中島飛行機

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中島飛行機(なかじまひこうき)は、1917年から1945年まで存在した日本航空機エンジンメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平で飛行機報国を念じ創設した。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。

創業の辞[編集]

中島知久平は軍務を退くにあたって、以下の内容の手紙を関係者に送っている。

惟に外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新兵器を基礎とする戦策発見の一つあるのみ。戦艦一隻の費を以ってせば、優に三千の飛行機を製作し得べく、その力遥かに戦艦に優れり。実に飛行機は一カ月の日をもって完成するを得。故に民営を以って行なう時は一カ年に十二回の改革を行ないうるも、官営にては僅か一回のみ。帝国の飛行機工業は官営をもって欧米先進の民営に対す。今にして民営を企立し、改めずんばついに国家の運命を如何にかせん。

鈴木五郎「疾風ー日本陸軍最強の戦闘機」サンケイ出版 1975 P.46

思うに日本の防衛はお金の掛からない新兵器を基礎とした戦い方を見つけてゆくしかない。戦艦一隻を建造するには莫大な費用がかかるけれども、飛行機なら戦艦一隻の費用で三千機が作れる。(これに魚雷を積めば)その力は戦艦よりも優れている。飛行機は1月で完成する。だから民間なら1年に12回計画を変更できる。しかし国営は1年単位の予算計画だから年1回だ。日本の飛行機工業は官営で民間企業中心の飛行機先進国の欧米と向い合っている。今、民営飛行機会社を作り官営中心の流れを変えなければ国家の運命はどうなるのだろう。

口語訳

中島飛行機の沿革[編集]

  • 1917年(大正6年) 12月21日 - 中島知久平が海軍を退官後[1]群馬県尾島町(現太田市)の旧博物館で「飛行機研究所(呑竜工場)」を設立。民間航空機メーカー第二号。
  • 1918年(大正7年)5月 - 川西清兵衛が経営に参画、「日本飛行機製作所」に商号変更
  • 1919年(大正8年)4月 - 陸軍から20機を受注
  • 1919年(大正8年) - 川西と所長がトラブル。11月27日に川西は所長へ30日までに所長辞退[2]か工場買取りかを迫る
  • 1919年(大正8年)11月29日 - 新田銀行が10万円を融資し所長退任を免れる
  • 1919年(大正8年)11月30日 - 契約通り会社を買取り、提携解消。井上幾太郎の仲介で三井物産と提携
  • 1919年(大正8年)12月26日 -「中島飛行機製作所」に商号変更
  • 1920年(大正9年)4月 - 陸軍から70機、海軍から30機受注
  • 1925年(大正14年)11月 - 東京工場完成
  • 1931年(昭和6年)12月15日 - 「中島飛行機株式会社」(資本金600万円)と改称
  • 1937年(昭和12年) - 九七式戦闘機が陸軍に制式採用
  • 1938年(昭和13年) - 発動機組み立ての武蔵製作所完成
  • 1940年(昭和15年) - 海軍機専用組み立て工場の中島飛行機小泉製作所を開設[3]
  • 1941年(昭和16年) - 一式戦闘機「隼」が陸軍に制式採用
  • 1942年(昭和17年) - 興亜工業大学の実習教育を受け入れをはじめる
  • 1944年(昭和19年)1月 - 陸軍機専用組み立て工場の中島飛行機宇都宮製作所を開設、制式採用された四式戦闘機「疾風」の生産を開始。
  • 1944年(昭和19年)4月 - 大型爆撃機富嶽の開発に着手、急ピッチで開発、研究を進める。
  • 1944年(昭和19年) - 12月の集計で生産のピークを迎え全ての工場の集計で最高生産機数7940機を記録。
  • 1945年(昭和20年)4月1日 - 第一軍需工廠となり事実上国営化。中島飛行機は営業休止しつつ存続。
  • 1945年(昭和20年)8月 - 富嶽設計放棄により一部(剣、橘花)を除いて設計室を全て解散、設計技師も生産現場に就く。
  • 1945年(昭和20年)8月16日 - 終戦太平洋戦争)により全工場返還を受け、社名を富士産業株式会社に改称、知久平取締役社長を辞任。8月22日乙末平が社長就任。
  • 1945年(昭和20年)11月6日 - 富士産業株式会社は財閥会社として解体を占領軍より命ぜられる。
  • 1950年(昭和25年)5月 - 解散

終戦までに計29925機の航空機を生産した。三菱が設計した零戦の全体の約2/3も中島飛行機が生産している。

こうして日本の軍事力の強化とともに急速に発展を遂げるが、アメリカ軍による戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、多くの工場は破壊された。さらに破壊を免れるための疎開作業で生産は停滞した。敗戦GHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体された。技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。

終戦後の10年間、慶應義塾大学基礎学科の研究室を置いていた。また、1953年(昭和28年)には三鷹研究所跡地に国際基督教大学(ICU)が設置され、一部の建造物は現在も用いられている。また武蔵製作所は、NTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野中央公園武蔵野陸上競技場武蔵野総合体育館を併設)として用いられている。

解体後12社の沿革[編集]

中島飛行機から解体された会社は多くが現在でも存続しており、

  • 富士重工業 (スバル)
    以下の会社が共同で設立し、後に合併して出来た。
    • 東京富士産業(本社→)
    • 富士工業(中島飛行機太田工場と武蔵野工場→)
    • 富士自動車工業(中島飛行機伊勢崎工場→)
    • 大宮冨士工業(中島飛行機大宮工場→)
    • 宇都宮車両(中島飛行機宇都宮工場→)
  • THKリズム(中島飛行機浜松工場→富士精密工業→プリンス自動車工業→分離独立・リズムフレンド製造→リズム自動車部品製造→リズム→THKリズム、THK子会社)
  • 富士機械(中島飛行機前橋工場→富士機器→富士機械、富士重工子会社)
  • 輸送機工業中島飛行機半田製作所→愛知富士産業→輸送機工業、富士重工子会社)
  • マキタ沼津(中島飛行機三島工場→富士機械工業→富士発動機→富士ロビン→マキタ沼津、現マキタ
  • GKNドライブライントルクテクノロジー(中島飛行機栃木工場→栃木富士産業→GKNドライブライントルクテクノロジー、日産関連会社→GKN日本法人)
  • イワフジ工業(中島飛行機黒沢尻工場→岩手富士産業→イワフジ工業、現新明和工業子会社)

がある。

最終的に日産自動車へ吸収された富士精密工業(中島飛行機東京工場→富士精密工業→(旧立川飛行機出身者によるプリンス自動車工業と合併)→プリンス自動車工業→吸収合併・日産自動車)は存続会社が日産自動車であるので、法律的には消滅している。

富士重工業は、1966年(昭和41年)に東邦化学株式会社と合併し、存続会社を東邦化学株式会社とした。この存続会社の東邦化学株式会社は1965年に商号を富士重工業株式会社と改めた上で合併しているため、一貫して継続した同一名称ではあるが、法律的には従来の富士重工業は1965年に一旦消滅している。これは株式額面金額変更が目的の事務的なものである[4]

自動車開発[編集]

戦後自動車製造に挑戦したメーカーは多くあったが、戦前からの自動車メーカーであったトヨタ自動車や日産自動車でさえも独自開発が難しく、海外メーカーの模倣やライセンス生産で凌いだり、軍需産業の中心だった旧三菱重工業の分社ですら技術提携による外国車のノックダウン生産をしていた。その時代において、中島飛行機を前身ないし源流とする富士重工業とプリンス自動車工業の2社のみが技術提携に頼らず自力開発を行う素地を有していた。

航空宇宙・ロケット開発[編集]

中島飛行機は終戦直前にはドイツからの技術情報等に基づき、ジェットエンジンロケットエンジンの独自開発にも着手していた。しかし、これらの資料は終戦時に焼却され一時途絶えた。技術力は富士重工と富士精密工業などと後のプリンスに継承されたが、日本政府は、経営破綻が時間の問題であったプリンスにロケット開発を担わせることに危機感を抱き、トヨタにプリンスを吸収合併させるべく画策した。しかし、トヨタは自動車製造に専念したいという理由(政府のヒモ付きとなることを懸念した)からこの話は破談となり、当時、業界2位であった日産が引き受けることになり、日本の宇宙ロケット技術の途絶という、最悪の事態は回避された。

実際のロケット開発として、糸川博士による国産初のロケットペンシルロケット東京大学生産技術研究所AVSA班共に開発した。 また、その後石川島播磨重工業(現:IHI)に吸収されるまで東京都荻窪に有った荻窪事業所(製造)、埼玉県川越(燃焼実験)で自衛隊のミサイル及び宇宙開発事業団(NASDA)(現:宇宙航空研究開発機構(JAXA))のロケット開発製造を行う。 開発した事例としては、H-IIAロケットの固体燃料ブースター、衛星制御システム(液体燃料による姿勢制御)の他、固体燃料ロケットミューシリーズでは主体で開発を行った。

その後、日産とルノーとの提携に前後して、宇宙開発部門は分離され、IHI傘下となってアイ・エイチ・アイ・エアロスペースが誕生した。ロケットエンジンの開発メーカーは世界でも少数に限られ、日本の国策にもかかわるため、ルノーの資本参入が決定される際に水面下で様々な駆け引きがあったと言われている。

富士重工業[編集]

富士重工業は、もともと中島飛行機出身の有志が、国産航空機開発の再開を目指して設立した会社であり、戦後の航空機生産解禁後は、航空機分野への参入に挑戦している。

  • 1945年(昭和20年)8月 - 敗戦後、定款を変更し富士産業株式会社と改称
  • 1948年(昭和23年) - 東京富士産業株式会社設立(富士重工業の前身)
  • 1950年(昭和25年) - 富士精密工業設立(プリンス自動車工業の前身)
  • 1952年(昭和27年) - 富士精密工業がプリンス自動車工業を吸収合併
  • 1953年(昭和28年) - 富士重工業株式会社設立
  • 1961年(昭和36年) - 富士精密工業がプリンス自動車工業と改称
  • 1966年(昭和41年) - 日産自動車がプリンス自動車工業を吸収合併

代表的な航空機[編集]

日本陸軍向け[編集]

戦闘機
戦闘襲撃機
  • 1945年(昭和20年) - キ201「火龍」(試作)
爆撃機
偵察機
輸送機
練習機
特殊攻撃機

日本海軍向け[編集]

戦闘機

その他、三菱内燃機の設計である九六式陸上攻撃機零式艦上戦闘機ライセンス生産も行っており、なかでも零戦は、生産期間が1年以上短いにもかかわらず、設計元の三菱を上回る、全体の約2/3を量産した。

攻撃機
偵察機
輸送機
特殊攻撃機
  • 1945年(昭和20年) - 特殊攻撃機「橘花」(試作)

民間向け[編集]

旅客機

代表的な航空エンジン[編集]

  • 寿: 空冷式単列星型9気筒、陸軍名称ハ1
  • NAL系: 空冷式複列星型14気筒、陸軍名称ハ5/ハ41/ハ109、統一名称-/ハ34/ハ34
  • : 空冷式複列星型14気筒、陸軍名称ハ25/ハ115、統一名称ハ35
  • : 空冷式複列星型18気筒、統一名称ハ45

本社[編集]

1934年太田新工場→1938年有楽館ビル(経理部明治生命・監査部市政会館)→1943年明治生命→1944年前田邸→1945年9月興銀

製作所・工場・研究所などのその後[編集]

グループ会社[編集]

多くの中小企業を合併・子会社化・出資していった。その数は諸説ある。

脚注[編集]

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  1. ^ 表向きの理由は病気を理由にした任期途中での退官
  2. ^ 技術職に専念し経営はやめてもらう。
  3. ^ 東武小泉線西小泉駅が玄関駅として利用された
  4. ^ 企業情報@Wiki 富士重工業
  5. ^ カスリーン台風で被災
  6. ^ 『電子耕』
  7. ^ 総合集会場という名称の広場
  8. ^ ここにゴルフ場そのものは戦前から存在し元々は仏国人米国人を接待するために造られた。戦後は米軍。

参考文献[編集]

ギャラリー[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]