誉 (エンジン)

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交通博物館に展示されていた誉エンジン

(ほまれ、当時の表記は)は、中島飛行機日本海軍航空技術廠発動機部とが技術を結集して開発した2,000hp級の航空機用レシプロエンジンである[1] 。大戦後期の日本軍偵察機や戦闘機、爆撃機のエンジンとして採用されたが、整備が難しく故障が多かった。


概要[編集]

小型軽量ながら当時としては世界水準であり、1942年(昭和17年)9月に採用された。18気筒35,800cc・二重星型空冷・離昇2,000(公称1,860)馬力である。主に生産された型式には誉一一型、誉二一型、誉二四型ル装備(試作)などがある。中島飛行機が製作した最後の航空エンジンであった。本エンジンを採用した有名な機種には、爆撃機銀河、偵察機彩雲、戦闘機の疾風紫電改などがあり、第二次大戦末期の日本軍機に搭載された。

なお、誉の名称は大日本帝国海軍(以下、海軍)で使われたもので、略記号はNK9であった。また、大日本帝国陸軍(以下、陸軍)ではハ45と呼称された(ハは発動機のこと)。設計主任者は中島の中川良一技師。中川技師は、戦後プリンス自動車日産自動車の役員を歴任、プリンス・スカイライン2000GT-RR380383の発動機(S20型、GR8型、GRX-3型)の設計にも携わっている。

大戦後期の陸海軍航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。2,000馬力級の出力をめざし限界を追求した設計であるため、前面投影面積や重量が小さかったという利点と引き換えに高い生産技術が要求された。このような要求は戦況の悪化に伴う資材や熟練労働者の不足という生産面の問題、さらには燃料・オイルの質の急激な悪化や整備が追いつかなかったというメンテナンス上の問題により、構造を熟知する精鋭整備員がいる部隊ならともかく、一般的な教育を受けた整備員しかいない部隊では整備が追いつかず、所定の性能を安定して発揮することができなかった。

開発経緯[編集]

1930年代後半、中島はハ5系(出力約900~1,400hp)、栄(ハ115)(出力約1,000hp)、(出力約1,800hp)といった2列空冷星型エンジンの開発を手がけていた。1939年(昭和14年)12月。これに加えて中川良一技師らを中心とする設計陣は、7シリンダー×2列の14シリンダーエンジンの栄をベースに用い、この前列と後列のシリンダーを2つずつ増やして計18シリンダーとし、1シリンダー当り100hp以上を発揮させることでサイズ・重量をそれほど大きくせずに2,000hp級の次世代エンジンを開発する計画を立てた。

栄は1シリンダー当り70hp程度を発揮するエンジンであった。これに対して目標とする2,000馬力を出力するには、クランクシャフトの回転数を増やし、吸気系統(ブースト圧、吸気ポート形状等)を改善、さらに高オクタン価ガソリンオクタン価100のガソリン)を使用してノッキングデトネーションの帰結)を防止するなどの改善が必要であった。さらにシリンダーヘッドの冷却フィン、クランクシャフトとコンロッド軸受、クランクケース等にも性能を限界まで引き出すための設計を試みることとなった。

最終的に排気量35.8L、初期目標出力1,800hpという小型・小排気量かつ大馬力の設計案(社内名称BA-11)がまとめられ、海軍に提示された。これに対し海軍内部では賛否含めて大きな反響が起こり、結果、海軍航空技術廠(通称・空技廠)と共同で官民一体の開発プロジェクトが立ち上げられることとなった。

開発開始の1940年(昭和15年)はアメリカとの緊張が高まっていた時期であり、誉開発の成否は将来想定される太平洋戦争の行く末に係わるものとして官民の精力的かつ速やかな作業が行われ、過密なスケジュールだったにもかかわらず、予定より半年早い1942年(昭和17年)9月には生産開始に至った。

  • 1940年(昭和15年)
    • 2月 - 新型発動機「NK9」中島社内におけるエンジンの基本構想完了、海軍への構想の提出
    • 9月 - 設計完了、海軍から中島に対する正式試作命令
  • 1941年(昭和16年)
    • 2月 - 部品試作完了
    • 3月 - エンジン組立完了
    • 3月末 - 第一次運転(エンジンの初始動)及び性能運転完了
    • 6月 - 公式第一次審査終了
    • 6月末 - 第一次耐久運転終了(エンジンを300時間断続運転させてオーバーホールし、異常がなければ合格とする審査)
    • 8月 - 公式第二次審査終了
    • 11月 - 第一回DB機に搭載しての飛行実験開始
  • 1942年(昭和17年)
    • 9月18日正式採用 - 「誉」と命名、生産開始へ
    • 12月 - 大量生産本格化。

従来はエンジン開発の開始から生産開始まで5年程度を要していたのに対して、初期構想提案から本格生産開始まで3年以下という期間は異例な速さと言えた。

設計・技術[編集]

誉の設計は、ベースとなった栄の設計を引き継ぎ、全体をコンパクトに纏めながらも、高出力化に伴って発生する諸問題を解決するために様々な新機軸を織り込んだ意欲的なものであった。

ボア(シリンダー直径)×ストロークピストンの移動量)はベースとなった栄と同一の130mm×150mmとしたことにより、エンジン直径は栄より30mm大きくなった1,180mmに収まった。一方、シリンダーの前列と後列の中心間距離は、導風板(バッフルプレート)やシリンダーヘッドの冷却フィンの取り回しを容易にし、冷却空気の流れを良くして後列のシリンダーが冷却不足とならないようにするよう、栄の150mmに対して220mmまで伸ばされた。

前列と後列のシリンダーは正面から見て20度の位相差をもち、前列シリンダーの隙間から後列シリンダーが覗くStaggerという一般的な2列空冷星型エンジンのレイアウトとなっていた。

同時期に出現した同等出力の2列空冷星型エンジンに対し、誉の排気量(35.8L)の小ささは顕著な特徴となっている。例えばアメリカの2,000hp級エンジンであるプラット・アンド・ホイットニーR-2800-9は46L、ドイツFw190に搭載された空冷星型エンジンBMW801も41.8Lである。このように当時の出力/排気量比の水準は40hp/L台であるのに対して50hp/Lを狙った誉は極めて野心的なエンジンだったと言える[注 1]。小排気量で高出力を実現するにはクランクシャフト回転数やブースト圧(吸気圧)を向上する必要がある。そのために誉では回転数を栄二一型の2750RPMから3000RPM(誉二一型)に、ブースト圧を栄より最大+200mmHg程度増加した離昇時+500mmHg(誉二一型)まで高めていた。この結果、シリンダーヘッド冷却や熱膨張対策への要求はより高いものとなり、以下に述べる技術的工夫・新設計の導入による対処が行われた結果、製造工程数の増加や部品の過度な精密化を招き、戦時下での誉の品質を下げる一因となった。

冷却フィン[編集]

空冷エンジンでは外部の気流によるシリンダー冷却の良し悪しが性能に直接現れる。中島の戸田康明技師が当時行った、シリンダーヘッドの冷却フィン(ひれ)構造と冷却効率の関係を調べた研究では、冷却フィンは厚さ1mm・間隔3mm(つまりピッチ4mm)、高さ70mm程度で配置するのが最も効率が良いという結果が得られていた。ただし、実現には高アスペクト比かつ1mm厚の板状物が密集している構造が必要となり、当時の鋳造技術では製造が難しいと考えられた。そのため、最初期に生産された誉(一一型や一二型)では、構造を厚さ約2mm・間隔約4mmの冷却フィンとし、栄などと同じ砂型鋳造法で製造するものとした。一方、同時期に冷却フィンの研究・開発を行っていた正田飛行機では、植込みひれ方式という独自の鋳造法により、薄く間隔の狭いフィン構造の製作に成功していた。植込みひれ方式とは、あらかじめ製作しておいた一枚一枚形状の異なるアルミニウム製の薄いフィンをシリンダーヘッドの鋳型にはめ込んでおき、そこに鋳込むことでフィン以外の部分を形成するという方法であった。

この方式は海軍に着目され、誉のシリンダーヘッドの製造法に採用することで戸田技師が理想としたフィン構造を実現することとなり、誉二一型から順次採用されることとなった。この冷却フィンは通常のフィンに比べ10~15℃程度シリンダー温度を下げることができたと言われる[2][3]。 しかしながら、植込みひれ方式はフィンを鋳型へ植込む手間がかかる上、鋳造中に型枠の取り外しを要するなど大量生産には向かなかったため、戦争の進展によるエンジン増産の要請により、妥協的な代替方式として住友金属工業が当時行っていたブルノー方式(ダイキャスト方式と類似、低圧押湯式鋳造法とも)によるピッチ5mm程度の冷却フィンに切り替えられることとなった。生産は効率化されたものの、植込みひれ方式による製作品より性能は低下したと推測されている。

クランクピンとコンロッド軸受[編集]

誉のエンジン出力は栄のほぼ2倍になったものの、クランクピン(主コンロッドをはめ込むクランクシャフト側の接合部)の直径は、エンジン径と主コンロッドの軸受荷重のトレードオフを勘案した限界的数値として5mmしか拡大されなかった。このため、軸受にかかる荷重は最大で栄の38%程度まで増大することとなった。対策として、中島と空技廠による軸受に関する特別チームは、コンロッドやシリンダースカート回りの設計を洗練・精密化し、軸受の厚さを最大限に取ることで剛性の向上に努めた。軸受合金(ケルメット)はの量に対して18%とされ、これを軸受の裏金に鋳込む方法も研究された。さらに軸受の真円度、軸受を主コンロッドにはめ込む際のはめ込み代(しろ)、クランクピン寸法と表面粗度、クランクピンと主コンロッド軸受間の遊びの大きさといった様々なパラメータが厳密に定められた。また理論と実験により、クランクピンに鉱物油(エンジンオイル)用の油穴が設けられた。これは最適な形状と配置が選ばれ、潤滑と冷却を兼ねたものである。これらの結果、軸受荷重が大きいものの、試験段階では好成績を収めた。しかし、戦争に突入すると熟練工の徴集や材料(特に銅)の枯渇により上記の対策を維持することができなくなり、軸受の焼き付きが多発したと言われている。

クランクケース[編集]

エンジンの中央部を覆うクランクケースは軽量化・剛性向上・薄肉化による内部スペースの増大を狙って、従来のジュラルミン(主成分がアルミニウムの合金)の鍛造ではなくクロームモリブデン鋼(スチールの一種)の鍛造を採用した。これは日本のエンジンでは初めての試みである。そのために試作を請け負える企業がなかなか見つからず、中島の本拠地の東京から離れた大阪の住友金属工業に依頼している。出来上がったケース厚は3mm程度となり、初期に想定されたよりも少々分厚くなったものの、特別な問題を引き起こすことはなかったと言われる[2]。なお、試作後のケースの量産自体は中島の工場で行われた。

ノッキング対策[編集]

誉は、ガソリンエンジンの出力を制限するノッキングへの対策として、オクタン価100のハイオクタンガソリンの使用を想定していた。しかし、インドシナ進駐以降の日米関係の悪化による航空機用ガソリン類の禁輸により、100オクタンガソリンや高性能潤滑油を入手できなくなってしまった。当時100オクタンのガソリンを日本で生産することはできず、結局大戦の全期間を通じてオクタン価87~91のガソリンしか使用できずに終わり、ハイオクタンガソリンを前提とした設計が裏目に出て不調の一因となった。

対策として誉は、当初から低オクタン価ガソリンでのノッキング対策を考慮しており、水とメタノールの混合液を吸気経路内に噴射(一二型以降は過給機の翼車内から噴射)し、吸気温度を下げる水メタノール噴射装置を搭載できるようになっていた[注 2]。また、低オクタン価燃料で運転した場合の異常高温対策として、点火プラグの熱価の向上(プラグの放熱を促進することによる早期着火の防止)、燃料分布の改善なども順次行われていった。

運用・評価[編集]

誉が快調ならば600km/h以上の速度で飛ぶことができた彩雲

搭載機の活躍[編集]

誉の高性能に注目した軍部はただちに当時開発中の主要軍用機への搭載を決定した。以下に誉(ハ45)が搭載された機体を挙げる。

海軍

陸軍

この内、紫電改と四式戦闘機は大戦後半に飛躍的に高性能化が進むアメリカ軍の戦闘機とも対等に渡り合うことができた日本製では数少ない高性能戦闘機であった。 紫電改はその性能特性から、本来の開発目的である爆撃機迎撃よりも、本来の目的外の制空任務に多く用いられ、前線では零戦の後継機として軍関係者の間では認識されていたという。また疾風は文字通りに主力機としての任を果たした。

また偵察機である彩雲は当時実用化された日本製軍用機の中では最速の部類に属し、最高速度が600km/h以上とされるアメリカ海軍の艦上戦闘機F6Fを振り切ったという逸話[4]も残している。

不具合の発生[編集]

初期に生産された誉が所望の高性能を示す一方で、戦争が進展するとその限界設計から来るいくつかの不具合が報告されるようになった。さらには当時の日本製エンジンに一般的だった軸受合金や点火プラグに起因する不具合にも例外なく襲われていた。

まず100オクタンガソリンを使用できなくなったことで当初予定した出力を発揮しにくくなり、さらにシリンダー温度の異常上昇が報告されるようになった。そのため軍部ではエンジン回転数とブースト圧に対して制限を課した[5]。また水メタノール噴射装置の積極的な利用も行われるようになったが、噴射された水メタノールが各シリンダーに均一に分配されず、特定のシリンダーにノッキングが集中した結果、点火プラグを焼損しエンジンの不調をもたらすこともあった。

さらに当初懸念されたコンロッド軸受の過荷重による故障も起こり始めた。これに対して、軸受材表面の鉛メッキ、クランクピンの研磨(ポリッシュ)による仕上げ粗度の向上、クランクシャフトの変形に合わせて軸受の形状を微妙に変える等の対策を施し、一応の解決を見ることができた[2]

またプロペラ減速機の軸受も焼損を起こし、その鉛の比率を20%から30%にするという処置を行って解決を図った(なおこの軸受合金の鉛の比率(30%)が生産現場に間違って15%と伝えられており、四式戦闘機の試作機で焼き付きを起こしたという事件もあった[2])。総じて、銅を始めとする金属の使用制限は軸受全般の不具合を頻発させ、中島ではその対策に最後まで煩わされたといえる[3]

生産が始まってしばらくした頃、誉を搭載した試作機でエンジンの出力が公称値を大きく下回っていると指摘されたことがあった。これに対する中島での調査により、吸排気ポートや吸気系通路の鋳物の型崩れが出力低下の主因となっていることが発見され、鋳型を見直しての改善により出力が回復したと言われる[2](ただし生産資源がより致命的な状態になった大戦後半に再発しなかったかどうかまでは言及されていない)。

また天雷の試験飛行における一定高度以上での油圧低下に対し、中島社内による緊急の原因追及が行われた。天雷は、2速過給機の湿式多板式ディスククラッチで発生するスラッジ(油溜り)の除去対策や、過荷重を受けるクランクシャフト回りへの潤滑対策に用いた潤滑油循環量増加のためにポンプ容量を増大しており、油圧系統にかかるポンプ圧力も増大していた。しかしこれにも係わらず、油パイプ径やポンプ入り口の口金が小さく、パイプが長過ぎたことで内部に真空部分が生じ、それが一定の気圧以下でポンプの吸い込みを阻害していた。これを念頭に置いた上で潤滑系を変更し、高度上昇による油圧低下は解決された[2]

各部の高負荷のために比較的多量の潤滑油[注 3]を必要としたため、燃料と同様に潤滑油の品質が悪化したこともエンジン性能を下げていた可能性がある。

この他にも、ピストンリング、バルブカムバルブスプリング発電機などの部品について負荷の増大に対応したものが確保できなかった結果、耐久性不足で破損するといった問題が報告されている。

さらには、狭小なスペースに取り回した電気配線の被覆がエンジンの熱で焼けて絶縁不良になるというようなトラブルもあり、誉は整備員泣かせであったと言われる。

品質低下とその影響[編集]

ソロモン海戦以降の大消耗戦、及び前線からの日本軍の相次ぐ敗退により資源不足も深刻化した。代用材料の使用や部品製作の簡略化が図られたものの、それらがなかなか実らずに品質の悪い製品があふれることになってしまった(しかもそれは生産現場の混乱を招くという弊害をもたらした)。さらに熟練作業者が徴兵されて生産の主体が未熟練労働者になってしまったこと、及びアメリカ軍の空襲により生産施設が破壊されたことも品質の悪化に拍車をかけた。

こうして本来の性能を発揮できない誉が数多く出荷され、結果的に搭載機の性能不足や稼働率低下を引き起こすこととなった。稼働率低下の一例をあげると、1945年(昭和20年)7月の松山基地の偵察部隊では保有していた彩雲16機のうち作戦可能機はわずか2機に過ぎず、1機は故障、残りの13機のうち8機までがエンジンの調整・整備に追われるという有様であった。また、ある部隊では油漏れが止まらず予備のパッキンを使い切ってしまったが、実はパッキンがすべて規格外であったという品質管理の不徹底を示すようなトラブルも起こっていた。

当時、零戦の後継機として開発中であった烈風の主任設計者である堀越二郎技師は、同機のエンジンとして誉を搭載することに反対していたが、それはエンジン品質の低下による性能の額面割れを危惧したからだと本人が証言している[6]。実際に誉を搭載した烈風の試作機は大幅な性能不足で、三菱内でエンジン出力を測定したところ1,300hp/6,000m程度(地上計測による換算値、なお海軍の保証値は1,700hp/6,000m)しかなく、さらに同時期に製造された誉搭載機の速度・上昇率を調べたところ公称値よりも低下しており、いずれも烈風の試験結果に対応していたと報告されている[7](なおこれに対し、中川技師は烈風の試験が行われたのは前述した吸気系の鋳物の改善前でエンジン出力が最も低下していた時期ではなかったかと述懐している[2])。

総評 [8][編集]

大戦末期の日本軍の2,000馬力級の戦闘機には誉が搭載されていたことや、終戦まで本エンジンの生産が続けられたことから、日本を代表する航空機エンジンであると評価されている。その潜在的高性能から「日本の航空技術が生んだ奇跡のエンジン」という評価がある一方で、国情を無視して技術の理想に走り生産を考慮しなかった結果、役に立たなかった「欠陥エンジン」であるとする、相反する評価がなされている。

戦後にハイオクタンガソリンと高品質潤滑油や高熱値のプラグを使用して誉を調査したアメリカ軍は、本エンジンに高い評価を与えている。高性能であったのは確かだが、当時の日本は脆弱な工業力、品質管理の概念もない生産状態、裾野の狭い工業力という諸条件から、熟練職人による少数生産ならばともかく、徴用素人工による品質を保っての大量生産は困難であった。

飛行第47戦隊付「整備指揮小隊」[9][編集]

飛行第47戦隊付整備指揮班長刈谷正意中尉[注 4] によれば、「油圧低下や燃圧振れはポンプ吸入側の空気吸い込みが主原因であるのに、これを修治せず放置するとエンジン内部故障になり」「誉れは直ぐに故障する」となるが、それは「自己の怠慢を天下に公表しているようなもの」であると評した。「誉」の整備にも、特に「秘策はなく定時点検整備を、時間管理票に従ってマニュアルに少し手を加えて行う」ことにより「在隊稼働率100パーセントを維持(定数外大修理機を入れれば87パーセント)」を終戦まで維持したとのことである。

また47戦隊では、官制にはないが独自に創設した組織として「整備指揮小隊(整備指揮班)」が存在した。これは全般の技術的指導、各整備小隊間のコントロール、対外連絡、資料の作成や収集などのエンジニアリングを行うものであった。優秀選抜兵による「第4小隊」は、作戦から独立して故障修理にあたり、手のかかる故障機等を迅速に戦列復帰させた。

ほか、整備兵員への教育も徹底され、日々の整備を実地の訓練として、各整備小隊長は整備隊長の教育実施計画の下、毎日の教育実施結果を整備隊長に報告し、幹部整備員は隊長の教育を毎週あるいは適時に受け、課題へリポートすることが義務付けられた。これらにより、異動や戦闘などの損失による整備兵員の質の維持が持続できた。

搭乗員も機体整備の情報共有へ組織的(陸軍では、個別に手すき時や最前線進出時には搭乗員も伝統的に整備を行っていた)に参画が命ぜられ、戦隊長以下の全パイロットも適時取扱いの研修を整備より受け、自機の不具合はデータ付で整備に提出しなければならなかった。このように搭整一体の協力により、兵器の質の維持が敗色の濃い中、終戦まで維持されたのである。刈谷によれば「47戦隊で100パーセント働いた」エンジンが他部隊で動かなかったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」であり、「疾風(誉)のせいじゃない」と回想している。

生産台数[編集]

  • 1943年(昭和18年):約200基
  • 1944年(昭和19年):5,400基
  • 1945年(昭和20年):3,150基

型式[編集]

誉の各型を試作・計画のみのものを含めて以下に列挙する。()内は陸海軍統合名称、あれば海軍略記号の順に記載している。なおハ45は誉の陸軍向けであるが、仕様や補機類は必ずしも海軍の誉と同一ではない[3][5]

誉一一型(ハ45-11、NK9B)
初期生産型。まだ冷却フィンが植込みひれ方式ではなく砂型鋳造方式で製作されていた。気化器が2連降流115丙B型。水メタノール噴射装置の噴射位置が後の二一型と異なりスロットルの直前(キャブレター内)であった。四式戦闘機の初期生産型に搭載されたハ45特もこの一一型とほぼ同等の仕様であるとされる。
誉一二型(ハ45-12)
一一型の過給機の減速比を変更し性能向上を図った型。水メタノール噴射位置が過給機翼車内に移された。銀河と流星に搭載された。
誉二一型(ハ45-21、NK9H)
一一型の改良型。回転数・ブースト圧を上げて出力を200馬力向上させた。気化器が2連降流115丙c型に換装、水メタノール噴射装置は過給機インペラ背後に噴射する方式に改められた。この型より冷却フィンは植込みひれ方式を採用するようになった(後期生産のものはブルノー方式)。彩雲、四式戦闘機、紫電、紫電改といった実用機に搭載された最多量産型である。
外形的には
誉二二型(ハ45-22、NK9K)
二一型のプロペラ減速比を変更し、強制冷却ファンを装備した型。彩雲の試作機などに搭載された。
誉二三型(ハ45-23、NK9H-S)
二一型に中島式低圧燃料噴射方式(シリンダー内への直接噴射ではなく、キャブレターの代わりに吸入管内へ燃料を噴射する方式)を採用した型。紫電三二型に搭載されて試験中に終戦を迎える。
誉二四型(ハ45-24、NK9K-S)
二三型と同じく二二型に低圧燃料噴射装置を搭載した型。
誉二四ル型(ハ45-24ル、NK9K-L)
二四型に排気タービン過給機を追加した型。試製彩雲改に搭載されて試験が行われていた。
誉二五型(ハ45-25)
過荷重に対応してクランクシャフトの形状を改善した型。試験中に終戦を迎える。
誉二六型(ハ45-26)
プロペラ減速機構にVDM方式を採用した型。試作のみ。
誉三一型(ハ45-31、NK9K-O)
二一型に強制冷却ファンを追加し、さらに高回転・高ブースト化して出力向上(離昇2,200hp)を狙った型。計画段階で中止された。
誉四一型(ハ45-41、NK9A)
過給機を2段3速のものに変更し、強制冷却ファンとインタークーラーを設けた型。試作のみ。
誉四二型(ハ45-42、NK9A-O)
四一型の出力向上型(離昇2,200hp)。試作のみ。
誉四四型(ハ45-44)
四一型と同じく2段3速の過給機を備えるが、インタークーラーを省き出力を控えめ(離昇1,810hp)にした型。試験中に終戦を迎える。
誉五二型(ハ45-52、NK9L)
排気タービン過給機、燃料直接噴射装置、強制冷却ファンを装備した型。
誉六一型(ハ45-61、NK9M)
推進式の機体向けに延長軸と強制冷却ファンを装備した型。
ハ145(ハ45-43)
2段3速過給機を備えた四〇番台に相当する陸軍仕様の型。二式単座戦闘機三型に搭載され試験が行われていた。
ハ245(ハ45-51)
高高度性能の向上を図ったとされる陸軍向けの型。

諸元[編集]

誉一一型(ハ45-11)[編集]

  • タイプ:空冷星型複列18気筒(9気筒×2列)
  • ボア×ストローク:130 mm × 150 mm
  • 排気量:35.8 L
  • 全長:1,690 mm
  • 直径:1,180 mm
  • 乾燥重量:830 kg
  • 圧縮比:7.0
  • バルブ挟み角:75度
  • 過給機:遠心式スーパーチャージャー1段2速
  • 水メタノール噴射装置付き
  • 離昇出力:1,800HP/2,900RPM/ +400mmHgブースト
  • 公称出力: 
    • 一速全開 1,650HP/2,900RPM/ +250mmHgブースト (高度2,000m)
    • 二速全開 1,460HP/2,900RPM/ +250mmHgブースト (高度5,700m)

誉二一型(ハ45-21)[編集]

  • 離昇出力:2,000HP/3,000RPM/ +500mmHgブースト
  • 公称出力: 
    • 一速全開 1,860HP/3,000RPM/ +350mmHgブースト (高度1,750m)
    • 二速全開 1,620HP/3,000RPM/ +350mmHgブースト (高度6,100m)

現存する誉[編集]

誉搭載機にはオリジナルのエンジン付きで現存しているものもある。またエンジン部分のみの保存例もいくつか存在する。以下にそれらを保存施設ごとに紹介する。

日本国内[編集]

南レクに現存する紫電改。実物の誉が装着されている。


日本国外[編集]

ロンドン・サイエンス・ミュージアムの誉エンジン

出典[編集]

  1. ^ 大木主計編集「丸メカニックNo.15 艦上偵察機彩雲」1979、潮書房 p.46  p.62~65
  2. ^ a b c d e f g 中川良一・水谷総太郎『中島飛行機エンジン史 若い技術者集団の活躍』(酣灯社、1987年増補新装版) ISBN 4-87357-011-5
  3. ^ a b c A.T.I.G. REPORT No.45 1945年 - サイト『WWII Aircraft Performance』内よりリンク。
  4. ^ http://ja.wikipedia.org/wiki/彩雲_(航空機)
  5. ^ a b 世界の傑作機 No.124 強風、紫電、紫電改』(文林堂、2008年) ISBN 978-4-89319-158-8
    胃袋豊彦「薄幸の名機「誉」エンジン概説」 p86~p89
  6. ^ 堀越二郎・奥宮正武『零戦 日本海軍航空小史』(朝日ソノラマ、1997年) ISBN 4-257-79028-8 第4部 名機にも強敵続出 第3章 あとを継ぐもの 3 零戦の再来・烈風 p447~p448、またp460~p464
  7. ^ 野沢正 編著『日本航空機総集 第1巻 三菱篇』(出版協同社、1981年改訂新版) p210~p216
  8. ^ 大木主計編集「丸メカニックNo.8 四式戦闘機疾風」1980潮書房「丸メカニックNo.33 四式戦闘機疾風」1982 潮書房、「丸メカニックNo.15 艦上偵察機彩雲」1979、潮書房
  9. ^ 大木主計編集「丸メカニックNo.8」(丸メカニックNo.33 p75 転載再掲)」潮書房1982
  10. ^ 河口湖自動車博物館 飛行舘 OfficialWebSite
  11. ^ 南レクへようこそ!

脚注[編集]

  1. ^ この上の水準を達成したエンジンとして、スリーブバルブを採用してエンジン回転数を極限まで高めた水平対向エンジンネイピア・セイバー(80hp/L代)などがある。
  2. ^ 水メタノール噴射装置は吸気を冷却してシリンダー内に入る混合気の量を増やす(体積効率を上げる)効果とともに異常高温によるノッキングを防ぐ効果があるため、低オクタン価ガソリンしか使用できなかった当時の日本やドイツで多用された。
  3. ^ 前述の通り潤滑油ポンプの圧力が引き上げられた結果、他の箇所からの潤滑油漏れが増大し、操縦者は燃料だけでなく、潤滑油の残量にも気を配らねばならなかったとの証言が有る(『悲劇の発動機「誉」』)。
  4. ^ 刈谷は陸軍より技能抜群と認められ、1945年4月26日に全四式戦闘機保有部隊の整備隊長らを集めた成増基地における整備教育で、隊長らに直接指導を行っている。

参考文献[編集]

  • 中川良一「航空機から自動車へ 内燃機関技術者の回想
    社団法人日本機械学会『日本機械学會誌』第85巻 第759号 1982年2月 ISSN 0021-4728 p214~p220
  • 前間孝則『富嶽 米本土を爆撃せよ』上(講談社文庫、1995年) ISBN 4-06-185912-9
    第三章 奇蹟のエンジン――「誉」 p191~p246
  • 前間孝則『マン・マシンの昭和伝説 航空機から自動車へ』上(講談社文庫、1996年) ISBN 4-06-263176-8
    第二章 奇蹟のエンジン「誉」の運命、第三章 「誉」の限界 p95~p222
  • 前間孝則『悲劇の発動機「誉」 天才設計者中川良一の苦闘』(草思社、2007年) ISBN 978-4-7942-1513-0
  • 日本航空学術史編集委員会 編『日本航空学術史 1910-1945』(日本航空学術史編集委員会、1990年)
    第4章 戦時中の航空機の整備取扱いの状況について(奥平祿郎)
  • 大木主計編集「丸メカニックNo.15 艦上偵察機 彩雲」潮書房1979
  • 大木主計編集「丸メカニックNo.8 四式戦闘機 疾風(丸メカニックNo.33 転載再掲)」潮書房1982

関連項目[編集]

  • ハ43 - 三菱重工業が誉に対抗して開発した小型・大出力エンジン。
  • ハ44 - 中島が誉の後に開発した2,500hp級2列18シリンダー空冷星型エンジン。