孫桓
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孫 桓(そん かん、生没年不詳)は、後漢末期から三国時代の人、呉の皇族の一人。字は叔武。
父は孫策に仕えた兪河(後の、孫河)で、孫桓はその三男である。父が孫策に気に入られて孫姓を与えられ、皇族として迎えられた。そのため、息子であった彼も以後は孫姓を名乗ることとなったのである(もっとも、兪河は孫堅の族子であり、兪家の養子となったのであるから現実には元の姓に戻っただけといえる)。容姿端麗、頭脳明晰で武勇に秀でていたため、孫権に寵愛され、そのもとで多くの武功を立てた。孫権は孫桓を「宗室顏淵(皇族における顔淵)」と褒め称えている。孫助・孫誼の弟、孫俊の兄、孫韶の従兄弟。
関羽討伐に参加し、関羽軍の残党を説得し、5千人を帰順させた。25歳で安東中郎将となり、222年、蜀の劉備が関羽の仇討ちとして呉に攻め込んでくると、孫桓は軍を率いて夷道を守り抜いた。このとき、劉備は「わしがかつて呉を頼ったとき、まだ小僧に過ぎなかった孫桓ごときに、今はこれまで追いつめられるとは」と嘆いたと言われている。その後夷陵での功績により建武将軍・丹徒侯となり、牛渚の督に任じられるが、横江塢を築いている際急死したと伝えられる。建設を始めた年の死亡だとすれば死亡年は223年であり、まだ26歳であった。

