北宋
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北宋(ほくそう、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。南宋もともに、宋、宋朝である。北宋期の首都は開封。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 建国
唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の後周の二代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋太祖の趙匡胤である。
世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが959年に39歳の若さで急死。あとを継いだのはわずか七歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[1])の地位にあったが、翌960年に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ)
このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが付いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた節度使から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることに成功した。
更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体は隋の時代に始まったものであるが、武人優勢の五代に於いては科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。
体制固めと平行して、太祖は963年より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌964年からは後蜀を攻撃して965年にこれを降し、970年には南漢を974年には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は976年に唐突に崩御。
後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、978年には呉越が自ら国を献じ、更に979年に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。
また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの十人前後から一気に2百人超までに増やし制度の充実を図る。
五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。宮崎市定はこの三者をそれぞれ織田信長・豊臣秀吉・徳川家康になぞらえている[2]
[編集] 澶淵の盟
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太宗は984年に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催され、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。
しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。1004年、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ち、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも1005年、財貨を送ることで和睦した。
澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なものであり、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという話が残っている。この逸話が示すように唐末から進んでいた中国の経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。
一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。1008年、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山に於いて天を祀る封禅の儀、汾陰[3]に於いて地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。
真宗は1022年に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、1038年にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが范仲淹などの少壮の少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐え中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、1044年に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。
これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽修などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この時代になると権力の座に近づくためには科挙に通過する他はなくなる。科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。
強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の登場・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。
しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。
仁宗は40年の長き治世の末1063年に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王・趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽修らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協してことを収めた後も遺恨は残った。
[編集] 新法・旧法の争い
結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま1067年に四年の短い治世で崩御。子の趙頊(神宗)が即位する。20歳の青年皇帝・神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。
白羽の矢が立ったのが王安石である。王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。
新法を推進しようとするのは主に江南出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派の王安石に対して旧法派の首領は司馬光である。王安石は旧法派の人間を左遷させて新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。
神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は元豊の改革と呼ばれる官制改革を行い、西夏に対しての攻撃を行うも失敗に終わった。新法派の時代の中で旧法派たちの不満は深く根を張っていた。
1085年、神宗が崩御。子の趙煦(哲宗)が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗の皇后であった宣仁太后が垂簾聴政を行う。宣仁太后は中央を離れていた司馬光を宰相として新法の徹底的な排除を行わせた(元祐更化)。司馬光は宰相になって1年足らずで死去、王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代は旧法派の天下であったが、宣仁太后が1093年に死去し、哲宗が親政を始めると再び新法が復活して新法派の天下となった。
この間、新法派・旧法派とも最早政策理念など関係無しに対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法と旧法が入れ替わることで国政は混乱した。一連の政治的争いを新法・旧法の争いと呼ぶ。
[編集] 滅亡
1100年に哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。徽宗・蔡京共に宋代を代表とする書家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。
蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を悪用して増税を行うといった状態であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が1120年の方臘の乱である。
一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて1115年に金を建てる。この慎重ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考えて金に対して使者を送り、1117年に金と共に遼を挟撃することを約束した(海上の盟)。
1121年に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝天祚帝は逃亡した。しかし弱い宋軍は燕京に篭る耶律大石ら遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の童貫は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。
五代以来の悲願である燕雲十六州の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の呉乞買(太宗)が跡を継いでいたが、この宋の背信行為に太宗は怒り、1125年から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は「己を罪する詔」を出して退位。子の趙桓(欽宗)が即位する。
金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。
包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。
その後、金の人質となっていた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。
[編集] 政治
唐が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして科挙を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。春秋戦国時代、南北朝時代、五胡十六国時代、五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。
宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、科挙に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。
この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、五代のような簒奪劇が起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。
なお王安石の改革に付いてはここでは各節で軽く触れるに留め、詳細は新法・旧法の争いを参照のこと。
[編集] 官制
[編集] 元豊以前
宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていた所謂使職体制を受け継いでいる。唐の律令体制に於いては極めて細密かつ完成された官制が整備されていたが、唐玄宗期以降の急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離が進んでいた。そこで実態に即するために律令にて定められていない官(令外官)の使職が置かれ、律令の官は形骸のみを残し、実権は使職に移った。
唐滅亡後の五代に於いても新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖・太宗は設立まもない国家が混乱することを恐れ、節度使の権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的・体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて寄禄官や職(館職)といった実際の職掌を示さない職の号があるために宋初の官制は歴代でも最も解りにくいといわれる。
- 中書門下省
- 枢密院
- 軍政を司る。長官は枢密使・副長官は副枢密使(又は知枢密院事・同知枢密院事)であり、その下に簽書枢密院事・同簽書枢密院事などの役職がある。
- 御史台
- 監察を司る。唐制から引き継いだものの中で実際の職掌を維持している稀有な部署。長官は御史中丞。
このうち、同中書門下平章事は宰相、参知政事・御史中丞・枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)・簽書枢密院事・同簽書枢密院事は執政と呼ばれ、合わせて宰執と呼ばれる。この数人の宰執が皇帝を前にして合議制で政策を決定する。つまり宰相と言えども議論の場の中の一人に過ぎず、権臣に皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖の措置の一つである。
これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。
唐の三省・六部・九寺・五監の役職は全てその名を残している。しかしこれらには実際の職掌は無く、単に官位・俸禄を示すものである。これを寄禄官(官・本官などとも)と言い、これに対して実際の職掌は差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。館職は文章・学問に秀でた者に対して、試験を行って任命される差遣の一種で、これを帯びた者は昇進の速度が格段に早くなった。
[編集] 元豊の改革
新法による改革を経て財政の充実を見た神宗親政期の元豊年間に官制の大幅な改革が行われた。
主な変更点を挙げると
- 三司の整理。経済に関するほとんど全てを司る三司は非常に巨大かつ複雑な機構と化していたが、王安石は制置三司条例司という部署を作って三司の改革に乗り出し、に三司の権限を司農寺・軍器監・将作監などの他部署に吸収させ、三司は単に経済関連の文書業務を担当するものとした。元豊時にはこの残った三司を戸部に吸収させる。
- 名目的には中書・門下・尚書の三省を建て、それぞれの長官はそれぞれ中書令・門下侍中・尚書令であるが、これらの役職には誰も任命されず、尚書左僕射に門下侍郎(門下省副長官)を兼任させて尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射に中書侍郎(中書省副長官)を兼任させて尚書右僕射兼中書侍郎とそれぞれ称して宰相とした。また参知政事の代わりに尚書左丞・尚書右丞を設けて補佐とした。
- 唐制六部を形骸から実際の権限を持つものに復活させる。中書門下や枢密院の持つ人事権は吏部に、審刑院などの持つ裁判権は刑部にそれぞれ吸収させた。
[編集] 地方
地方官制における最大の行政区分は州、その下に県がある。また特別な州として府(開封府など特に重要な州)・軍(軍事上の要衝)・監(塩の生産地・鉱山・工場など多数の労働者が集まり、中央に直属する場所)がある。また商業の要衝に作った集落を鎮という。
太祖は地方に軍事力を持って割拠していた節度使・観察使および刺史職を全て寄禄官とし、州の権限を知州に移し、また知州の独走を防ぐために通判を付けた。当初は知州の決定は通判が同意しないと効力を発揮しないという定めになっていた。しかし時代が下るごとにその地位を低下させ、州の次官となった。
知州の下には幕職官と曹官と呼ばれる官がある。節度使が地方に割拠していた頃、節度使はその領内の最重要な州の刺史を兼任した。節度使としての官衙を使院といい幕職官が属し、刺史としての官衙を州院といい曹官が属した。後に州刺史も節度使に倣い、その下に幕職官・曹官を抱えるようになる。これが宋に入って知州が州の長官になるとそれまでは刺史によって任命されていた幕職官・曹官は中央によって任命されるようになり、その間の区分もほとんど消滅した。幕職官としては判官・推官(両者とも裁判を扱う)など、曹官は録事参軍(庶務取り扱い)・戸曹参軍(徴税・倉庫の管理など)といったものがある。後の徽宗時代に幕職官が廃されて曹官のみになるが、そのすぐ後に金によって南走したため旧に復された。
県の長は知県ないし県令である。京朝官が県の長になる場合は知県といい、選人が県の長になる場合は県令という。概ね知県は重要な州に、県令は小さな州に配される。知県ないし県令の下には県丞(次官)・主簿(事務官)・県尉(警察)などがあり、これらも選人が任命される(京朝官・選人に付いては#科挙で後述)。
また州の監督機関として路があり、そこに置かれる役職は以下のようなものがある。これらの職の上に立つ路の長官は存在しない。また路の区分は役職ごとに異なっており、例えば陝西は転運使では二路に安撫使では六路に分けられる。路の役割はあくまで監督であり、州は路に属するわけではなく中央直属の機関である。しかし時代が下るごとに路の重要性は増して次第に実際の行政機関に近くなり、後代の省の元となった。
- 転運使
- 路の運送を司り、路内の経済・民政に付いても監督する。
- 経略安撫使
- 路の軍事を司り、路のうちのもっとも重要な州の知州が兼任する。
- 提点刑獄
- 路の刑罰を司る。
- 提挙常平
- 王安石により作られたもので、新法実施のための諸事を行う。
[編集] 科挙
隋の文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。唐では科挙を通過した者の地位は概して貴族層が恩蔭(高官の子が恩典として与えられる任官資格)によって得られる地位よりも低く、また科挙に合格していざ任官しようとしても官僚の任官・昇進を司る尚書吏部は貴族層の支配する部署であり、科挙合格者は昇進においても不利になることが多かった。しかし宋代になって貴族層が没落したことにより、そのような事は無くなった。
宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。当初は殿試により落第する者もあったが、落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に詩賦が重視されてこれが進士科とされていたが、王安石により進士科は経書の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。
科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き3~400人が合格した。
科挙に通過した後、寄禄官が与えられていない状態を選人という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。選人が地方官で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい、また朝議に参加できるほどの高官は朝官といい、一緒にして京朝官という。
科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。
出自に関わらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。元々、開封には国子監と太学という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。これを三舎法という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。
[編集] 胥吏
北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、胥吏の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。
胥吏は元々は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを一般民衆の間から募集した徭役の一種として始まったものである。このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。南宋代の記録であるが福州(福建省)では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり、胥吏無しでは行政は全く回らない状態であった。
この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。この搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して三年程度で別部署へ移る官は完全に胥吏のいいなりであった。また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、「三年清知府、十万雪花銀」(三年知府をやれば、十万銀貯まる)と言われるような状態であった。
この状態に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」倉法という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、清の終わりに至るまでこの胥吏体制は続いていくことになる。
[編集] 司法
宋代は司法制度が非常に発達した時代である。唐に於いて刑法に当たるものは律であるが、宋以後の大きな社会変化の中で硬直した律を使い続けることは弊害が大きかった。そこで律が不適当と思われる場合には勅が出されて判決が変更され、その勅に従って以後も進められていく。また過去行われた裁判の判例を後の裁判にも適用するようになった。これを断例という。徽宗の1105年にはこの断例を纏めた物を出版している。
宋代の刑罰は死・配流(流罪、三千里・二千五百里・二千里)・配役(強制労働、三年・二年・一年)・脊杖(背中を杖で打つ、二十から十三まで)・臀杖(尻を杖で打つ、二十から七まで)の五種類である。五代の殺伐とした世の中で刑法も極めて厳しいものになっており、後漢の時には「1銭を盗めば死刑」となっていた。宋に入って刑を軽くしていったがそれでも死刑される人数が膨大になり、太祖はこれを救済するために死刑囚に対して自ら再審し、死刑が適さないとした者にたいしては配流に処した。また死刑以下の刑罰も軽くして新たに折杖法という刑法を作った。但し軽くなったといっても唐律に比べればまだかなり重く、范祖禹は「律に比べて勅の刑罰は三倍」と述べている。
宋代の司法の著しい特徴は警察・検察・裁判の三者がこの時代に既に分立していたことである。まず県に属する県尉と路・州に属する巡検とが犯罪者の逮捕に当たる。これを巡捕という。捕らえられた者は獄(留置所)に降され、ここで獄吏による取調べが行われる。これを推鞫という。取調べが終わり、犯罪事実が明らかになるとこれに対してどのような刑罰を行うべきかが審議される。これを検断という。この過程を行うのは全て独立した部署であり、これらの役職を兼ねることは厳に禁じられた。
巡捕・推鞫・検断が終わると知県が判決を下すが、知県に許された権限は臀杖二十までで、それ以上の刑罰を科す場合には上の州へと送る。州では再び獄による取調べが行われる。州に於いては録事参軍・司理参軍がそれぞれ獄を持っており、その結果によって判官・推官によって判決の原案が作られ、最後は知州によって判決が下される。後に裁判に誤りがあったと分かれば判官・推官・録事参軍・司理参軍は全て連帯責任を負う。知州の権限は配流までであり、死刑の場合は中央へと送る。
州にて死刑が妥当とされた者のうち、死刑執行をためらう理由が無いと考えられる用件に付いては提点刑獄によって再検討するだけで良い。それ以外の者は中央へと送られる。中央にてまず大理寺がこれを受け取り、書類の上で審査する(詳断)。大理寺を通過すると次は審刑院に送られ、今度は直接本人に尋問するなどして再び審議される。大理寺と審刑院との意見がそれぞれ皇帝へと上奏され、皇帝による判決が下される。
これらの判決に対して不服がある場合には上告する権利がある。これを飜異という。
これら司法制度の整備により裁判は非常に多く行われるようになった。そのためこの時代には多くの「名裁判官」が登場し、その中でもっとも有名なのが包拯である。包拯らの活躍は街中の芸人によって語られ人気を博した。一方で訴訟ゴロの登場や訴訟の激化(健訟)を招いたが、それだけ法と裁判が身近なものになったという証拠であろう。
[編集] 兵制
宋の兵制は傭兵制であり、兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。
唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった。これを侍衛親軍と呼ぶ。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。
太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、老齢になっても解雇されなかった。廂軍には一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。また軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える更戍制を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。
一般に兵士には逃亡防止のために顔面に刺青が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋においては「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。
また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な郷兵、辺境の異民族を軍隊に組み入れた蕃兵がある。郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。
[編集] 税制
税制は宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役(役)である。主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。
[編集] 経済
[編集] 南北
この時期になると江南の経済力は圧倒的になり、華北は消費社会として江南からの食料によって支えられる事になる。
[編集] 商業
物資の増産と交通網の整備は商業を活発化させる。行と呼ばれる商人ギルドが誕生し、年の商業形式が整えられていく。これに伴い、約束手形が通用するようになり、四川・陝西では世界初の紙幣である交子が発行され流通した。交子は地域が限定されており、かつ期限が切れると無効になってしまうものであるが、それでもこの意義は大きく、北宋の商業の発達を示す物である。
また唐代までは都市は夜になると門を閉じてしまい、都市内の各地区も出入りが禁じられた。しかし宋代にはこれらが取り払われ、開封では夜になっても路上に商店が立ち並び、にぎやかであった。この様子が『東京夢華録』の中に生き生きと描き出されている。
[編集] 農業
中国の人口は前漢末の2年に5600万になり、その後は戦争による減少と増加を繰り返している。その間に人口6000万を越えた事は一度も無い。しかし北宋に至り6000万を突破して1080年の試算では9000万となっている。これ以降は1億を限界点として、清代まで減少と増加を再び繰り返す。この人口を支えたのが新しい農業である。唐代までに大きく発展した鋤などの農機具を背景として、南のベトナムからもたらされた占城稲という安定性のある早稲が導入され、また米と麦の二毛作が拡大した。中国全土の経済の重点は、この時期までに確実に華北から江南へと移動した。さらに地域によっては茶や果樹・養蚕などの生産を行い、農業の分業化が進んだ。
[編集] 交通
陸路では首都・開封から放射線状に伸びる八本の道路、山東方面2・河北方面1・山西方面1・陝西方面1・江南方面2・湖南方面1、が主要幹線とされた。しかし経済的にはそれよりも水路が重要な位置を占めた。
北宋代、華北は江南からの供給を持って成り立つ消費経済となっており、江南からの食料を運搬を支えたのが大運河を初めとする水路であった。この需要にこたえるために造船が発達し、大きなものでは積載量が1万石(500トン)を超えるものも作られた。また水位の違う運河を行き来するために互いの水位を調節する閘門が設けられていた。これら運河を使うことにより全土の4分の3にいくことが出来た。首都・開封はこの運河を使用することを前提にした都市であり、内部を運河が貫通している。
またそれまで軽視されていた海運技術が大幅に向上し、頑丈なジャンク船が開発され、日本・朝鮮から東南アジア・インドまでを舞台とした貿易網が発展していく。
[編集] 通貨
北宋の通貨単位は銅銭一枚の「銭」と銅銭一千枚の「貫」(緡)である。
[編集] 貨幣
唐末期から五代宋初にかけては貨幣経済の進展期でもあった。
しかし進展があまりに大きかった故に当時の通貨であった銅銭の深刻な不足を呈した。これに対して後周では銅の仏像を鋳潰して銅銭に変え、また南方の十国では後蜀で鉄銭、閩などで鉛銭の鋳造が行われた。
このように地域ごとで貨幣が異なることは経済流通の面から言えば大きな問題であり、宋に入ってからはこれを統一するべく政府の政策が行われ、蜀(四川)地方を除いた地域では概ね銅銭(宋銭)による統一がなされた。蜀に於いては銅銭の統一が上手くいかず、この地域は特別に鉄銭を流通させ、鉄銭の流出・銅銭の流入を厳に禁じた。
しかし全中国的な銅の産出量はあまり増えておらず、銅不足の状態は続いた。また諸外国との交易に於いて宋銭は最も重要な輸出品として取り扱われ、これに伴い国内の銅銭不足は更に深刻さを増した。この銅銭不足の状態を銭荒と呼ぶ。政府はこれに対するために民間に於ける銅器の所持の禁止、銅銭の国外持ち出し禁止などの銅禁政策を打ち出した。
銅銭発行高は北宋を通じて増え続け、太宗朝の至道年間(995年-997年)に80万銭であったものが、真宗の景徳年間(1004年-1007年)には183万になり、神宗の元豊元年(1078年)には506万と最高点に達した。これ以降は交子などの紙幣の発行が多くなったこともあり、銅銭の発行高は減少に転じた。
宋代の銅銭流通に於いて特筆すべきことは短陌(省陌)と呼ばれる慣習である。短陌とは100枚に満たない枚数をもって100枚と看做す慣習である。何枚をもって100枚と看做すかはその用途によって様々である。銅銭不足に対応するために行われていたと推測されているが確実な所は不明である。
[編集] 紙幣・為替・証券
銅銭は重たくかさばり、また絹や金銀などは高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。唐の長安には便銭務という役所があり、ここに銭を預けて預り証を受け取り、地方の役所にてこれを換金する。この制度は宋代まで続けられている。これと同じような制度が民間にもあり、堰坊という所で銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。
蜀に於いては前述の通り鉄銭が使われていたが、鉄銭は銅銭と比べても重く、不評であった。そこで成都の商人たちが集まって鉄銭を預かって交子を発行していた。この交子は重い鉄銭よりも遥かに使い勝手が良く、蜀に於いては広く流通していた。この交子の利益に目をつけた政府は商人たちの経営が苦しくなると商人たちに代わって交子を発行するようになった。この交子は世界最初の紙幣とされる。交子は初めは蜀でのみ流通させていたが、やがて全国へと広がり、兌換の対象も鉄銭から銅銭へと代わった。交子には界と呼ばれる期限が定められており、その間に使用ないし兌換をしなければ紙切れと化すものであった。深刻な銅銭不足でもあり交子の発行額は年々増え、徽宗代には乱発気味となって価値を落とした。
遼・西夏と国境を接する陝西路・河東路(山西)・河北路には合わせて百万以上の兵士が駐屯しており、これら兵士の食料の輸送は民間の商人が行っていた。しかし北方の辺境で買い付けて利益になるようなものは何もなく、食料を運ぶ往きはまだしも復路は手ぶらで帰らなければならず、はなはだ効率の悪い商売であったのでこれを嫌がる者も多かった。そこで政府は食料を運びこんだ商人に対して塩・茶・香料(龍涎香)などの南海の交易品、といった価値が高い物品の販売を許可する証券を与えた。これを交引と呼ぶ。これもまた現金の代わりとして流通し、一種の有価証券として扱われた。
[編集] 鉱業
貨幣の項で述べたように大量の銅銭を発行するために大量の銅が必要とされた。当時の銅山には官営と私営とがあり、私営のものは産出した銅の一部を税として納め、さらに余剰分も全て政府が買い取ることとされた。しかしこの時代に既に中国の銅山の限界が見えており、新たな鉱山の調査が進められたがいずれも空振りに終わり、貨幣の増加に合わせるだけの増産は難しい状態であった。
当時銅の精錬において、主流であったのは乾式精錬(溶鉱炉による精錬)であったが、銅鉱石の質の低下によりこれだけでは十分な量の確保が難しくなった。そこで湿式精錬(化学反応による精錬)が実用化されることとなった。胆礬(硫酸銅5水和物)に鉄くずを反応させることで沈殿銅を得る。この方法を侵銅といい、得られる銅を胆銅という(対して乾式による銅は礦銅)。中国において胆礬に鉄を反応させて銅を得る方法自体はかなり古くから知られていたが、北宋・元祐年間に至って張潜という者によって初めて工業化された。
湿式は乾式に比べて質の悪い銅鉱石でも銅を得ることが可能であるという利点があり、乏しくなりつつあった銅産をある程度支えた。しかし銅鉱の枯渇という大問題の前には根本的な解決策にならず、北宋末から南宋にかけて銅銭の鋳造量は激減し、更に清代に雲南の銅山の供給を得るまでは、中国において銅銭は衰退せざるを得なかったのである。
[編集] 社会
[編集] 社会構成
宋代の社会の構成要因としては
が主に挙げられ、この他に坊郭戸(都市住民)・商人・職人、僧侶・道士などの役職などがある。五等戸制でいえば、官戸・大地主層が一・二等、中堅自作農が三等、小規模自作農が四・五等である。三等戸以上を上等戸、四等以下を下等戸と呼ぶ。土地を所有し、両税を納める戸は主戸といい、土地を持たず納税する能力のない戸は客戸と呼ぶ。
しかしこれらの要素がどのような社会を形成していたかということについては、全体像を描ききれていないのが現状である。
[編集] 士大夫
唐代前半まで権力を保持していた貴族は五代の騒乱の中でその勢力を完全に失い、五代は武人の時代となった。しかしその下で実際の政務に当たっていたのは馮道に代表されるような新興地主層出身の科挙官僚であった。宋が立つと太祖の文治政策により、これら新しい勢力が表に出ることになる。この新しい支配者層を士大夫と呼ぶ。
科挙は試験の結果のみを基準とするのであるが、合格するためには長年にわたって勉学のみに集中できる、つまり生業を行わなくても生活できる環境が必要であり、また書物や入門のための費用などもかかるためある程度以上余裕のある階層でなければ合格は不可能な状態であった。そのため科挙合格者の主な供給源は地主・商人層が中心となる。
貴族はその能力によらず貴族であったが、士大夫は科挙に合格できなければ士大夫としての地位を失うことになる。このようなことから士大夫には自らの学識を高め、天下国家を自らが背負わんという気概が見える。士大夫の理想像は全てのことに通暁した人物であり、たとえどんなに高い技術を持っていてもそれ以外のことを知らない専門家は軽侮される傾向に会った。このことは宋代の官僚制にも現れており、現代日本の官僚がその省庁内だけで出世を重ねていくのに対して、中国の官僚は一つの部署にいるのは三年ほどで期間が過ぎるとまったく別分野の仕事に転出することを繰り返す。文化の点でもこの傾向は顕著であり、当時の士大夫は政治家・軍人・文章家・詩人・書家・画家の全てを兼ね備えた存在であった。
一方で士大夫は地元に帰れば大地主・大商人としての特権階級であり、その下の貧農や佃戸からの搾取によって富を築き上げていた。新法改革の際にはその特権を取り上げられることを嫌い、王安石に対する強い反対勢力となった。このような要素を持った士大夫を宮崎市定は「官僚・地主・商人の三位一体」と定義している。
[編集] 小規模自作農
井田制以来、一家が暮らしていくのに100畝の土地が必要であるとされており、上等戸と下等戸の区別もこの100畝が大体の基準になっている。しかし主戸の八割を占める下等戸層の平均的な土地所有量は20から5畝という量で下等戸層全ての所有地をあわせても二割強という量であった。つまり全体の二割の上等戸が八割の土地を所有していたことになる。
この少ない土地からの収入だけでは一家を支えることができず、自らの土地を耕す一方で小作にも従事し、さらにそれでも足らずに上等戸からの借り入れで賄うことも多かった。この利率が10割にも及ぼうかという超高利であり、利息を払いきれずに自らの土地を売却して完全小作農化することもあった。王安石の青苗法はこれを回避し、小規模自作農の自立を促さんとするものであったが、頓挫した。
[編集] 佃戸
佃戸とは小作農のことであり、地主の土地を耕してその収穫の半ばほどを収める。佃戸は奴婢ではなく、完全な良人である。佃戸の存在形態がどのようなものであったかについては学者の間でも意見が分かれている。
佃戸には主僕の分と呼ばれる身分的差別があり、主家が佃戸に対して犯した犯罪は軽く、その逆は重い刑罰が科された。また主家と佃戸の結婚は認められなかった。また自由な移転が認められず、主家の家内にて労働をさせられることもあった。このことから佃戸を農奴に類したものとみる見解がある[4]。
一方で、佃戸に対して土地が多い地域では地主による佃戸の取り合いがあり、またより良い条件(高い田租)を出した佃戸に切り替える例などもあることから地主佃戸関係をあくまで経済的関係と見る見方も有る[5]。
佃戸の地主に対する隷属性を強調する前者と独立性を強調する後者との論争は決着を迎えないままで終わっており、現時点では佃戸の社会的地位がどのようなものであったかという問いに答えることはできない。
[編集] 都市
北宋では首都・開封を初めとして特別な四都市を府とし、路と同格の行政区として扱った。
唐宋変革は都市においても大きな変化を起こした。唐以前の都市はほとんどが政治の中心地としての存在であり、都市内部の社会経済は政府によって計画されたものであった。唐長安をはじめとした唐代の都市は碁盤目状に坊と呼ばれる区画が作られ、坊の間には全て塀が設けられた。市民の生活は基本的にこの坊の中で行うものであり、予感になると坊と坊をつなぐ門(坊門)は閉じられ、通行は禁止された(城坊制)。商業に於いても商売を行いたいと思うものは役所に登録して市籍を獲得しなければならず、また東市・西市以外の区画で商売を行うこと、制限時間を超えて営業することは禁じられた(市制)。
これが宋代には大きな変化を遂げた。城坊制・市制共に唐宋変革の中で消滅していき、都市内部のそこかしこで商売が行われ、区画をはみ出して家が建てられるようになり、夜になっても活気が衰えなかった。人通りの多い場所には瓦市と呼ばれる大道芸人が集まる場所があり、三国時代・五代を題材にした講談・切り紙・影絵などが市民を楽しませた。都市の外にもそれは波及し、郊外で定期市(草市)が開かれるようになった。この草市を開く場所が集落化したところを市(し)として行政区分に入る。
これらの都市の繁栄は『東京夢華録』・『清明上河図』にて見ることができる。ただしこの両書はあくまで首都・開封を描いたものなので、これを即座に一般都市に敷衍するのは問題がある。
[編集] 首都・開封
宋代開封の遺跡は現在の開封市の地下に埋まっており、1981年より発掘が進められている。
後周世宗が開封を建設する際に部下であった太祖を馬で走らせ、その馬が力尽きたところを開封の外城の場所としたという話が残る。開封には外城以外に内城と宮城の三枚の城壁が張り巡らされていた。出土した遺跡は南北が約7600m・東西が約7000mとやや南北が長い東側に少し傾いた長方形になっている。城壁は残っているもので底部の厚さが34.2m・頂点の厚さが4m・高さが9mである[6]
外城には東に2・西に3・北に4・南に3の門が、内城には南北に3・東西に2の門がそれぞれ設けられている。これらの門には朝陽・順天などといった正式名称があるが、一般庶民はそのような覚えにくい名前は使わずもっぱら俗称で呼んだようである。東壁の南の門は朝陽門であるが俗称は新宋門、同じく西壁の一番南の門は順天門であるが俗称は新鄭門という。門から伸びる道がそれぞれ宋州・鄭州につながることから付いた名前である。
また道路以上に重要な役割を果たしたのが、城内を貫通する運河である。開封城内は汴河を初めとした四本の河が貫通しており、ここから繋がる大運河の使用により遠く江南まで行くことができた。この運河を使用して開封で消費される莫大な量の食料が輸送された。
開封城内では広壮な建築物が並ぶ。宮城や官庁といった政府の建物は無論であるが、民間の建物が非常に目立つ。巨大な伽藍を持つ寺院・道観、庶民が親しんだ酒楼・劇場などである。酒楼のもっとも大きな物の廊下は端から端まで100歩を要したといい、その楼閣から宮城を覗き込むことが出来たという。また劇場は数千人を収容することが出来たという(ただし数千という数字は数十の誤写ではないかとも)。
[編集] 文化
宋代の初期には、皇帝の詔勅による文化事業として、「四大書」と総称される大部な書物の編纂が、相次いで行われた。978年(太平興国3年)の『太平広記』500巻、983年(太平興国8年)頃の『太平御覧』1000巻、986年(雍熙3年)の『文苑英華』1000巻、1013年(大中祥符6年)の『冊府元亀』1000巻である。
宋代には経済の発達と共に各種の実用技術の発達も見られており、方位磁石の発明がなされている。また火薬・印刷の技術も本格的に運用されるようになり、社会の様々な面で利用されるようになった。
製紙・印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで一部の官僚・貴族に独占されていた文学・思想などが市民の間にも行われるようになった。
[編集] 思想
[編集] 儒教
唐五代に於いては仏教・特に禅宗の隆盛に押され、あまり振るわなかった儒教であるが、宋に入って新たな儒教が興り始めた(ただし本人たちの意識は復古であったが)。北宋・南宋に於ける儒教の新しい流れを一括して宋学[7]と呼ぶ。
宋学内の主な学派として、王安石・王雱親子の新学、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀学、張載の関学、程顥・程頤兄弟の洛学である。それ以外に重要な人物としては周敦頤・邵雍などが挙げられる。この節で各派の違いを取り上げることは詳細に過ぎるので、北宋の諸学に共通する事柄と北宋期に於ける重大な変化および後の朱子学に繋がる重要事項を挙げるに留める。
北宋期に於ける儒学史を考える上で留意する点が二つある。一つは、道統論に付いてである。朱子によって周敦頤→程兄弟→張載→朱子という道学の流れに位置づけられてはいるが、周敦頤は当時はさほど目立った存在ではなく、程顥は自らの天理の考えを「自己より体得した」と述べており、程顥の学が周敦頤から受け継いだものという見方は無理がある。また張載の学は程兄弟とは相違点が多く、これらをひっくるめて道学の流れであるとするのも無理がある。道統論は「朱子学に至る流れ」としてみた場合は十分に意味があることであるが、これをそのまま北宋代の儒学史と見ることには問題が多い。
もう一つは王安石の扱いである。王安石は後世の批判者からも賛美者からも「『周礼』を口実として悪政(改革)を実行した」と評されることが多く、儒学者としての彼は軽視されがちである。しかし実際には王安石は当時の大学者の一人であり、北宋儒学史に於いて欠くべからざる人物である。
まず北宋期に於ける宋学の共通点として、漢唐訓詁学に対する批判から始まるということである。訓詁学は孔子が残した(とされる)経書をひたすら解釈し、その教えを正確に把握することを目的としている。これに対して宋学では語句の解釈のような「瑣末な」問題には拘らず、この世界を主催する天とは何なのかを追い求めることを重視する。
天と人とは相関しており、人に対して何らかの方法で意思を伝えてくる。特に時の政治が悪い場合には天は天災をもってこれを伝える。というのが前漢の董仲舒によって唱えられた天人相関説・災異説(天譴説)であり、これに基づいて『漢書』五行志に於いては天災を逐一記録して「この天災は○○に対しての天譴である」と解釈を付けており、以後の正史に於いてもこれに倣った。宋代に於いても天譴説は強い影響力を持っており、王安石の改革時に鄭侠という官僚は当時続いていた旱魃を王安石の新法を天がとがめていると言って王安石を批判した。これに対して王安石は「洪水や旱魃は定め(常数)であり、堯舜でもこれを避けることは出来ない。」と述べた。これをもって王安石は近代合理主義思想の持ち主として現代においては評価されるが、これは誤りである。王安石は別の場面では天譴を肯定する発言をしており、少なくとも単純な天譴否定論者ではない。
『漢書』流の「この天災は○○に対しての天譴である」という形の考えを天譴事応説と言い、王安石が否定したものはこれである。王安石のみならず欧陽脩や司馬光、程兄弟といった者たちも天譴事応説を否定している。天譴事応説に於いては天は人間の行動を注視して過誤があれば逐一これに口を出してくるいわば人格神とされていた。これに対して邵雍は「天は数である」と言い、法則としての天を解き明かそうとした。それ以外にも周敦頤の太極・張載の気、そして程顥の天理などもまた天の法則を解き明かそうとしたものである。人格を持った天が起こす天譴はある事柄に対応するものである。これに対して法則としての天の天譴は天がそうしようと思って行ったわけではなく、人間の行動が天の法則に適わないものであるから起こる物である。であるので天譴があった場合、時の為政者は「あの政策がどうだ」などと考えるのではなく自らの行いが天の法則から外れているのではないかと「恐懼修省」すべきであると宋学では説く。このような考え方から孔子ら聖人もまた天の法則の体現者であると考えられるようになった。
以降の文章では「法則としての天」を程顥に代表させて天理と書く。
更にここから人性論に大きな変化が現れる。人性論とは孟子の性善説、荀子の性悪説のように人は生まれつき善か悪かを問う論である。宋までに孟子・荀子に加えて、性善の者と性悪の者が混在するという揚雄の性善悪混説、性善たる上品・普通人たる中品・性悪たる下品に分かれるという韓愈の性三品説が出ていた。しかし天理とは万物を主催する法則である。当然人間の中にも天理は存在しており、その天理を発現することが出来れば聖人になることが出来るという考えになり、聖人、学びて至るべしという言葉が登場するに至る。具体的には欲望を抑制して、内なる天理を発現させることを目指す。
この考え方は孟子の性善説が最も近いといえ、そこから孟子の地位が高まることとなる。宋初までは孔子以後の人物として前述の四人が挙げられていた。孟子の著書『孟子』も経書ではなく子書(諸子百家の書)として扱われており、孟子は孔子以後の重要人物とはされていたもののあくまでその中の一人に過ぎなかった。しかし王安石の科挙改革の際に『孟子』が必修科目とされたことで『孟子』は士大夫の必読の書となり、更に朱子の道統論の中で孔子から宋学へと繋がる系譜に置かれたことによりその地位を不動にした。
宋学のこれらの考え方には仏教の影響が強くあると考えられている。理の考え方は華厳宗に、欲望を抑制する考え方は禅宗の影響が見られる。しかし仏教が多く俗世との関わりよりも自らの完成を目指すのに対して、これら宋学が目指す所はあくまで現実の政治を正すことにある。王安石と程兄弟の