呉 (三国)

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魏 (三国) 222年 - 280年 西晋
孫呉・東呉の位置
孫呉の領域(右下緑)。
公用語 漢語(中国語
首都 建業
皇帝
222年 - 252年 孫権(大帝)
252年 - 258年 孫亮(会稽王・廃帝
258年 - 264年 孫休(景帝)
264年 - 280年 孫皓末帝
変遷
建国 222年
西晋によって滅亡 280年
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(ご、拼音:Wú、222年 - 280年)は、中国三国時代孫権長江流域に建てた王朝。姓は(そん)氏で、首都建業(現在の南京付近)。孫呉東呉とも呼ばれる。

222年というのは、それまでに対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。

歴史[編集]

孫堅[編集]

孫堅は『孫子』の著者孫武の末裔を称していたが、その家格は低く、家柄が重視されていた後漢の政界の中では軽視されていた。しかし自らの実力をもって徐々に位を上げていき、黄巾の乱に於いては朱儁の配下に入り、功績を挙げて戦後に別部司馬(別働隊を率いる武将)となった。戦後も辺章・韓遂の反乱鎮圧に功績を挙げて長沙太守に任ぜられ、後に「江東の虎」と評された。

189年洛陽董卓が暴政を布いて関東諸豪族の反感を買い、反董卓連合軍が結成されると、孫堅も出兵してその中途に荊州刺史王叡南陽太守張咨を殺し、袁術の配下に入って破虜将軍・豫州刺史の位を得た。

連合軍は初めから戦意に薄く、董卓軍とまともに戦おうとしたのは曹操と孫堅だけであった。孫堅は董卓と一進一退の攻防を繰り返し、董卓の武将・華雄(葉雄)を討ち取り、呂布を撃退した。その後、董卓は洛陽を焼き払い、歴代皇帝の陵墓を荒らして西の長安へと去っていった。孫堅は主のいなくなった洛陽に入り、復興と陵墓の修復に当たった。

この後、連合軍は内部での反目により崩壊し、武将たちは自らの兵士を連れて本拠地へと引き返して行った。191年もしくは192年、孫堅は荊州を完全に自分のものにするために劉表と争い、劉表の部将である黄祖の軍を打ち破るが、追撃途中に流れ矢(一説には落石)に当たって死亡した。

孫策[編集]

孫堅亡き後、その軍団は伯父の孫賁の指揮の元に袁術の旗下に入り、長男の孫策は兵を取り上げられ、全く力を失った。しかし父と同じようにその状況からのし上り、袁術から貰ったわずか1,000ばかりの兵を元に江東(長江の東、江蘇省安徽省)の劉繇王朗らを撃破、またたく間に江東を制覇した。孫策の周りには程普黄蓋韓当ら孫堅時代からの配下に加え、周瑜太史慈張昭張紘魯粛などの人材を集め、その伸張ぶりから「項羽に似る」と評された(孫策の江東平定)。

197年、袁術が皇帝を僭称するということが起きた。大勢力を蓄え、もはや袁術に従う理由がなかった孫策にとってこれは渡りに船であり、袁術と絶交し、献帝を手中にして道義的正当性を手に入れていた曹操に付くことにした。曹操も四方に敵を抱えている状態であったのでこれを喜び、曹操の弟の娘が孫策の弟の孫匡に嫁ぐことで同盟が成立し、孫策は討逆将軍・呉侯の位を得た。孫策は更に長江の北にいる劉勲を討ち、父の仇である黄祖を散々に打ち破った。

200年、北の曹操は袁紹との官渡の戦いに入り、首都の許昌の防衛はかなり薄かった。これに乗じて孫策は許都侵攻作戦を企てる。ところがその矢先、孫策はかつて殺した許貢の息子とその食客による襲撃を受け重傷を負い、命を落とす。曹操の幕僚である郭嘉は「孫策は江東を制覇したが、いまだしっかりとは治まっておらず、いずれ刺客により殺害されるだろう」と言っている。

孫権前期[編集]

後を継いだのが、弟の孫権である。孫権は孫策から「兵を率いて戦に勝ち、天下を争うのは私の方が上だが、人材を良く使って江東を守るのはお前の方が上だ」と評されていた。その言葉通り、孫権は巧みな人心掌握術で配下の者たちの心をつかみ、急激な膨張の後の孫策の死で分裂しかねなかった(実際に廬江太守の李術の自立や一族の孫輔の謀叛などの事件が起こっている)孫呉勢力をよく治め、孫権の支配はひとまず安定した。しかし、山間部の非漢民族である山越には、長く悩まされることになる。また、呉建国以前から居住していた漢民族は宗部・宗伍などと呼ばれ、呉は彼らの抵抗も排除しなければならなかった。宗部の中には山越と合流して抵抗を続けるものもいたので、この時期に山越と呼ばれた勢力を純粋な非漢民族と見なすことは出来ない。孫権政権時代に諸葛恪陸遜賀斉らが山越討伐で多大な功績を挙げている。

208年、孫権は父の仇である黄祖を討伐し、討ち取った。

その頃、北の曹操は官渡の戦いの勝利により旧袁紹領をすべて併呑し、華北をほぼ統一していた。更に中国統一を目指し、208年に軍を南下させてきた。荊州の劉表はすでに病死しており、その後を継いだ劉琮は曹操に対してすぐに降伏した。劉琮の降伏を受けた曹操は、劉表の元に身を寄せていた劉備を追い散らし、江東へと侵攻してきた。これに対して孫権は劉備と同盟を結び、周瑜・程普を大都督として赤壁で曹操軍と激突し、黄蓋の火攻めにより、これに勝利した(赤壁の戦い)。敗北した曹操は北に引き上げて、以後は華北の経営を中心に進めていき、長江以南での孫呉勢力の覇権が確立された。

更に孫権は曹操軍がいなくなった荊州をも領有しようと軍を出すが、荊州は劉表の長子の劉琦を立てて劉備が占拠していた。赤壁で主に戦ったのは孫呉であり、より多くの戦利品を得るべきと考えた孫権は、劉備に対して抗議するが、劉備はのらりくらりとこの追及をかわし、結局孫権は荊州北部の江陵のみを得ただけとなった。以後、このことは両者の間での懸案となるが、曹操との敵対状態が続いている中で劉備とも事を構えるのは無謀であると考えた孫権は、妹の孫夫人を劉備に嫁がせて友好関係を固めて、魯粛の提案に従い、荊州の数を劉備に貸し与えた。

その後、孫権は西の四川)を領有することを考えるが、準備中に総大将の周瑜が病死して計画は頓挫し、その隙に先を越されて蜀は劉備に占拠された。

210年、孫権は歩騭交州刺史に任命して交州に派遣し、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。

212年にはそれまでのから建業へと拠点を移し、備えとして石頭城を築いた。この年からは連年、曹操との間に戦いが起こるが、双方共に戦果を得られなかった。

この頃、曹操は長江周辺を孫権に奪われるのを恐れて、長江周辺の住民を北方に移住させようとした。だが、強制移住を嫌がった長江周辺の十数万戸の住民が、長江を渡って江東(呉)に移住した。

曹操は朱光廬江太守として派遣し、盛んに開墾させ、不服住民に誘いをかけて魏に内応させようとした。214年、孫権は呂蒙甘寧を率いて曹操領の皖城を降し、廬江太守の朱光を捕らえ、数万人の男女を捕らえた。

劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。そこで業を煮やした孫権は、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。だが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、同盟友好関係が回復した。

217年、荊州の領有問題が長引いたことにより、劉備に対する不信感が増大した孫権は曹操と和睦して称臣し、荊州を守っていた関羽に対して呂蒙を配置し、対立の姿勢を打ち出した。219年、西の漢中では劉備が自ら曹操領に侵攻しており、関羽は援護のために曹操軍の荊州に於ける根拠地の樊城を攻めていた。これを好機と見た呂蒙は、関羽を油断させるために年若い陸遜を起用し、関羽が北にかかりきりになっている間に荊州を攻め落とし、関羽を捕らえて処刑した。これにより孫権は荊州の南部をすべて領有し、後の・呉・蜀の三者鼎立の基が定まった。

220年に曹操が死去し、後継の曹丕献帝より禅譲を受けて魏の皇帝を称した。呉は樊城の対岸である襄陽まで兵を進めたが、まもなく魏の曹仁に奪い返された。翌年に劉備は魏に対抗して皇帝を名乗り、蜀漢を建てた。

同年、劉備と敵対することが決定的となった孫権は魏の曹丕に対して臣従し、呉王に封ぜられる。新しく皇帝となった劉備は、孫権の予想通りに荊州を奪い返そうとして呉に侵攻してきた。呂蒙は関羽を殺した後に程なくして病死しており、それに代わって陸遜が全軍の指揮を執り、蜀軍の弱点をつき大勝した(夷陵の戦い)。

夷陵の戦いで大勝した孫権は、魏に臣従する必要もなくなったため、新しく黄武の元号を立てて魏から独立した。

孫権後期[編集]

呉の大帝(孫権)。

大敗した劉備は翌年の223年に病死し、その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が政治・軍事の全てを司るようになった。以降、蜀漢と呉は再び和睦して魏に対抗するようになる。

222年から何度か魏の曹丕による侵攻を受けた。222年には、呉は3方向から魏に攻められ苦戦したが、朱桓が曹仁を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。224年に、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。

226年には呂岱が、それまで服属させていた交州(現在のベトナムトンキン周辺)を呉の直轄領に組み込み、南海貿易の利益を呉が独占することになった。一方、曹丕の死に乗じるため、江夏に侵攻したが、文聘に撃退された。

227年から蜀漢の諸葛亮による魏に対する北伐作戦が開始される。同盟関係にある呉でもこれを援護するために何度か軍を出した。なお、実質的に両者の同盟は対等であるが、劉禅は皇帝、孫権は王であったことから、蜀の側は名目上、呉を臣下として扱っていたようである。

228年周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。

229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後のその支配区分として、徐州、豫州、幽州青州は呉が、并州、涼州、冀州兗州は蜀漢が支配するものとし、司隷函谷関を境界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした[1]。幽州は呉にとって飛び地となるが、これは海上からの侵攻を想定したものではないかといわれている。次に触れる公孫氏などとの交渉も、海上より船を利用したものであった。

その後、孫権は遼東公孫淵に使者を送って魏を挟撃しようとしたが失敗した。また、東の夷州・亶州(今の台湾沖縄諸島)に探索と人を集めさせに衛温諸葛直と兵1万を派遣したが、亶州には辿り着けず、夷州から数千人の住民を連れ帰っただけに終わった。

231年潘濬に命じて武陵蛮を討伐し、3年がかりでこれを鎮圧した。

234年、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、満寵に苦戦し、曹叡の親征軍を前に撤退、三国の間は膠着状態が続いた。

234年から237年、諸葛恪・陳表顧承らは山越を討伐し、彼等を帰順させ、彼等の中から6万人の新兵を徴兵した。

孫権は236年五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行したが、『三国志』呉主伝の注に引く『江表伝』によれば246年に廃止した。

孫権は張昭が没したころからおかしくなり始め、まもなく側近の呂壱を重用し始め、在地豪族層の反感を買った。

呂壱を処刑し分裂しかけていた家臣団をまとめなおした孫権は241年には全琮朱然達に命じて大規模な北伐を行うが、失敗した。

245年校尉陳勲に命じて、屯田兵・工兵30000人を使って、運河を掘って小棋から雲陽西城までを結び、そこに交易所や食料倉庫を建てさせた。

皇太子孫登の死後、三男の孫和を皇太子に立てたが、243年頃から四男の孫覇との間での継承争いが置き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。この時に孫権は孫和側に立っていた丞相・陸遜の権限を奪い去るということをした。このことで陸遜は憤死し、その他の孫和派の重臣たちも流罪とされ、孫覇派が勝利した。しかしその後に孫覇派の重臣が死去したこともあって孫和派が持ち返し、内紛は泥沼化した(二宮事件)。

250年、孫権はようやく決断を下し、孫和を庶子に落とし、孫覇に対して自殺を命じ、皇太子には七男の孫亮を即ける事にした。しかしこのことで呉内部の亀裂は修復不可能なものとなっており、後にそれが噴出することになる。

孫亮・孫休[編集]

252年に孫権は死去し、10歳で孫亮が皇帝となった。10歳児に政治が理解できるはずもなく、太傅大将軍の諸葛恪が政権を握る。諸葛恪は孫権の死後を狙って侵攻してきた魏の胡遵諸葛誕に大勝して声望を得る(東興の戦い)が、翌年の魏への侵攻は失敗に終わり、疫病で非常に多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺された。

諸葛恪の死後、代わって孫峻が丞相となり政権を握る。孫峻は民衆の苦しみに関心を払わず、自分の権勢と奢侈のためだけに権力を振り回したため、不満を持った者たちが孫峻の暗殺を謀るも失敗に終わった。結局孫峻は256年に唐突に(諸葛恪に殴られる夢を見て、恐ろしさのあまり)死去し、その権力は従弟の孫綝(そんちん)に引き継がれる。

孫綝は反対勢力を潰して政権を握るが、この頃になると孫亮にも自覚が芽生え始め、自らの政治を行おうと考え始める。258年、魏で諸葛誕の反乱が起きる。これに孫綝は介入するが失敗に終わった。孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男・孫休が代わりに擁立された。

孫休は即位すると、巧みに孫綝への反感を覆い隠して孫亮のように廃位されることを避け、孫綝が油断したところでクーデターを起こして孫綝を誅殺した。親政を始めた孫休は五経博士の設置、農政・治水事業、汚職の追及など立て続けに改革を打ち出し、衰退に向かっていた呉を一時的に食い止めた。しかしその後の孫休は学問とキジ狩りに没頭するようになり、政治は重臣の濮陽興張布に任せきりとなった。

263年、魏の司馬昭が派遣した軍により蜀都・成都が陥落し、遂に三国の一翼が崩れた(蜀漢の滅亡)。同時に呉では交州が離反した。魏の蜀侵攻に対して呉からも兵を送り、蜀の救援、それがだめなら蜀の領土を少しでも奪うことを目指したが、いずれも失敗し、強大化した魏(司馬氏政権)とまともに国境を接することになった。

孫晧[編集]

翌年に孫休が死去し、孫休の子供はまだ幼いことから孫権の三男で廃太子であった孫和の子の孫晧が擁立された。孫晧は聡明な文武両道の人物と謳われており、擁立した濮陽興と張布の期待もそこにかかっていた。しかしこれは呉にとって最悪の決定であった。

孫晧はまず、閣僚の一新と父・孫和への皇帝号の追号をし、食料開放による貧民救済などを行ったが、その後刑法を乱用し孫休の妻と息子たちを皆殺しにし、莫大な費用を投じて武昌への遷都を行いそこに壮麗な宮殿を建てた末、その翌年には再び建業へと都を戻すということを行った。

武昌への遷都を行った265年司馬炎が魏の皇帝曹奐より禅譲を受けてを建てた。呉にとっては幸いなことに司馬炎即位直後の晋ではすぐに遠征軍を繰り出すことはせず、呉は孫晧の政治で腐敗はしていたが、まだしばらくの平和を得た。

271年虞汜陶璜らは交州の晋軍を破り、交趾郡と九真郡と日南郡を取り戻した。

西晋の孫呉攻略。

この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。そんな中で陸遜の息子の陸抗朱績丁奉が呉の防衛を支えていた。272年には歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、陸抗がこの反乱を鎮圧した(西陵の戦い)。270年に朱績が、271年には丁奉が、さらに274年に陸抗が死去すると、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。

そして279年、広州で郭馬が反乱を起こした。反乱を鎮圧できないでいるうちに、晋は20万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した

呉の政治[編集]

呉の皇帝の孫権は236年五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。

呉は、揚州の非漢民族である山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。

鄧艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。

川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発(開拓)の尖兵であった」としている。

呉の研究[編集]

20世紀に入り、呉に関連した考古学上の発見が相次いだ。1984年に南京市近郊の馬鞍山で発見された呉の将軍朱然の墓や、1996年長沙市で発見された10万枚以上の簡牘走馬楼呉簡)などにより、呉の文化や地方政治について研究が続けられている。2006年には、呉の時代に作られたと見られる古墓が南京市で発見された。

歴代皇帝[編集]

呉の系図
諡号 廟号 姓名 在位 元号
大帝 太祖 孫権 222年 - 252年
黄武 222年 - 229年

黄龍 229年 - 231年
嘉禾 232年 - 238年
赤烏 238年 - 251年
太元 251年 - 252年
神鳳 252年

会稽王
(廃帝)
孫亮 252年 - 258年 建興 252年 - 253年

五鳳 254年 - 256年
太平 256年 - 258年

景帝 孫休 258年 - 264年 永安 258年 - 264年
末帝 孫皓 264年 - 280年 元興 264年 - 265年

甘露 265年 - 266年
宝鼎 266年 - 269年
建衡 269年 - 271年
鳳凰 272年 - 274年
天冊 275年 - 276年
天璽 276年
天紀 277年 - 280年

系図[編集]

始祖武烈帝堅
 
長沙桓王策
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1太祖大帝権
 
南陽王和
 
4烏程侯皓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
魯王覇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3景帝休
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2廃帝会稽王亮
 

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ これまで呉と蜀漢は、魏の支配地にも名目上の王・州牧を置いていたが、相手国の領地とされた州からは、これを引き揚げている。

参考資料[編集]