紀元前226年

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紀元前226年(きげんぜん226ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「マルクス・ウァレリウス・マクシムス・メッサラルキウス・アプスティウス・フッロ共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元528年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前226年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

ギリシア[編集]

共和政ローマ[編集]

セレウコス朝[編集]

中国[編集]

  • 10月、王賁の都のを陥落させた。燕王喜燕太子丹は遼東に逃れたが、李信がこれを急追した。燕王喜は代王嘉の勧めに従って太子丹を殺害し、秦王政に献上しようとした。しかし秦王はさらに兵を進めて燕王を攻撃した。
  • 王賁がを攻撃し、十数城を奪った。秦王政が李信に楚を攻めるための兵数を訊ねると、李信は「20万で充分です」と答え、秦王が王翦に訊ねると、王翦は「60万はないといけません」と答えた。秦王は王翦が老いたものと思い、李信と蒙武に20万人を与えて楚を攻めさせた。王翦は病を理由に頻陽に帰った。
  • の旧都の新鄭に対する反乱が起こった。
  • 昌平君に移された。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

注釈

出典

関連項目[編集]