出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
周 前771年 - 前206年 前漢
秦の位置
秦帝国の版図(紀元前210年
公用語 中国語
首都 秦邑(現張家川回族自治県)
犬丘(現礼県)
西垂(現眉県)
平陽
雍城(現鳳翔県東南)
涇陽
櫟陽中国語版
咸陽
伯爵皇帝
前777年 - 前766年 襄公
前361年 - 前338年 孝公
前246年 - 前210年 始皇帝
前207年 - 前207年 子嬰
変遷
平王により冊封 紀元前771年
伯国から王国へ 紀元前324年
王国から帝国へ 紀元前221年
劉邦の咸陽入城により滅亡 紀元前207年
中国の歴史
元謀藍田北京原人
神話伝説三皇五帝
黄河長江遼河文明
西周
東周 春秋
戦国
前漢
後漢
三国
西晋
東晋 十六国
南北朝 北魏
西魏 東魏
北周 北斉
 
 
五代十国
北宋 西夏
南宋
北元
後金  
 
満洲 中華民国
 
中華人民共和国 中華民国
台湾
中国の歴史年表
中国朝鮮関係史
Portal:中国
紀元前260年の戦国七雄

(しん、拼音:Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。代、春秋時代戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は(えい)。統一時の首都は咸陽。なお、中国では、4世紀頃まで朝鮮半島南部にあった三韓の一つの辰韓も、秦と表記することがある。

歴史[編集]

周代[編集]

紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子中国語版が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の張家川回族自治県一帯)であったという。伝説上では嬴姓は帝の臣伯益が賜ったとされている。それ以前の嬴氏は魯に居住していたとされる。

紀元前822年荘公が西垂(現眉県)の大夫になった。

春秋・戦国時代[編集]

春秋時代[編集]

紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。

九代穆公百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱中国語版で混乱すると、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになった(殽の戦い中国語版, 彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。それでもそれなりの力は保持していたものの春秋中期以降の主役は北の晋と南のであり、それに西の秦と東のが脇を固める変則的な四強時代を作っていた。

戦国時代[編集]

戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末にの三国に分裂した(晋陽の戦い中国語版)。この内の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(陽狐の戦い中国語版)。紀元前383年献公櫟陽中国語版(れきよう, 現在の西安市閻良区)に遷都した。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に古都・涇陽(現在の陝西省咸陽市)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。

その後、孝公の子の恵文王紀元前324年を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・斉の五ヶ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い中国語版)。紀元前316年に恵文王は巴蜀中国語版(現四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い中国語版)、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王と張儀との確執があったために張儀が魏に亡命、さらに韓との激戦での辛勝により多くの兵を失った上に自身は突如事故死し、後継者争いが起きてしまい戦力が後退してしまう。

紀元前298年、斉の宰相・孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章中国語版を統帥として秦に侵攻した(三國聯軍攻秦之戰)。秦が函谷関に追いつめられるとも加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、殷の末裔であるを併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には田斉湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落(済西の戦い中国語版)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。

恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相・魏冄白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉やと同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。

紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。翌紀元前259年、将軍を王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い中国語版)。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った

これと時を同じくして敵国の趙で、ひもじく人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。やがて荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋から貰い受けた愛妾との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収したものの、紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い中国語版)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安僖王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。

始皇帝
秦末の反乱

統一王朝[編集]

紀元前247年に13歳でが即位したが、呂不韋が相国となって実質的な権力を握り、紀元前241年には蕞の戦い中国語版で、趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を撃退した。 紀元前238年、政の実母の愛人であるが反乱を起こすがすぐに鎮圧させる。これに連座して商人から宰相になり権力を握っていた呂不韋が失脚、政が権力を握った。

次に韓の公子韓非が法を説き政を感服させる。だが韓非は李斯に自害させられ、李斯が丞相を任じられ国力増強に努め韓・魏・趙を滅ぼした。紀元前227年に政が燕からの刺客荊軻に殺されそうになるが危機を脱した。紀元前223年王翦が秦最大の敵であったを滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一し、政は自ら皇帝(始めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。

始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設は主に農民を使役して行われた。焚書坑儒などの思想政策も行った。過酷な労働と極度の法治主義と儒教弾圧に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡中国語版(現在の広東省広州市)・桂林郡中国語版(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡中国語版(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。始皇帝は不老不死を求め、国外への漫遊を配下に命じ、徐福は船で日本に向かったとされている。

始皇帝は人体に有毒な水銀が不老不死の薬であると信じ、これが逆に始皇帝の寿命を縮める結果となる。始皇帝は巡幸中に死亡、身辺の世話をしていた宦官趙高と丞相李斯によって隠され、長子の扶蘇ら始皇帝の血族者ら権力者を次々に処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし項梁の甥の項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。

李斯にでっち上げの罪を着せて殺害し権力を握った趙高は章邯が大敗しさらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。

その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽にやってきた項羽は子嬰一族を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。

政治[編集]

秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国の統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。

官制[編集]

秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である。(詳しくは前漢を参照。)

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)のに細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位であるを置き、太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。

法制[編集]

秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としてると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。

経済[編集]

始皇帝は統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化[編集]

統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。

詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷老子韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっている。

秦の歴代君主[編集]

伝説時代(趙氏の祖先)[編集]

  1. 女修 - 顓頊の苗裔
  2. 大業
  3. 大費(柏翳) - 帝舜から嬴氏を賜う。
  4. 大廉 - 鳥俗氏(鳥洛氏)の始祖
    • 若木 - 費氏の始祖
  5. 中衍
  6. 中潏
  7. 蜚廉

(ここまでは趙の祖先神話である)

伝説時代[編集]

  1. 悪来(革)
  2. 女防
  3. 旁皋
  4. 太幾
  5. 大駱

(秦は分家であり本家である趙氏の配下として寄寓していた)

秦子[編集]

  1. 非子(秦嬴)(紀元前900年頃 - 紀元前858年
  2. 秦侯(紀元前857年 - 紀元前848年
  3. 公伯(紀元前847年 - 紀元前845年
  4. 秦仲紀元前844年 - 紀元前822年
  5. 荘公紀元前821年 - 紀元前778年

秦伯[編集]

  1. 襄公紀元前777年 - 紀元前766年
  2. 文公紀元前765年 - 紀元前716年
  3. 寧公紀元前715年 - 紀元前704年
  4. 出子紀元前703年 - 紀元前698年
  5. 武公紀元前697年 - 紀元前678年
  6. 徳公紀元前677年 - 紀元前676年
  7. 宣公紀元前675年 - 紀元前664年
  8. 成公紀元前663年 - 紀元前660年
  9. 穆公紀元前659年 - 紀元前621年
  10. 康公紀元前620年 - 紀元前609年
  11. 共公紀元前608年 - 紀元前604年
  12. 桓公紀元前603年 - 紀元前577年
  13. 景公紀元前576年 - 紀元前537年
  14. 哀公紀元前536年 - 紀元前501年
  15. 恵公紀元前500年 - 紀元前491年
  16. 悼公紀元前490年 - 紀元前477年
  17. 厲共公紀元前476年 - 紀元前443年
  18. 躁公紀元前442年 - 紀元前429年
  19. 懐公紀元前428年 - 紀元前425年
  20. 霊公紀元前424年 - 紀元前415年
  21. 簡公紀元前414年 - 紀元前400年
  22. 恵公紀元前399年 - 紀元前387年
  23. 出公紀元前386年 - 紀元前385年
  24. 献公紀元前384年 - 紀元前362年
  25. 孝公紀元前361年 - 紀元前338年

[編集]

  1. 恵文王紀元前337年 - 紀元前311年
  2. 武王紀元前310年 - 紀元前307年
  3. 昭襄王紀元前306年 - 紀元前251年
  4. 孝文王紀元前250年
  5. 荘襄王紀元前249年 - 紀元前247年

皇帝[編集]

  1. 始皇帝紀元前246年 - 紀元前210年
  2. 二世皇帝紀元前209年 - 紀元前207年
  3. 秦王嬰紀元前207年

関連項目[編集]

  • 徐福
  • 秦氏
  • キングダム原泰久原作の漫画。春秋戦国時代末期の秦を舞台に、始皇帝の中華統一に至るまでの軌跡を(作者の創作を多々交えて)描く。

外部リンク[編集]

先代:
戦国時代

紀元前221年 - 紀元前206年
次代:
前漢