曹仁

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曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) - 黄初四年3月19日223年))は中国後漢末期から三国時代武将子孝。沛国譙県の人。曹熾の子。曹騰(曹操の祖父)の兄の曹褒の孫。曹純の兄。曹泰・曹偕・曹範らの父。曹初の祖父。曹操の従弟(但し、血は繋がっていない)。会稽郡太守の曹胤の甥。[1]

曹魏の最古参武将の一人として各地を転戦し、晩年は大将軍大司馬にまで昇った。

目次

[編集] 生涯

[編集] 曹操に付き従う

武勇に優れ、若いころは弓術・馬術・狩猟を好んだ。190年董卓討伐の際、ひそかに若者千人を集め、徐州一帯で暴れまわった。その後、曹操の配下に入り、別部司馬、行厲鋒校尉となった。

193年、対袁術戦で多くの敵兵を討ち取ったり、捕虜にしたりした。さらに、対陶謙戦では騎兵を率いて先鋒となり、大いに功績を挙げた。また、194年からの対呂布戦では、句陽を攻め落とし、劉何を捕虜にした。

196年、黄巾賊を討伐し、帝を迎えて許昌を都に置くことについて功績を挙げたので、広陽太守に任命されたが、曹操は彼を広陽郡に赴任させずに議郎として騎兵隊を指揮させた。

197年の対張繍戦で、敗北を喫し士気が下がった兵士を督励して、功績を挙げた。曹操は曹仁の働きに深く感嘆した。199年、曹操の部将の史渙らとともに袁紹と合流しようとした眭固を破り、斬った。

200年官渡の戦いでは、許昌の周辺を攻撃していた袁紹軍の劉備を騎兵を率いて破り、雞洛山で袁紹軍の別働隊の韓猛を破った。

205年、壺関を包囲した際、曹操が「敵は一人残らず穴埋めにせよ」と命ずると、曹仁は「退路を開けないため、敵は必死なのです。これと戦うのは良策ではありません。」と諫めた。その意見を用いると、見事に敵は降伏した。

209年南郡攻防戦で、行征南将軍の曹仁は南郡を守り、孫権の部将の周瑜と戦った。周瑜が数万の兵を率い来襲すると、曹仁は部将の牛金に三百の兵を与え、周瑜軍の先鋒の六千騎の軍勢と戦わせるが、牛金は包囲された。これを見た曹仁は数十騎を率いて敵陣に突入し、果敢に牛金を救助してその名を轟かせた。その後、曹仁は周瑜に重傷を負わせるなど善戦したが、結局、周瑜・劉備らに敗れ南郡を失った。

211年潼関の戦いとその後の掃討戦で従軍。

[編集] 樊城戦役

218年、過酷な軍務が原因での豪族の侯音衛開らが関羽と内通して謀反を起こした。曹仁は樊城に駐屯していたが、この反乱を龐悳と共に討伐し、南陽太守東里袞と合流した。翌219年正月に、これを襲撃し宛城を陥落させて、侯音らを処刑した。

関羽との荊州争奪戦では、連日の悪天豪雨によって樊城を水攻めにされたが、徐晃の援軍到達まで軍規を徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻を防ぎ切った。

[編集] 曹魏の功将

220年曹丕位につくと、車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事・陳侯に昇進し、領邑計3500戸の大功郎となった。中央では「樊・襄陽には食糧がないので防ぐことができない」との意見が出され、曹仁は渋りつつも荊州北部を捨てて宛に撤退したが、案の定襄陽を孫権に占拠されてしまった。その後、徐晃らと共に襄陽に立てこもるの陳邵を破り襄陽を奪還した。

221年4月大将軍に任命された。次いで大司馬に任命された。

222年、歩兵と騎兵数万を率いて濡須に進軍した。223年3月、中州攻略の意図を隠して別の地点を攻撃すると宣伝することで、呉の濡須督だった朱桓を欺き、呉軍を分散させることに成功したが、朱桓が自らの兵を弱く見せたことに釣られ敗北した。

223年黄初4年)3月19日、死去。享年56。忠侯と諡され、子の曹泰が後を継いだ。曹泰は鎮東将軍・仮節まで昇進した。

曹仁は若い頃は乱暴者であったため、父に疎まれて家督を弟の曹純に譲られるなど不運が続いた。だが、曹操に従って武将として過去の行為を戒めて成長した後は厳格に法を遵守し、常に法と照らし合わせて信賞必罰を行なうなど、諸将の見本になったとされている。

[編集] 脚注

  1. ^ 1974年から1977年にかけて、安徽省亳州市亳県(漢代は沛国譙県)の城南一帯で古墳群が発掘(曹氏公園と名づけられる)された。 調査の結果、この古墳群は曹一族の墓と判明した。それによると「大長秋曹騰、会稽曹君(曹胤)、故潁川太守曹褒、長水校尉曹熾、呉郡太守曹鼎…」と曹一族の名が記されている。