呂拠

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呂 拠(りょ きょ、?-256年)は、三国時代武将政治家に仕えた。呂範の子(次男)。世議。妻は孫奐の娘(孫壱の妹[1])。『三国志』では呉志「呂範伝」に付伝されている。

生涯[編集]

兄がいたが夭折している。父が呉の高官であったため、孫権に若くから郎にとりたてられ、呂範の病気が重くなると副軍校尉となり、父の軍務を補佐した。父が228年に死去すると、安軍中郎将に昇進した。

山越討伐で頭角を現し、彼が攻撃すると賊はたちまちのうちに敗れ去ったという。潘濬の武陵蛮の討伐にも従軍した。

との戦いにおいても活躍し、241年朱然の樊城攻略に従軍し、朱異と協力して城外防衛陣を打ち破ったことが評価され、偏将軍となった。のちに宮廷に移って、馬閑右部督・越騎校尉となった。

二宮事件では魯王孫覇を支持したという[2]

250年、魏の文欽が偽の投降してきたため、これを見抜いた朱異の忠告を受け、孫権は呂拠に命じて2万人の兵士を引き連れて国境に赴かせたが、文欽は現れなかった[3]251年長江が氾濫し、城門まで水に浸かる被害が出たが、呂拠は流されそうになった舟をつなぎとめるなど、被害が出るのを防ぐために尽力した。たまたまこの様子を見ていた孫権はこれを喜び、呂拠を盪寇将軍とした。孫権が重態となると、太子右部督に任命され、臨終のときには諸葛恪孫弘孫峻滕胤と共に呼び出され、後事を託された[4]

孫権が死去し、孫亮が即位すると右将軍となった。252年、魏の胡遵諸葛誕が呉の東興を攻めた時は、諸葛恪の指揮の下、丁奉留賛・朱異らとともに魏軍を大いに破った(東興の戦い)。

孫峻が諸葛恪を謀殺し権力を手中にすると、呂拠の歓心を得るため253年驃騎将軍に昇進させ、西宮のことを任せた。255年、魏で毌丘倹達が反乱を起こすと、孫峻はこれに乗じて寿春に侵攻するが、その際に呂拠に仮節を与えている。呂拠は孫峻に従い寿春を攻め、降将の文欽を収容し撤退した。その途中、高亭で魏の曹珍の追撃に遭うが、丁奉とともに曹珍を破った。

256年、孫峻は再び軍を北上させて魏を攻撃しようとしたが、呂拠の陣に立ち寄ってまもなく孫峻は体調に異変を起こし急死する。孫峻の権力は従弟の孫綝が継承したが、呂拠はこの措置に憤り、軍勢を率いて遠征先から引き返し、諸将とともに上奏し、孫権から後事を託された臣下の一人である滕胤を丞相とするよう上奏した。しかし、孫綝は滕胤を武昌に出鎮させ中央から遠ざけた上で、呂拠の指揮下にいた文欽や唐咨達に呂拠を討つよう詔で呼びかけ、さらに従兄の孫憲・丁奉・施寛を呂拠の討伐のため江都に向かわせた。呂拠は部下から魏への降伏を勧められたが、謀反人となることを恥じて自殺したという。彼の一族も殺害された[5]

陳寿は呂拠のことを、朱異や朱績と共に軍の指揮官として優れた才能の持ち主で、父祖の功業をよく受け継いだと評価しているが、同時に朱異と共に、彼等の親達に見られたような欠点は見つからないものの、時代の変化のため命を落したとも評している。

脚注[編集]

  1. ^ 呉志「宗室伝」
  2. ^ 「呉主五子伝」注に引く『通記』。当時の官位は左将軍であった。
  3. ^ 「朱異伝」
  4. ^ 「諸葛恪伝」
  5. ^ 呉志「三嗣子伝」によると、滕胤が滅ぼされた後に、新州において捕縛されたという。