戦略爆撃

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米軍による1945年3月9-10日の東京大空襲後の東京

戦略爆撃(せんりゃくばくげき、英語:strategic bombardment)とは、戦争、特に国家総力戦において勝利する目的で、敵国の民間施設、工場、都市、軍事施設などの戦略目標に対して航空作戦を用いた爆撃を行うものである。部分的に意味が近い用語として、「空襲」や「戦術爆撃」がある。

理論と起源[編集]

1903年の初飛行でライト兄弟が世界をあっと驚かせる前から、人類は飛行機という恐るべき機械の登場を思い描いていた。物資の輸送だけでなく、敵に損害を与え、周章狼狽させる事も考えていた。そのわずか1年後、イギリスの世界戦略の行く末に関する1904年4月の公開討論会で、洞察力のある帝国主義者レオ・アメリーは、近い将来、航空戦力は国家政策の手段として陸海の戦力に加わり、あるいはそれらを凌駕するだろうと主張した。これほど早くから航空戦力が多様な面を持ち、様々な道筋から検討されていた事は、しっかりと認識しておかなければならない[1]

戦略爆撃が軍事に与える影響は革命的だった。新鋭の長距離爆撃機は、今後予想される戦線支援や艦隊支援のような役割に甘んじるべきではないと、航空戦力理論家は判断した。爆撃機は第三の独立軍であり、そういう思想で編成せねばならない。爆撃機の任務は、もはや戦術的・短期的なものではない。独立して敵戦闘能力を叩き、銃後にまで戦争を広げるから、戦略的任務になる。そこが革命的であり、画期的な美点だった[2]

長距離爆撃は、敵の動脈を断ち切り、陸軍の補給物資を不足させ、終戦を早める。塹壕戦でじわじわと虐殺したり、海上封鎖で締め付けるよりも、はるかに効率のいい包囲作戦になると、主唱者たちは力説した。地上軍事行動で失われる兵士数千人の命を救える。つまり、戦略爆撃は単なる攻勢の新手段ではなく、陸海軍を副次的な役割にしてしまうような戦闘力だった。だからこそ、1920年代はじめから、昔ながらの陸海軍の将官たちは独立空軍の創設に抵抗し、それを唱える人々に疑いの目を向けてきた[3]

ただし、戦略爆撃には1つ飛躍的な理論があり、それが最も論争の的になった。航空戦力を使って、敵全国民の士気を挫くというのはどうだろう。つまり、たとえ一般市民であっても、戦争を支えれば戦闘員と同じように痛い思いをする事を思い知らせ、戦闘を支援する意志を打ち砕く。軍需工場労働者を標的にして、次に、そういう労働者を支えている人間を攻撃する。つまり、パン屋を爆撃するのは、発電所を爆撃するのと同じで理にかなっていると見なす。だが、こういう発想は1940年代に忽然と生まれたわけではなく、19世紀にすでに想起されていた。だが、戦略爆撃は不正確であっても、まったくの的外れにはならない。特定軍事目標に対する航空攻撃が、たとえある晩に目標を大きくそれてしまっても、敵国全体の戦闘能力に打撃を与えた事に違いはない。長年の間によって確立された”戦争のルール”の範囲内ではある[4]

戦略爆撃の目標[編集]

戦略爆撃の理論に関する古典的な研究業績を残した人物にイタリアジュリオ・ドゥーエイギリスヒュー・トレンチャードアメリカ合衆国ウィリアム・ミッチェルロシアアレグザンダー・ド・セヴァルスキーがいる。彼らは第一次世界大戦に開発された航空戦力の研究を通じて、これが陸上戦闘や海上戦闘で補助的な役割を担うだけではなく、それ自体に軍事的な可能性があることを発見した。特に独立空軍の創設を早期から提唱していたドゥーエは航空戦力であれば長距離に及ぶ航続能力を駆使して陸上戦闘の戦線を越えて敵国の領空に進入し、都市や工業地帯などに爆撃を加えることによって、戦争を遂行する経済的、社会的な機能を破壊するだけではなく、敵国民の戦意を喪失させる心理的効果をも得ることができると主張した。つまり戦略爆撃という用語に含まれる戦略は戦闘における敵への近接航空支援戦術爆撃または航空阻止という戦術的な目標に対する航空作戦とは区別されることを意味している。

戦略爆撃の一種として歴史的には無差別爆撃や絨毯爆撃核攻撃が行われたが、戦略爆撃は爆撃の方式や使用する兵器の種類によって定義されているわけではない。現代の戦略爆撃では誘導爆弾巡航ミサイルなどの精密誘導兵器が使用されている。

戦略爆撃の前提[編集]

戦略爆撃の戦略が開発された背景には1918年にいち早く独立空軍として創設されたイギリス空軍での研究動向が関係している。イギリス空軍の元帥トレンチャードをはじめとする空軍の幕僚たちは第一次世界大戦のような長期間にわたる塹壕戦による大量殺戮を回避して戦争の勝敗を決定付けることができる戦略を研究しており、その観点から戦略爆撃の思想は短期決戦を意図した研究成果であった。

イタリアでも同様の問題意識から研究を進められており、1921年にドゥーエは『制空』の中で航空戦略の理論の骨子と戦略爆撃の有効性について論じている。この著作では現代の戦争では戦闘員と非戦闘員の区別が認められなくなったこと、地上軍の攻撃による勝利は極めて困難になったこと、航空戦闘においては攻撃が防御に対して優位にあること、そして航空戦力を用いて敵の政経中枢に対する強力な爆撃が可能となったことを踏まえながら、独立空軍を創設する必要を結論付けている。

ドゥーエの航空戦略の理論はアメリカ陸軍航空戦術学校で1920年代から研究が開始される。ミッチェルが1925年に発表した著作『空軍による防衛』でドゥーエと同様の主張を発表し、爆撃の優先的な目標として敵の産業基盤を破壊することが提案された後に、同学校でも戦略爆撃について研究が進められることになり、1930年代以後はそれが主要な研究領域となった。

古典的な戦略爆撃[編集]

アメリカでは戦略爆撃の思想をより具体的に実践するために、どのような攻撃目標を爆撃すれば国家の産業全体を停止させることができるかを分析した。そこで産業集中度、産業構成などの分析を踏まえて攻撃目標を選択し、敵の防空射撃や防空戦闘機が展開しうる以上の高度から大編隊をもって行う爆撃方法が開発された。これは選別された目標に対する高高度の昼間精密爆撃として第二次世界大戦アメリカ陸軍航空隊により実践される。

結果的に、ドゥーエが主張していた戦略爆撃の心理的な効果は必ずしも決定的ではないことがドイツ日本に対する爆撃から判明した。また戦後に核兵器が開発されたこと、また実践された戦略爆撃が非効率かつ非人道的であったことから、戦略爆撃の理論は批判にさらされることになる。

1945年にバーナード・ブロディは後に著作『絶対兵器』に収録された「原子爆弾とアメリカの安全保障」という表題の論文を発表し、抑止の概念を戦略理論を考える上で使用することを推奨している。そして戦略爆撃の理論は軍事力を理性を超えて使用しようとする19世紀から20世紀にかけての戦略思想の傾向を反映したものであり、破壊的な結果しかもたらさないと批判した。

現代の戦略爆撃[編集]

戦略爆撃の研究はしばらくその後の冷戦の中で重要視されなくなっていた。かわりに航空戦力の機動力を活用して対ゲリラ作戦やエアランドバトルのような陸上での機動戦との連繋を想定した軍事教義の開発に注目が集まっていた。そのような研究動向の中で1988年にジョン・ワーデンは従来の戦略爆撃の問題点を踏まえながら新しい戦略爆撃の理論を著作『航空作戦』で示した。ワーデンはクラウゼヴィッツ重心の概念を導入し、国家を身体機能との比較から5種類の機能から構成される有機的組織として捉えた。それは国家にとって神経系に該当する政治や通信などの中枢機能、経済やエネルギーを供給する公共インフラなどの主要機能、一部を損傷しても回復可能な道路や工場などの下部機能、そして栄養を運搬する住である全個体群、そして軍隊や警察などの戦闘組織の五つから構成される。ワーデンは国家を戦略的麻痺に陥らせるためには五つの機能に対して平行攻撃を行うことを主張している。またその方法も敵の防空レーダーに捕捉されにくいステルス爆撃機、遠距離から目標を破壊できる精密誘導兵器、そして各部隊の連携を調整する指揮機能を重視している。

このような戦略爆撃の理論は湾岸戦争において実践され、ウォーデンは対イラク航空作戦計画を立案し、いくつかの目標に対して同時並行的に集中攻撃を加える計画を作成した。この作戦計画は砂漠の嵐作戦で実行され、開始と同時に使用可能な航空戦力がすべて投入され、10分後にイラク軍の指揮通信機能を停止させ、数時間後にほぼ全ての主要通信施設を破壊することに成功した。

歴史[編集]

第一次世界大戦中のドイツ帝国陸軍は、戦線後方の大都市に爆撃を行った。ドイツ陸軍は飛行船や大型飛行機を用いて、イギリス帝国ロンドンなどへの爆撃を行っている。これが戦略爆撃の嚆矢とも言えるが、爆弾搭載や航法・爆撃精度の問題により、産業拠点に大きな影響を与えるには至らず、市民に恐怖を与える「恐怖爆撃(テロ爆撃)」の面が強かった。

1921年イタリア王国イタリア陸軍の元将軍ジュリオ・ドゥーエが戦略爆撃の書『制空』を出版、アメリカ陸軍の飛行戦術学校の教本になるなど各国で研究された。

1930年代に入ると、航空機の能力が向上した事もあり、都市や拠点に深刻な被害をもたらす組織的な爆撃を行えるようになった。スペイン内戦でのコンドル軍団によるゲルニカ爆撃がその頃の代表例である。アジアでは、満州事変の際、関東軍独立飛行第一〇中隊主力により実施された1931年10月8日の錦州爆撃が最初期の都市爆撃である。但しこれは日中交戦の既成事実を作り上げるために偵察機に爆弾を搭載し実施した陰謀の側面が強く、東京裁判において計画立案者の石原莞爾は偵察中に応射を受けたため自衛のための反撃および誤爆としている。組織的な都市爆撃としては1937年日中戦争での大日本帝国海軍航空部隊による中華民国南京爆撃が挙げられる。その後、九州や台湾の海軍飛行場を基地とした戦略爆撃の目標は重慶にまで広がり、渡洋爆撃として戦時下の国民に宣伝された。

アメリカ合衆国では1940年にマサチューセッツ工科大学に焼夷弾研究所を設立、戦略爆撃用のナパームを出す焼夷弾M69を開発した。 第二次世界大戦の中後期には、枢軸国が戦略爆撃を受ける。代表例ではハンブルク空襲ドレスデン空襲東京大空襲名古屋大空襲、そして広島市長崎市への原爆投下である。その他、アメリカ合衆国を除く、多くの戦争当事国が戦略爆撃を受け、多くの都市が被害に遭った。第二次世界大戦において、都市以外を主目標とした戦略爆撃もあり、1943年8月のプロシェチ油田爆撃や1944年11月の東京西部中島飛行機武蔵製作所(主力航空機のエンジン生産工場)爆撃などがある。

1943年以降、ドイツ本土爆撃に際し、アメリカ陸軍航空軍は、市街地を避け軍事施設を狙う、昼間精密爆撃に固執した。これは精密な照準機を保有していた事とイギリス空軍の爆撃機よりも防御火力が多かったことによるものである。ただし、初期においては全行程随伴可能な護衛戦闘機が無く、ドイツ空軍の迎撃で大損害を出した。第二次世界大戦において最も多くの損害を出したアメリカ軍はドイツ爆撃を行った部隊ともいわれている。一方、イギリス空軍は防御火力の不足と精密照準機を保有していなかった事から、主に夜間都市爆撃を行った。これは、バトル・オブ・ブリテンにおいて、自国の首都ロンドンをはじめ各都市への爆撃の報復と考えられる。

大戦後の主な例では、ベトナム戦争時のアメリカ軍ホーチミン・ルート等への組織的な爆撃があげられる。

現代の戦略爆撃[編集]

絨毯爆撃による攻撃方法は、国際法の観点ではハーグ陸戦条約付属書第一章の「軍事目的主義」に明白に違反しており、またジュネーブ諸条約第一追加議定書52条2項[5][6]において攻撃の軍事目標主義が再度確認されており、「目的区域爆撃」や「絨毯爆撃」方式は国際的に禁止される形勢にある。現代ではレーダーサイトなどの軍事施設攻撃にせよ部隊集積地攻撃にせよ、精密爆撃なり誘導弾攻撃が中心であり絨毯爆撃方式は放棄される傾向にある。但し攻撃方法の研究や武器の開発、無差別爆撃機の保有を禁止するものではない(「使用」の違法化)。また以下のような理由により絨毯爆撃が行われにくくなっている。

  • 報道機関などの国際的な情報化が進んだことと、戦略爆撃が実施できるほど経済的余裕がある国の国民および国際社会は、民間人に危害が及ぶことを嫌うことから、他に選択肢がある限り無差別な爆撃は避けられる[7]
  • 精密爆撃技術の向上によって、戦術爆撃による軍事目標にのみ被害を極限化した攻撃が可能になった。
  • 元々戦略爆撃の目的には相手国国民の戦意喪失も含まれていたが、都市機能の喪失や人的被害だけで国家が屈服する事はあまり無く[8]、心理的にではなく物理的に継戦能力を奪う必要があると考えられるようになった[9]
  • 絨毯爆撃は加害効率が悪い[10]。また、大量の爆弾と爆撃機を要するのでそれらを保有する軍事大国でないと実施できない。
  • 核兵器の登場後、内戦を除けば全面戦争が避けられ限定戦や非対称戦が中心となり、都市を狙った大規模な爆撃は行われなくなった。
  • 冷戦中と冷戦後は戦争の多くを内戦が占めたが、そういった国々では国内生産だけでなく第三国からの武器供与や物資援助によって継戦能力が維持できるために、戦略爆撃の効果はあまり期待できない[9]
  • 占領後の統治を考えると、必要以上にインフラを破壊したり、民衆に恨まれることは避けたい。
  • 戦略核兵器は、核保有国に対しては報復の核攻撃を受ける危険から、非核保有国に対しては国際的に人道上の批判を受ける恐れから使えなくなっている[11]

戦略爆撃の事例[編集]

戦略爆撃機[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p104
  2. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p106
  3. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p106
  4. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p106p107
  5. ^ 52条2項「攻撃は、厳格に軍事目標に対するものに限定する。軍事目標は、物については、その性質、位置、用途又は使用が軍事活動に効果的に資する物であってその全面的又は部分的な破壊、奪取又は無効化がその時点における状況において明確な軍事的利益をもたらすものに限る。」
  6. ^ この議定書にアメリカ、インドインドネシアイランイスラエルマレーシアパキスタンフィリピントルコなど24カ国は参加していない。外務省ジュネーヴ諸条約及び追加議定書[1]
  7. ^ 市民の犠牲を嫌う国際世論喚起のために、あえて巻き添えになるように民間人を人間の盾として軍事施設内や近くに配置されることもある。
  8. ^ アメリカ軍による第二次大戦中の日本とドイツへの戦略爆撃は戦略爆撃は敵国民の戦意をくじく効果を企図された経緯があるが、日独へ進駐後、アメリカ空軍の戦略爆撃調査団によって行われた調査では、産業と生活の基盤は破壊したが国民の士気は打撃を受けていないと報告されている。(松村(2002年)、146頁)
  9. ^ a b 松村(2002年)、147-150頁
  10. ^ 「加害効率が悪い」とは、軍事的・政治的にはほとんど無価値な物ばかりを破壊して、真に価値の高い目標が破壊できることは運任せであることを指す。
  11. ^ 『戦争における「人殺し」の心理学』 著 Dave Grossman、訳 安原和見、筑摩書房、2004年、ISBN 4-480-08859-8

参考文献[編集]

  • 小川修「現代の航空戦力」 防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』かや書房、1999年、pp.195-212.
  • ロナルド・シェイファー『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 戦略爆撃の道義的問題』 深田民生訳 草思社 2007年 ISBN 978-4-7942-1602-1
  • Cross, R. 1987. The bombers. New York: Macmillan.
  • Emme, E. M. 1959. The Impact of air power. Princeton, N.J.: Van Nostrand.
  • Kennett, L. B. 1982. A history of strategic bombardment. New York: Scribner's.
  • Knight, M. 1989. Strategic offensive air operations. London: Brassey's.
  • Murphy, P. J. 1984. The Soviet air forces. Jefferson, N.C.: McFarland.
  • Peter, P. 1986. Makers of modern strategy. Princeton, N.J.: Princeton Univ. Press.
    • デーヴィッド・マッカイザック「大空からの声」防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』ダイヤモンド社、1989年
  • Saundby, R. 1961. Air bombardment: The story of its development. New York: Harper and Bros.
  • U.S. Department of Air Forces. 1991. Reaching globbally, reaching powerfully: The United States Air Force in the Gulf War. Washington, D.C.: Government Printing Office.
  • WardenIII, J. A. 1989. The air campaign. Brassey's.
  • 松村劭著、『ゲリラの戦争学』、文藝春秋、2002年6月20日第1刷発行、ISBN 4166602543