梁 (南朝)
梁(りょう、502年 - 557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。
目次 |
歴史[編集]
建国期[編集]
斉の始祖蕭道成の族弟蕭順之の子蕭衍は、斉の皇帝東昏侯の暴政で兄蕭懿が殺害された事に怒って、501年に荊州襄陽において藩鎮や豪族・土豪を結集して挙兵し、建康に進撃して東昏侯や側近を粛清した[1][2][3]。蕭衍は新帝に東昏侯の弟和帝を擁立し、502年に和帝から禅譲を受けて梁を建国した[1]。
武帝の時代[編集]
武帝は宋や斉のために疲弊した民政の回復を図り、積極的な政治改革を行なった[3]。創業当初の天監年間は、九品中正法の改定、梁律の頒布、租税の軽減等の政策によって治世は安定し、南朝の全盛期を生み出した。また自身が優れた文人でもあった武帝は、旧来の貴族の子弟が入る国子学以外に、寒門の子弟を対象とした教育施設として新たに五館を設置するなど学問を奨励したことによって、文化は大いに繁栄した。武帝の長男である皇太子蕭統(昭明太子)の『文選』、蕭統の死後皇太子となった蕭綱(後の簡文帝)らによる宮体詩を収録した『玉台新詠』は、この時期に編纂されている。しかし、50年近くに及ぶ治世の後半になると、捨身に代表される過度の仏教保護や経済政策の失敗によって財政状況が悪化し、さらに貴族層の実務忌避や台頭した寒門側近による専権が官吏の綱紀弛緩を招くなど、繁栄の影で社会不安が深刻化した。
侯景の乱と梁の実質的滅亡[編集]
548年、北朝の東魏の降将侯景が河南13州を手土産にして武帝に帰順を申し出てきた[4]。武帝は侯景の帰順を受け入れたが、東魏軍は侯景・梁軍を破って河南を奪還した[4]。東魏はここで梁との和睦を図り、武帝もそれに乗ったため[4]、東魏に破れて寿春に逃れていた侯景は窮地に立たされ、臨賀王蕭正徳という人物と内通して1000名の軍を率いて548年10月22日に首都建康を包囲した[5]。当時、梁は武帝の長期にわたる治世で泰平に慣れきっており、武帝と共に活躍した建国の重臣の大半も死去していた上[5]、各地に分封されていた諸王や宗室たちは互いの利を見て牽制しあい武帝の救援に積極的に動かなかった[6]。その上、梁軍で唯一の名将だった羊侃が急死したため[6]、梁軍は統制がきかなくなり兵糧不足などもあって、549年2月に偽りの和議を侯景と結んだ挙句に3月12日にはその和議を破棄されて建康は攻撃されて落城した[7][8]。武帝は侯景に捕縛されて幽閉され、首都陥落からわずか2ヵ月後に86歳の老齢もあって崩御し、こうして梁は武帝の死で実質的には崩壊・滅亡して王朝の体を成さなくなった[7][8]。
完全なる滅亡へ[編集]
侯景は武帝に代わる新しい皇帝として皇太子の簡文帝を擁立したが、勿論これは侯景の厳重な監視下に置かれた傀儡であった[7]。ところが各地の藩鎮はこれに従わず、侯景は自ら軍を率いて物資確保のために三呉地域の平定に乗り出した[7]。一方、武帝の7男蕭繹は建康から逃れてくる梁の残党や避難民を吸収して勢力を拡大し、江陵を中心にして侯景と対峙し、対する侯景も巴陵で激突し、蕭繹軍の名将王僧弁の活躍で侯景軍は大敗し、逆に王僧弁や陳覇先により建康に追い詰められた[9]。
侯景は悪あがきとして簡文帝を殺害し、新たに擁立した蕭棟もすぐに廃して自ら皇帝に即位して陳覇先や王僧弁を迎撃したが敗北し、逃走中に部下に裏切られて552年4月に殺害され、侯景の乱は平定された[9]。梁の新たな皇帝には蕭繹が元帝として即位したが、梁国内では武陵王蕭紀が元帝に従わずに争い、この戦いは元帝の勝利となるが[9]、この一連の混乱の間に勢力を拡大した西魏が襄陽にいた蕭詧(武帝の孫、昭明太子の子)を後梁の皇帝、宣帝として擁立し、江陵に迫るという事態が生じる[10]。王僧弁ら梁の主力は建康周辺の鎮撫や北周の防衛に当たっていたため援軍の派遣は間に合わず、江陵は554年11月に西魏軍5万により陥落し、元帝は戦死した[10]。
元帝崩御の報せを受けて旧都建康を守備していた王僧弁と陳霸先は、元帝の9男である蕭方智を擁立する[11]。王僧弁は梁再興のために北斉と同盟を結ぶ事を説く徐陵の提言を受け、武帝の甥蕭淵明(蕭懿の5男)を北斉から迎え入れて皇帝に擁立し、蕭方智を皇太子とした[11]。ところがこの即位に陳覇先が非正統性と北斉の介入に反対したため、王僧弁と陳覇先の対立が表面化し、555年9月に陳覇先は王僧弁を建康に殺害し、再び蕭方智を皇帝とした[11]。
陳覇先は梁の実権を掌握し、2年後の557年10月に敬帝から禅譲を受けて陳を建国し、ここに梁は滅亡した[11]。
後梁は西魏とそれに代わった北周・隋の傀儡政権として、後主・蕭琮まで3代続いたが、587年に隋の文帝によって廃された。
国家体制[編集]
軍隊[編集]
武帝の50年にわたる治世は梁に泰平と繁栄をもたらしたが、そのために軍隊は弱体化した。侯景の乱自体も規模はそれほどではなく兵力では梁軍が圧倒的に優位だったにも関わらず、首都を攻められて遂には陥落にまで至ったのは、当時の軍兵が馬に乗った経験すら無く、馬が嘶き跳びはねるのを見ただけで虎が現れたと驚愕する有様だったと伝わる[5]。
経済[編集]
南朝では宋、斉の時代から貨幣経済が急速に発展して基軸通貨であった銅銭の銅の不足と私鋳による悪質貨幣の蔓延で正常な経済発展が損なわれていたため、武帝は問題を解決させるために良質な貨幣の発行に努め、通貨不安を取り除いだ結果、江南では活発な商品取引や長江の便を利用した流通経済の発展が見られるようになった[12]。ところが武帝は523年から銅銭に代わる新たな基軸通貨として鉄銭を鋳造する命令を発するという信じられない政策を打ち出したため[12]、貨幣不足自体は心配なくなっても今度は偽銭が大量に出回る結果となってしまい、貨幣の信用は無くなって530年代に貨幣の価値は急速に下落し、それが梁の衰退にそのままつながった[4]。
皇族・官僚[編集]
武帝の治世が長期化した事は皇族や官僚に私財を蓄えさせ不正を行なわせるようになった。武帝の実弟蕭宏は貪欲な人物で武帝の治世で3億に及ぶ不正蓄財を行なっていた[13]。また武帝の治世後半には綱紀が弛緩した上、有能で人望もあった皇太子の昭明太子が531年に早世して弟の蕭綱が擁立された事も皇族間の不和を生じさせた[14]。官僚も日夜酒宴や女色に溺れて実務を省みなくなり風俗が乱れ奢侈が横行し[14]、民衆からは厳しい租税が収奪されるようになった[12]。また晩年の武帝は若い頃の聡明を失っており、自らは仁政を行なっていると思い込んでしまっていた[14]。治安も乱れ、中央では賄賂が横行するのは当たり前で、冤罪で処罰される者も増大し、皇族やそれに連なる者たちの驕慢もあり白昼で殺人や強盗が起こるのも珍しくなくなり、それを捕縛すべき官吏は金銭の授受次第で見逃すという事態にまで至っていた[12]。このような皇族・官僚の腐敗は結果的に侯景の乱で救援に現れた諸王が積極的に動かず、ひどい時は自ら収奪に走るという統制がきかない状況にまで陥る結果となる[15]。
教育[編集]
武帝は貴族の子弟が入る国子学と、五館という学校を置いた[16]。五館とは儒教の経典五経に通じた博士の官が学生の教育に当たる学校であったが、この学校は単なる教育機関ではなく試験を行なって官吏を登用する官吏養成所の性格を持っていた[17]。これは後に隋で開始される科挙の源流ともいわれ、武帝は身分の上下に関わらずに才能次第で官吏を登用した(武帝自身は寒門など低身分の人材を特に求めたという)[17]。この武帝の学術奨励は梁の学問が大いに発展する契機となり、昭明太子をはじめ多くの文化人・知識人を生み出し、『文選』など多くの作品が現れ、日本においても飛鳥時代、奈良時代や平安時代の日本文学に大いに影響を与える事になった[17]。
貴族[編集]
梁時代の貴族は東晋・宋時代のように強勢ではなくむしろ資質の低下が顕著になっていた[3]。そのため武帝は貴族の中でも下級の貴族を選抜して側近に登用し、法制や礼制の整備に努めた[18]。また曹魏時代からの九品中正法を改めて品から班に改め[18]、従来の基準を大幅に改編して皇帝権力を強化するために官僚制への移行を積極的に推進した[16]。
宗教[編集]
武帝は異常なほど仏教に傾倒し、後世からはこのために梁の亡国を招いたとして非難される一因となっている[19]。まず武帝は在位中に4回も捨身を行なう異常ぶりで、さらに中国皇帝は国家儀礼は儒教に基づいて行なうのが当然なのだが武帝は仏教に基づいて行なっており、さらに大赦と改元を伴って行なうなど常識を逸脱する熱烈ぶりが目立つようになっている[19]。ただし仏教が武帝や梁の民衆にここまで受け入れられたのは、後漢という長期政権の崩壊後、魏晋南北朝時代という動乱期で儒教の価値観が低下し自己の救済を仏教に求めたため、という側面もあった事を理解しておく必要がある[20]。とはいえこのような異常ともいえる仏教傾倒は梁における仏教隆盛をもたらした反面で、皇帝や皇族の放恣や側近による専権、貴族層の実務忌避や寺院の建立による財政悪化による民衆の窮乏と社会不安の増大という国勢の衰退を助長した[13][1]。
梁の歴代皇帝[編集]
| 元謀・藍田・北京原人 | |||
| 神話伝説(三皇五帝) | |||
| 黄河・長江・遼河文明 | |||
| 夏 | |||
| 殷 | |||
| 周 | 西周 | ||
| 東周 | 春秋 | ||
| 戦国 | |||
| 秦 | |||
| 漢 | 前漢 | ||
| 新 | |||
| 後漢 | |||
| 三国 | 魏 | 呉 | 蜀 |
| 晋 | 西晋 | ||
| 東晋 | 十六国 | ||
| 南北朝 | 宋 | 北魏 | |
| 斉 | |||
| 梁 | 西魏 | 東魏 | |
| 陳 | 北周 | 北斉 | |
| 隋 | |||
| 唐 | |||
| 周 | |||
| 五代十国 | |||
| 宋 | 北宋 | 遼 | 西夏 |
| 南宋 | 金 | ||
| 元 | |||
| 明 | 北元 | ||
| 後金 | |||
| 清 | |||
| 満洲 | 中華民国 | ||
| 中華人民共和国 | 中華民国 (台湾) |
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| 中国の歴史年表 中国朝鮮関係史 |
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- 高祖武帝(蕭衍、在位:502年 - 549年)
- 太宗簡文帝(蕭綱、在位:549年 - 551年)
- 廃帝豫章王(蕭棟、在位:551年)
- 世祖元帝(蕭繹、在位:552年 - 554年)
- 閔帝・貞陽侯(蕭淵明、在位:555年)
- 敬帝(蕭方智、在位:554年 - 557年)
後梁[編集]
系図[編集]
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太祖文帝順之 |
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1高祖武帝衍 |
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長沙王懿 | |||||||||||||||||||||||||||||
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| 武陵王紀 |
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4世祖孝元帝繹 |
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2太宗簡文帝綱 |
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昭明太子統 (高宗昭明帝) |
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†(5)貞陽侯淵明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 湘東武烈世子等 |
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愍懐太子方矩 |
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5(6)敬帝方智 |
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豫章郡王歓 |
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Ⅰ中宗宜帝詧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| (7)永嘉王荘 |
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3廃帝豫章王棟 |
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安平王巌 |
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Ⅱ世祖明帝巋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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蕭璿 |
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Ⅲ後主琮 | |||||||||||||||||||||||||||||
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蕭銑 |
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※赤色のボックスは後梁の皇帝、ローマ数字はその即位順。
脚注[編集]
注釈[編集]
引用元[編集]
- ^ a b c 山本『中国の歴史』、P98
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P152
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P153
- ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P163
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P164
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P165
- ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P167
- ^ a b 山本『中国の歴史』、P99
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P168
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P169
- ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P175
- ^ a b c d 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P162
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P160
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P161
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P166
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P155
- ^ a b c 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P156
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P154
- ^ a b 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P158
- ^ 川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P159
参考文献[編集]
- 『世界史大系 中国史2 三国~唐』(山川出版社 1996年)
- 川本芳昭『中国の歴史05、中華の崩壊と拡大。魏晋南北朝』(講談社、2005年2月)
- 山本英史『中国の歴史』(河出書房新社、2010年10月)
関連項目[編集]
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