阿房宮

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擬阿房宮図軸
袁耀中国語版筆)

阿房宮(あぼうきゅう)は、始皇帝が現在の阿房宮村に建設した宮殿である。秦帝国の首都であった咸陽からは渭水をはさんで南側に位置していた。現在の陝西省西安市未央区の西の13kmの三橋街道阿房宮村から遺跡が出土している。

概要[編集]

始皇帝が天下を統一し、秦の領土が広がり、咸陽の人口も増えると、かつて孝公の建てた咸陽の宮殿は手狭になった[1]。そのため始皇帝は渭水の南にあたる上林苑に朝宮を建てる計画を立て、阿房の地にその前殿を造ろうとした。受刑者70万人あまりが動員されて、前殿(阿房宮)と驪山陵(始皇帝陵)の建造にあたらせた[2]。阿房宮は紀元前219年に着工[3] し、始皇帝の死後も工事が続いた[4] が、秦の滅亡によって未完のままに終わった。阿房宮の名称は、当時の人々が地名にちなんで呼んだ[5] ものという。あるいは宮殿の形が「四阿旁広」であることから阿房宮と名づけられた[6] ともいう。あるいは「宮阿基旁」であることから阿房宮と名づけられた[7] ともいう。

規模・容姿について[編集]

阿房宮を建設した始皇帝

阿房宮の規模については、諸説がある[8]。その殿上には1万人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗を立てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を摹造し、6国の妃嬪媵嬙をことごとくこれに配し、秦の宮殿を造って秦の佳麗をこれに充てた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女などそれぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。唐代詩人の杜牧「阿房宮賦」(zh)に詠われたのは、必ずしも誇張ではない。

破壊[編集]

絹本彩色 阿房却火(木村武山筆)

なお『史記』項羽本紀に「項羽が咸陽に入り、秦王子嬰を殺害すると、秦の宮室は焼き払われ、3か月間にわたって火が消えなかった」とする記述があり、このとき阿房宮は焼失したものとみなすのが長らく通説であった。

しかし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮中国語版であり、阿房宮は焼かれていない」とする新説が公表された[9]。これが事実であれば、阿房宮は秦王朝の滅亡後も王朝によって使用されていた可能性が高いと言える。

全国重点保護文化財指定[編集]

阿房宮遺跡は、1961年中華人民共和国全国重点文物保護単位の第1次全国重点保護文化財に指定された。

その他[編集]

日本の食用菊の品種の一つ(黄花八重大輪)に「阿房宮」と名付けられたものがある。

脚注[編集]

  1. ^ 『史記』秦始皇本紀始皇35年の条に「始皇以為咸陽人多、先王之宮廷小」とある。
  2. ^ 『史記』秦始皇本紀始皇35年の条に「隠宮徒刑者七十余万人、乃分作阿房宮、或作驪山」とある。
  3. ^ 『史記』六国年表
  4. ^ 『史記』秦始皇本紀二世2年の条で馮去疾李斯馮劫が阿房宮の造営中止を胡亥に訴えて拒否されている。
  5. ^ 『史記』秦始皇本紀始皇35年の条に「作宮阿房、故天下謂之阿房宮」(阿房に宮を作る、ゆえに天下はこれを阿房宮と謂う)とある。
  6. ^ 史記索隠』秦始皇本紀
  7. ^ 三輔黄図』秦宮
  8. ^ 『史記』秦始皇本紀は、阿房宮の規模を東西500歩、南北50丈とする。また『史記正義』所引『三輔旧事』は、東西3里、南北500歩とする。さらに『三輔黄図』秦宮は、東西50歩、南北50丈とする。『水経注』渭水所引『関中記』は、東西1000歩、南北300歩とする。『漢書』賈山伝は、東西5里、南北1000歩とする。
  9. ^ 「項羽は阿房宮を焼き払っていない、前殿の発掘調査で明らかに」中国通信社、2003年12月31日時点でのインターネットアーカイブ

座標: 北緯34度15分30秒 東経108度48分36秒 / 北緯34.2583度 東経108.81度 / 34.2583; 108.81