カイコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
カイコ
Bombyx mori Caterpillar 30days 02.jpg
幼虫
分類
: 動物界 Animalia
: 節足動物門 Arthropoda
: 昆虫綱 Insecta
: チョウ目(鱗翅目) Lepidoptera
: カイコガ科 Bombycidae
亜科 : カイコガ亜科 Bombycinae
: カイコガ属 Bombyx
: カイコガ B. mori
学名
Bombyx mori
(Linnaeus, 1758)
和名
カイコガ(蚕蛾)
シルクワーム
英名
Silk moth
Silkworm

カイコ(蚕、蠶)はチョウ目(鱗翅目)・カイコガ科に属する昆虫の一種。正式和名カイコガで、カイコは本来この幼虫の名称だが、一般的にはこの種全般をも指す。クワ(桑)を食餌とし、を産生して(さなぎ)の(まゆ)を作る。有史以来養蚕の歴史と共に各国の文化と共に生きてきた昆虫。

学名ラテン語名)は「Bombyx mori仮名転写:ボンビックス・モリ)」。

家畜化された昆虫[編集]

カイコは家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫で、野生には生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さないなど、人間による管理なしでは生育することができない。カイコを野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう。幼虫は腹脚の把握力が弱いため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまう。成虫もはあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、飛ぶことはできない[要出典]

地方名[編集]

20世紀の調査では、カイコを意味する方言には主に次のような例があった[1]

起源[編集]

養蚕は少なくとも5000年の歴史を持つ[2]。伝説によれば黄帝の后・西陵氏が、庭で繭を作る昆虫を見つけ、黄帝にねだって飼い始めたと言われる。絹(silk)の語源は、西陵氏(Si Ling-chu)であるという。

カイコの祖先は東アジアに生息するクワコ (Bombyx mandarina) であり、中国大陸で家畜化されたというのが有力な説である。カイコとクワコは近縁だが別種とされる。これらの交雑種は生殖能力をもち、飼育環境下で生存・繁殖できることが知られているが、野生状態での交雑種が見つかった記録はない。一方でクワコはカイコとは習性がかなり異なり、カイコと異なり活発に行動し、また群生する事が無い。これを飼育して絹糸を取る事は、現代の技術であっても不可能に近い。むしろレベルにおいてカイコとは異なる昆虫であるヤママユのほうが、絹糸を取るのに利用されるほどである。5000年以上前の人間が、どのようにしてクワコを飼いならして、カイコを誕生させたかは、現在に至るも不明である。そのため、カイコの祖先は、クワコとは近縁だが別種の、現代人にとって未知の昆虫ではないかという説もある[3]

生育過程[編集]

完全変態の昆虫である。

孵化したての1齢幼虫は、黒色で疎らな毛に覆われるため「毛蚕」(けご)と呼ばれ、また、アリのようであるため「蟻蚕」(ぎさん)とも呼ばれる。の葉を食べて成長し、十数時間程度の「眠」(脱皮の準備期間にあたる活動停止期)を経て脱皮する。2齢以降の脱皮後も毛はあるが、体が大きくなる割に、毛はあまり育たないのでイモムシ様の虫となり、幼虫の体色や模様は品種によって様々であるが、通常は青白く、頭部に眼状紋が入る。幼虫の白い体色が天敵に発見されやすいこともあって、幼虫は自然下では生育できない。また2齢幼虫になるころに毛が目立たなくなるのを昔の養蚕家は「毛をふるいおとす」と考え、毛ぶるいと表現した。

各発生段階のカイコ

多くの品種の幼虫は、5齢で終齢を迎え、(さなぎ)となる。蛹化が近づくと、体はクリーム色に近い半透明に変わる。カイコは繭を作るに適した隙間を求めて歩き回るようになる。やがて口から絹糸を出し、頭部を∞字型に動かしながら米俵型の繭を作り、その中で蛹化する。絹糸は唾液腺の変化した絹糸腺(けんしせん)という器官で作られる。後部絹糸腺では糸の主体となるフィブロインが合成される。中部絹糸腺は後部絹糸腺から送られてきたフィブロインを濃縮・蓄積するとともに、もう一つの絹タンパク質であるセリシンを分泌する。これを吐ききらないとアミノ酸過剰状態になり死んでしまうので、カイコは歩きながらでも糸を吐いて繭を作る準備をする。また蛹になることを蛹化というが、養蚕家は化蛹(かよう)という。

繭の中でカイコの幼虫は丸く縮んで前蛹になる。これはアポトーシスプログラムされた細胞死)が体内で起こっているのであり、体が幼虫から蛹に作り変わっている最中なのである。その後脱皮し、蛹となる。蛹は最初飴色だが、だんだんと茶色く硬くなっていく。

羽化すると、尾部から茶色い液(蛾尿)を出し、絹糸を溶かすタンパク質分解酵素を出して自らの作った繭を破って出てくる。成虫は全身白い毛に覆われており、翅を有するが、体が大きいことや飛翔筋が退化していることなどにより飛翔能力を全く持たない上、口吻が無いため餌を取ることは無い。交尾の後、やや扁平な丸い卵を約500粒産み、約10日で死ぬ。

利用[編集]

絹の採取[編集]

カイコは、ミツバチなどと並び、愛玩用以外の目的で飼育される世界的にも重要な昆虫であり、主目的は天然繊維の採取にある。日本でも、古事記にも記述があるほどの長い養蚕の歴史を持ち、戦前には絹は主要な輸出品であり、合成繊維が開発されるまで日本の近代化を支えた。農家にとって貴重な現金収入源であり、地方によっては「おカイコ様」といった半ば神聖視した呼び方が残っているほか、養蚕の神様(おしろさま)に順調な生育を祈る文化も見られた。また「一匹、二匹」ではなく「一頭、二頭」と数える。

繭は一本の糸からできている。絹を取るには、繭を丸ごと茹で、ほぐれてきた糸をより合わせる。茹でる前に羽化してしまった繭はタンパク質分解酵素の働きで絹の繊維が短く切断されているため紡績には向かない。

繊維用以外では、繭に着色などを施して工芸品にしたり、絹の成分を化粧品に加える例もある。

餌用・食用[編集]

ベトナムのサナギ
四川風のサナギのトウガラシ炒め
韓国のポンテギ

絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の養蚕農家の多くは、などの飼料として利用した。現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の釣り餌にすることが多い。

また、貴重なタンパク源として人の食用にされる例は多い。90年余り前の調査によると、日本の長野県群馬県の一部では「どきょ」などと呼び、佃煮にして食用にしていたと報告されている[4]。現在でも、長野県ではスーパー等で佃煮として売られている。伊那地方では産卵後のメス成虫を「まゆこ」と呼び、これも佃煮にする。朝鮮半島では蚕の蛹の佃煮を「ポンテギ」と呼び、露天商が売るほか、缶詰でも売られている。中国では山東省広東省東北地方などで「蚕蛹」(ツァンヨン、cānyǒng)と呼んで素揚げ煮付け炒め物などにして食べる。ベトナムでは「nhộng tằm」(ノンタム)と呼んで、煮付けにすることが多い。タイ王国でも、北部北東部では素揚げにして食べる。

タンパク質を多く含み、飼育しやすいことから、長期滞在する宇宙ステーションでの食料としての利用も研究されており、粉末状にした上でクッキーに混ぜて焼き上げる、一度冷凍したものを半解凍する、などの方法が提案されている。今では言われなければわからないほど自然な形に加工できるようになっている。

また、蛹の脂肪分を絞り出したものを蛹油と呼ぶ。かつては食用油や、石鹸の原料として利用された。現在では主に養殖魚の餌として利用される。

他に、生きた幼虫をは虫類や両生類など昆虫食動物を飼育する際の餌として用いる。その分野ではシルクワームの名で呼ばれる。ミールワームコオロギなどより栄養価が高く、また水分の多い素材として重視される。

冬虫夏草の培養・生産[編集]

蚕蛹に接種したり植菌したりして、冬虫夏草(茸)を培養する原料として利用される場合もある。カイコ由来の冬虫夏草としては、島根県津和野町で生産されている津和野式冬虫夏草などが知られている。

薬用[編集]

また、昆虫病原糸状菌白殭菌)に感染した蚕(白殭蚕)は死んでしまい、絹を取る事は出来ないが、漢方医学では癲癇中風、あるいは傷薬として用いた方法が『医心方』などにあり、1919年農商務省調査でも普通の蚕を含めて民間療法の薬として様々な病状の治療に用いられているとされている。白殭蚕を東京都南多摩郡山梨県西山梨郡では、「おしらさま(御白様)」と呼んだ[5]

実験動物[編集]

学術目的では変態ホルモンの生理学などのモデル生物として用いられる。飼育の歴史が長く生態・生理学上の知見が蓄積されており系統も豊富に確立されているためにモデル生物としての価値は高い。エクジソンはカイコを用いて単離された代表的な昆虫ホルモンである。また、教育課題としてカイコの幼虫の飼育や解剖観察を行うことも多い。

カイコを巡る伝説[編集]

日本[編集]

日本にカイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して伝わってきたと言われているが、古来においては様々な言い伝えがあり、日本神話が収められている『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。

  • 古事記』上巻にて高天原を追放されたスサノオ須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。頭に小豆陰部大豆が生まれたという。
  • 日本書紀神産みの第十一の一書にてツクヨミ月夜見尊)がアマテラス天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、から、目からから稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。
  • また、日本書紀における神産みの第二の一書にて火の神カグツチ軻遇突智)を生んだために体を焼かれたイザナミ伊弉冉)が亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメ埴山媛)は後にカグツチと結ばれてワクムスビ稚産霊)を生むが、出産の際にワクムスビのの上にと桑が生じ、の中に五穀が生まれたという説話がある。

これらの神話はいずれも食物起源神話と関連している事から戦前民俗学者である高木敏雄は、これは後世においてシナ中国)の俗説に倣って改竄したものであり、植物から作られた幣帛を用いる日本の神道には関わりの無い事であり、削除しても良い位だと激しく非難している。だが、仮にこの説を採るとしても、『古事記』・『日本書紀』が編纂された7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっているという事実までを否定する事は出来ないと言えよう。

なお、蚕は『古事記』下巻の仁徳天皇記に再び登場し、韓人百済からの帰化人奴理能美(ぬりのみ)が飼育していた「一度は這(は)う虫になり、一度はになり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫」(蚕)を皇后磐之媛命に献上する逸話が語られる。

三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)にの始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。忌宮神社では毎年3月28日に、蚕種祭が行われ、1981年(昭和56年)から毎年、生糸つむぎと機織りの実演が披露されている。

中国[編集]

東晋時代の中国4世紀)に書かれたとされる『捜神記』巻14には次のような話がある。

  • その昔、ある男が娘と飼いを置いて遠くに旅に出る事になった。しばらく経っても父親が帰ってこない事を心配した娘は馬に向かって冗談半分で「もし、お前が父上を連れて帰ったら、私はあなたのお嫁さんになりましょう」と言った。すると、馬は家を飛び出して父親を探し当てて連れ帰ってきた。ところが馬の様子がおかしい事に気付いた父親が娘に問いただしたところ事情を知って激怒し、馬をその場で射殺してしまった。その後、父親は馬の皮を剥いで毛皮にするために庭に放置して置いた。そんなある日、娘は庭で馬の皮を蹴りながら「動物の分際で人間を妻にしようなどと考えるから、このような目にあうのよ」と嘲笑した。すると、娘の足が馬の皮に癒着してそのまま皮全体で娘の全身を覆いつくした。身動きが取れなくなった娘は転倒してそのまま転がりだして姿を消してしまった。これを見た父親が必死に探したものの、数日後に見つけたときには馬の皮は中にいた娘ごと一匹の巨大なカイコに変化していたという(馬頭娘)。

この話をモチーフとしたと思われる伝説は日本国内にも伝わっており、柳田國男の『遠野物語』にもおしら様信仰にからんで類似した話が載せられている。

脚注[編集]

  1. ^ 尚学図書編、『日本方言大辞典』別巻p707、小学館、1989年
  2. ^ Goldsmith, Marian R.; Shimada, Toru & Abe, Hiroaki (2004): The genetics and genomics of the silkworm, Bombyx mori. Annu. Rev. Entomol. 50: 71-100. PMID 15355234. doi:10.1146/annurev.ento.50.071803.130456 (HTML abstract)
  3. ^ タコはいかにしてタコになったか―わからないことだらけの生物学(光文社文庫)奥井 一満ISBN 978-4334724382
  4. ^ 1919年農商務省による調査では、23府県で蛹を食する地域が存在し、成虫でも2県、幼虫でも食する県が1件報告されたと記録されている。
  5. ^ 尚学図書編、『日本方言大辞典』p1190、小学館、1989年

参考文献[編集]

  • 『古事記』倉野憲司校注 岩波書店、1963年。ISBN4−00−300011−0

関連項目[編集]

外部リンク[編集]