B-29 (航空機)

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B-29 スーパーフォートレス

アメリカ空軍所属のB-29

アメリカ空軍所属のB-29

B-29は、アメリカ合衆国ボーイングが設計・製造した大型爆撃機。愛称は「スーパーフォートレスSuperfortress」。日本では「超空の要塞」と訳されることも多いが、先発のB-17爆撃機が「フライングフォートレスFlying Fortress=空飛ぶ要塞)」と呼ばれていたことを踏まえているため、後継機にあたる本機は「(空飛ぶ)要塞を超えた(super)要塞(fortress)」と解釈するのが適切である。

第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期の主力戦略爆撃機。中型爆撃機構想から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計された。

当初は陸軍戦略航空軍所属であったが、1947年空軍の独立とともに空軍へ移管された。

開発[編集]

アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。

そして1939年9月1日ナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻が行われた同日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とされるべきとの勧告を行っている。

1940年6月27日(ヨーロッパでの戦争は始まっていたが、真珠湾攻撃前なのでアメリカは参戦していなかった)XB-29が発注され、1942年9月21日に試作第一号機であるXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって初飛行した。エディ・アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日のテスト飛行中エンジン火災によって機体が失われた際事故死した。なお、41-003はB-29最初の事故による喪失機である。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。

技術的特徴[編集]

同時代の爆撃機と比べて非常に進んだ設計になっている。ただし最新鋭のライト R-3350エンジンには、後述のような問題も多かった。

排気タービンの採用[編集]

B-29に搭載しているR-3350エンジンの排気タービン部 写真の排気口は蓋で覆われている。

B-17B-24に続き過給機として排気タービンを装備。排気タービンは現在乗用車に使用されているターボチャージャーと同じ原理で、排気のエネルギーを利用してエンジンに圧縮された濃厚な空気を送り込む装置。空気が希薄な高空でのレシプロエンジンの性能を確保するため、各国で開発が進められていたが、大戦中に実用化したのはアメリカのみだった[2]。タービンには排気ガスと回転による高温高圧がかかるため、高度な合金冶金技術が要求される。

日本側は鹵獲したB-17のそれを形だけはコピーしたものの焼入れがうまくできず(当時は高温の油で行なう方法)、タービンの分子レベルでの均一が保てずに、そこから破損した。その結果、排気タービンや2段過給機を持たない日本の迎撃機は、高空の薄い空気の中ではエンジンの出力が極端に落ちることが多かった。ただしB-29の排気タービンは軽量化優先のマグネシウム合金製のため燃えやすいという欠点があり、また強度に劣り部品寿命も短く、頻繁な交換を前提とした消耗品であった。しかしながら消耗品と割り切って設計した事により、アメリカは他国にさきがけて排気タービンを実用化できた。

B-29はひとつのエンジンをツイン・ターボにして4つのエンジンを搭載していた。ちなみにB-17はシングル・ターボでやはり4つのエンジンである。

与圧室の全面採用[編集]

B-29の後部爆弾庫から後部与圧室を望む。半球状の圧力隔壁を隔て、与圧室と非与圧室と分けられる。上部のドラム缶のように見える物が、操縦室と胴体後部を繋ぐ交通パイプ。乗員はこの中を這って移動した。

高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員・乗客に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要であった。しかしB-29は現在の旅客機のように、室内を高度約1,000mと同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備しており、乗員は通常酸素マスクなしで15時間搭乗していた。前部居住区画と後部居住区画の行き来を確保するため爆弾倉の上に連絡用パイプが設置され、それが本機の特徴のひとつとなっている。

ボーイングは第二次大戦直前の1938年に登場した旅客機ボーイング307ですでに与圧客室を採用しており、他にもロッキード社のコンステレーションなどでも与圧室は採用されている。また防寒用の空調も完備され、防寒着の着用も不要であった[3]

防御砲火の遠隔操縦[編集]

遠隔操作により、機銃操作員が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かって機銃を操作することはなくなり、独立した円蓋から死角なく全方位の接近機を視認することが可能となった。その結果機銃砲塔が非常にコンパクトになっている。

また敵迎撃機を照準機のレティクルの中に捉えるだけで自動的に弾道計算して発砲するという優れた火器管制装置の搭載により、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃を誰でも行なえるようになった。この結果従来の爆撃機に搭載された防御火器と比較して命中率が驚異的に向上し、敵迎撃機はうかつに接近することもできなくなった。

後にB-29の強敵となるMiG-15戦闘機にとってもこの強力な防御火器は極めて大きな脅威であった。

戦歴[編集]

第二次世界大戦(太平洋戦線)[編集]

アメリカ陸軍標準のオリーブドラブ塗装を纏う運用初期のB-29。のちに一般的に知られるジュラルミン地剥き出しの無塗装へ変更された。

B-29はその卓越した能力により147,000トンに上る爆弾を日本国内に投下した。日本の継戦能力を喪失させた要因の1つとされ、太平洋戦争における戦略爆撃機の代表である。

1944年4月にヨーロッパ経由でインドへ向かう途中、イギリス本土に立ち寄ったB-29はドイツ空軍偵察機に偶然発見された。高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29実戦投入の事実はドイツ空軍を狼狽させ、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183を新規開発をすることとなった。しかし、B-29はすでに1943年8月のケベック会談で対日戦専用とされ、ドイツ空襲には使用されなかった。

インドからさらに中国内陸部成都へ移動し、1944年6月半ばから満州国東南アジアそして日本本土の九州方面に爆撃を行なったが、B-29が膨大な燃料を必要とするゆえに成都への燃料輸送に必要とした労力もまた膨大であり効率的なものではなかった。東京など日本の主要部への本格的な参戦は1944年11月からで、11月1日にトウキョウローズ[4]が東京偵察行を行ったのが始まりである。その後11月24日以降マリアナ諸島サイパン島テニアン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を開始した。当初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高高度からの精密照準爆撃を行なったが、当時ジェット気流の影響がアメリカには知られておらず、その影響で目標から外れることも多かった。1944年11月29日には第73航空団所属の29機が初めて東京の市街地へ無差別爆撃を行い、喪失機なく[5]作戦を遂行した。

1945年に入り、日本本土空襲の指揮を執っていたヘイウッド・S・ハンセル准将は、ヘンリー・アーノルド陸軍航空軍総司令官にその姿勢が消極的と判断され更迭された。指揮権はヨーロッパ戦線で実績をあげた後の戦略空軍設立の立役者カーチス・ルメイ少将に引き継がれた。ルメイは「日本の継戦能力を根本から絶つ」として、爆撃対象を軍事施設だけでなく、焼夷弾を使用して民間施設にも拡大した。このことについては当初「民間人攻撃は国際法に反する」と反対の声があったが、当時は一部の民家で軍服や簡単な軍需機材の内職をしていたため、一般家屋もすべて軍需工場であるとして、夜間低空での無差別絨毯爆撃を開始した。総計14万から17万トン(諸説あり)の爆弾を東京名古屋大阪をはじめ、日本各地の都市に対しまるで絨毯をしくように投下し、主要都市を焦土化した。

一般市民8万人以上が焼死、100万人以上が被災した東京大空襲や、1万人が焼死したとされる大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要な港湾海峡に多くの機雷が投下された。当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾の搭載量も2-3トンであったが、1945年になると防御火器を撤去し5-6トンを搭載するようになり、最盛期にはB-29約4、500機の大編隊で来襲するようになった。同年春以降は、東京・大阪・名古屋などの大都市ほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。また、アメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成し、B-29によって全国32の都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。

原爆投下後のエノラ・ゲイ

同年8月、広島市長崎市に、原子爆弾(新型爆弾)を投下し、広島・長崎あわせて30万人以上の市民を殺戮した。広島市に原子爆弾を投下したB-29はエノラ・ゲイ、長崎市に原子爆弾を投下した機はボックスカーと呼ばれる。広島にはウラン型の「リトルボーイ」が、長崎にはプルトニウム型の「ファットマン」が投下された(詳細は広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下参照)。

アメリカではこれらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができたと評価している。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。

初期以来の精密爆撃や、末期の原子爆弾投下、および偵察飛行は、B-29本来の性能を発揮できる高高度(9,000m-10,000m)で行なわれた。この時B-29は、高空に伸びてゆく飛行機雲の先の、小さな粒であった[6]

日本対B-29戦闘[編集]

B-29がばら撒いた爆撃予告ビラの一部。B-29の写真を背景に爆撃予定都市が記載されている。

B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃に用いられた。昼間迎撃には、単発単座の一式戦闘機隼、零戦鍾馗飛燕疾風五式戦闘機雷電紫電改などが使用された。しかし、日本の単発戦闘機は海軍の雷電や紫電改、陸軍の疾風以外、もともと高高度飛行向けの過給機エンジンを持たず、また大戦後期になって材料や工員の質が低下した上、高オクタン価(有鉛)の航空燃料の入手も困難になっていたため、排気タービン(ツイン・ターボ)・インター・クーラーを装備しているB-29の迎撃は困難であったと言われている。1万mもの高空を巡航速度が乗った状態で飛行するB-29に対しては追いつくのも困難であり、またかろうじて一撃をかけたとしても、高度を回復できずにその後の攻撃が続かないという有様であった。このため震天制空隊や厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。 しかし、高度を失った場合には単座戦闘機でも対処が可能であり、複数の戦闘機による集中攻撃をかけて撃墜した事例もある。1944年12月18日に三菱重工名古屋機体工場を爆撃したレオ・E・コンウェイ中尉の指揮する機を損傷し、編隊から脱落したところを集中攻撃をかけて撃墜した陸軍飛行第55戦隊遠田美穂少尉以下の例が代表格である。 これに対し主に夜間の双発複座戦闘機による迎撃は大きな成果を上げ、日本陸軍の樫出勇大尉は、二式複座戦闘機屠龍を駆り、B-29による初来襲の空戦である1944年(昭和19年)6月16日から終戦までに北九州に来襲したB-29を26機撃墜した。なお樫出勇大尉が所属していた「屠龍戦隊」は1944年8月20日のB-29初大挙来襲の邀撃戦において、来襲した80機のうち23機を撃墜した。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。ただし米側の記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器によるもの1機、航空機攻撃によるもの4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突によるもの1機。日本機の撃墜17を報告している[7]

1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛戦闘機P-51が随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、または攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。特に京浜地区の防衛を担う海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電と陸軍立川飛行場や調布飛行場に配備されていた鍾馗は、B-29にとっても危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。

カーチス・ルメイ陸軍航空軍少将が日本本土空襲の指揮を執るようになって以降、B-29は単座戦闘機が飛べない夜間に、高度2-3千メートルから一般市街地に対するじゅうたん爆撃を行なうようになった。センチメートル波の小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃を行うことができず、斜め20mm砲を装備した双発の月光屠龍等の夜間戦闘機が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。日本軍戦闘機の機上レーダーの不備と防空管制システムの不十分さに気づいたカーチス・ルメイは、東京大空襲の際には高度7,000-8,000ft(2,100-2,400メートル)の低高度から焼夷弾を投下する作戦を採った。その際B-29の後部銃座以外の防御火器を撤去し爆弾搭載量を増やした機体を運用した。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された[8]

日本陸軍は高度1万メートルの高高度を飛行する爆撃機を迎撃可能な三式十二糎高射砲五式十五糎高射砲を制式化し日本劇場両国国技館の屋上に設置した。実際に三式12cm高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式12cm高射砲が120門、五式十五糎高射砲に至っては2門と極めて少なく、全国各地の都市に対して100-500機以上の編隊で行なわれる無差別爆撃に対してほとんど機能しなかった。日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の八八式七糎半野戦高射砲九九式八糎高射砲であり、当時の国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。ただこの件に関して首都防衛を担当する高射第一師団にいた新井健之(のちタムロン社長)大尉は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町の大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜したものです」と発言している。戦後アメリカ軍発表の数字でも、日本上空で撃墜あるいは損傷を受けたアメリカ軍機(主としてB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で、全体の65%を占めているという[9]

硫黄島に緊急着陸したB-29(1945年5月4日撮影)

あまりにも被弾・故障し帰還途中に喪失するB-29が多いために不時着用と護衛戦闘機の基地として硫黄島が選ばれ、アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪った。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置されて乗員の救助にあたった。

B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知っていたとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がることになった。

機体名その他[編集]

対日戦に限定して使用されたこと、日本人への不信感などから、日本語、日本由来の機体名を持つ機体が多く存在した。不信感由来の命名についてはトウジョウズナイトメア、タナカターマイトなどの機体名が確認されている。このほかチョットマッテ、カグツチ、トウキョウローズ、ヨコハマヨーヨーなどの名前が存在した。

B-29の損失[編集]

太平洋戦争でのB-29の喪失数は714機[10](延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度だった。B-29の日本本土への空襲において当初の高度精密爆撃を行なっていた頃は延べで5-6%台の損失率であったが、1945年4月からのP-51の護衛、日本軍の戦闘機搭乗員の死傷、空襲による日本の航空機生産工場の破壊、日本軍の航空燃料の枯渇により、B-29の延べ損失率は大幅に低下し1-1.5%ほどになった。だが太平洋戦争中アメリカが生産し作戦に投入したB-29の機体数約3,900機に対する喪失数714機という、B-29の損失率は約18%であった。

戦死や行方不明となったB-29の搭乗員は合計3,041人であった。B-29搭乗員に対して「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった。[11]実際、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の搭乗員は正式な捕虜として捕虜収容所に送られた。しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。彼ら無差別爆撃を実施したB-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、私刑の上虐殺される危険があった。このため憲兵隊警察は第一に捕獲兵の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。老人や女子供ら都市民に対する無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員の捕虜は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑された。太平洋戦争敗戦後、東海軍司令官の岡田資(たすく)中将は1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員の捕虜38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け翌1949年9月17日に処刑された。丹沢山青梅の山中には墜落し死亡したB-29搭乗員の慰霊碑がある。日本軍は撃墜ないし墜落したB-29を分別しジュラルミンを再利用した。

1945年5月、福岡県太刀洗飛行場を爆撃するために飛来したB-29が海軍三四三空戦闘407飛行隊紫電改による空中特攻によって撃墜され、搭乗員11人中の7人が捕虜となった。そのB-29搭乗員の捕虜のうち6人は死刑とされ、同年5月17日から6月2日にかけて九州帝国大学(現在の九州大学医学部において、彼らに対し生体解剖実験が行われた。これを九州大学生体解剖事件(相川事件)と呼ぶ。

なお撃墜されたり墜落して日本軍の捕虜となった米軍搭乗員は、広島や長崎など主要都市に置かれた収容所や陸軍刑務所に収容された。広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の時、収容されていた米軍搭乗員の捕虜からも被爆して死亡した者が出ている。他の都市でも空襲の時、収容されていた多くの米軍搭乗員の捕虜が焼死した。

第二次世界大戦後[編集]

冷戦構造が顕在化した1948年ベルリン封鎖の折には、ソビエト連邦西ベルリンへの包囲網に対抗して西側諸国が空輸作戦を展開し、B-29もその作戦に参加した。当時、イギリス本土に展開したB-29には原子爆弾が搭載されていると騒がれ、ソビエト連邦軍には脅威に映った。しかし実際にはB-29には原子爆弾は搭載されておらず、西ベルリンを包囲するソ連軍に対する威嚇と牽制が目的であった。

朝鮮戦争[編集]

朝鮮戦争時のB-29(1951年撮影)

1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエト連邦の支援を受けつつも北朝鮮軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍を主とした国連軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。

洛東江(ナクトンガン)戦線で、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中だった北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下し絨毯(じゅうたん)爆撃を加えた。平壌(ピョンヤン)に対しても昼夜にかけて爆撃を加えた。1994年に死去した金日成(キム・イルソン)主席は生前、「米軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた[12]

しかし1950年10月19日に中国人民義勇軍が参戦すると、同軍に所属するソ連製MiG-15が戦闘空域に進出し、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/hに達し、また装備している37mm機関砲の打撃力によってB-29の損失が増大した。MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕するものであった。アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速の最新鋭機であるF-86Aセイバーを投入、朝鮮半島の制空権の回復に努めた。

韓国の金浦空港などに置かれたアメリカ軍の航空基地は空戦域に近く、爆撃に参加したB-29は帰投が容易であった。B-29は、重厚な防弾装備と強力な防御火力管制を持っていた。しかし中国人民義勇軍が参戦して数か月の間に、同軍の保有するMiG-15によってB-29は24機が撃墜された。またMiG-15に追尾され37mm機関砲により撃破されたB-29は、韓国に置かれた航空基地に帰還できても補修が行えずにスクラップになる機体が続出した。B-29搭乗員の死傷者は増加し、朝鮮戦争開戦わずか半年後の1951年にはB-29は昼間爆撃の任務から外された。

その後[編集]

B-29(左)と後継機B-36(右)

B-29の後継機は、改良型のB-50およびB-36だが、上述のジェット戦闘機による撃墜が増えたことやB-52などのジェット爆撃機が戦略爆撃機の主力となったことなどで、朝鮮戦争後は次第に旧式機とみなされ主力から離れていった。しかし、1954年頃の対ソ連核攻撃シナリオでは、B-29も主力と見なされていた。一方、ソビエト連邦でも日本爆撃後に不時着したB-29を分析し模倣した爆撃機Tu-4を製造し、Il-28Tu-16などその後の爆撃機に引き継がれた。

1950年代に超音速機の開発の際にX-1などの超音速機を吊り下げて上空で切り離す役目を果たしたことが末期の活躍であり、この様子は映画ライトスタッフに登場する。その後1960年代に入る頃には退役した。

1953年テックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された(主にトムとジェリーとの併映)。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図(そして実際に現実となる)が描かれている。

主な派生型[編集]

イギリス空軍のワシントン Mk.I
XB-44
XB-39
アリソンV-3420-11換装型。実用化には至らず、その後はエンジンテストベッド機として使用された。
P2B
海軍向け。偵察を初めとする各種機材開発用。
ワシントン Mk.I
イギリス空軍に貸与したB-29。88機。
F-13/FB-29/RB-29
写真偵察型。
KB-29
空中給油機型。
XB-44/B-29D/B-50
P&W R-4360エンジン搭載。エンジンテストベッド機のXB-44の性能は良好で、生産型B-29Dとして200機が発注されたものの対日戦の終結により60機に縮小され、更には一旦全機がキャンセルされてしまうが、後にB-50として復活。
KB-50
P&W R-4360エンジン搭載。B-50の空中給油機型。
C-97
P&W R-4360エンジン搭載。主翼・尾翼・エンジン類を流用して胴体を太い2階建てにした輸送機。
KC-97
P&W R-4360エンジン搭載。C-97の空中給油機型。KC-135が実用化されるまで使用された。
ボーイング377
P&W R-4360エンジン搭載。C-97の旅客機型。「空飛ぶホテル」の異名を持つ。

スペック (B-29A-BN)[編集]

444bg-677bs-42-63411-dutchess.jpg
  • 全幅:43.1 m
  • 全長:30.2 m
  • 全高:8.5 m
  • 翼面積:151 m²
  • 自重:32.4 t
  • 全備重量:62.0 t
  • 最大離陸重量:64.0 t
  • エンジン:ライト R-3350-23 エンジン 2,200馬力 4基
  • 最大速度:576 km/h
  • 巡航速度:350 km/h
  • 航続距離:6,600 km(爆弾7,250 kg搭載時)
  • 実用上昇限度:9,720 m
  • 上昇時間:6,100 m/38min
  • 最大爆弾搭載量:9 t
  • 武装:12.7 mm AN/M2機銃 12門、20 mm 機関砲 1門
  • 乗員:10名

出典:航空情報編集部編『第2次大戦アメリカ陸軍機の全貌』110頁・酣燈社1964年刊

Tu-4[編集]

Tu-4

スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離戦略爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。

そんな折、1944年7月29日の「トランプランプ」、8月の「ケイトポーマット」、及び11月の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル」、「ディングハウ」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命によりモスクワで解体調査された。トランプランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1946年夏に完成したのがツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)である。

その後1947年8月3日モスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばにはソ連戦略爆撃軍で本格的に運用された。1950年代の終わりまでに約1,200機が製造され、そのいくつかは中華人民共和国人民解放軍に引き渡された。

一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。

その他[編集]

  • 香淳皇后は、ポツダム宣言を受託した1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(今上天皇)に手紙を送っている。その中には「毎日B29や艦上爆撃機戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのかわかりません。B29は残念ながら立派です」と書き記している。
  • アメリカにおいてはその搭乗員と共に英雄的存在であり、搭乗員が亡くなった際に「父は父のB-29でクルーと一緒に天国へ飛んで行っただろう」との言葉を残した遺族も知られている。
  • 陸軍航空隊が作成したマニュアル類は全て公開されており、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。
  • グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している[13]

登場作品[編集]

映画[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ Knaack, Marcelle Size (1988). Post-World War II bombers, 1945-1973. Office of Air Force History. ISBN 0-16-002260-6. 
  2. ^ この他、高高度での出力を確保する手段として、アメリカとイギリスでは機械式の2段2速過給機が実用化されていたが、ドイツや日本では1段2速過給機を装備していた。
  3. ^ 撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着用していないものもあったほど空調は完備していた。それを知らない日本側では、搭乗員に防寒着も支給できないとして、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。
  4. ^ 機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属。正確にはB-29ではなく派生形のF-13である。この型には他に第二回東京偵察行を行い、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)などが存在し、偵察任務に使用された。
  5. ^ ハロルド・M・ハンセン少佐の指揮する機体番号#42-65218機が帰路、海上で墜落しハンセン少佐以下搭乗員全員戦死。喪失はこの1機のみ。
  6. ^ 早乙女勝元は著書で「白魚」になぞらえている
  7. ^ COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES
  8. ^ 「アメリカ陸軍機の全貌」1964年酣燈社刊・108頁
  9. ^ 『カメラと戦争』P150。
  10. ^ 別冊週間読売・飛行機100年の記録」読売新聞社1970年刊
  11. ^ 搭乗員は不時着し日本人と遭遇した際に備え、日本円や土産用のアメリカ製腕時計なども携帯していた。
  12. ^ 韓国中央日報日本語版2013年03月24日
  13. ^ 『幻の大戦機を探せ』 (カール・ホフマン、文春文庫刊)
  14. ^ 『川島雄三 サヨナラだけが人生だ』 (藤本義一河出書房新社ISBN 4-309-26453-0)

参考文献[編集]

  • 小倉磐夫著『カメラと戦争』朝日新聞社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]