田豫

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田 豫(でん よ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した軍人。国譲。「田予」とも表記される。子に田彭祖

三国志演義』では、234年(蜀漢)の諸葛亮の最後の北伐の時、孫権の侵攻に備えて曹叡の命を受けて襄陽に向かったという記述だけしかないが、『正史』における田豫は高く評価されている。

[編集] 生涯

幽州漁陽郡の人。184年劉備黄巾党討伐に蜂起した時に、少年の身でこれに従ったという。後に劉備に伴って公孫瓚の下を頼る。彼は行政手腕に優れているうえに公平清廉な人物であった。そのため、劉備に厚く信任されたが、195年頃に、劉備が徐州の陶謙の推薦を受けて豫州刺史になった頃、田豫の生母が病に倒れたため、看病すると称して劉備のもとを去って故郷に引き揚げたと言われている。その時の劉備は挙兵以来の部下の田豫との別れを惜しんだという。

その後、公孫瓚に仕えたが、公孫瓚は田豫が臨機応変の策略に長けていることがわかっていたが、何故か任用できなかった。公孫瓚が袁紹に滅ぼされると、漁陽郡の太守であった鮮于輔に身を寄せた。鮮于輔は誰に従属するべきかわからなかったので、そこで、田豫は曹操に帰服することを勧めた。曹操にもその才能を認められ、豫州の郡太守に任じられた。田豫はそこで善政を敷き、領民に大いに慕われたと言われている。

北方の非漢民族である鮮卑族や匈奴族の対応などでも活躍した。彼のやり方は分割して統治するもので、非漢民族たちが連合することの無いよう、互いに分離し、常に争わせるべく策略をめぐらせていた。烏丸単于骨進が魏に従わなかったため、自ら百騎ばかりの兵を率いて骨進の部落に出向き、出迎えて拝伏した骨進を容赦なく斬り殺した。このことから田豫の威光は非漢民族に響き渡ったという。

私生活は慎ましく、個人的な贈り物も全て国庫に寄付していた。そのため家族は常に窮乏していたが、人種を問わず、田豫のこの態度を評価していたという。ただし、幽州刺史の王雄や青州刺史の程喜のように田豫の才能と功績を妬んで讒言をするものもいた。

晩年は司馬懿にその才能を評価され、中央に出仕するように誘われたが、それを拒否している。生年も没年もはっきりしていないが、82歳の天寿を全うした。

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