天祚帝
| 天祚帝 耶律延禧 | |
|---|---|
| 遼 | |
| 9代皇帝 | |
| 王朝 | 遼 |
| 在位期間 | 1101年2月12日 - 1125年3月26日 |
| 姓・諱 | 契丹名 : 耶律阿果 漢名 : 劉延禧 |
| 字 | 延寧 |
| 諡号 | 天祚帝 |
| 廟号 | 紹宗 |
| 生年 | 1075年6月5日[1] |
| 没年 | 1128年/1156年(存爭議) |
| 父 | 順宗(長男) |
| 母 | 貞順蕭皇后 |
| 皇后 | 蕭皇后 |
| 年号 | 乾統 : 1101年 - 1110年 天慶 : 1111年 - 1120年 保大 : 1121年 - 1125年 |
天祚帝(てんそてい、1075年6月5日 - 1128年/1156年)は、遼の最後の皇帝(在位:1101年2月12日 - 1125年3月26日)。
目次 |
[編集] 生涯
1075年(太康元年)、第8代皇帝道宗の子の順宗章懐太子耶律濬(梁王耶律浚、阿魯斡)の子として生まれる。政争の結果、幼くして父を失い、これを哀れに思った祖父道宗によって妹の秦晋国長公主(諱は延寿)とともに養われ、梁王に冊封された。一時的に祖父道宗は甥の耶律淳を皇太甥に定めるも、周囲の諫めを受けて天祚帝が皇太孫となった。1101年(乾統元年)、道宗の崩御により皇帝に即位する。
即位した天祚帝は暗愚な性格であり政務を顧みず、家臣の諫言に対しては処罰を以って臨むなど、民心の離反を招いた。外交面でも1115年(天慶5年)に遼に従属していた女真族が金を建国して独立すると、討伐軍を派遣したが逆に大敗、遼の弱体化を露見させる結果を招いた。
1121年(保大元年)に、枢密使の蕭奉先(遼の外戚)が、天祚帝の嫡子で太子候補の晋王耶律傲盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余賭(余覩ともいう。晋王の叔母の夫)と対立していた。そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王耶律定(のちの北遼の2代皇帝)を太子とすべく「余賭による晋王・傲盧斡擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を信じてしまった。そのため、耶律余賭は危険を感じて金に降ってしまった。間もなく晋王の生母の蕭文妃を賜死させ、さらに翌年1月に、擁立の疑いを持たれた晋王も処刑されてしまった。蕭奉先の思惑通りに秦王が太子として定まった。
1122年(保大2年)3月初7日、金の太祖と入来山で戦って大敗し、長春に逃れた。そのため同月13日に皇族の耶律大石と李処温らは天祚帝の従父(おじ)の耶律淳(宣宗・天錫帝)を擁立し北遼が建国されている。やがて、遼と敵対関係にある金は遼の弱体化を好機と捉え、1125年(保大5年)に北宋と同盟を結び遼に侵攻する。金宋連合軍に敗れた天祚帝は潜伏地の雲州(山西省)の陰山から逃亡する途中、応州で金の捕虜にされて金軍に降伏、遼は滅亡した。
後に天祚帝は「海濱王」に冊封され長白山に送られて余生を過ごした。1128年(天会6年)8月に病死。齢54[2]。
遼が滅亡したため、耶律大石は中央アジアに逃れて西遼を建国した。そのため、遼は在続することになる。
なお、天祚帝の末裔は金の海陵王により一族が誅殺され、断絶している。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
[編集] 子女
- 晋王・耶律敖盧斡(? - 1122年、または「傲魯斡」)
- 梁王・耶律雅里(北遼の3代皇帝)
- 燕王・耶律撻魯(1097年 - 1104年、早世)
- 趙王・耶律習泥烈
- 秦王・耶律定(皇太子、北遼の2代皇帝)
- 許王・耶律寧(梁王、秦王の同母弟)
- 蜀国公主(諱は余里衍)
- 公主(諱は骨欲)
- 公主(諱は斡里衍)
- 公主(諱は大奥野)
- 公主(諱は次奥野)
[編集] 脚註
- ^ 《遼史・道宗本紀》記載:大康元年閏四月,“庚戌,皇孫延禧生。”用萬年曆換算為西曆則是1075年6月5日。
- ^ 『宣和遺事』(南宋末に成立)によると、天祚帝は長命したが、1156年に海陵王の命令で欽宗とポロの競技をすることになり、欽宗は試合の最中に落馬して馬に踏まれて死亡。天祚帝は逃亡しようとしたが射殺された。齢82だったと、記されている。ただし、これは単なる通俗説話のため、どこまで史実なのかは疑問視される。正史での欽宗の没年には矛盾点があり1156年没としたほうが辻褄があうのは事実だが(該当項目参照)、天祚帝に関しては正史の記述に比べて寿命が不自然に長くなってしまう。
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