11日までに大半が降伏した。捕虜は7万以上。これは日本軍が推定していた人数の2倍に上った。

コレヒドール島の戦い[編集]

コレヒドール島で降伏するアメリカ軍

バターン半島の沖合いのコレヒドール島スペイン統治時代からマニラ湾の入口を守る要塞として整備されていた。アメリカはワシントン海軍軍縮条約の制限が切れた1936年から補強工事を再開し、30センチカノン砲8門、30センチ榴弾砲12門、隣のフライレ島に配置された36センチ砲4門をはじめとする重砲群、巨大な地下室、発電所、電車まで備えた近代的要塞を構築していた。守備兵力はアメリカ第4海兵連隊を中心に、バターン半島から移動してきた部隊など12,000であった。

4月14日、バターン半島先端に進出した重砲兵第1連隊の24センチ榴弾砲が砲撃を開始した。互いに海越しに重砲を撃ち合う砲撃戦はしばらく続いたが、19日午後、24センチ徹甲榴弾の1発が要塞の弾薬庫に命中し大爆発を起こした。これで砲撃戦の決着はついた。

日本軍は5月5日の夜に上陸作戦を実施し、歩兵第61連隊の2個大隊と戦車第7連隊の一部がコレヒドール島の北東端に取り付いた。守る米比軍の砲火は激しく、一部は逆襲に出たものの、日本軍は橋頭堡を確保した。6日正午、マッカーサーの後任の司令官に就いていたウェインライト中将(3月22日に昇進)が降伏を申し入れた。本間中将は、降伏はフィリピン全土の米比軍が伴わなければならないと主張し、ウェインライト中将もこれを受諾した。翌日までにコレヒドール島の全軍が降伏した。

ビサヤ・ミンダナオの戦い[編集]

フィリピン南部のミンダナオ島では、第16師団三浦支隊と第56師団坂口支隊が12月20日にダバオに上陸し現地在住の邦人保護にあたっていた。本格的な第二期作戦は3月18日に策定され、川口支隊(第18師団の一部)と河村支隊(第5師団の一部)がまずビサヤ諸島、次いでミンダナオ島を攻略した。1942年3月2日に日本軍はミンダナオ サンボアンガに上陸し、4月には米軍は降伏した。

5月8日、ウェインライト中将の降伏指令がビサヤ・ミンダナオの米比軍部隊にも到達した。10日、司令官のシャープ少将は河村支隊長に対し降伏した。その後6月9日までに、孤立した地域の小部隊を除いて米比軍の全部隊が降伏した。

影響[編集]

バターン半島陥落を報じる1942年4月24日付け『ザ・トリビューン』

日本軍がコレヒドール島を攻略したときマッカーサー司令官の姿はすでになかった。ルーズベルト大統領はマッカーサーに対してオーストラリアへ向かうよう指示しており、3月12日、マッカーサーと家族や幕僚たち(後にGHQの幹部を務めたサザーランドウィロビーらもいた)は魚雷艇でコレヒドール島を脱出、ミンダナオ島に到達してB-17でオーストラリアへ飛び立った。マッカーサーの「アイシャルリターン」(私は必ず戻る)というスピーチは3月20日にオーストラリアでなされたものである。マッカーサーはそこで南西太平洋地域の連合軍最高司令官に就任した。

45日間でフィリピンを攻略するという日本軍の予定は150日もかかるという結果になった。真珠湾攻撃の屈辱に沈むアメリカで、「シンガポールは落ちたがコレヒドールは健在である」というニュースは国民を勇気付け、マッカーサーは英雄となった。アメリカ軍がガダルカナル島で本格的反攻に転じるのはコレヒドール島の陥落からわずか3か月後のことである。

フィリピンの戦いでの第14軍の損害は以下の通りであった。

  • 第1期(12/8~1/8、開戦よりマニラ攻略まで) - 戦死 627、戦傷 1,282、行方不明 7
  • 第2期(1/9~2/8、第一次バターン半島攻略戦) - 戦死 2,725、戦傷 4,049、行方不明 230
  • 第3期(2/9~4/13、第二次バターン半島攻略戦) - 戦死 382、戦傷 1,020
  • 第4期(4/14~5/7、コレヒドール要塞攻略戦) - 戦死 396、戦傷 457、行方不明 50

日本軍に降伏した捕虜の人数は第1期 606名、第2期 150名、第3期 70,380名、第4期 12,495名、合計 83,631名であった。日本軍はバターン半島での7万という捕虜の後送に手間取りバターン死の行進を引き起こす。各地に分散していたフィリピン軍兵士の多くは逃亡帰郷したが、フィリピンでの日本軍の軍政は物資不足やインフレーションを招いて人々の反発を受け、元兵士の多くがユサッフェ・ゲリラ(米軍指揮下)やフクバラハップ(共産党系)といった抗日ゲリラに転じた。

マッカーサーの失策は、積極的な全土防衛策を推進したことでバターン半島に集積されるべき戦略物資を分散させてしまったことである。とはいえバターン半島篭城を決意して以降のマッカーサーの作戦指揮は的確であった。またフィリピンでの戦闘はアメリカ軍にとって第一次世界大戦以降初めての本格的戦闘であり、この戦いで得られた貴重な戦訓はマッカーサーと彼の幕僚たちによって咀嚼され、対日戦勝に向けた原動力となった[10]

日本軍は、第14軍司令官本間雅晴中将と参謀長前田正実中将を、バターン半島での拙戦を理由に予備役に編入した。

フィリピン独立運動家などは武装組織マカピリを設立して日本軍の支援を行った。

フィリピンの戦い(1941-1942年)を描いた作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 第14軍の開戦時兵力。
  2. ^ ミンダナオ島でのシャープ少将の降伏の日を区切りとした。
  3. ^ The War in the Pacific, pp 64-65
  4. ^ The War in the Pacific, p 125
  5. ^ STRENGTH AND COMPOSITION OF U.S. ARMY TROOPS IN PHILIPPINE ISLANDS, 30 NOVEMBER 1941
  6. ^ 岩田義泰陸軍少佐  (2010年8月31日). “【岩田義泰】証言シリーズ:知られざる戦車部隊の勇戦-中編【桜H22/8/30】”. 日本文化チャンネル桜. 2011年11月20日閲覧。
  7. ^ 桜田武、鹿内信隆『今明かす戦後秘史』上巻p29~30
  8. ^ 『戦史叢書 比島攻略作戦』, p.228
  9. ^ 『戦史叢書 比島攻略作戦』, p.309
  10. ^ Philippine Islands, p.22

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 防衛庁防衛研修所戦史室編 『戦史叢書 比島攻略作戦』 1966年。
  • 伊藤正徳 『帝国陸軍の最後〈1〉 進攻篇』 光人社〈文庫〉、1998年1月、ISBN 4-7698-2187-5
  • 『戦史資料第15号 フィリッピンの陥落(全3巻)』 (陸上自衛隊幹部学校、1955年)
原題〔The Fall of the Philippines〕(アメリカ陸軍公刊戦史)