劉禅
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| 後主 劉禅 | ||
|---|---|---|
| 蜀漢 | ||
| 2代皇帝 | ||
| 王朝 | 蜀漢 | |
| 在位期間 | 223年 - 263年 | |
| 姓・諱 | 劉禅 | |
| 字 | 公嗣 | |
| 諡号 | 孝懐皇帝(劉淵による) | |
| 生年 | 207年(建安12年) | |
| 没年 | 271年(泰始7年) | |
| 父 | 劉備 | |
| 母 | 甘氏 | |
| 陵墓 | 恵陵 | |
| 年号 | 建興(223年 - 237年) 延熙(238年 - 257年) 景耀(258年 - 263年) 炎興(263年) |
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| ※幼名は阿斗 | ||
目次 |
[編集] 略歴
207年、父・劉備が劉表に身を寄せ、荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれる。翌208年に曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われ、九死に一生を得た。劉備が益州の蜀を奪い、さらに漢中を攻め取って漢中王になると太子になった。221年の夷陵の戦いにおいては、呉の孫権の征伐に赴いた劉備に成都の留守を任された。劉備が夷陵において敗退すると、益州で反乱が勃発するが、諸葛亮らの働きでこれを鎮圧している。
223年、父・劉備の死に伴い17歳で皇帝に即位した。以降は諸葛亮らに政務を任せて国を守る。234年に諸葛亮が死去した際には劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表している(『華陽国志』「広漢士女」による)。蔣琬や費褘、董允などの能吏に支えられ国を維持していた。劉禅自身の行為としては、後宮の人員増員を要請したり、遊興や行幸したという記録が多く残っており、譙周に諫言されている。
237年に皇后の張氏(敬哀皇后)が没し、238年に張氏の妹を妻とした(張皇后)。
243年に蒋琬が病気になり一線を退き(246年死去)、246年に董允が没し、国が傾き始める。後主伝では蒋琬の死後から劉禅が自ら政治をみるようになったとあるが、大赦を濫発するなど政治は弛緩し、宮中は奢侈に流れた。また、董允の死が、それまで抑えられていた宦官黄皓の台頭を許してしまった。弟の劉永ですら黄皓のために宮中から遠ざけられる状況であった。さらに253年に費褘が暗殺されると、軍を掌握した姜維がたびたび大規模な北伐を企てるが戦果は挙がらず国力が疲弊した。258年には黄皓が政治的な権力を握るようになった。
260年には関羽や張飛といった建国の功臣に諡号を濫発し、261年には諸葛亮の子の諸葛瞻が取り立てられたが、黄皓の権力の掣肘とはならず、262年には姜維が黄皓の殺害を企て、黄皓は姜維を讒言する有り様であった。
263年に魏の軍勢が蜀に大規模な攻勢をかけると姜維は援軍を求めたが、黄皓は敵が来ないという占いを劉禅に信じさせたため、防衛は後手に回り、陰平方面から迂回して進軍してきた魏軍が江油の馬邈を降参させ、綿竹で諸葛瞻を討ちとると、抵抗の手段を失い、南蛮や呉への逃亡を図るが、結局、譙周の勧めに従い降伏した(蜀漢の滅亡)。このとき子の北地王劉諶が自害している。また魏の将軍に略取されそうになった愛妾の李昭儀が自害したという。
264年の魏の益州侵攻軍の内紛の際に姜維より蜀再興の手紙を渡されたというが、結局反乱は失敗し、このとき姜維等旧臣の多くと太子の劉璿を失う。劉禅は生き残った子達と共に洛陽に移った。伴した家臣は郤正などわずかな者だけであった。
『漢晋春秋』にある、魏の実権を握る司馬昭に宴会に招かれた際の逸話は有名である。その後、先祖代々の土地である幽州の安楽県の安楽公に封じられた。長男の劉璿に先立たれていたため、後継者を決めることになったが、劉禅は次男の劉瑤をさしおいて六男の劉恂を後継としようとし旧臣の文立に諌められた。271年に65歳で死亡した。
安楽公を継いだ劉恂は道義を失う振る舞いをたびたび行い、旧臣の何攀達に諫言されたという。最後は永嘉の乱に巻き込まれ、劉恂も含めて劉備・劉禅の子孫は皆殺しにされた。ただ、従孫の劉玄(弟・劉永の孫)だけが生き延びて、成蜀を頼ったという。
[編集] 血縁
兄弟
- その他、二人の姉妹がいた。[1]
妻
子
- 劉璿 皇太子(237年)、264年死去
- 劉瑤 安定王(237年)、
- 劉琮 西河王(252年)、262年死去
- 劉瓚 新平王(256年)
- 劉諶 北地王(259年)、263年死去
- 劉恂 新興王(259年)、晋の安楽公(271年)、永嘉の乱で死去?
- 劉璩 上党王(259年)
従孫
- 劉玄(劉永の孫)
[編集] 逸話
蜀が滅んだ後のこととして、蜀書・後主伝が引く『漢晋春秋』に以下のような逸話が記されている。
宴席で蜀の音楽が演奏されて蜀の旧臣が落涙していたときにも劉禅は笑っていた。それを見て司馬昭は「人はここまで無情になれるものなのか。諸葛亮が補佐し切れなかったのであるから、姜維にはなおさら無理であっただろう」と賈充に語った。
また、司馬昭が劉禅に「蜀を思い出されることでござろうな」と尋ねたところ「ここの暮らしは楽しいので蜀を思い出すことはありませぬ」と答えた。蜀の旧臣・郤正が「あのような質問をされたら、『先祖の墳墓も隴・蜀にありますので西のくにを思って悲しまぬ日とてありませぬ』とお答えください」と諫めた。司馬昭は再度「蜀を思い出されることでござろうな」と質問した。劉禅は郤正に言われたとおりに答えた。「これはまた郤正の言そのままでございますな」と司馬昭に言われ、劉禅は驚いて「はい、そのとおりです」と答えて大笑いになった。
[編集] 人物
後主伝の本文において劉禅自身が為政者として国の重大な政治事件について取った能動的行動は、魏に対する降伏以外ではほとんどなく、呉との同盟復活や南蛮の反乱鎮圧、皇帝を称した呉との関係修復、相次ぐ北伐、244年の魏による蜀侵攻、などといった蜀の抱えた重要な政治課題、軍事課題について劉禅が為政者として能動的に行動した場面はほとんどない。同時代人でもある陳寿は「孫皓のように残虐な振る舞いは行わなかったが、進んで善政を布いたわけでもない」と評している。
『華陽国志』「広漢士女」による、諸葛亮が死去し喪に服した際に、臣下の李邈[2]に「諸葛亮は大軍を率いて隙をみて裏切ろうとしていた節があります。彼の死は皇室御一家にとって禍が去り、安泰になった証拠であります。これは国中で祝賀すべきことで葬式をすべきことではありません」と述べた。激怒した劉禅は彼を即座に処刑した、とある(『華陽国志』「広漢士女」)。
同時期に魏延が反乱を起こした際は、その三族を処刑し、劉備以来の臣下であった、劉琰を、劉琰の妻に対する暴行を理由に処刑しているが、廖立伝によると、諸葛亮が廖立の非を上奏したのを受けて発した詔勅では劉禅が死刑にするのは忍びなかったという理由で廖立は流刑とされている。
その他、249年に魏の将軍夏侯覇が投降した際には、張氏を通じて夏侯氏と劉氏は縁戚であると述べている。
[編集] 評
蜀の旧臣陳寿の『三国志』では、「白い糸は染められるままに何色にも変ずると書かれている。(周りの人間が有能ならよく、悪かったら駄目になるような人間である」という主旨)。孫皓のように残虐な振る舞いは行わなかったが、進んで善政を布いたわけでもない。隣国の呉では政情不安定のため謀反や反乱が頻発していたが、蜀では諸葛亮の死後、三相らが政治を引き締めており、謀反や反乱は起きなかった。評は「あれほど出兵しながらもみだりに恩赦などを行わなかった点は、なかなかに賢明である。しかし、諸葛亮が死んだ後の事を考えれば、優劣は歴然としている」と締めくくっている。
なお、『晋書』「李密伝」で元蜀の臣下でもある李密は、名臣を信じて成功し、奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」と述べている。
かつて彼の像が成都の武侯祠に存在したが、嫌悪されること甚だしく、その像は何度も破壊された(何度か再建されている)という。涿県(現在の河北省保定市涿州)の三義宮には、「小三義殿」という場所があり、そこに、関興・張苞とともに祭られている。
[編集] 『三国志演義』
母親が妊娠中に北斗七星を呑む夢を見たという事から、幼名を「阿斗」[3]と付けられる。
諸葛亮の謀反を疑って彼を北伐の前線から召還したり、魏と内通した黄皓にいわれるがまま姜維をやはり前線から呼び戻し、しかも黄皓を庇うなど暗君との印象がより一層強い。また、諸葛亮が召還された際に劉禅が酒におぼれ肥えた体を見て蔣琬や費褘らに劉禅の教育を厳しく行うよう命じている。この暗君のイメージのため「阿斗」が中国では愚か者の事を、阿斗と言われており、阿呆の語源であるという俗説まである。
[編集] 脚注
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