皇帝

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皇帝(こうてい、ラテン語: Imperator英語: Emperorドイツ語: Kaiserギリシア語: Βασιλευςロシア語: императорトルコ語: İmparator)は、君主称号君主号)の一種であり、伝統的には、標準的な君主号である「」よりも上位のものとして観念される。女性の場合、女帝女皇などと言うこともある。皇帝の正妻は皇后皇妃という。

2014年現在、世界で「Emperor(皇帝)」の称号を持つのは日本天皇のみである。

概要[編集]

漢語の「皇帝」は、東アジアで使われていた始皇帝を起源とする漢字で「皇帝」と記載する称号と、古代ローマ皇帝を起源とし、インペラトル又はカエサルを語源とするヨーロッパ諸言語における称号、さらにはこれらと同等と看做される称号を指す。どのような者が皇帝と同等かについて定まった基準はなく、時代や人により異なる。皇帝・帝国という概念を時代、地域に関わりなく当てはめていた時期もあったが、現在では無理に翻訳せずに元々の称号をそのまま使用することが多くなっている。

帝国との関係[編集]

字義的には、帝国とは皇帝が治める国といった意味合いに感じられるが、帝国と皇帝は別個の概念である。

歴史学上、政治学上の用語としての帝国は、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」を意味する。この意味に合致すれば君主が皇帝ではなくても帝国と呼ばれ、あるいは君主制でない国が帝国と呼ばれる場合すらある。これは、ヨーロッパにおいて、まず「ローマ帝国」という巨大国家が存在し、後にその国家を治める存在として皇帝が生まれたという経緯による。つまり帝国は皇帝の存在を前提としていないのである。

一方で東アジアにおいては、元来は皇帝は「天下」を治める存在であり、国を治める存在ではなかった。国を治めるのは皇帝から冊封・封建された王や諸候であった。帝国という言葉が(西欧の言語の訳語として)生まれるのは、後世の事であった。

東アジアの皇帝[編集]

はじめて「皇帝」を名乗った始皇帝

東アジアの皇帝は、中国歴史・思想と密接に関係している。

「皇」と「帝」[編集]

「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国を支配したのは、三皇であるとされている。また、「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)である。ここから、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で「帝」が用いられるようになった。至上神という意味での「帝」は人が用いたものである。人は、祖先や太陽・月・山河などを神として崇めており、これらの神々の内、最高位にあるものを「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。の支配者は、亀卜(卜占の一種。甲骨文字を参照)で「帝」の意志を知り、その意志に基づいた神権政治を行なった。後に、至上神という意味での「帝」から受託されて人間界を支配している支配者のことも「帝」と呼ばれるようになった。

「皇帝」の登場[編集]

史記』等の伝統的な中国の史書によれば、中国の君主の称号は次のようであった。五帝の君主は、皆「帝」と名乗った。「帝」はこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。

を滅ぼした後、の君主は「王」と名乗った。「王」もまたこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。しかし、周王朝が衰えると、南方のが、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになった。この頃になると、「王」は至尊の称号でなく、単なる君主の号となった。また、戦国時代の一時期、斉王が「東帝」、秦王が「西帝」と称したこともあったが、すぐに「王」の称号に戻した。このような背景から「王」の称号が価値を落としたと見て、の王・嬴政が、他の王国を滅ぼした後、王の尊称として「皇帝」を名乗ったのである。これがいわゆる始皇帝である。続く漢朝においては王号の上級の称号として皇帝号が位置づけられ、現在に至っている。考古学的知見などからは、の君主も「王」を称号としており、「帝」が君主の称号として用いられたことはないと考えられている。

「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究から分かっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主に準ずる存在は君主の妃や母親である事から、皇后は皇帝の妃、皇太后は皇帝の母親を意味する事となったが、後付けの定義であり、元来は后に女性の称号という意味は無い。

」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は、「朕」という言葉を皇帝専用の言葉とした。他にも「」・「」などの皇帝専用語も策定した。

皇帝の定着[編集]

始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、その死後は反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代で終わった。始皇帝から数えて3代目の嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。反乱を起こした者たちもまた、次々と各地で「王」を称した。中でも、戦国時代の楚王の末裔である懐王心は、項羽劉邦などの助けもあり、秦を滅ぼした後に、各地に並び立った「王」よりも一段上の称号として「帝」の称号を名乗った(義帝)。その後、義帝を殺した項羽は「西楚の覇王」を称した。項羽を倒した劉邦の「皇帝」に即位し、以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」(諸侯王)として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。

ただし代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあった。

中華思想では、皇帝は地上の支配者であり、周辺諸国の君主よりも上に立つ者とされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。中華の秩序の上では近代的な国境という概念はなく、したがって皇帝の支配する領域という意味での「帝国」という言葉も使われなかった。

皇帝の乱立[編集]

三国時代、中原を支配したのみならず、の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。

軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝であるの君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、中国君主が地上の唯一の皇帝であるという東アジアにおける理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。

また、中国の皇帝の冊封体制にない、日本天皇のような君主は、自らを皇帝として、周辺諸国に君臨した。朝鮮高麗朝の草創期やヴェトナム阮朝のように、中国王朝に朝貢しながら国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。

近代には、日本ととの間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国1897年 - 1910年)とした例がある。

日本の天皇あるいは皇帝[編集]

古代の日本は、中国の三皇の一つ「天皇」を、和名の君主号「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は天武天皇の時代とする説が有力である。「天皇」号の使用は、607年聖徳太子煬帝に送った手紙において、隋との対等を表明するため「日出る処の天子」や「東の天皇」と記したことに由来し、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためにとられた方策であったと考えられる。

養老令天子条において、「天子」及び「天皇」の称号とともに、「皇帝」という称号も規定されている。

天皇(すめらみこと)と異なる用法での尊号としては、758年に淳仁天皇が即位した際、譲位した孝謙天皇に「宝字称徳孝謙皇帝」、孝謙の父聖武天皇に「勝宝感神聖武皇帝」の尊号が贈られている。また、翌年には淳仁天皇の父である舎人親王が「崇道尽敬皇帝」と追号されている。「文武天皇(もんむてんのう)」といった今日使われている漢風諡号は、聖武および孝謙(称徳)を除き8世紀後半に淡海三船が撰んだことに始まる[1]ため、その直後に完成した『続日本紀』では原則として巻名に天皇の和風諡号が用いられているが、孝謙天皇のみ巻第十八から巻第二十まで「宝字称徳孝謙皇帝」の漢風尊号で記載されている点で特異である。なお、重祚した巻第二十六から巻第三十では巻名に「高野天皇(たかののすめらみこと)」の和風の号が用いられている(重祚後の漢風諡号は称徳天皇)。

近世以降の西洋においては、日本に関する最大の情報源であるエンゲルベルト・ケンペル著の『日本誌』において、徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「聖職的皇帝」(教皇のようなもの)と記述され、両者は共に皇帝と見なされていた。その一年前に出版された『ガリバー旅行記』においても、主人公のガリバーが「江戸で日本の皇帝と謁見した」と記載されている。

1854年の日米和親条約では条約を締結する日本の代表、すなわち徳川将軍を指す言葉として「the August Sovereign of Japan」としている。これは大清帝国皇帝を指す「the August Sovereign of Ta-Tsing Empire」と同じ用法であり、アメリカ側は将軍を中華皇帝と同様のものと認識していた[2]。日本側ではこれを「日本君主」や「日本大君」と訳した。幕末に来日したヨーロッパ諸国外交官の記録によると天皇は「ミカド(Mikado)」「ダイリ(Dairi)」、徳川将軍は「タイクン(Tycoon)」と呼ばれていたという[3][4]

ヨーロッパの言語では、中国の「皇帝」や日本の「天皇」の訳語にはヨーロッパにおける「皇帝」を意味する語(英語の Emperor やドイツ語の Kaiser など)が用いられる。

天皇の語は天皇を指す語として明治時代まで一般的ではなく、天皇は皇帝、主上、天子、国帝、皇上、聖上、至尊など様々に表現された。元老院における憲法草案も第二次草案までは皇帝表記になっていた。同じ時期に民間人の作成していた憲法案もほとんどが皇帝か国帝の表記になっている。だが元老院の第三次草案で天皇表記となり、明治憲法においても天皇と表記され、英訳も「Emperor」で確定した[3]

皇族は英語では the imperial family となる。現代の国際社会で、英語において Emperor の称号をもつのは、日本の天皇のみである。ただし学者によっては Tenno をそのまま用いる場合もある。

近代日本外交における「皇帝」の使用[編集]

日本政府は明治7年7月25日の太政官達第98号により、これ以降の公文書において、条約締結を行った君主国の君主を全て(国名は「○○王国」であっても)「皇帝」と呼称することになった。ただし実際にはこの措置は王国に限られ、ルクセンブルク大公モンテネグロ公ブルガリア公モナコ公等、公国の君主に対しては「大公」もしくは「公」と呼称されている[5]。また、対外向けの呼称としても、天皇を「皇帝」と称するケースが多々見られる(日本国皇帝ないし大日本帝国皇帝)。また明治から大正にかけては、外交文書に限らず国内向けの公文書においても「日本国皇帝」の称号が使われているケースがしばしば見られる。

大正10年4月11日の大正十年勅令第三十八号[6]で皇帝と記載する太政官達は廃止されたが、以降の条約等[7]でも国王や天皇に対して皇帝の称が使用されている。

ただし李氏朝鮮との関係では、朝鮮を「自主ノ邦」[8]としながらも、冊封関係を否定することを恐れていた朝鮮側を考慮し、「君主」や「国王」の称号を用いながらも、「陛下」や「勅」など皇帝と同様の用語を使用していた[9]。日清戦争後、朝鮮が国号を大韓と改め、皇帝を称するようになると「皇帝」の称号が正式に使われるようになった[10]

ヨーロッパの皇帝[編集]

ナポレオン・ボナパルトが、1804年国民投票によってフランス皇帝となるまで、ヨーロッパにおける皇帝の称号は(若干の例外を除いて)ローマ皇帝の後継者としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、ローマ帝国の支配者の称号が起源である。

ローマ帝国[編集]

元首政[編集]

帝政ローマの最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)は、後世において最初の「ローマ皇帝」とされる。しかしながら、彼は建前としての共和政を遵守する立場であり、大きな権威と権力を手中にしながら、共和政下のローマでは伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」の称号を採用せず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとっている。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。中でも特に重要な称号が「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」の3つである。

インペラートルimperator)は、英語の「エンペラー」(emperor)やフランス語の「アンプルール」(empereur)、トルコ語の「インパラトール」(imparator)の語源であり、皇帝と訳される称号のように認識されているが、そのまま当てはめることはできない。インペラートルの語源であるインペリウムimperium)は「命令権」や「支配」を意味し、王政期には王権の一部だったが、共和政期には軍指揮権を意味した。インペラートルはこの語に由来し、「命令者」を意味する。そのため将軍を指す称号のひとつとなり、凱旋式に際しては兵士たちが将軍に呼びかける際の尊称として用いられた。したがって共和政期にはインペラートルが同時に複数存在することもあった。共和政後期になると意味が広がり、ローマの支配権や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。このように、ローマのインペラートルとインペリウムは必ずしも君主制を前提としてはおらず、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」に対して用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも引き継がれ、皇帝のいない国を「帝国」と呼ぶ用法などが生まれることとなった。

カエサルcaesar)もまた皇帝の称号のひとつであり、ドイツロシアなどで用いられた称号(カイザーツァーリ)の語源である。カエサルは、本来ユリウス氏族に属するカエサル家の家族名である。ここの出身であるガイウス・ユリウス・カエサルが終身独裁官となり、その養子となりカエサル家を継いだオクタウィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が開かれたことから、皇帝を表す名のひとつとなった。後のディオクレティアヌス帝の時代には「副帝」を意味する称号となり、正規の君主号となった。

アウグストゥスaugustus)は「尊厳者」を意味し、元はオクタウィアヌスに贈られた添え名である。権威的には重要な称号だが、命令権や血統とは直接関係ないものだった。しかしながらオクタウィアヌスがこの名を贈られた紀元前27年1月16日が歴史的に帝政開始の日とされること、以後すべての後継者が帯びる称号となったこと、インペラートルやカエサルと異なりローマ皇帝以外に保持者のいない称号であること、ディオクレティアヌス帝の時代には正規の皇帝号になったことなどから、ローマ皇帝を指す最も重要な称号として認識されている。また、単にアウグストゥスといえば前述の初代ローマ皇帝アウグストゥスを指す。

専制君主制[編集]

ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西に分け、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「アウグストゥス」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年に皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。

東西のローマ帝国における皇帝については下で述べる。

東ローマ帝国[編集]

皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には"+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人の皇帝)と書かれている。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)では「皇帝」の称号は、王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語ラテン語からギリシア語となった。「皇帝」を表す称号としては、元はアケメネス朝サーサーン朝シャーを指したギリシア語である「バシレウス」(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)が用いられた(それまではラテン語の「インペラトル」「カエサル」「アウグストゥス」が引き続き使われていた)。

これは、7世紀の皇帝ヘラクレイオス628年サーサーン朝ペルシャ帝国を降して首都コンスタンティノポリスへ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「諸王の王」(ペルシャ語の「シャーハーン・シャー」、ギリシア語の「バシレウス・バシレオーン」)という意味を含んでおり、ローマ帝国の皇帝であると同時にペルシャの「諸王の王」である、という宣言であった(尚樹啓太郎著、東海大学出版会『ビザンツ帝国史』より)。これによって東ローマ帝国の皇帝は、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、このことは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。

ただし一方で、帝位の正統性は「元老院・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも世襲されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。

他に皇帝の称号としては「アウトクラトール」(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシア語版の勅令で使われていた)、「セバストス」(尊厳なるもの。ラテン語アウグストゥスに相当)などが用いられた。

西ローマ帝国が滅亡した際、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上、東ローマ皇帝がローマ帝国全土の皇帝であった。こうした経緯もあってか、一時はイタリアイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった

また、後にフランクカールブルガリアシメオンドイツ神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。

この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした第4回十字軍が建国したラテン帝国や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てたニカイア帝国エピロス専制侯国トレビゾンド帝国の君主も、東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。

亡命政権ニカイア帝国は1261年にラテン帝国を滅ぼし、ミカエル8世パレオロゴスコンスタンティノポリスにおいて改めて皇帝に即位し、東ローマ帝国の復活を果たした。東ローマにおける皇帝権はこの後も継承されたが、国威はふるわず、15世紀には帝国は首都コンスタンティノポリスとわずかな属領だけに押し込められてしまった。1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスは攻略され、最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死、ここに、アウグストゥス以来約1500年にわたって受け継がれてきた「ローマ皇帝」の正統は消滅した(オスマン皇帝の中には、ローマ皇帝の継承者であるとして「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗った者もいるが、一時的なものに終わった)。

中世以後の西ヨーロッパ[編集]

カール大帝の「西ローマ帝国」[編集]

476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。

このため、西ヨーロッパ諸国やローマ教皇は、コンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)。ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。

しかし7世紀以降、東ローマ帝国イスラム帝国ブルガリア帝国などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊論争などの教義の問題や、教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。

797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーがコンスタンティノスを廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ帝国を統治する皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。ただし、カールは自分の皇帝位に満足せず(それまで、教皇から皇帝位が与えられるという前例はなかった)、東ローマ帝国に自分の皇帝位を承認してもらうための運動を粘り強く行った(5世紀の西ローマ帝国滅亡以前は、東西の皇帝は即位の際に互いに承認し合っていた)。その結果、812年になって、東ローマはカールを皇帝(ただし、「ローマ人の皇帝(ローマ皇帝)」ではない)として承認した。

以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。

神聖ローマ帝国[編集]

カール大帝以降のフランク王による帝位の継承は1世紀余りで途絶えてしまっていたが、962年ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、大空位時代を経ていわゆる神聖ローマ帝国となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならなくなった。しかし時代が進むにつれ、帝国は諸侯の緩い連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。

1356年カール4世金印勅書を発布し、選帝侯ドイツ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年ハプスブルク家アルブレヒト2世が選出されてからは、女性当主のマリア・テレジアの例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるオーストリア大公のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。この頃には「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。1806年フランツ2世が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。

スペイン(全ヒスパニアの皇帝)[編集]

フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅[編集]

アウステルリッツの三帝会戦ではフランス皇帝、オーストリア皇帝、ロシア皇帝と3人も皇帝が一堂に会した。もはやカール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。

フランスでは、フランス革命によって共和政が成立した後、1804年ナポレオン・ボナパルトが議会の議決と国民投票によって、「フランス人の皇帝ナポレオン1世」となった。「皇帝」号の採用は、革命によって廃された「国王」号の忌避の他に、古代ローマの皇帝が共和政下の市民によって推戴された点を踏まえたものといえる。このときに「西ローマ帝国の継承国家は神聖ローマ帝国である必要もなく、神聖ローマ皇帝がドイツ人である必要性もないという当然の事実」が明らかになり、神聖ローマ帝国を支える帝国議会にかわりライン同盟が結成された。ナポレオンの皇帝即位を神聖ローマ皇帝フランツ2世は承認し、さらに彼は神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国を解散し、オーストリア皇帝フランツ1世を名乗った。ナポレオンはオーストリア皇帝を承認した。

ナポレオンのフランス皇帝即位とフランツ1世のオーストリア皇帝即位により、ヨーロッパに複数同時に存在することが受け入れられたことで、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。これにより、西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることは無かった。

19世紀の皇帝と西ヨーロッパ的皇帝の消滅[編集]

19世紀には皇帝ナポレオンにならって、中南米に新興の皇帝が生まれた。ハイチでは1804年の独立時にジャン=ジャック・デサリーヌが、1849年にはフォースティン=エリ・スールークがそれぞれハイチ皇帝に即位し、特にスールークはクーデターで打倒されるまで「フォースティン1世」として圧政を敷いた。メキシコではアグスティン・デ・イトゥルビデ1822年に皇帝に即位したが、翌年に廃位された。1864年にはハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝ナポレオン3世によってメキシコ皇帝マクシミリアン1世に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑された。

ブラジルでは、1831年ポルトガルジョアン6世の王太子でブラジル摂政だったペドロが、ポルトガルから独立したブラジル帝国の皇帝ペドロ1世となった。1889年、その子ペドロ2世の時に革命が起き、共和制になった。

ヨーロッパでは1852年から1870年まで、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝ナポレオン3世を称し、帝政を敷いた(フランス第二帝政)。また1871年には、オーストリアを除くドイツを統一したプロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝を兼ね、ここにドイツ帝国が成立した。

第一次世界大戦の終結と共に、敗戦国であったドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国では革命が起きて帝政が倒れた。また後述するオスマン帝国ロシア帝国でも、革命によって帝政が崩壊したために、ヨーロッパには皇帝が1人もいなくなり、ローマ帝国以来のヨーロッパにおける皇帝の歴史は幕を閉じた(インド皇帝を兼ねていたイギリス国王を除く)。

東ヨーロッパ[編集]

この地域の皇帝概念は東ローマ帝国を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。前述のように東ローマ帝国では皇帝は「バシレウス」(「王」の意)と称し、「カイサル」(ラテン語のカエサルに由来)は副皇帝を示す言葉だったが、東ヨーロッパのスラヴ系の言語では聖書に出てくる賢人や東方の君主などの称号として用いられるとともに、善良な王を指す言葉として「カエサル」由来の「ツァーリ」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。

ブルガリア帝国とセルビア帝国[編集]

東ローマ帝国以外では、920年ブルガリアシメオンが東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、第一次ブルガリア帝国920年 - 1018年)と第二次ブルガリア帝国1188年 - 1396年)を通じて「皇帝」という称号が使われた。また14世紀セルビア王国の王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンも東ローマ帝国の征服を企図して、1345年に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称し、翌年にはセルビア帝国(1346年 - 1371年)の皇帝として即位した。なお、「ツァーリ」の称号は近代ブルガリア王国においてフェルディナンド1世が復活させたが、これは通例「王」として扱われる。

ロシア[編集]

15世紀に北東ルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国イヴァン3世は、それまでビザンツ皇帝に対して用いられていた称号「ツァーリ」を自称し始めた。ツァーリとはラテン語のカエサルに由来する。1453年オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア・パレオローグ1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、モスクワが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。

その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。この頃から、モスクワ大公国はロシア・ツァーリ国という名称を用いるようになった。

ただし、それ以前にルーシの人々は、モンゴル帝国の皇族バトゥが創始したキプチャク・ハン国1224年 - 1502年)のハンをも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公の「ツァーリ」称号の主張は、東ローマ皇帝の後継者としての意味合いと同時にキプチャク・ハン国の支配の継承を意図するものであったと見る説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァレーヴィチ。当時のロシアの用語例では、キプチャク・ハンの血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをキプチャク・ハン(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。

ピョートル1世1721年に西欧式の「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国としたが、ロシアの君主は以後も「ツァーリ」の称号を併用した。

東アジアの皇帝とヨーロッパの皇帝[編集]

東アジアとヨーロッパの直接交流は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(またはマルクス・アウレリウス・アントニヌス)が漢の皇帝に使者を送ったのが最初であり、この際に漢の側ではローマ皇帝のことを「大秦王安敦」と記した。その頃の中国は「皇帝は地上に一人のみ」の時代であり、ローマ皇帝であっても王扱いであった。またローマ帝国の側でも当時は「元首政(プリンキパトゥス)」の時代であり、ローマ皇帝が王より格上であるいう認識、さらには君主であるという認識すら存在しなかった。

後に江戸時代新井白石が、著書『采覧異言』において、ヨーロッパのインペラトルを「一級王」「帝」と翻訳し、東アジア的な意味での「皇帝」と同格のものとした。ただ新井白石の場合、日本の天皇も中国の皇帝と同格と見なしており、その自らの思想に裏付けを与える意味でも、中国の皇帝と同格の存在が他にもいたほうが都合がいい、という事情もあったものと思われる。

その他の地域の皇帝[編集]

ペルシア帝国[編集]

イスラム化以前にメソポタミアイランを支配したアケメネス朝サーサーン朝シャーにも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「大王」「帝王」といった訳が用いられることの方が多いようである)。パルティアやペルシアの君主は「諸王の王」という称号を用い、他の「王」より格上であると称していた。

イスラム圏[編集]

イスラム世界の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していたカリフ(本来は信徒代表の意味であり、トルコ革命でも世俗君主であるスルタン位は革命時に即座に奪われたが、カリフ位は皇族追放まで奪われなかった)スルタンシャーパーディシャー)に「皇帝」の訳をあてることが多い。(ただし現代においてブルネイオマーンなどの君主がスルタンを称する国の場合、通常は「国王」と訳される。)これに対して、マリクには「王」、アミールには「首長」の語が定訳とされ、「皇帝」と訳されることはあまりない。アミールの上位号には大アミールアミール・アル=ムスリミーンアミール・アル=ムウミニーンがある。

オスマン帝国では、第3代君主ムラト1世の時代にスルタン号を称するようになったが、オスマン帝国の歴史記録によると「パーディシャー」(ペルシャ語由来で皇帝の意)を称する場合が多かった。また、東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世や最盛期の皇帝であるスレイマン1世は、東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝、「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている[11]

インド[編集]

イギリスの王は、ムガル帝国を滅ぼしてインド植民地にした際、インド帝国の皇帝を兼ねる形をとった。このインド皇帝位はインド独立時に返上された。なお、イギリス帝国とは、16世紀から20世紀半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏を指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。古代インドにおいては直訳すると大王となるマハーラージャが用いられ、グプタ朝等において、直訳すると「大王の王」となる独自の皇帝号「マハーラージャディラージャ」も存在していた。

中・南アメリカ[編集]

ヨーロッパ人が訪れる以前に中南米の先住民が築いた国家のうち、インカ帝国アステカ帝国は、いくつかの諸国を征服・支配し、広大な領土を持ち、国家連合・連邦のようなものを形成しており、それぞれ「帝国」と呼ばれている。従ってインカ帝国の君主「サパ・インカ」とアステカ帝国の君主には、「皇帝」の語が当てられている。しかしアステカ帝国の場合、広大と言っても現在のメキシコの領域内に過ぎず、またトラスカラ王国という同格のライバル国家も存在したことから、「アステカ王国」と呼ばれることも多々あり、その場合は君主も「アステカ王」と呼ばれる。

アフリカ[編集]

西アフリカのガーナマリソンガイの各君主を「皇帝」と訳すことがある。「王」とすることも多い。

エチオピアでは皇帝(ネグサ・ナガスト=「諸王の王」「王の中の王」)が専制君主として統治していた。日本の皇室より古い帝室として知られていた[12]が、1974年ハイレ・セラシエ1世革命で廃位された。現在は代々アメリカ合衆国に居住しながら皇太子位を世襲している。

また中央アフリカ共和国大統領だったジャン=ベデル・ボカサ(ボカサ1世)が1976年に皇帝を称し、国名を中央アフリカ帝国としたが、1979年クーデターにより皇帝ボカサは失脚し、中央アフリカは共和制に復帰した。

自称皇帝[編集]

政治的実権を有しなかった人物[編集]

政治的実権を有したが広く認められなかった人物[編集]

ニックネームとして[編集]

スポーツ界では一流、特に世界最強クラスで圧倒的な実力を持ち君臨する選手に、歴史上当該選手の母国に皇帝がいた場合、尊敬と畏敬の念を込めて「皇帝」との愛称が付く場合もある。

皇帝と呼ばれるスポーツ選手[編集]

その他[編集]

皇帝一覧リスト[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 国史大辞典』「天皇」
  2. ^ 岡本隆司 2011, pp. 144.
  3. ^ a b 世界大百科事典(平凡社)「天皇」の項目
  4. ^ 英語の Tycoon はこの後意味が転じて「財界の大物・重鎮」を表す普通名詞の tycoon に変化した。日本語由来の単語でありながら日本の文化とはまったく関係ない意味を持つようにった稀な単語の一つである。
  5. ^ 各国間文化協力関係条約雑件 28.「ベルギー」「ルクセンブルグ」大公国間智的及学事的協定』 アジア歴史資料センター Ref.B04013504600 『経済統計に関する国際条約、議定書及付属書』 アジア歴史資料センター Ref.A08072611600 『御署名原本・明治三十三年・条約十一月二十一日・国際紛争平和的処理条約』 アジア歴史資料センター Ref.A03020484300 『御署名原本・明治四十三年・条約第五号・文学的及美術的著作物保護修正「ベルヌ」条約』 アジア歴史資料センター Ref.A03020879500 
  6. ^ 御署名原本・大正十年・勅令第三十八号・明治四年八月十七日布告(請願伺届等認メ方ノ件)外二十一件廃止』 アジア歴史資料センター Ref.A03021310100 
  7. ^ 御署名原本・昭和六年・条約第一号・千九百三十年ロンドン海軍条約』 アジア歴史資料センター Ref.A03021828900 
  8. ^ 日朝修好条規
  9. ^ 29.1 外務省より 朝鮮大君主陛下より水野大佐へ勅語等の件
  10. ^ 日韓議定書
  11. ^ 新井政美著『オスマンvs.ヨーロッパ ― 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』(講談社選書メチエ)
  12. ^ エチオピア皇帝の系譜は紀元前10世紀メネリク1世を始祖とし、紀元前7世紀神武天皇を始祖とする皇室よりも古い。ただしあくまで伝説上の比較であり、実際の歴史として確認できるのはエチオピア帝室は13世紀イクノ・アムラク。皇室は学者により諸説あるが、一番新しい継体天皇でも6世紀であり、日本の皇室のほうが古い。またエチオピア帝室は近代において断絶した時期があるが、皇室には無い(皇統が2分した時期はある。また天智系天武系が王朝交替であったという説があり、それが事実とすると天智天皇崩御から光仁天皇即位まで断絶があった事になる)。皇帝に実権が無く臣下が実権を握っていた時期があるのは、両者ともに同じである。

参考文献[編集]

  • 岡本隆司「大君と自主と独立 : 近代朝鮮をめぐる翻訳概念と国際関係 (特集 近代日本の外交)」、『近代日本研究』第28巻、慶應義塾福沢研究センター、2011年、 143-175頁、 NAID 40019224424

関連項目[編集]