梁習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

梁 習(りょう しゅう、? - 230年)は、後漢末から三国時代にかけての武将・政治家。子虞。梁施の父。陳郡柘県の人。

三国志志に独立した伝がある。また、裴松之によると、『魏略』においての伝は徐福、厳幹、李義、張既、游楚、裴潜趙儼、韓宣、黄朗と同じ伝に収録されていたという(『三国志』魏志「裴潜伝」)。

生涯[編集]

はじめは郡の綱紀となり、後に後漢の司空であった曹操に仕え、各地の長や県令を務めた。

海西の令を務めていたとき、海西・淮浦の住民が反乱を起こしたので、都尉の衛弥と共に広陵郡の綱紀の徐宣の家に赴き救出してやったという(『三国志』魏志「徐宣伝」)。

中央に戻ったときには西曹令史となり、しばらくして西曹属になった。同僚の王思が曹操の不興を買いそうになったのを庇い、共に死罪となりそうになったが、その姿勢を見た曹操にかえって義士として賞賛された。

并州が曹操の支配圏に収まったころ、別部司馬のまま并州刺史の代行となった。そのころの并州は、袁紹時代に刺史であった高幹の騒乱の影響で武装した豪族が跳梁跋扈し、近隣の異民族である匈奴の影響も及んでいた。梁習は有力者達を招聘して軍から引き離させ、兵と成りうる成人男子を義勇兵として徴用し、曹操軍に組み入れ、さらに家族をへ移住させた。招聘に応じなかった者は武力で鎮圧し、4桁の首級と5桁の捕虜を得た。このころには匈奴は恭順の姿勢を示すようになっていた。

領内に平和が訪れると、産業の育成と人材の登用に努めた。このときに登用された人材として、常林楊俊王凌王象らの名が挙がっている(『三国志』魏志「常林伝」)。梁習の刺史としての功績を曹操は褒め称え、関内侯を与えた。また領民からも慕われた。

213年、并州と冀州が合併することになると、梁習は議郎・西部都督従事となり、元の部族民を引き続き支配した。この時期の仕事としては、上党(地名)へ使いをおくり宮殿造営のための木材を調達したこと、役人を設置し街道を整備したことが挙がっている。

度々乱暴を働いていた鮮卑の育延を斬り、残りの者達を従わせ、後に謀叛を起こした烏桓の魯昔を、鮮卑を使って追討させ討ち取った(『魏略』)。

曹丕(文帝)の時代に并州が再び設置されると、梁習が再び刺史となり、申門亭侯と百戸の所領を得た。再び治績の面で高い評価を得た。

225年鮮卑軻比能を討伐し、大勝した(『三国志』魏志「文帝紀」)

曹叡(明帝)の代、228年に中央に戻り大司農となった。梁習は刺史の座に長くいたにも関わらず、私腹を肥やすことがなかったので、明帝は梁習を厚遇した上で賜り物を与え、功績を労った。

230年に亡くなり、子の梁施が後を継いだ。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考資料[編集]

  • 『三国志』