孫武
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孫武(そんぶ、紀元前5世紀頃)は、中国春秋時代の将軍で、孫子とも称され、兵法書『孫子』の作者と伝えられる。兵家の代表的人物に数えられる。字は長卿[1]。孫臏の先祖。
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[編集] 人物
孫武の祖父は斉の名門の田氏で田完から五世の子孫で、軍功あって孫姓を賜り、孫氏を立てた。孫武の代になって、一族で内輪揉めがあり、孫武は一族郎党を連れ江南へ逃れた。
ある時、『孫子』十三篇を耽読した呉王・闔閭によって招かれた。
「わしの側室である女性達で軍隊を編成してみよ」との命を受け、孫武は王の愛妾二人を隊長に部隊を編成した。だが、女性達は孫武の指示に一向に従わない。
しかし孫武は「まだ命令の内容が皆によく理解されていなかったのだろう。命令への理解を欠いたまま、兵に不明確な指示を出してしまったのは指揮官たる私の落度である」と言って、指示の内容を何度も繰り返し説いた後に再び指示を出した。
しかし女性達は相変わらず孫武を馬鹿にして、ただ笑っているばかりだった。すると孫武は「私は編成の取り決めを再三にわたって説き、皆に申し渡した。命令が全軍に行き届いていないことや指示の不明確さなどは私の落度だが、今は指示も命令も間違いなく行き渡っていよう。それなのに誰一人命令に従う者がいないならば、その隊長たる者には軍令に背いた責任を問わねばならない」と言うと、隊長である二人の愛妾を斬ろうとした。
その様子を見て驚いた闔廬は慌てて「わしの落度だ。わしに免じて彼女らを許してやってくれんか?」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として命を受けた以上、軍中にあってはたとえ君主の意向といえども従いかねる事もございます」と言って、願いもむなしく隊長と定めた闔廬の愛妾を二人とも斬ってしまった。そうして残った女性達の中から新たな隊長を選び出して練兵を行うと、今度こそどのような指示にも背こうとする者は一人もいなくなった。
闔廬は甚だ不興であったが、以後孫武の軍事の才の確かなことを認め、正規の将軍に任じた。その後、呉は隣国の楚を破ってその都にまで攻め入り、北方では斉、晋を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績は孫武の働きによるところが大きかった。
[編集] 活躍とその後
呉は孫武や伍子胥の活躍により連戦連勝、楚を壊滅させた。その後呉と越の戦いで闔閭が戦死し、その次男である太子の夫差が即位すると、孫武は将軍職を辞し呉から去って行った。
孫武には孫馳・孫明・孫敵という三人の息子がいたという[2]。
[編集] 『孫子』
「孫子 (書物)」も参照
以前『孫子』については、
- 『史記』以前の古籍にその名が全く見られないこと
- 「武(武力、用兵に優れる)」という名があまりにうまく出来過ぎていること
- 『漢書』「芸文志」には「呉孫子兵法八十二篇図九巻」あって、現行の十三篇の孫子と符合しないこと
などの理由から、現存する『孫子』を孫臏の著作と見なし、孫武は架空の人物であるとする意見も根強かったという。
だが、1972年、山東省で孫臏の著した兵法書(『孫臏兵法』)の竹簡が発見されたことにより『孫子』が孫武の著作であると証明され、その実在が確かめられたのである。
[編集] 孫武を題材にした小説
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 立命館大学文学部人文学科中国文学専攻※電子文献内の『魏武帝註孫子』。平津館叢書本の魏・曹操註の『孫子』テキスト原文。
- 孫武 - 孫子兵法の著者
