杜畿

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杜 畿(と き、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。伯侯という。京兆郡(長安があった郡)杜陵県の人。杜恕杜理杜寛の父で、晋の武将で、呉の討滅に活躍した杜預の祖父に当たる。傅玄の『傅子』によると、前漢御史大夫である杜延年の子孫だという。

目次

[編集] 経歴

[編集] 曹操に仕える

幼少のころに父が亡くなり、以後継母に苛められて育ったが、その継母に対して実母の様に尽くしたことで、非常な孝行者として評判を得た。20歳の時に京兆郡の功曹となり、空席だった鄭県の県令を代行した。着任するや否や、数百を越す未判決の裁判に自ら赴き、その全てを見事に審議して判決を下した。孝廉に推挙され、さらに漢中の府の丞(次官)に任命された。しかし、天下が大いに乱れた(五斗米道張魯が漢中で独立したのが影響したと推測される)ので、官を捨てて一度荊州に住み、建安年間になって帰郷した。

ある時、侍中耿紀に会いに許昌へ行き、彼の家で一晩中話し合った。耿紀の家は荀彧の家と棟続きで隣接していたため、図らずもその話の内容を聞いた荀彧は、杜畿の才略に惚れ込んだ。そして会見した後、杜畿を曹操に推薦した。曹操はまず杜畿を自分の司直(司空司直)にし、その後に護羌校尉とし、節を持たせて西域の西平太守に任命した。

[編集] 河東太守に就任

206年、曹操が河北の袁家をほぼ平定し終えた後、并州の高幹が州を挙げて大規模な反乱を起こした。曹操は荀彧に「関西の将軍ども(河東郡に駐留していた衛固・范先・張晟)は自分の兵力をかさに来ている。恐らく儂には従わずに、高幹に呼応して反乱するに違いない。王邑(河東太守、その時は朝廷に召しだされていた)に代わって、要衝である河東を鎮めることの出来る人物は居ないか?」と訊ねると、荀彧は「杜畿が適任です」と即答したので、杜畿を河東へ送ることにした。

河東太守として杜畿が赴任しようとすると、河東へ入る途中の橋が衛固らによって切り落とされていたので立ち往生してしまった。曹操は夏侯惇を派遣して彼らを討伐しようとしたが、杜畿は「大軍が来てしまったら、范先らに脅迫されてやむを得ず服従していた者どもまでが本当の敵となってしまう。その前に奴らの懐に入って手立てを講じねば」と言い、間道を使って河東に入った。衛固らは杜畿を脅そうと考えて役所の役人数十人を斬り殺したが、杜畿は平然とした態度で振る舞った。そのため、杜畿を殺しても得にはならないと思い、やむなく面従腹背で仕えることにした。また杜畿の方も平身低頭で彼らに接したので、彼らは杜畿を侮り、警戒をせず好きなように振舞った。

衛固らが数千の兵士を動員しようとすると、杜畿は「あまりに事を急いで大げさに進めるとかえって仇になるから、少しずつ兵を纏めるのが良い」と偽りの助言をし、兵を集めさせないようにした。また「兵士を掻き集めても、彼らは我が家のことが心配でなかなか出仕しないだろうから、別々にシフトを組んで休暇を与えてやれば良い。有事の際に改めて徴集できるようにするだけでも良いではないか」と助言し、衛固らの手元に置く兵を減らそうとした。民心を失うことを嫌った衛固らは杜畿の言葉に従い、結果、高幹の活動が活発化してもなかなか兵を集められなかった。杜畿は数十騎の部下を伴って役所を脱出し、張辟で衛固らに抵抗した。官吏や人民の多くは杜畿に味方し、数十日で4000人ほどが集まった。やがて、夏侯惇率いる大軍が現れ、高幹・張晟は敗走し、范先・衛固は包囲されて首を斬られた。その際、杜畿は首謀者のみを処罰し、残りの者は罪に問わず、各々の仕事に復帰させた。

こうして河東を治めることになった杜畿は、恩恵を持って統治に当たった。管轄の県に忠孝な者を推挙させて彼らの労役を免除し、牝牛・牝馬を住民に割り当てて育成させた。また、冬には軍事訓練を行い、自ら学校を作って授業を行うなど、教育も施した。河東は豊かになり、211年に曹操が馬超韓遂と戦った際は、兵糧の全てを河東に頼った。戦いの後、曹操は杜畿の統治を高く評価し、俸禄を加増した。

[編集] 中央に召還

220年1月、曹操が亡くなり子の曹丕が魏王になると、杜畿は中央に召し返されて尚書となり、関内侯に封ぜられた。10月、曹丕が帝位につくと、杜畿は司隷校尉(洛陽や長安のある司州の長官)の職を代行することになり、豊楽亭侯に封ぜられた。その後、曹丕が親征すると尚書僕射に取り立てられ、留守中の政務を取り仕切った。222年7月、冀州がの被害に遭った際、官倉を開いて救済する時の使者になっている。

命を受けて曹丕が乗る船を建造し、陶河にて試運転を行った際、強風が吹いて船が転覆し、杜畿は亡くなった(魏書文帝紀224年8月に、水軍を作り寿春に行幸した記事がある。これ以前に起こった事であろう)。孫盛の『魏氏春秋』によると62歳だった。太僕を追贈され、戴侯という諡号を受けた。なおこの時、尚書郎だった諸葛誕も乗船していたが、岸まで流れ着き助かったという。

杜畿の後を継いだ子の杜恕は、杜畿に匹敵する功績を挙げ、官位は建威将軍・幽州刺史・使持節烏丸校尉にまで上った。杜恕の子の杜預は魏の禅譲を受けたの時代まで活躍し、呉を平定する大功を立てた。


三国志演義には登場しないためか、日本においての知名度は今一つである。

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