荀攸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

荀 攸(じゅん ゆう、157年 - 214年)は、末期の後漢曹操に仕えた軍師公達。同じく曹操に仕えた荀彧の甥。荀曇の孫、荀彝の子、荀緝・荀適の父。荀彪の祖父。

曹操は司空府・丞相府において軍師祭酒による参謀集団を構成したが、とりわけ荀攸はその筆頭人物として扱われ、「軍事・国政・人事・裁判・法制はみな荀攸に決させた」(『通典』)と評された。ちなみに軍師祭酒という役職は、現存する史料を照らせば、明確に制度化された世界で初めての軍師職である。

目次

[編集] 経歴

[編集] 少年期

荀攸が8歳の頃、叔父(当時2歳の荀彧ではない)が酔っ払い、誤って荀攸の耳を傷つけた事があった。 ところが荀攸は部屋を出たり入ったりして遊びまわるとき、 いつも耳を隠して叔父の目に止まらないようにしていた。 叔父は後になってこの事を聞き知り、そこで初めて驚き、謝罪し、高く評価した。(『魏書』)

13歳のとき元下役が父の墓守をしたいと申し出た。荀攸はこれに疑惑を抱き、叔父に向かって「様子がおかしい、何か悪さをしたのでしょう。」と言った。 叔父は思い当たる事があって、取調べをすると、案の定殺人を犯して逃亡してきたのであった。この事から叔父は荀攸の才格をさらに高く評価するようになった。

[編集] 董卓暗殺計画に加担

何進に招聘されて黄門侍郎となった。何進死後、董卓の専横を見て憤り、その暗殺計画を図る。しかし事前に発覚して董卓に投獄され死刑が決められた。しかし、その死刑執行前に董卓が王允らに暗殺されたため、荀攸は助け出された。その後、優秀な成績で推挙され[1]、自ら望んで蜀郡太守となるも、劉焉が既に交通路を断っていた為、荊州に留まった。

献帝をその本拠に迎えた曹操が書状を送り、荀攸を召しだし、荀攸は曹操の軍師として仕えた。曹操はその名声を聞いていたので、「公達は並々ならぬ人物だ。 彼がいれば天下になんの憂いがあろうか」と語った。

[編集] 曹操軍の筆頭参謀

198年、荀攸は張繍征伐に随行した。荀攸は曹操に向かって「張繍と劉表はお互いに助け合ってるから糧に困らず強力なのです。」と言い、劉表の兵糧供給を断ち切ろうと進言したが曹操は取り合わず、 張繍が危なくなると劉表は荀攸の予想したとおり彼を救援し、曹操は負け戦となった。曹操は「君の意見を用いなかったからこんな目にあった」とくやしそうに取り合いながらも笑い、再戦では奇襲部隊を使って勝利した。

呂布との戦いで、曹操は攻めあぐねて撤退しようとしたが、荀攸と郭嘉は「呂布の気力が回復し、陳宮の計略が定まる前に、厳しく攻め立てれば、攻め落とせるでしょう」と、曹操に進言した。そこで、曹操は下邳城を水攻めし、呂布は降伏した。『三国志』魏書武帝紀によれば、曹操は士卒が疲弊していたので退却しようとしたが、荀攸と郭嘉の水計を採用し、下邳城を水攻めしたとされる。

200年官渡の戦いで荀攸は大いに活躍している。まず、荀攸は曹操に「囮軍を渡河させ、袁紹軍を分散させる」ことを進言し、顔良を撃破させた。この戦いで顔良は関羽に討ち取られている。その後、輜重隊を囮に使う策を進言し、文醜も撃破させた。この戦いで文醜は討ち取られている。その後、曹操は荀攸の進言に従って、徐晃史渙に袁紹軍の輸送隊を攻撃させ、数千台の穀物輸送車を焼き払った。

戦局が膠着し始めると、袁紹軍の重臣許攸が兵糧守備隊の情報を持って降伏してきた。諸将はこの降伏を罠ではないか疑ったが、荀攸は賈詡と共に許攸の意見を支持した。曹操は荀攸らの意見を汲み取り、即座に行動を起こし、自ら歩騎五千人を率いて淳于瓊軍を強襲した。この奇襲で袁紹軍は兵糧を失い、その後、張郃らが降伏したことにより、袁紹軍は崩壊し、官渡の戦いで曹操軍は勝利した。

曹操軍はこの戦いの後も、態勢を立て直し攻めて来た袁紹を打ち破っている。袁紹が失意の内に死去した後、その子らは骨肉の争いを始めた。袁尚との戦いに敗れた袁譚が降伏してきた時、荀攸はこの機会に袁譚と袁尚の争いに乗じて旧袁紹領を平定するよう進言した。曹操はこの意見に賛同し、袁譚と和睦し、袁尚を撃破し、袁譚が背くと袁譚を滅ぼした。これらの功績から陵樹亭侯に封じられた。

207年、曹操は「忠義公正で、緻密な計略をたて、国の内外を鎮撫した者としては、荀彧がこれに該当し、荀攸がその次に位置する」と述べ、荀攸の領邑を4百戸加増し、合計7百戸にし、荀攸を中軍師に任命した。曹操が魏公となると、荀攸は尚書令となった。

214年、曹操の孫権討伐に従軍しているときに病に倒れて、まもなく陣中で死去した。敬侯と諡された。曹操は荀攸の話をするたびに涙を流したという。

[編集] 逸話

荀攸は思慮深く、事を処理する能力と危険をさける英知をもっていた。曹操に従軍するようになってからは、いつも陣幕の中で計略を考えていたが、彼は必要最小限の人間にしか、その計略を語らなかった。曹操は荀攸を、「荀攸は一見愚鈍に見えても、内側には英知を有し、臆病に見えて勇敢であり、善をひけらかさず、面倒な事を人に押し付けない。その英知には近づけるけど愚鈍さには近づけない。顔回甯武子でも荀攸以上ではないだろう」と高く評価している。

曹操は、太子であったころの曹丕に、「荀攸は人の手本となる人物である。おまえは礼をつくして彼を尊敬しなければならぬぞ」と語った。荀攸が病気になった時、曹丕は見舞いに訪れ、荀攸の寝台の下で拝礼をした。

荀攸が前後にわたって立てた奇策は合計して十二個あったが、仲が良かった鍾繇しかその内容を知らなかった。 鍾繇は荀攸の著作集を編集していたが、完成しないうちに逝去した。その為に荀攸の全計略が後世に伝わらなかった。

荀彧の子息は、時に自分たちの従兄弟の荀攸の方が父より人間的に立派だと言い合った。 その理由は、荀彧は高邁かつ理路整然として犯しがたかったが、 荀攸は表面的な行動や体裁を整えようとはせず、ひたすら慎み深く目立たなかったからだという。

[編集] 三国志演義

三国志演義』では、214年に曹操が王に昇ろうとするのを反対し、それが曹操の怒りを買い、荀攸はまもなく苦悶の内に病死した事になっているが、正史では曹操が王になることに反対した事実はない。叔父荀彧とは違い、曹操との関係は終始良好であった。

[編集] 脚註

  1. ^三国志鍾繇伝注によれば、荀攸は孝廉に推挙されている。