朱然

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朱 然(しゅ ぜん、182年 - 248年)は、三国時代武将。元来の姓は施氏だったが、13歳の時、孫策の仲立ちで、母の実弟である朱治の養子となり朱家に入る。義封朱績の父。

目次

[編集] 人物

丹陽の人。若い頃から孫策の家臣として従い、その才能を愛された。その経緯から、孫策の仲介で呉の宿老・朱治の養子となった。孫権とは机を並べて勉学に励んだ学友であり厚い信頼関係があったため、孫策死後は孫権に仕え、19歳のときに余姚県の長となった。孫権に才能を高く評価され、間もなく山陰県の令、臨川郡の太守と昇進、兵士2000人をあずかった。その頃の山越の不服従民の反乱を1ヶ月で平定、曹操濡須への侵攻でも防備にあたった。219年関羽討伐戦では呂蒙に従って活躍し、潘璋と共に関羽を生け捕りにするという大功を立てている。呂蒙が危篤となったとき、呂蒙は「決断力、実行力ともに十二分」として朱然を後継に推薦した。222年劉備の侵攻では陸遜と共に防衛に当たり、別働隊を率いて劉備の退路を遮断、撃破した。

その後の曹丕の三方面侵攻では江陵の防衛にあたり、曹真夏侯尚張郃らと対決する。張郃の奮戦により呉の援軍が敗れ、包囲され孤立無援となり、さらに流行病によって城内の兵は激減した。しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い敵陣2つを破った。包囲は半年に及んだが魏軍は城をおとせず撤退した。この攻防戦によって朱然の名は魏に鳴り響いた。

241年、魏の樊城を包囲したが、司馬懿の援軍により退却した。246年の柤中への侵攻では、退路を断った魏の李興らを逆襲で撃ち破った。

245年陸遜が死去した後を受けて孫権から呉の軍権を任された。248年、病死。その葬儀において、孫権は涙を流して朱然の死を惜しんだといわれている。三国志演義では222年夷陵の戦いのとき、敗走する劉備を追撃する途中で趙雲に斬られたことになっている。

朱然は身体が小さい人物であったが、質素を好んで贅を尽くすことを嫌っていた上、気さくな一面もあったことから、呉の将兵に大いに慕われていたという。

[編集] 家系図

朱治朱然朱績

[編集]

1984年6月に安徽省馬鞍山市雨山郷の紡績工場の建設予定地で朱然の墓が発見され、最古の名刺など歴史的に非常に貴重な副葬品が多数発掘されている。これは東呉の文化を知る上で貴重な発見とされる。1986年、朱然の墓は省の重点文物保護単位に認定され、「朱然路」という道路が引かれるなど周辺は保護整備されている。

[編集] 関連項目

  • 名刺:墓の副葬品に彼の名刺があった。現存する最古の名刺とされる。