孫策

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孫 策[1](そん さく、175年200年)は中国後漢末の武将。字は伯符長沙桓王

目次

[編集] 概要

呉郡富春[2]の人。呉郡の将軍である孫堅の長子。弟にの初代皇帝となった孫権がいる。

若くして父を亡くし、袁術の将となる。19歳のとき、袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を成し、劉繇を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃され、傷が原因で死去した。享年26。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙桓王とされた。 『三国志演義』中では、躍進のめざましさから「小覇王」と称される。

[編集] 家系図

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孫羌    孫堅                                      孫静                ●
┣━━┓  ┣━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━┓--┓  ┣━━━━━┳━━┳━━┳━━┓  ┣━━┓
孫賁 孫輔 孫策 ①孫権                         孫翊 孫匡 孫朗 ●     孫瑜 孫皎 孫奐 孫謙 ●  孫河
      ┃   ┣━━┳━━━┳━━━━━┳━━┳━━━┳━━━┓     ┃     ┣━━┓              ┃  ┃
      孫紹  孫登 孫慮  孫和    孫覇 孫奮 ③孫休 ②孫亮    ●     ●  ●              孫韶 孫桓
      ┃   ┃      ┣━━┓  ┃                ┃     ┃  ┃
      孫奉  孫英    ④孫皓 孫謙 孫壱               孫秀    孫綝 孫峻

[編集] 血縁

父は孫堅。母は呉夫人呉景の姉)。弟に孫権孫翊孫匡がいる。異母妹に孫夫人劉備の妻)。正妻は不明。妾または妻の1人に大橋[3]がいる。子は孫紹。3人の娘は顧邵(顧雍の長子)、陸遜、朱紀(朱治の次子)に嫁いでいる。

[編集] 人物

容姿端麗で、人との会話を好み闊達な性格であったと言われる。少年の頃に同年の周瑜と知り合い、孫策の死までその友情は続いた。2人の友情は「断金」の交わりと讃えられたという[4]

[編集] 経歴

[編集] 雌伏の時代

192年に孫堅が劉表との戦いで死去した後、一時的に江都に移り住んだ。孫堅の軍は解体され、主家筋にあたる袁術の軍に吸収されていた。当時の孫策の旗下には、江都で知り合った呂範と、一族である孫河のみが付き従っていた。

194年、袁術に対し孫堅の軍の返還を求め、1000人強の兵を得る。数こそ少なかったが、その中には朱治黄蓋韓当程普といった、孫堅軍の中核を成した武将たちが揃っていた。

袁術軍の一角として異彩を放ち始めた孫策であったが、袁術からはその才覚ゆえに危険視された。九江太守、廬江太守の約束を反故にされながら、孫策は江東で自立する機会をうかがっていた。その間も孫策は人材を得るための時間を割くことは惜しまなかった。なかでも張紘張昭といった知謀の士や、蒋欽周泰陳武凌操といった武勇を誇る猛者を得たことは、ますます孫策の人材層を豊かにした。

[編集] 劉繇を倒す

袁術と揚州刺史である劉繇は、揚州の支配をめぐって対立していた。補佐役であった朱治の勧めもあり、孫策は袁術に対し、劉繇と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを申し出る。袁術は寡兵である孫策が江東で独立できるとは思っておらず、これを承諾した。歴陽で呉景の軍と合流した孫策であったが、ここで周瑜との再会を果たす。周瑜は孫策に兵力・情報を提供し、共に江東制覇に尽力した。

195年、緒戦を連勝に収めた孫策軍は、劉繇のいる曲阿に進軍する。その間に、わずか1000人強しかいなかった孫策軍は劉繇軍を凌駕する規模に達していた。

あるとき、劉繇の部将である太史慈が孫策軍を偵察していると、周囲に少数の騎兵しか従えていない孫策に出会った。太史慈は孫策に一騎打ちを挑み、孫策もこれに応じた。数合打ち合ったが勝負はつかず、引き分けに終わる。正史において一騎打ちという事象は珍しいものであり、さらに頭首がそれを受けたというのは稀有な事例である。

やがて劉繇は拠点であった曲阿を捨てて逃亡する。主のいなくなった曲阿を落とした孫策は、ここを拠点として勢力の拡大を図った[5]。また、劉繇を失った太史慈は反乱軍を糾合し、丹陽太守と自称して孫策に対抗する。

[編集] 袁術からの独立

地盤を確保した孫策であったが、袁術との関係を維持するため、袁術から借り受けた兵のうち、叔父の呉景、従弟の孫賁の軍を返す。また、周瑜も一旦叔父である丹陽太守周尚のもとに帰った。そして周瑜は丹陽における孫策の支配をより強固なものにしていった。

196年、曲阿を始めとする丹陽郡を手中にした孫策は、呉郡、会稽郡の攻略に取り掛かる。呉郡攻略において、呉郡太守であった許貢に勝利し、会稽郡の攻略においては太守であった王朗に勝利する。戦いに敗れた許貢は反乱勢力であった厳白虎のもとへ逃亡し、王朗は孫策に降伏した。また、独立勢力となっていた太史慈を打ち破り、自らの部下として迎えた。

197年、孫策が強大化するのを怖れた袁術は、丹陽太守を一族である袁胤にし、孫策への備えとしようとした。これに対し、孫策は武力をもって袁胤を追放し、ついに袁術に対し独立を宣言する。孫策の独立に応じ、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて孫策の元へ合流する。また、呉景、孫賁も袁術を見限り、孫策に従う事となった。

[編集] 躍進

江東の支配を宣言した孫策は、自らの体制を整えるべく人材登用を積極的に行った。その中には呂蒙や、元は王朗配下であった虞翻も含まれていた。また、自ら会稽太守を称するとともに、江東の周辺郡の太守を任命した。

孫策は電撃的に江東一帯を制覇したが、そのために各地に反乱分子を抱えることになった。江東に反乱分子を抱える限り中原への進出は実現できないため、孫策は反乱分子の鎮圧に乗り出した。これにより厳白虎をはじめとして、反乱分子である各地の豪族、地方宗教勢力が粛清された。このとき元は呉郡太守であった許貢は「孫策の勢いは項羽に似る」と朝廷に上奏しようとしたが、これを知った孫策は怒り、粛清対象として許貢を殺害した。

やがて袁術が皇帝を僭称し始めると、孫策は反袁術の姿勢を鮮明にするため、皇帝を擁する曹操に近づく。反乱の続発する江東を支配するためにも、朝廷の権威が必要であった。しかし両者の関係は微妙なものであり、袁術の死を契機に崩れてしまった。

199年、袁術が失意のうちに死去すると、旧袁術軍は劉勲のもとに身を寄せることになったが、孫策、曹操ともこの兵力を自軍に組み込むべく工作を謀った。孫策は劉勲に対し、計略を仕掛けて居城を空けさせた上で、旧袁術軍を一挙に手に入れることに成功した。

大軍を手中にした孫策は、次の敵として父の仇である黄祖に攻撃を仕掛ける。黄祖は孫策と戦うことの危険性を十分に把握していたが、圧倒的不利の中、ついに敗走の憂き目を見た。続いて孫策は豫章を平定し、江東、江南をその支配下に治めた。

[編集] 突然の死

200年、孫策は曹操の主力が袁紹に向かっている隙を狙い、曹操の本拠である許都攻略を計画する。しかしその矢先、許貢の残党により長江のほとりで襲撃されて重傷を負ってしまう。

孫策は後継に実子の孫紹ではなく弟の孫権を指名し、その補佐役として張昭と周瑜を指名して26歳で死亡。死に際して、張昭ら幕臣には孫権の補佐を頼み、孫権には「天下の均衡争いに与するようなことは、君は私のようにはできるまい。しかし、才能ある者を用い、江東を保っていくことについては、私は君には及ばない。」と、臣下の言を重んじ江東を固く保つことに意を注ぐよう言い残したとされる。

後年、皇帝となった孫権により、長沙桓王された。父孫堅が皇帝位を与えられたのに対し、孫策への追号が王位に留まった事に関する実態は不明である。

[編集] 評価

陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用いて、志は中国全土を圧倒するほどだった。しかし、孫策は軽佻で性急だったので、身を滅ぼしてしまった。また孫策が呉の国の基盤を作ったのに、孫権の孫策に対する尊敬が足りず、孫策の息子が侯爵にしかなれなかった。」と評している。

[編集] 三国志演義に描かれる孫策

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三国志演義』では、その躍進のめざましさから「小覇王」と呼ばれている[6]。最期については『捜神記』の記述をもとに、呉に現れた道士于吉の霊により呪い殺されるという設定になっている。

于吉に民の人望が集まることを憎んだ孫策は、于吉に難題を押しつけるが、于吉はそれをことごとくこなしていったため、彼を殺害してしまう。その後、孫策は厳白虎の残党に襲われ負傷するが、たいした傷ではなかった。しかし、死んだはずの于吉がその傷を悪化させるように毎晩孫策の前に現れて、ついにその傷が深くなり危篤になったとしている。

[編集] 脚注

  1. ^ 簡体字の表記:孙策ピン音sūn cèラテン文字への翻字:Sun Ce。
  2. ^ 現在の浙江省杭州市富陽県。
  3. ^三国志演義』では大と呼ばれる。なお『三国志』には正妻であったとは記されていない。
  4. ^ 「呉書」孫破虜討逆伝の注に引かれた『江表伝』には「義同断金」(義を同じくして金をも断ち切るほどであった)とある。「断金」という表現は、元々は『易経』の「二人同心、其利断金」(二人が心を同じくすれば、金をも断ち切る力を発揮する)という文言による。
  5. ^三国志演義』などでは、孫策はこれ以降「小覇王」または「江東の麒麟児」と呼ばれるようになったとされる。
  6. ^ 「覇王」とは項羽の称である。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目