張既

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張 既(ちょう き、? - 223年)は、後漢末期から三国時代にかけての武将政治家徳容張緝、張翁帰の父。張藐及び曹芳の皇后(張皇后)の祖父。馮翊高陵の人。

[編集] 経歴

容姿動作に優れ、書簡に巧みだった。16歳で郡の小役人になった。後に郡の高官を歴任し、孝廉に推挙されたが出仕しなかった。後に曹操により司空府に招かれたが、司空府に行く前に、茂才となり新豊の県令となった。その治績は三輔第一であったという。

また鍾繇と共に馬騰馬超父子の対策に尽くし、馬騰らを説得し、馬超らに郭援を滅ぼさせた。この功により議郎に任命され、さらに馬騰を説得して、軍の指揮権を放棄させて見事朝廷に出仕させた。その後、馬超や関中の豪族が曹操に対して反乱を起こすと、曹操に従い馬超を討伐し(潼関の戦い)、その功績により京兆尹に任じられた。

後漢帝国内の一藩国として魏が設立された後には、尚書雍州刺史となり、族討伐や宋建討伐で功績を挙げた。漢中攻防戦では、曹洪と共に劉備軍の呉蘭を撃退している。

張既は、長安と三輔の人口を充実させるために、漢中の数万人の住民を長安と三輔に移住させるように曹操に提案したことがあった。これを受けて杜襲が、漢中の八万人の住民を洛陽に移している。

曹操は、劉備が武都族を味方につけて圧力をかけてくることを心配して、張既にどうすれば良いか質問した。張既は「氐族を北方に移住させ、から避けさせれば良いでしょう」と答えた。曹操はこれに従い、張既に命じて、武都の五万人の氐族を扶風・天水に住まわせた。

曹操の死後は曹丕に仕え、異民族対策の功績により、武都侯に封ぜられた。曹丕は「張既でなければ異民族で乱れる涼州は治められぬ」と言い、張既を涼州刺史に任命し、反乱を起こした伊健妓妾治元多らを討伐させた。張既はその期待に応え、伊健妓妾・治元多らを費曜らとともに討伐し、伏兵を用いて大勝した。その功績により西郷侯に封じられ、二百戸の食邑を加増され、前と合わせて四百戸となった。その後も、反乱平定や異民族対策に成功を収めた。

張既は雍州・涼州を十数年もの間よく治め、その統治の評判は良かった。胡遵楊阜などを推挙している。223年黄初4年)死去し、粛侯と諡された。

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