陸遜
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陸 遜(りく そん、183年 - 245年)は、中国三国時代の呉の武将、政治家。本名は陸議。字は伯言(はくげん)謚は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸駿の子、陸瑁の兄、陸延・陸抗の父、陸機・陸雲の祖父。
関羽討伐戦や夷陵の戦いにおいて名をあげ、軍政両務における呉後期の重臣として重用されたが、晩年は孫権と対立した。
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[編集] 概略
[編集] 陸家の長に
呉郡呉県の人。陸氏は呉郡の四姓と呼ばれる有力豪族であり、陸遜はその傍系として生まれた。
本家筋の陸康(陸遜の従祖父)が建安初年に後漢王朝の役人として盧江郡の太守であった際に、独立勢力となっていた袁術の命を受けた孫策の攻撃を受けた。陸康はまだ幼かった末子の陸績を陸遜に委ね、あわせて陸遜を一族の長とし(陸績より数歳年長であった為)、本籍である呉郡に逃がした。その後、呉郡は袁術から独立した孫策の所領となる。こうした経緯もあって陸氏と孫氏は対立関係が続いたものの、陸遜は孫策の死後に後を継いだ孫権と手打ちを行って幕下に加わり、孫権はこれに応えて孫策の娘を妻として与えた。その後は山越との戦いで功績を立てた。
219年、荊州の関羽を攻める際に呂蒙に献策している。へりくだった態度の手紙を送って関羽を油断させ、油断した関羽が荊州の守備兵の多くを曹仁との戦いに投入したので、呂蒙らとともに荊州を攻め、荊州の劉備領を制圧した。
[編集] 呉の重臣へ
222年、荊州を取り戻すために侵攻してきた蜀漢軍に対抗するため、孫権は彼を大都督に任じた。諸将は陸遜を侮り、終始慎重な姿勢を崩さない彼を臆病者と揶揄した。しかし陸遜は伏兵を見破り、火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。これ以来その知謀は信頼を集めることとなった。蜀漢との外交文書は、陸遜が添削した上で発行された。
228年には、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を率いる曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮のそれぞれに3万の兵を与えて左右の部隊を率いさせ、3部隊に分かれて同時に進軍し、曹休と戦って大いに破り、1万余の兵を斬ったり捕縛し、多くの動物や兵糧や兵器を奪い、車両1万台を奪った。
229年、孫権が皇帝に即位するのにともない、上大将軍・右都護の官を授かる。その年の秋には太子孫登の後見役となった。
[編集] 最期
244年に顧雍の後を継いで丞相となり、引き続き荊州で敵に備えていた。孫権の三男で皇太子の孫和と、四男の魯王の孫覇の間で呉の後継者問題が紛糾し、孫和廃立の声が強くなると、陸遜は嫡子と庶子の区別は明確にすべきだとして孫和を擁護する上奏を行った。さらに首都・建業に出向いて孫権を直接説得しようとしたため、孫覇派が孫権に讒言。孫権は陸遜に対して問責の使者を何度も送り、これによって陸遜は憤死したといわれる(二宮の変)。
また、子の陸抗も呉に仕え、荊州にて魏との国境を守備した名将として知られる。その息子の陸機は六朝文化を代表する詩人として知られ、呉の滅亡後も西晋に仕えて重用されたが、八王の乱の最中に彼の名声を妬む人達の讒言によって謀反の疑いをかけられ、一族全員が処刑されて陸遜の子孫は断絶したと言う。但し、断絶したのは陸遜の家系のみで、弟の陸瑁の家系は存続し、子孫は東晋の重臣にまで昇進した。
[編集] 評価
正史三国志においては、三国の主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが単独で伝を立てられるという特別扱いを受けている。陳寿は彼の計略の巧みさと忠誠心を評価し、「立派に社稷の臣と呼びえる」としている。
一方、その三国志に注を入れた裴松之は評価が辛い。嘉禾五年(236年)に陸遜が自ら命じて行わせた石陽急襲により住民が多く被害を受け、その後に戦傷者を保護した一件を指して「無辜の民衆を酷い目に合わせた」「孫の代で一族が絶えたのは、この悪行の為であろうか」とまで言っている。また、後に江夏の魏将を離間策で放免させた経緯に触れ、「わざわざみずからを卑しめる策略」「こざかしい詐術」と断じ、やる必要の無い事だったと疑問を呈している。
[編集] 家系図
● ┣━━┓ 陸遜 陸瑁 ┣━━┓ 陸延 陸抗 ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓ 陸晏 陸景 陸玄 陸機 陸雲 陸耽
[編集] 歴任官位・爵位
東曹令史→西曹令史→海昌県令・屯田都尉→定威校尉→帳下右部督→偏将軍右都督→宜都太守・撫辺将軍・華亭侯→右護軍・鎮西将軍・婁侯→(上将軍・列侯→別駕従事)→大都督→輔国将軍・荊州牧・江陵侯→上大将軍・右都護→丞相
[編集] 三国志演義では
「身長八尺、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描写されている。
夷陵の戦いのときには闞沢(闞の字はもんがまえに敢)が陸遜を推薦したが、無名に近かった彼の起用に張昭らが反対している。夷陵の戦い後は張昭も、劉備が没した際に蜀を攻めるべきか悩む孫権に対して陸遜の意見を聞くよう進言している。また夷陵の戦いにおいては、蜀漢軍の撃破後、追撃したが諸葛亮の石兵八陣の罠に命を落としそうになり、追撃を諦めることになっている。三国志演義では、二宮の変にふれられておらず、晩年の孫権との不和は明らかにされていない。

